まほろば紀行目次

1. 蘇我氏の奥津城 2007-12-28

2. 神山三輪山 2007-12-29

3. 薬師寺の思い出 2008-10-23

4. 二上山残照 2009-01-13

5. 富山県高岡市の二上山 2009-01-14

6. 竹内峠今昔 2009-05-25

7. 志賀直哉の上高畑サロン 2009-03-29

8. 安閑天皇の宮跡 2009-1-19

9. 先祖代々の墓 2009-08-19

10. 欠史八代 2009-03-20

11. 三十八柱神社 2009-02-07

12. 太子道 2009-08-11

13. 巨瀬路

14. 東吉野のイタリア料理屋(吉野葛) 2009-01-26

15. 世尊寺 2009-01-30

16. 百済寺と百済大寺 2009-08-22

17. 明けゆく海 2009-01-28

18. 高松塚古墳 2009-02-15

19. 新薬師寺の現地説明会 2009-01-31

20. 五條市近内町の藤岡家住宅 2009-02-13

21. 斑鳩の春 2009-02-07

22. 纒向遺跡のロマン 2009-02-27

23. 中将姫と当麻寺 2009-03-02

24. 大和三山の歌 2009-03-05

25. 内山永久寺 2009-03-13

26. 纒向遺跡発掘現地説明会 2009-03-25

27. 森と泉の泣沢女神 2009-03-31

28. 結崎の面塚と観阿弥の能 2009-04-09

29. 運慶に会いに行く 2009-04-13

30. 「大和古寺風物詩」再読 2009-04-21

31. まほろば同窓会 2009-05-03

32. 奈良盆地に最初の王権が出来た理由 2009-05-18

33. 稲の来た道 2009-05-29

34. 東漢氏と檜隈寺 2009-06-08

35. 賀名生(あのう)の里 2009-06-15

36. 甘樫丘東麓遺跡の現地説明会 2009-06-22

37. 仏教伝来と豊浦寺 2009-06-25

38. 奥田の蓮とり行事 2009-07-01

39. 藤ノ木古墳の被葬者 2009-07-14

40. 道 2009-07-20

41. 「近き飛鳥」「遠き飛鳥」 2009-07-30

42. 「しらたま」 2009-08-05

43. 蘇我氏の出自 2009-08-08

44. 天皇家のルーツ 2009-08-25

45. 古代仏教-役小角-  2009-08-27

46. 空海と最澄  2009-08-30

47. 日本の地政学 2009-09-2

48. 徐福伝説 2009-09-26

49. 弥生時代の船 2009-10-01

50. 呉太伯伝説 2009-10-09

51. 大伴家持とその時代 2009-10-25

52. 人類と環境-1.ユーラシア- 2009-10-31

53. 人類と環境-2.アメリカ- 2009-11-06

54. 人類と環境-3南米アフリカ- 2009-11-10

55. 纒向遺跡第166回調査発掘現地説明会 2009-11-15

56. 人類と環境-4オセアニア- 2009-11-16

57. 人類と環境-5- 中国 2009-11-22

58. 衾田陵(手白香皇女陵墓) 2009-11-29

59. 日本弥生の原景 2009-11-30

60. 天誅組の変 2009-12-4

61. 柿本人麻呂泣血哀慟歌 2009-12-6

62. 平城京遷都 2009-12-11

63. 桓武天皇と怨霊 2009-12-22

64. 神武天皇陵決定始末記 2009-12-25.

65. 志貴皇子の憂愁 2009-12-27

66. 十津川村と新十津川村 2009-12-29

67. 木梨軽太子と軽大郎女 2010-1-4

68.日本人の来た道ー総括編 2010-1-15

73. みかさの山にいでし月かも 2010-2-16

74. かぐや姫伝説 2010-2-20

79.吉野懐古--古代天皇と吉野-- 2010-4-18 

80.吉野懐古--吉野宮を発掘する-- 2010-4-20 

81.吉野懐古--吉野と神仙思想--  2010-4-24 

82.吉野懐古--吉野と万葉集-- 2010-4-27 

83.吉野懐古--後南朝哀史-- 2010-5-1

84.吉野懐古--芳野懐古に思う--2010-5-3

85.転害門とナラノヤエザクラ -- 2010-5-11

86.縄文時代の食物事情 --2010-6-3

87.縄文クッキーと縄文ハンバーグ--2010-6-8

88.土偶は語る--2010-6-18

89.聖林寺十一面観音--2010-6-25

90.混一疆理歴代国都之図--2010-6-29

91.奈良豆比古神社の翁舞--2010-7-5

92.「井筒」ー世阿弥の「夢幻能」2010-7-8

93.その後の世阿弥--2010-7-10

94.大和(おおやまと)について--ヤマトの範囲2010-7-15

95.大和(おおやまと)について--オオヤマト古墳群--2010-7-18

96.大和(おおやまと)について--倭国大乱-- 2010-7-24

97.大和(おおやまと)にといて----邪馬台国大和説--2010-7-26

98.大和(おおやまと)にといて--開発と保存--2010-7-29

99.葛城氏と巨大建物と渡来人--2010-8-5--

100.まほろば紀行100回を迎えて--2010-8-8--

101.木簡は語る--木簡から見えてきた「万葉集」 --2010-8-11--

102.先代旧事本紀にみる物部氏--2010-8-21--

103.木簡は語る--木簡から「日本書紀」を読み直す--2010-08-

104.木簡は語る--荷札が語る古代の税制--2010-08-26-- 

105.木簡は語る--胡桃館木簡 --2010-8-27   

106. 木簡を語る--2010-8-31--

107.斉明天皇--真弓の丘--2010-9-14

108.皇統を守り抜いた女帝--斉明天皇--2010-9-18--

109.皇統を守り抜いた女帝--持統天皇--2010-9-23--

110.皇統を守り抜いた女帝--元明天皇、元正天皇--2010-9-27--

111.皇統を守り抜いた女帝-- 考謙天皇--2010-10-1--

112. 皇統を守り抜いた女帝-- 飯豊青天皇-- 2010-10-16

113.多利思北孤とはだれか --2010-10-29--

114.日本語の起源--2010-11.04--

115.計量比較言語学による言語比較--2010-11-9--

116.言語の分裂年代を知る--2010-11-15--

117.再び日本語の源泉を探る 2010-11-20

118.魏氏倭人伝の背景 2010-12-2

119.越塚御門古墳現地説明会--2010-12-12--

120.日本語の完成--2010-12-24--

121.日本国誕生の背景となった中国史--2011-01-23--

122.纏向の桃---2011-02-14---

123.まぼろしの出雲銅鐸の歌--2011-03-6--

124.まぼろしの出雲--出雲国風土記と記紀の世界--2011-4-1--

125.まぼろしの出雲--出雲の考古学埋葬遺品--2011-4-5--

126.まぼろしの出雲スサノウの銅鐸--2011-4-15--

127.まぼろしの出雲--出雲の国つくり--2011-4-18--

128.まぼろしの出雲--出雲、大和、邪馬台--2011-4-22--

129.まぼろしの出雲--出雲の国譲り--2011-5-3--

130.紀元前後の地政学--2011-6-11--

131.考古学と民俗学--2011-7-17--

132.折口信夫の他界観念--2011-7-22--

133.縄文の知恵--縄文時代を考える--2011-9-10--

134.貝塚にみる縄文文化--2011-9-12--

135.鳥浜遺跡にみる縄文文化--2011-9-17--

136.土器の発明--2011-9-30--

137.縄文の源流--2011-10-18--

138.火焔土器に縄文を見る--2011-10-23--

139.縄文人の世界観--2011-10-25--

140.西山遺跡の現地説明会--2011-11-15--

141.磐余池現地説明会--2011-12-23--

142.秋津洲の食料事情--2012-2-14--

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蘇我氏の奥津城

蘇我氏の奥津城

いきなり我が家の場所の紹介であるが、大和三山を思いえがいてほしい。畝傍山と耳成山を直線で結び東の天の香具山をその直線を軸に180度西に回転すると平行四辺形ができるが、その頂点のところが我が家である。場所は橿原市曽我町、すぐそばに曽我川がながれ、近所には曽我神社(曽我座曽我津比古神社)が、さらに隣の小網町(しょうこちょう)には入鹿神社がある。すなわちここは古くから蘇我氏の奥津城といわれ、別名十三塚(とみつか)といわれる小さな円墳が十三個ほどあったそうである。地域開発の波にあらわれて、殆どの塚はとり壊され現在、一、二個残っているが住宅に囲まれ殆どわからなくなっている。

 ま菅よし 宗我の河原に 泣く千鳥 間なし我が背子 我が恋ふらくは

万葉歌碑が建つ磐余神社の境内

曽我神社から曽我川に沿って500米ほど北に磐余神社があり、上の万葉歌が石碑に刻まれている。その境内に岩神社という祠が立っており、ここの社務所で歴史勉強会を開催したことがある。この時岩神社を見学し近隣の関係者に建立の岩神社経緯を聞いた。それによれば塚の跡として祠をたてようとして土地を整備しようとした時、地下から石が出てきたという。石は扁平で祠の台にちょうどよいためそれを利用し、他にも石が出土したので祠のまわりに設置したという。勉強会の講師に招いていた橿原考古学研究所の千賀久先生はこれを見て石は石槨の蓋であることを即座に断定された。蓋であれば石槨もあるはずで、関係者は当時を思い出しながら、さらに大きな穴があったように記憶しているとか。古墳は蘇我氏の先祖のどなたかであろうことは先生も当然予測でき、蘇我氏のどこまでさかのぼるのか興味はつきないが、今は立派な祠の神社になっているため再度の発掘はままならず、歴史は地下に潜ったままになっている。

           岩神社

       塚から掘り出されたといわれる石

以降、蘇我氏は隆盛を極め明日香に進出して馬子、蝦夷、入鹿と歴史の記述するところとなるが大化の改新をもって権勢は藤原氏にうつり歴史から消えていった。日本書記に、日本の正史として記述されたのが、歴史の唯一の真実とされて曽我氏は天下の極悪人の烙印をおされ1300年の不遇をかこうこととなる。しかし、土地の人々は必ずしも正史を信ずることなく、蘇我氏の遺徳を偲び、歴史を守ってきた。藤原氏に反感を持ち、多武峯の藤原一族につながる者との婚姻をいまだに嫌うといわれている。その後持統天皇が蘇我氏の子孫に対し曽我神社の建立を許可して現在の神社になったらしい。最近古代史も見直し風潮が起こり、蘇我氏は歴史に記録されていることが必ずしも正しくはない。むしろ、日本書紀こそ藤原氏の歴史捏造であるとの論議がたかまっている。この辺になると何が正しいのかわからなくなるのであるがそれもまた古代史の面白さであろう。蘇我氏の出身が何処であるかは諸説あり確定はしていないようである。…鮮からの渡来説 ⊇弍製仗叛癲´1曳野石川流域説 ち床羸醂域説など。ただ、朝鮮からにしろ出雲からにしろ近畿のどこかに居住したことに変わりはない。一箇所である必要もない。その後、権勢を高めるとともに蘇我氏は飛鳥に進出したのは歴史上の事実である。

自分の足下が古代史のルーツであることが奈良に住む者の誇りである。


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神山三輪山

神奈備山 三輪山

倭は 国のまほろば たたなつく 青垣 山籠れる 倭し麗し

味酒 三輪の山 あおによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで
道の隈 い積るまでに つばらにも みつつ行かむを 
しばしばも 見放けむ山を 情なく 雲の 隠さふべしや

三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなも 隠さふべしや

万葉集に数々歌われる国誉め歌をあげるまでもなく、三輪山は奈良を代表する山である。山ふところには大神神社をはじめ数々の摂社、神社、古墳、さらには伝説の数々の宝庫である。だがこの三輪山、いつから神様の山になったのだろうか。

三輪山の麓にある大神神社はその拝殿から三つ鳥居を通して三輪山を拝するかたちとなっている。すなわち、神社におまいりするということは三輪山を拝することである。この神社の祭神は「大物主命」といわれ考古学者は出雲の「素佐之男尊」の息子「餞速日尊」であり倭の大大王である。この大大王がその死後三輪山に葬られ、供え物として数々の宝物を山中にうめた。その宝物を盗難から防ぐため山中立入禁止とし、一木一草とも手折ってはならぬこととなった。三輪山はそのような経過で神の山となった。ならば、そのまた昔は神の山ではなかったのであろうか。

国道169号線を大神神社から北上すると有名な箸墓を過ぎ、巻野内の交差点を右にまがり三輪山の山中に入ってゆくとまもなく笠山荒神にでる。ここから右にゆけば長谷寺に出、左に行けば小夫から都祁を越えて針インターにゆく。この辺で西方面に三輪山、竜王山、巻向山、東方面に真平山、貝平山その他、倭建命が詠んだ「たたなつく 青垣」が連なっている。おそらく倭建命が東国への道中、この山道を越えたのであろう。今では笠そばといいこの地でそばを栽培し現地でふるまってくれる。この地の山並みはなだらかで、そば畑があるように、そこそこ田畑も開墾されており、人々の生活の場が確保されている。小夫や都祁その他各地に集落があり、人里離れた山奥の感じはしない。
笠の部落には笠山荒神があり、ご祭神は初めて火を起こし、物を煮て食べる事を教えられた土祖神(はにおやのかみ)・興津彦神(おきつひこのみこと)・興津姫神(おきつひめのみこと)の三神で、火をしずめる神、竈の神として信仰を集めている。神様も色々あるが竈の神となるとこの宮のルーツを考えたくなる。火をおこすという人間古来の行為は、当然縄文以前にさかのぼるのであろう。日本一古いといわれる大神神社より5倍10倍古いのではないだろうか。すなわち人間が火をおこすことを発明した頃からこの辺に人が住みついていたことを想像するのである。その頃山上の人が見た大和盆地はどのようなものであったのだろうか。橿原考古学研究所付属博物館に大和盆地の

額田王が隠そうべきやと歌った方向から見た三輪山

縄文の頃の展示をしているが、殆どが湿地地帯で、もちろん人の住めるところではなかった。盆地に比べれば、山上は小動物が住み、木の実が豊富で何よりも水がきれいであった。彼らは当時とすればなに不自由もなく生活をしていた。四季折々の変わり目には笠山荒神のまわりに集まりお祭りをしたのかもしれない。大切な火をとぎれさせないためにいろいろ工夫もしたであろう。細川 甫さん(笠山荒神の宮司さん)の「笠山秘話」には、このころの風俗風習を民話風に書いている。これはまるで神話の高天原そのものである。

やがていつの頃か、人のいないはずの盆地に少しずつ見慣れない人は入ってきた。渡来人か出雲の人々であろう。山上の人が見たことのない生活をはじめたのである。すなわち、春には見慣れない植物を植え、秋にはそれを収穫する。初期の米の栽培が始まったのである。盆地の人々は秋の収穫物を保存して一年をとうして食べ物に苦労をしていないようだ。山上の人々のように毎日が食べ物にあくせくしていない。山上の人のうち新らしがりの者が山を降り始めた。盆地の人から栽培の方法を習得し自分たちもやってみた。なるほど、山の暮らしよりはるかに楽である。山上の人々はやがて続々と山をおりはじめた。おそらく、戦後田舎から都会に人が流れたのと同じ現象であったろう。山の人が盆地の人になっても山の記憶はいつまでも残る。自分たちのルーツは、この山の上なのだ。高天原の記憶は代々伝え聞かされた。父祖の地はやがて神話となった。そして盆地は豊葦原の瑞穂の国となった。

盆地から見える青垣は三輪山をもって象徴している。大きさ、高さ、美しさ、そしてその地理的位置が父祖の地を偲ばせる。高いからといって尊いとはいえない。いくら美しい山でも人里はなれた山奥では甘南備山とは言わない。手の届くところに、いまだに親戚、縁者がいるかもしれない。懐かしい山である。畏れ多い山である。大大王が埋葬されてからは、山は様子をかえた。いつのまにか垣根ができ、立入禁止となった。我々の神の山は大大王の山となった。

甘南備山と呼ばれる山は日本全国どこにでもある。それらは、どこも同じ条件を具えている。人々は縄文から弥生という長い歴史の中を生活位置や環境条件をかえつつ生きてきた。その歴史の集積と記憶が甘南備山なのだろうと思う。


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薬師寺の思い出

薬師寺の思い出

関西以外に住んでいた子供にとって、最初の奈良との出会いは修学旅行であろう。その時始めて見る大仏さんの大きさ、鹿にせんべいをあげる初めての体験は一生涯忘れられない思い出である。だが私は当時千葉県市川にすんでいて中学三年生の関西旅行に先立つ数年前奈良に来た経験がある。それは、祖父と兄貴と私の三人で高野山詣でにきたのである。いつだったか覚えていない。中学にあがる後か前かさだかでない。祖父が一度高野山に参りたいと親父に相談したのであろう。父の紹介で旅行の前か後に薬師寺に泊まることになった。薬師寺に泊まることになったのは、父が当時の管長であった橋本凝胤先生と知り合いであったからである。雑誌のスクラップを持ってきて写真を見せてもらったことがあるが、外国の訪問者を管長が案内しており、そこに父が写っていた。写真の説明に父のところを、一人おいてと書かれているのがおかしかったのを覚えている。旅行の道順は兄貴が計画したらしかったが関西にはいってどの鉄道をどのようにたどったか、全然おぼえていないのである。片道一泊したのか往復二泊したのかもおぼえていない。ただ、美しい宿坊と当時副管長だった高田好胤先生の薬師寺説明が大変上手で面白かったのをおぼえている。
当時といっても50年位まえのことである。その時はまだ昭和の大修理ははじまっておらず、薬師寺東塔と旧の講堂と東院堂があっただけで、本尊薬師如来と日光、月光菩薩は講堂におさめられており、奈良に多い古びたお寺であった。この中に現在の仏様を全部納めていたのであろうか。仏足石は庭の隅に雨ざらしになっていたのを覚えている。
数年たってお決まりの関西修学旅行に再度薬師寺を訪れた。この時も高田好胤先生にお寺の説明をしてもらったのをおぼえている。
三度薬師寺を訪れたのは、就職試験のときである。関東の人間が何故大阪に就職しなければいけないのか多少の違和感を覚えながら関西に来た前日薬師寺に泊まった。その時、接待された若いお坊さんとなにやら論争したおもいでがあるが、論点が何であったかおぼえていない。
当時住み着くつもりのなかった奈良にいつしか永住するはめになった。結婚し子供もできて家もたてたいとおもった。そこで奈良に住み着くことになったのである。

屏風<薬師の里>


やがて、昭和の大修理が始まった。金堂ができ、西塔ができ、回廊ができ、講堂まで新築された。この間の高田好胤先生の八面六臂の活躍は驚異的であった。何回も先生の講演を聞かせていただいた。そしてついに、薬師寺は天平の輝きをとりもどした。父は何回も我家にきていた。そのある日、晩年に近いときであるが久しぶりに薬師寺をおとずれた。まばゆいばかりの薬師寺をみてポツンとつぶやいた。「新しいお寺はありがたくない」

すでに三人は霊界に住み、何を話し合っているだろうか。高田好胤先生はおやじに、どんな寺でも建立当時はみなキンピカだったのですよ。橋本凝胤先生は「まあまあ浮世のことなどどうでもよいではないか」などと話しているに違いないのである。

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二上山残照

二上山残照

三輪山と二上山を直線でむすぶと、ちょうど東西の直線となり、そのほぼ中央に多神社がある。ここは橿原市と磯城郡田原本の境で神武天皇の第二皇子八井耳命を祀り、多氏の根拠地でもあった。多安麻呂の墓も摂社として祀られている。さらに弥生時代の遺跡があり、はやくから農耕が行われていたようである。すなわち、多神社は春分の日、秋分の日に三輪山頂から朝日が出、二上山に日が沈む地なのである。いわゆろ大和盆地のど真ん中であり、ここの弥生人は労せず田植え、稲刈りの季節の暦を知っていたことになる。

二上山に落ちる夕日


奈良から橿原を経由吉野まで南下しながら二上山ながめると様々な形に姿を変える。奈良からははるか遠く、郡山あたりで見ると、雌岳(めだけ、472米)が雄岳(おだけ517米)に隠れて単なる山にしか見えない。これが橿原に来ると、二上山という名前のごとく、ふた瘤の山で均整のとれたふた瘤は、まるでふくよかな麗人の胸のごとく天に突き上げた姿である。飛鳥にはいるとだんだん雄岳の形状がくずれてきていまひとつという感じになり、高取に至ると山々のうちのひとつになってしまう。
 二上山といえば當麻寺をおもいだす。當麻寺は、「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」を本尊とする「極楽浄土の霊場」である。とともに中将姫の現身往生を再現する練供養会式でも名高い。観音菩薩ら二十五菩薩が現世に里帰りした中将姫を迎えて、極楽へ導くという儀式で、昔から二上山は死のイメージに満ちている。とりわけ西の山は日暮れ時、夕日と雲と山容がおりなす様々な光の景色は天然の名画を見るごとく神秘的でさえある。飛鳥(あすか)人は、西の山に落ちる夕日がちょうどふた瘤の間に消えて行くのを見て、西方浄土を憧れ祈ったのである。
 更に、二上山を死のイメージにする大津皇子の悲劇がある。
天武天皇が崩御し、その皇后が皇位に即位して持統天皇となった。持統は自分の子孫に代々の皇位を継承すること、とりわけ自分の子草壁皇子の皇位継承に執念をもやした。天武には太田皇女の間に、大伯(おおく)皇女、大津(おおつ)皇子の姉弟がいた。皇位継承資格からいって大津は草壁に比べて優るとも劣らぬ資格者で、草壁の最大のライバルであった。とりわけ大津は文武識見に優れ、周囲の人望は大津にかたむいていた。大津は文武にはげみ、大伯は伊勢神宮の女官として神につかえる身であった。持統はその野望を大津に向けることになる。身の危険を察した大津は伊勢を訪れ、最愛の姉に最後の別れを告げ、再び大和に帰り持統の凶刃にくだった。大津の遺体は二上山の雄岳に葬られ、今も石碑が残っている。鳥谷口古墳は大津の古墳だと伝わっている。伊勢のつとめを終えた大伯は大和に戻り、二上山のふもと石光寺に出家し、生涯二上山を仰ぎ、弟の菩提を弔ったという。大伯皇女の絶唱が四首、万葉集に残されおり、いずれも万葉集を代表する名歌である。

  うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟(いろせ)と我が見ん

 さらに二上山を西方浄土とするのは万葉集にのこされた数々の防人やその家族のうたである。5〜7世紀にかけて当時の日本は唐、高句麗、百済、新羅等、当時の勢力争いの中、防人として多くの兵士が西国に赴任していった。大和から出征した防人は必ず二上山の麓、竹内峠を越え難波から北九州に向かう。通信手段の無い当時、一度山を越えると何の消息も途絶え、ただただ愛しい父親や夫や子供の安全を祈り、去っていった二上山に向かって手を合わすしかなかったのであろう。

更に大和から二上山の方向をみると、聖徳太子の御陵のある、叡福寺がある。大和から二上山を見るということは、聖徳太子をおがむことにもなる。いつしか二上山が西国浄土の山になり、祈りの山になったのである。


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富山県高岡市の二上山(ふたかみさん)

富山県高岡市の二上山(ふたかみさん)


(この文章は今から10年以上前、会社時代に当地に出張した時、体験したものである。)


10月2日、急に社用で富山県山田村に行くことになった。昨日決まったことで同行者が羽田発11時50分の飛行機に乗るとのことで急いで切符の手配をしたが、すでに満席だったので、しかたなく7時10分発を手配した。定刻に富山空港に着いたが、後発組の到着まで4時間半、空港で待つのも時間がありすぎるので、どうしたものかと思案をしていた。たまたま、空港のレンタカーの窓口で富山県の観光案内地図をみていたら、高岡という町に、二上山県立公園という地名をみつけた。車で30分くらいの距離である。これだと思い急いでレンタカーを借りた。
朝の富山県の郊外を快適に車をとばし目的地に近ずくと、所々に万葉博物館とか高岡国司跡の立て看板が立っており、やがて双瘤の山が現れてきた。奈良の二上山とは相当趣は異なるが、確かに二上山の名にふさわしい山容である。二上山ドライブウエーという細い山中の道を走り、山頂の近くに鄙びた休憩所があった。week dayの10時前である。バスが一台なぜかおいてあり、運転手が手持ちぶさたに運転席に座っていた。近くに見晴台があり富山湾、高岡の町、立山連峰がみえる景勝の地である。随所に碑が立っており、時間もあるので丁寧に読んで歩くと大体予想していたとうりの歴史的事実が理解出来てきた。
朝食でもと思い休憩所に入って行くと、誰もいない店内でおかみが一人これから忙しくなるとも思えないのに、店の仕事に余念がなかった。たぬきそばを一ぱい注文した。歳のころ40くらいか、話によるとこの山の麓で生まれ育ち、嫁に行き、町からほとんど出たことがないという。話をしているうちに、この地方の歴史に話題が移り思いがけず歴史談義となった。

  富山県高岡市の二上山

二上山 富山県高岡市の北にそびえる山。東峰と西峰の二峰を有する。標高259メートル。越中国府はこの山の東麓に位置した。写真は高岡市荻布(おぎの)にて撮影。(http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/hutagami.html)を借用


大伴家持(おおとものやかもち、万葉集の編纂者)がまだ万葉集を編纂する以前、国司として高岡の地に赴任した。5年間この地に 留まったという。その間政治家であると共に万葉歌人である家持は、善政を敷くと共に多くの和歌を詠んでいる。だが、この地を国司の居住地と定めたのは特別の理由があった。東の立山連峰から登る太陽が西の二上山に沈むその光景が、あたかも大和のそれとそっくりであり、ふるさと大和の地の望郷の念にかられたからだという。二上山となずけたのも彼であったという。以降、この地では家持にちなんだ歴史を大切に留め現在に至っている。おりしも壁にポスターがかかっており、明日(10月3日)より地元の神社にて万葉祭が行われ、全国から訪れた愛好者が昼は紅葉を楽しみながら、夜はサーチライトに照らされて一人一句ずつ3日3晩途切れることなく万葉集の和歌を歌いつずけるという。おかみも毎年この行事に参加することを楽しみにしていると言う。“お客さんも一日遅れでこられれば、万葉の絵巻きを体験できたのに。残念ですね”
急に外が騒がしくなった。どこにいたのか幼稚園生が10数名現れバスに乗り込んだ。ハイキングか歴史体験教育でもしていたのかも知れない。歴史ロマンに浸り、見知らぬおかみとの会話にいつのまにか1時間ほどが過ぎていた。機会があればまたきてみたいと思いつつ現実世界に戻るべく、車を返しに富山空港に向かわした。


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明け行く海

瀬戸内海である。朝はまだ明けきっていない。海には島々が黒い硯絵のように、ただその形だけが浮かんで見える。凪いだ瀬戸内海は波ひとつ立たず、まるで鏡の表面のように静まりかえって何の音もたてない。さっきから一人の老人が長い釣竿をたれて、身動きもしない。ただ、時々魚をつりあげてはまた、海に戻している。どのくらい前から釣りをしているのだろうか。何を考えているのだろうか。釣りに没頭し、なにも考えていないのだろうか。やがて東の海に太陽が昇りはじめ,海に浮かんだ島々がはっきりと姿を現してきた。やがて老人は伊部のほうに帰っていった。
平成に入ったころであろうか。両親が金婚式を迎えるというので、何か記念になるものをと思い、兄弟四人で相談し、結果予算と品物は自分に任された。父の妹のつれあい(私の叔父)は、ながく、岡山県日生(ひなせ、伊部の東隣り)に住み、親しく交流していた。その叔父が二代目藤原楽山と同級生であるということを何かで記憶していた。叔父に電話しこれこれのことで、備前焼を予算いくらで入手したいと申し入れ、仲介を依頼した。快よく引き受けてくれ、後日、楽山先生宅に訪問した。楽山先生は連絡を受けていたらしく、早速応対してくれた。しばらく叔父との昔話をしていたが、やがて奥に行き三個ほどの茶碗を前に披露してくれた。「どれでも好きなのをえらびなさい」と言われて女房と相談の結果、一個をえらんだ。楽山先生は桐箱をとりだし、箱書の準備をはじめた。しばらく目をつぶり何かを考えていた。その間10〜15分自分たちには大変長い時間であった。やがて銘がきまり箱に「明け行く海」と箱書きしていただいた。帰り途中であったか、叔父が楽山先生のことを話してくれた。陶芸は力だと。歳をとるにしたがい、昔の力が出てこない。土をこねても力が出ないから、思った形にならないのだと。次第に陶芸から遠ざかり、最近は釣り三昧に過ごしているようだと。奥から取り出した作品は壮年の頃つくり、長い間手元に置いていたものだという。後日東京で金婚式の祝宴を開き「明け行く海」を手渡した。
やがて母が死に13年、父も7年前に旅立った。「明け行く海」は再び私の手元に戻った。





先日三代目藤原楽山宅に訪問した。その際「明け行く海」を持参し、ことのしだいをお話した。三代目藤原楽山先生は箱からとりだし、しげしげとご覧になり何か納得されていた。数年前二代目楽山作品記念の冊子を発行されたのを、全く別のところから入手した。冊子の最後に三代目藤原楽山先生が自分の父親二代目楽山をしのび、自分に厳しくかつやさしい父親だったことや、晩年釣り三昧に過ごしていたことがかかれており、大変懐かしく思われたことである。三代目は立派に名籍を次ぎ、その子藤原康さんも立派な陶芸家にそだち、二代目が「明け行く海」を作った歳と同じころとなったのではなかろうか。


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安閑天皇の宮跡

安閑天皇の宮跡

藤原京の大極殿跡を西に真直ぐ通る道がある。八木町から曽我町を通り曲川町から高田市に入り尺度から長尾に至る。これが竹内峠を越え河内から浪速に至る。これを横大路といい、藤原京の頃の国道一号線であり、有史以来大和と浪速を結ぶ大道であった。現在は車一台しか通れないような細い道で、国道24号や南阪奈道が出来た結果、ローカル道になってしまった。この曲川町金橋に金橋神社がある。横大路からさらに100米ほど奥まった所で殆ど人通りもなく、集落の人しか通らない。この神社の中にひっそりと碑が立っており、見ると”安閑天皇勾金橋宮跡”と書かれており、橿原教育委員会が建立したものである。現在JR桜井線高田駅の次ぎに金橋という無人駅があり、古くからある地名だったようだ。私の家から数百米しか離れていない所で犬の散歩途中に発見したのだが、そうでなければ全く関心がないし、安閑天皇自身歴史上、それほど有名ではなく話題にもあがらなかったろう。ある日、例によって犬の散歩途中、神社の隣りに住む学校の先生にお会いした。前から気になっていたので、天皇の宮跡というかぎり何か言い伝えか伝説があるのかと聞いた。神社の隣りに住んでいながら良く判らないという。ただ、近所の人は蔵王権現さんといって親しみ、年一度のお祭りがあり、近くの畝火山口神社の神主がきて、権現さん祭りをおこなうとのことであった。境内の案内板により安閑天皇の事跡を紹介する。

金橋神社

      金橋神社の鳥居

安閑天皇宮跡

      宮跡の碑 ”安閑天皇勾金橋宮跡”と書かれている

安閑天皇(西暦四六六生〜五三五死)は継体天皇の第一皇子で勾大兄廣國押武金日天皇の名で親しまれ西暦五三四年春正月に第二十七代天皇として勾金橋宮で即位された。都を大和國磐余の玉穂宮(継体天皇宮殿)から勾金橋の地(橿原市曲川町)に遷されたのは今から千四百五十年前のことで寛大にして仁恵の心深い天皇は此の地で善政を敷かれた。この由緒ある勾金橋宮に安閑天皇の遺徳を偲びその神霊を祀って創建されたのが権現社である。権現社建立時期は定かではないが明治維新に金橋神社と改稱され人里に接した社地は竹林と生垣で隔てられ社殿の周囲には古木が聳え立ち千古の霊蹟を今日に伝えている
大正四年十一月に奈良県教育委員会より建設された安閑天皇勾金橋宮跡の記念碑も境内に保存されている 平成元年十一月十二日 橿原市曲川町

第26代 継体天皇(450?〜531)(皇后)手白香皇女 (妃)尾張目子媛
第27代 安閑天皇(466〜535)(母)尾張目小媛 (皇后)春日山田皇女
第28代 宣化天皇(467〜539)(母)尾張目小媛 (皇后)橘仲皇女
第29代 欽明天皇(509〜571)(母)手白香皇女

日本書紀によれば上が天皇の経緯である。継体以降その死後次々と皇位を継ぎ第30代敏達天皇に引き継いでゆく。在位期間は数年で短いが順調に交代したように見える。しかし継体天皇とそれに続く安閑・宣化・欽明の四代の天皇の即位と崩年に
関する記述には矛盾が多く、その背後には複雑な政治情勢が秘められていたと思われる。継体天皇は応神天皇5世の孫として即位する前(妃)尾張目子媛の間に安閑、宣化の二人の子を従えて第26代天皇に即位した。即位後手白香皇女を娶り皇后とし尾張目子媛は妃となった。応神5世の孫とはいえ尾張目子媛を妃にしたのは血統上の問題を事前におさえておく狙いがあったのであろう。531年継体が崩御するや卑女の生まれの安閑を嫌い、正統な皇女の子を皇位につけることを画策する蘇我稲目らと安閑をかつぎだす大伴、巨勢氏らが対立し争いが起こった。これを「辛亥の変」といわれ、安閑、宣化と欽明の二朝対立の構図である。
日本書紀には継体天皇の崩御年の資料として「百済本記」の中の記述を示しているが、これには天皇と皇太子そして皇子が共に亡くたったと書かれている。これが事実とすると「継体天皇」が亡くなられた時に安閑、宣化も亡くなったことになり、日本書紀が二説を残し事実の解明を後世にのこした。
さらに伝説として安閑は二朝対立の結果、吉野に退却の後、尾張に逃れ尾張目小媛の生地名古屋に兵を求めたが結果欽名に破れ蔵王権現になったと云うのである。

吉野は悲運の地である。『花書よりも史書に悲しき吉野山』といわれる。時の権力者に反逆し、危機が迫ると吉野に走った。吉野は地形学的に反逆者にとって難攻不落の自然の堅城である。背後は奥深い山地であり左右は絶壁の高台で地上から攻め来る敵が丸見えとなる。前方が唯一の道であるが馬の背の尾根となり、容易に封鎖できる。さらに、一朝事があれば一日で都に到着可能である。役の行者が時の権力に抗し釈迦、弥勒などでは衆生を度し難いとして、吉野で湧現させたのが蔵王権現で、憤怒の形相を持つ日本独自の佛尊を興隆した。天武天皇は近江朝に反抗し吉野に逃れた後、伊勢、尾張から反撃せ皇位を奪い返した。
源義経は頼朝に追われ吉野から奥州にのがれ、南北朝では後醍醐天皇が足利尊氏に坑し二朝対立した。役の行者は706年没で安閑天皇はそれより150年も前の出来事で元祖吉野悲劇とも言うべき人物であったということになる。安閑天皇の事跡が史実かどうかわからないがもし事実なら新しい発見である。

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高松塚古墳

高松塚古墳

 高松塚古墳が発掘されたのは、昭和47年(1972)3月で日本中で古代史ブームがわきおこった。私はまだ奈良には住んでいなかったが、現地説明会に行ったのをおぼえている。発掘直後の高松塚近辺は開発前の田舎風景で原野といった、どこの田舎でも見られる風景であった。たしか車で行ったのだろうが、道端に駐車し、おそらく橿原考古学研究所所員が立てたのであろうにわか案内板にそって歩いて行ったのを覚えている。大変な人出であった。発掘直後であり、俄か印刷のガリ版チラシで説明をうけた。もちろん後日出来たミニチュア版は当然できてはおらず、古墳の中にははいれず、ただガリバン写真だけで実物を想像するしかなかった。以来何度も訪問する機会があり、その都度見学設備が充実し、道路も舗装されて、連日バスを連ねた見学者がおしかけた。そのうち、古墳イメージがなくなり、保存優先のグロテスクな空調設備が古墳を覆った。古墳保存が優先されるのは当然で、それでも見学者はあとを絶たなかった。そのうち、橿原考古学研究所から文化庁に管理主体が移った。国宝指定を機にそうなったのか、保存予算等の理由か自分には良く判らないが、高松塚の話題は壁画の劣化に移り、文化庁の杜撰管理と隠蔽体質に批判が集中した。

 高松塚の発見者の網干善教先生の講演を聞いたのは、先生が亡くなる直前であった。すでに、病状は大変すすんでおり、見た目にもげっそりやせて痛々しいほどであった。先生の論点は三つである。一つは発見当初の興奮から文化庁移管までのご自分が管理をしていた頃の思い出でを、二つは文化庁移管から、石室解体修理に至る文化庁批判、三つめは一般的に考古文化遺産を後世に伝えることの、考古学者と国民の責任についてであった。いずれも熱弁であったが、特に文化庁批判は、鬼気迫る弁舌で聴衆は圧倒されるものがあった。

高松塚

    空調設備の高松塚古墳


 奈良の文化財に関する評論で代表的な文献は和辻哲郎の”古寺巡礼”、いま一つは亀井勝一郎の”大和古寺風物詩”であろう。和辻哲郎は主として自分の訪れた古寺の仏像など彫刻物についての感動と評論である。仏像の顔のうつくしさ、指先の微妙な表現力、纏った衣の折り目に至る観察眼に特徴がある。彼の関心は法隆寺の釈迦三尊、長く秘仏であった救世観音、神秘的な微笑をうかべた、国宝菩薩半跏像(寺伝如意輪観音)であり、東大寺三月堂の不空羂索観音菩薩立像であり、薬師寺の薬師如来像などであった。一方亀井勝一郎は奈良の歴史と文化を愛した。当然法隆寺、東大寺、薬師寺から末寺にいたる、自然と文化と歴史の渾然一体となった風物を愛した。自然に溶け込む唐招提寺の屋根、薬師寺の東塔などの模写は大変優れたものであった。もし二人が生きていたら、この高松塚の現状を何と言うだろうか。和辻は壁画美術の保存の為に断固解体保存を主張したと思う。何よりも美術品としての価値を重視したであろう。一方亀井は解体には強烈に反対したと思う。石室あっての壁画であり、古墳あっての石室であり、高松塚の山があっての古墳である。高松塚の山の上に昔松があったらしい。この記憶全体が一体として文化財であり、まして葬られた人に何と言えばよいのか。しかし、解体しなければ、無残に黴に侵食され朽ち果ててしまう。高松塚そのものを発見したことを悔い悩む。解体修復した壁画は元の古墳に戻るのか。絶対現状復帰は無理と網干先生は言う。
 現在10数個に解体された石室の壁画は保存され修復されているが、修復現場が見学コースに組み込まれている。だがここで見ている物は一体何なのであろうか。網干先生はこの無残な部品群をみたらどのように嘆くのであろうか。

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東吉野のイタリア料理屋と「吉野葛」

今から1年半前、娘がイタリア料理店ロアジに行こうという。吉野だという。友達に聞いてきて評判だそうだ。今度の土曜日ということで早速場所の確認をした。
吉野というから、高取か下市か上市あたりと思ってインターネットで見ると、とんでもなく山奥で東吉野のさらに奥、やがて三重県にさしかかるあたりである。こんなところに湯煙温泉ならともかくイタリア料理店があろうとは、思いもしていなかった。当日女房と三人で車に乗って、調べておいた電話番号でカーナビをセットするとたしかに場所を確認できた。約二時間、十一時頃出発した。橿原から桜井に出てまもなく国道166号線を南下した。宇陀市に入り大宇陀を通り過ぎ、鷲家につき真直ぐゆけば高見峠から三重県であるがそこを右に入り更に南下した。まもなく東吉野市役所前に着くと吉野川の支流の高見川から更に支流の四郷川に沿って山奥をめざした。30分ほど経過したろうか、山道もそろそろ尽きそうになる頃、狭戸というところにイタリア料理店があった。まもなく一時になろうとしていた。丸太作りの建物で中に入ると客席10席位あり、それでも3組程食事をしていた。パスタとあと何か食べた。旨いのである。これなら大坂でも十分やっていける。なんでよりにもよってこんなど田舎で店を開くのだろうか。きちんとやっていけるのだろうか。特にこちらが心配する必要もないのだが、帰りにレジの女性にきいてみた。聞けば、夏場を中心に半年ほど開き、冬場は主人はイタリアに修行だそうである。そうか。冬イタリアに行く為に店を閉められるように、こんなところに店を構えたのだろう。それにしても、、。
食事を終えて帰途についた。途中東吉野市役所前を来た道とは逆に吉野の方に向かった。四郷川から高見川沿いの道を吉野川に出る途中に国栖という村がある。ここは神武天皇が東征のおり、熊野から吉野に入り、国栖の地で反抗された伝説が古事記に残されている。いま一つ谷崎潤一郎の「吉野葛」の舞台であり、今時珍しい原始的な方法で吉野川の水に楮(こうぞ)の繊維を晒しては、手ずきの紙を製するのである。谷崎は南北朝時代の吉野に関心がありやがてこのテーマで小説を書きたいと思っていた。延元元年(1336)後醍醐天皇に始まる南北朝は歴史上1412年南北朝が統一されて終焉になった50数年間とされているが、その後大変な紆余曲折があり、後小松天皇の孫自天王・忠義王兄弟が殺害される1457年(長禄元年)まで110年間にわたる悲運の歴史があり、吉野の人々は決してわすれてはいないのである。

国栖窪垣内

                    吉野郡国栖窪垣内の高見川


 谷崎は友人である津村と共に吉野上市から妹背山を通り、宮滝に入った。ここで津村は国栖に用だあるのでここで別れるが仕事が済んだら国栖に来るように云われた。津村は宮滝の川の岩に座り国栖に来た目的を話した。
 津村が谷崎に話した内容を要約すると以下の通りである。…殿爾諒譴大坂の色町から今橋(大坂中央区)の津村家に嫁いだのは明治20年頃でやがて津村を産み落とすと暫くして死んだ。津村は祖母に育てられ母の面影と祖母のそれと区別がつかないほどだった。東京の大学に行くまで母の話は殆ど話題に上がらず、卒業後大坂に戻ってから、しきりに母のことを知りたくなった。そのうち祖母が死に遺物を整理していたら、奈良県吉野郡国栖村栖窪垣内から母に来た手紙を発見した。い修譴鰺蠅蠅鵬嫉圓ら国栖村にでかけ、そこの昆布家が母のルーツであることをつきとめた。老婆がおり、母の姉ということであった。古い昔を思い出し、一部始終を津村に話した。ナ譴六佶綮或佑遼娘で幼くして色町にだされ津村家に嫁いだのは知っていたが、出が出だけに津村家とは何の連絡もとらなかった。κ譴諒譴唯一母に手紙を書き送ったのはその頃であったらしい。
 谷崎は吉野に入り、自天王・忠義王兄弟の事蹟を調べ、国栖に帰ってきたのはその数日後であった。津村は谷崎を迎えた。そばに一人の女性が立っていた。津村がその時国栖に来た本当の目的を理解した。名はお和佐といい、三人姉妹の中の姉の孫娘ということで、ルーツを調べに数年前国栖に来たとき、冷たい水の中で紙を漉いている一人の女性がいたことを、さっきは話していなかった。やがて二人は結婚し、谷崎は後南朝の小説は書かずしまいになってしまい、かわりに「吉野葛」が書かれることになった。

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新薬師寺の現地説明会


 奈良版の新聞に大きく報じられた。新薬師寺の金堂が発掘されたのだ。早速現地説明会があるというので聞きに行った。場所は新薬師寺の150メートル西側で現在奈良教育大学の東端である。奈良教育大学は考古学に熱心で学者も多い。国立大学だから保存にも力を注ぐと思われる。
 新薬師寺は747年天平19年、聖武天皇の病気平癒を祈って光明皇后が建立されたと伝えられている。当時東大寺と比肩できる、七堂伽藍と東西弐基の塔があり、正倉院に残る絵地図「東大寺山堺四至図(さんがいししず)」(756年)にも、金堂にあたる「新薬師寺堂」が大仏殿より横長で描かれており、これが裏づけられた形だ。しかし、現在は本堂(東西22.7メートル、南北14.9メートル)が残るだけ。他の建物は780(宝亀11)年の落雷や962(応和2)年の台風で失われたとされ、現在の薬師如来は平安時代になって再建された。同時に近くの岩淵寺より十二神像を移し七堂伽藍の内災害から免れた食堂を本堂に改修し、現在の姿になったようだ。 
 鎌倉時代に入って明恵上人が南門 東門 鐘楼 地蔵堂を新に建立し不明だった寺域を現在の区画に確定した。これによって金堂は現在の寺域からはずれたのである。

                            金堂の発掘現場


現地説明会は2008/10/15におこなわれた。駐車場が結構遠くてさらに教育大学に入って距離があり、一番奥までゆくと多少つかれた。現場はいつもの通りあちこちにビニールをひいてあり、発掘跡の柱穴が数十個みられた。柱間(はしらま)が東西11間(54メートル)、南北6間(27メートル)と推定されており、東大寺の大仏殿と同じ「壇上積(だんじょうづみ)基壇」の一部が見つかった。ここが金堂だったとすれば講堂や二つの塔蹟の位置など専門家は想定しているだろう。私は以前新薬師寺に来たとき、薬師如来と十二神将はどのようにして災害をまぬがれ、現在の位置にきたのか不思議だった。燃え盛る火災の中を僧達が必死に運び出す光景を勝手に想像していた。現実は上に書いたとおりである。

新薬師寺

                           新薬師寺の本堂


 私は最近再度新薬師寺を訪ずれた。いつも休日を避けてくるので人もまばらで、いつもの静寂さがよい。南門から入って国宝に指定されている本堂の姿を写真におさめた。本堂の西の入口から中にはいる。暗くて目がなれるまで、あたりが見えない。しばらくすると目がなれて、2〜3人の見学者がいるのが確認できた。薬師如来と十二神将がいつものとおり美しい姿で立っていた。薬師如来は文字通り薬、医者の神で薬師寺の天武天皇の病気平癒を願った持統天皇と同じ思いで光明皇后は祈ったのであろう。十二神将は自分の役目として薬師如来の十二の方向を分担して、守護している。一つ一つが素晴らしい躍動美で各々国宝に指定されている。新春には初詣の善男善女が各々自分の干支の神様にお祈りするという。ただ私の干支神像である辰の神像 波夷羅(ハイラ)のみ盗難にあったとかで昭和のレプリカがおかれ、国宝から除外されている。中の売店におじさんが手持ち無沙汰でいたので少し話をした。おおよそ記述した内容であった。

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三十八柱(みそやはしら)神社

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天皇在位飛鳥飛鳥以外小懇田
33推古天皇592628371126
34舒明天皇62964113562
35皇極天皇642645413
36考徳天皇646654972
37斎明天皇655661761
38天智天皇6626711055
39広文天皇67267211
40天武天皇6736861414
41持統天皇68769888
103333238

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古代史の時代区切りに飛鳥時代があるが、この時代飛鳥に都が置かれていた時代と認識しているが、ずっと飛鳥に都を構えていたわけではない。飛鳥時代以降は藤原京時代になるが710年平城京に遷都するまで、藤原京から動かなかったし平城京以降もおなじである。飛鳥時代以前は天皇の宮殿が都とされ一天皇一宮殿が原則で京といわれるものがなかった。一応磯城嶋と呼ばれる三輪山の麓周辺から磐余地方という桜井市周辺が日本の故郷と云われ、古代王朝が好んで都した場所であるし、ここに都することが王権を確立する条件である如きものがあった。
 この飛鳥時代は一応推古天皇が592年崇峻天皇暗殺の後をついで第33代の天皇即位した時を始まりとする。都を豊浦宮におき聖徳太子を立太子させた。以降694年藤原京遷都までの103年間である。

それでは飛鳥とはどこをいうのか。その範囲は一応天の香具山の南、飛鳥川の東の山に囲まれた範囲と云うのが定説である。この間9代103年間のうち、飛鳥に都した期間は33年間、飛鳥以外が32年間、残りは小懇田宮に38年間在位したことになる。ではこの小懇田宮時代はどのように解釈するのだろうか。小懇田宮は他の宮殿もそうであるが所在地確定がされていない。飛鳥XXと宮廷名に場所名がついているものは、間違いなく飛鳥だったのであろうが、小懇田宮は飛鳥がついていない。現在この所在地について三つの有力な説が存在する。
 ‐懇田は飛鳥の総称である。あるいは飛鳥そのものでる。
 ⊂懇田は豊浦にある。あるいは豊浦の近くにある。
 小懇田は耳成の東、大福にある。
従来小懇田宮は聖徳太子で有名な推古天皇の都で何の疑いも無く飛鳥に存在すると考えられていた。もちろん,泙燭廊△伐鮗瓩気讚△遼浦も飛鳥川の川向こうと云うことで場所的には大きな論争はなかったものと思われる。しかし、梅原猛先生が飛鳥の研究を始めた頃、その場所にいたく関心があり、調査している間にの説の存在を知ることとなった。大福は近鉄大阪線八木駅と桜井駅の間にあり北海道の幸福駅と同じく縁起のよい名前で一時有名になった。小懇田大福説は三十八柱(みそやはしら)神社の宮司の石井繁男氏が以前より古今の書を読み漁り、この説を梅原猛先生に説明をした。初め大福説を信じなかった先生もその説の的確さに感心し、やがてこの説を信じることとなり1980年発表したものである。今では「小懇田宮伝承乃地」の碑が先生の揮毫で建立されている。それから30年たつがその後の進展が見られていない。決定的にはその遺構が発見され考古学的発掘調査が行われなければ、文献検証だけでは確定出来ないであろう。

三十八柱神社

三十八柱神社


 さて、小懇田が飛鳥であろうがなかろうが、表に見るごとく都が何度となく移動した。この出たり入ったりの繰り返しはなにによってもたされたのか。二つの要因が考えられる。一つは求心力。天皇権力基盤が弱いときは、常に当時の権力者の庇護をうけなければならない。当時の飛鳥は蘇我氏の本拠で蘇我稲目の娘を後宮に入れ外戚として権力を握っていた。さらにこれから蘇我馬子の時代になり権力の絶頂に達しているときであった。崇峻天皇暗殺は権力に刃向う者の結果を象徴していた。当時東漢氏という帰化氏族の武力と文化力と技術力が他を圧倒し、これを後ろ盾にした蘇我氏が権力を独占した。一方は遠心力である。蘇我氏の縁戚とはいえ独立した権力を維持したい天皇家は、折あらばその影響力から距離をおきたいのは当然である。603年小懇田宮遷都はこのような時に行われた。推古天皇発足より10年過ぎてこの間聖徳太子は馬子の影響力から脱するためにあらゆる努力をはらったにちがいない。折りしも607年隋からの使者が来る。百済、新羅の使者も迎えなければならない。豊浦宮の稲目の邸宅では外国の賓客をもてなせない。どうしても宮廷なるものが必要である。そしてできれば蘇我馬子の元を離れたい。これは太子の力をもって、最大限遠心力が働いた時であろう。太子は蘇我氏の力をたよらず、秦氏、膳夫氏などの力をかりた。推古朝当初から計画した斑鳩宮や横大路もできあがりかけた。小懇田宮の建設には太子は苦労したであろう。さすがに斑鳩では蘇我氏が我慢していまい。海外使節をむかえるには船便のよい大和川流域がよい。そして何より飛鳥から離れたところがよい。大福は絶好の地である。敏達天皇の宮廷もすぐそばだ。

 そして小懇田宮が出来上がった。記録によれば南門から入り朝庭には庁が並び北に大門があって内裏につうじる、のちの朝堂院の原型がすでに出来上がったいたという。このような努力で出来上がった宮は飛鳥内であるはずがないと思う。やがて太子は数々の業績をあげながら後年太子は仏教の道に傾倒し、推古、馬子に先立って死んだ。太子の死後蘇我氏はさらに力をつけた。その後、推古、馬子共にこの世を去ったが、蘇我氏の子孫の蝦夷、入鹿の時代になり益々、権勢を増していった。
 さて小懇田大福説が成り立てばどうなるのか?先ほどの表で飛鳥33年飛鳥以外70年となり飛鳥時代といいながら実は飛鳥に都した時代はその名に値しないほど短かったことになる。

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五條市近内町の藤岡家住宅

国道24号線を橿原から五条にむかった。右手に金剛山を見ながらのドライブである。金剛山の中腹に高鴨神社がありその近辺は鴨神、高天、伏見といった神話の集落である。奈良や京都の賀茂家はすべてここを本拠とした分家であり元をたどれば神話時代にさかのぼる。高宮廃寺がこの近くにあり仁徳天皇の皇后磐の姫が

 つぎふね 山背河を 宮のぼり 我が登れば 青丹よし 那羅をすぎ
         小楯倭をすぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我が家のあたり

と歌った高宮の跡と聞いている。左手には旧道が通っており御歳神社や船宿寺など葛城古道の名所が続く。御所をすぎて風の森峠を越えると五条市である。北宇智方面を右におれ金剛山に向かうとまもなく近内町の藤岡家住宅につく。2008.9.20付奈良新聞に次ぎの記事がでた。

 戦後の大和俳壇の重鎮、藤岡玉骨(本名・長和、明治22年―昭和41年)の生家で、五條市近内町の登録有形文化財「藤岡家住宅」が2年8カ月の年月をかけて修復され、11月11日から全館公開される。開館を記念して、同月21日には「藤岡玉骨記念俳句大会」(奈良新聞社など後援)も行われる。
 藤岡家は江戸時代からの庄屋で、「大坂屋」の屋号で薬や染物、両替なども商っていた。江戸時代の建造物の母屋と離れ座敷、別座敷、内蔵、土塀のほか明治時代に増築された書斎や大広間などが復元された。
 玉骨はこの家に生まれ、東京大学法学部からエリート官僚の道を進んだ後、佐賀、和歌山、熊本の官選知事を勤め、一方で、第三高校時代に与謝野鉄幹に出会って俳号・玉骨を受け、その後も文芸雑誌を発行するなど高浜虚子ら多くの文人と交わり、文芸活動を続けた。「ホトトギス」同人である。
 昭和20年、うた代夫人とともに生家に戻ったが、夫妻の死後は空き家に。平成10年の台風禍で傷みが激しく解体も考えられたが、玉骨の孫で現当主の藤岡宇太郎さん(茨城県在住)がインターネットを通じて知り得た五條市民に相談。平成16年末に有志市民によって同住宅管理法人「うちのの館」(田中修司理事長)が立ち上がり、修復を決めた宇太郎さんとともに保存と活用へと動き出した。
 平成18年3月に工事着手。昨年春には母屋などが復元され、一部が公開されていた。その後、貴賓の間と呼ばれる離れ座敷の修復や庭園、資料展示スペースとなる蔵などの整備を行い、完成間近となった。

「うちのの館」で資料の整理など行っている学芸員の川村さんは、前から女房がお世話になっている川村喜津子先生のお嬢さんで以前からこの事は存じ上げていたが晩秋の頃一度お邪魔した。今回二回目で梅もそろそろ咲いたかと出かけたのである。実はこの奥庭には長兵衛梅という、初代長兵衛氏の頃からの老梅があり樹齢250年を越えるといい毎年花を咲かせているというのである。まずい写真であるがホームページの巻頭に載せさせていただいた。なお時節柄ひな祭りで、古来保管されてあったいずれも年代物の雛人形なのであろうか、珍しい姿、形をした雛人形を所狭しと座敷に飾っておられた。

藤岡家住宅

                         藤岡家住宅の入口

 とにかく大した家である。まず家の建築物と庭園である。250年に渉る星霜を経て、家の維持管理が良く、柱、梁には屋久島の巨木を使用して現在も昨日の如く新鮮である。江戸時代からの母屋や内蔵、明治中期の書斎と米蔵、明治後期の薬医門と大広間といった時代の変化で建物が次々と増改築されていった経緯が残る珍しい屋敷で、昨年、国の有形文化財に登録された。庭園は石と古木を配し、京都の寺院の庭のごとくである。次に江戸時代からの大庄屋で生活道具一式が見事に現在まで保管されていることである。通常の文化財の建築物は殆ど家屋だけで、当時の生活道具や調度品は逸散してしまうものであるがこの家は玉骨夫妻が戦後死去したのち空家のまま放置され、一切の備品が生前のまま保存されたのである。家具、調度品、書画、骨董、襖絵、欄間、茶室など当時の上流階級が財に任せて収集した数々は目をみはるものがあるがまだ半分しか整理されておらず、未だに土蔵から何が現れるか分からないというのである。これだけでも貴重な文化財であるのに、藤岡玉骨氏がホトトギスの同人であり、しかもその資産をもって当時の歌壇、文壇の後援的な立場で私財や場所を提供した。家にはおびただしい数の短冊や色紙が保管され、高浜虚子や与謝野晶子の未発表の作品が埋蔵しているようである。彼らはここで頻繁に句会を催し、食事をし、論談に花をさかせたのである。長兵衛梅はこれらの歴史を250年間見守ってきたのである。

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世尊寺

 西暦671年天智天皇の病が重くなり大友皇子に皇位を譲りたい天皇の気持ちを察していた大海人皇子(後の天武天皇)は天皇より皇位を譲る打診があったとき、即座に辞退し、頭をまるめて僧形となり明日香に帰ってきた。更に危険を察知し、草壁、大津、高市各皇子らを連れて吉野に隠遁した。このときの逃走道が明日香から高取の山中に入り、芋峠を越えて吉野上市に通じる、当時の最短路であった。この途上に比曾の集落に吉野寺があり、一向はこの寺に入り、本尊前にて、歴代天皇、近親者を弔い、兄天皇の病気平癒、自身の身の在り方等について祈願されたと思われる。この比曾口から吉野川の柳の渡しを渡り吉野に入れるが、一向は吉野川を遡り宮滝宮に入った。これより壬申の乱が始まるのである。
 この吉野寺は、聖徳太子の創建といわれ、日本書紀の記載から当寺は比蘇寺と呼ばれ、法興寺(飛鳥寺)、四天王寺、法隆寺と共に四大寺院の一つであった。比蘇寺は吉野寺、現光寺、栗天奉寺、世尊寺と名前を変え現在に至っている。
この寺で寺宝の絵巻特別展が開かれたのは2008年5月のことで偶然これを知り一日世尊寺に拝観に訪れた。この寺宝は一般に開示することはなく寺にとっては画期的な事業であったらしく、比曾の人々も大勢手伝いにきていた。住職が自ら案内をかってでて、絵巻の説明に大忙しであった。絵巻は二巻からなっており、一巻は本尊阿弥陀如来坐像の縁起を、もう一巻は丈六十一面観音像 の縁起を絵巻で記述していた。住職の説明によると日本書紀巻16によると「河内の国、茅渟(ちぬの)海中に浮かぶ樟木を見る。欽明天皇は画工に命じて仏像二躯を作らしめ、今、吉野寺に祀る放光樟象なり」と記されている。  それがすなわち、阿弥陀如来座像で、明治24年をもって国の重要美術品に指定されて、今日に及んでいる。十一面観音立像は平安中期の作と伝えられ、丈六の立像である。頭部は一見して鎌倉期の後補とわかるが、体部は、古様の切れ味のいい刀のさえを見せる一木彫刻である。当然当日両仏は開示され他に聖徳太子十六歳孝養像はじめ全ての寺宝を展示していた。本尊阿弥陀如来坐像を一瞥して何とも飛鳥寺の釈迦如来像(飛鳥大仏)にそっくりであるのに驚いた。それと同時に飛鳥時代の創建であることを理解した。飛鳥大仏はたびたび火災にあい顔の半分とその他一部のみ創建当時のものであるが、この仏は1400年一度も災難に会っていないがごとく、古来の美しさを保っていた。当世尊寺は創建当初薬師寺式伽藍を構え金堂、講堂、西塔、東塔の礎石が現存し現在の本堂は講堂の址となっている。五回も名前を変え、幾星霜を重ねているが、その都度本尊は災害から守られてきたのであろうか。

本尊阿弥陀如来坐像

(世尊寺のHPより借用)


 天武天皇はじめ、平安時代には、現光寺と呼ばれ、56代清和天皇、59代宇多上皇が行幸され、関白藤原道長、空海、役行者も金峰山入峰の折、参詣されたことが古文書で明らかである。

壇上桜(世尊寺のHPより借用)

東塔は慶長二年豊臣秀吉により伏見城に移され、慶長五年徳川家康により三井寺に寄進され現存しているとのことだが、あいにくまだ見ていない。帰りに奥庭により壇上桜や芭蕉の碑をみた。壇上桜は名残の桜と最後の妍を競っていた。

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斑鳩の春

山背大兄王は考えている。どこで間違ったのか?なぜここで一家滅亡の事態になったのか。蘇我入鹿に追われ一度は生駒山中に逃れたものの、そこで進退きわまった。家来の者は一度ここから東国にのがれ、再起を期せばまたチャンスは必ず訪れる。それまでの辛抱であると。そうかもしれない。勝算が零ではあるまい。しかしあくまで自分ががんばって妻子に塗炭の苦しみを味あわせ、更に兵士を際限も無く死なせてよいものだろうか。もう争いはやめよう。太子の頃の物部戦争の二の舞は真っ平だ。一家二十五人共に潔く生命をまっとうしよう。
生駒をでて平群谷を通り生まれ育った斑鳩宮に再び戻ってきた。やがてなつかしい法輪寺と法起寺の三重塔が二つ、斑鳩宮の五重塔とならんで我々を迎えてくれた。懐かしい景色だ。法起寺は岡本の地に岡本宮として父聖徳太子が作りはじめ、完成を待たず死んだのを遺志を継いで完成させたのだ。岡本宮は法起寺とし亡き聖徳太子の菩提をともらった。法輪寺は父が病に倒れたとき、自らその病気平癒をいのって、建立した。さらに中宮寺がみえる。父太子が母の穴穂部間人皇后の御所としていた宮あとである。子供のころ斑鳩宮と中宮寺のあいだをいつも走りまわっていた。
 あの頃は素晴らしい時代だった。推古天皇が皇位につき聖徳太子が皇太子となり、蘇我馬子が輔弼した。皆若かった。油ののりきった働き盛りであった。中国隋より使者がくる。新羅、百済からも予定している。それにあわせて小懇田宮を作り始め、まもなく完成し遷都する。小懇田宮にあわせて大和川河川の改修をし、船の安全航行をはからねばならない。陸路も充実させ浪速から飛鳥への横大路を完成させなければならない。外国の使者に大和国の都を見てもらい、侮りを受けてはならない。豪族の秩序をまもるため、冠位十二階も整えた。十七条憲法もまもなくできあがる。父太子のたっての願望であった斑鳩宮も完成まじかだ。皆、生き生きとして新しい時代の建設に邁進していた。

斑鳩宮に移って山背は勉学に励んだ。父は皇太子でやがて推古の次ぎの皇位につくだろう。自分は皇太子になるはずである。父はさることながら母は刀自古郎女で馬子の娘である。これほど磐石な血筋は望めない。父の名を辱めない人間にならねばならない。偉大な父のあとだ。生半可なことではならない。だが、やがて父は斑鳩にこもることが多くなった。仏教に帰依し、経典を見ることに時間を費やした。仏像の前で瞑想することも多くなった。蘇我馬子とうまくいかなくなったのであろうか。622年父太子が薨去した。思いもかけぬ事態だ。まだ48歳、推古68歳、馬子71歳。一番若いのだ。ここから歯車が狂い始めたのだ。626年馬子75歳で死亡、その二年後推古74歳でこの世を去った。
 推古は後継者を指名していなかった。推古以降の権力者は蘇我蝦夷である。蝦夷はどちらかといえば馬子程に権力欲が強くないがその息子入鹿が山背と殆ど同年代で徐々に頭角をあらわしはじめた。入鹿は権力欲が強く,自信家で蘇我の直系を鼻にかけ、後継有力者の山背を皇位に就くのに反対した。おそらく、山背は入鹿の意のままにならないと思ったのであろう。蘇我の血が全く入っていない田村皇子を後継につけた。舒明天皇である。舒明13年まで生きたのち、間もなく薨去し、女帝皇極が皇位についた。これも、蘇我入鹿の画策である。山背はこの時なお健在で今度こそと思ったであろう。だが入鹿は皇極の執政となり、山背は完全に望みを断たれた。蘇我入鹿が突然斑鳩を攻めてきたのはその翌年の皇極2年である。かねてより不穏な空気がただよっており警戒していたが、相手が悪い。すぐさま斑鳩を出て生駒にこもった。そして考えるところがあり、再び斑鳩に戻ってきたのである。

斑鳩の春

法輪寺三重塔

 春はまだ早い。例年3月4月には見わたすがぎりの田畑に一面すみれが咲き、のどかな景色がひろがる。今はまだすみれには早く法隆寺の五重塔は寒さをがまんしているが如く孤独にたっている。法隆寺を北東に歩をすすめれば、やがて法輪寺の三重塔が見えてくる。更に北東に法起寺の日本最古の三重塔がある。いつもここに来ると日本の良さを実感する。奈良の良さといったほうが良いのかもしれない。秋はコスモスが地面を覆う。古都の面影だけが生きており都会の喧騒から完全に隔離されている。しかし1400年前にはこの血を血で洗う抗争が実際に起きたのだ。山背の墳墓といわれているところが現在三箇所ある。いずれもこの近辺で矢田丘陵の中である。

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纒向遺跡のロマン


 三輪山の西麓、箸墓の地一帯に古代国家の誕生を示唆する遺跡が存在する。それが纒向遺跡で東西2km、南北1.5kmあり発掘調査がはじまったのは1971年で以来153回の調査が行われている。この調査は家屋建設など地形の変形に伴う調査で、必ずしも計画的に行われているものではない。また遺跡の総面積の5%にも満たない範囲である。しかし、この遺跡の持つ日本史意味は大変おおきいものがある。この遺跡の特徴をあげると
,海僚戸遒200年頃に急に発達した。周辺には弥生集落は存在せず、何もないところから急に出来上がった感じで何か意識的に計画的に出来たものとおもわれる。ムラを構成する住居址や倉庫址は発見されておらず、遺跡を囲む環濠もない。そして350年ころ急速に消滅する。
△海琉篝廚砲浪罎国最古の古墳群「纒向型前方後円墳」(勝山,石塚、矢塚、東田)が発見され従来のホケノ山、箸墓古墳に先立つ、日本最古の様式を持つ。
e向遺跡の推定居住地は、上記の4個の主要古墳を中心として、ほぼ東西南北に一定の距離をおいて散らばっているが、纒向遺跡の中心部の王宮があったと思われるような箇所はまだ発掘調査されていない
じ綿険瀏弔篦桟遡收宿覆覆漂怎用具が多く出土した。また木製農具(スキ・クワ)が大量に出土している。「口市」と墨害された7世紀の土器が出土した。これは「日本書紀」に「倭迹迹日百襲姫を大市に葬る」とある「大市」であろうと思われる。  
ュ向遺跡から出土した土器844個のうち123個(15%)が東海・山陰・北陸・瀬戸内・河内・近江・南関東などから搬入されたものである。またそれまで大和になかった特異な煮炊具も十数個出土しており、他地域との交流が推定される。これら外来の土器は南九州から南関東にいたる日本列島各地のものであり、中でも東海地方の土器が最も多く、朝鮮半島の韓式土器も出土している。

巻向遺跡全景
 

巻向遺跡の全体図(読売新聞)


 以上の事は古代国家の成立過程のいろいろな仮説を提供する。確実に言える事はここの住民は最盛期、王権の死に際し古墳を構築する為に、日本各地の労力を動員したことである。その結果が四つの古墳でありホケノ山古墳であり、最後に箸墓古墳をつくった人々の住居跡である。そのことは全国に人民の動員力を指令出来る強力な権力が存在したことを意味する。しかもそれは2世紀から3世紀の中ごろであり古墳の草創期である。日本最初の国家権力である。古墳築造は、皇室を核にした諸氏族の共同事業で、大和に突如として出現した巨大前方後円墳が、北九州に起源をもつ剣・鏡・玉の副葬、吉備に始まる特殊器台や特殊壷、竪穴式石室、出雲の四隅突出墳に見られる葺石、畿内の周溝墓などを総合するかたちで成立している。

石塚古墳

纒向石塚古墳

纒向遺跡の存在した200年から400年の歴史的事実をあげる。
211年 勝山古墳から出土した木材の伐採時期
225年 勝山古墳は遅くともこの時期に構築された。
239年 女王は景初2年(239年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。
248年 正始8年(248年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡 から塞曹掾史張政が派遣されている。魏志倭人伝の記述によれば、朝鮮半島の国々とも使者を交換していたらしい。
248年 卑弥呼が死んだらしい。
252年 この頃ホケノ山古墳が構築された。
258年 「古事記」の祟神天皇没年干支(戊寅の年)をもとにすれば、祟神天皇の没年は258年と考えられ、卑弥呼が没したのは、248年頃と推定できるので、祟神天皇の時代は、ほぼ卑弥呼の時代である
318年 『古事記』は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測
393年 古事記の干支崩年に従えば、応神天皇の崩御、
413年 この年以降、倭の五王の中国訪問が続く。

 邪馬台国近畿説を唱える学者は以上のことから邪馬台国は纒向遺跡であり卑弥呼はこの纒向遺跡にいたという。明らかに九州で近畿まで勢力を伸ばした国家は聞かない。卑弥呼の時代は258年死亡なら祟神天皇の時代とかさなる。祟神天皇は実在の確かな最初の天皇である。この時代四道将軍を地方に派遣した記事が日本書紀に記されている。王宮が見つからないのも、ここは全国から集めた職人の住居跡であり、祟神天皇、垂仁天皇、景行天皇各天皇の宮廷跡が現在この近くに存在する。しかしこれだけの有力遺跡がでてもこれが邪馬台国であるとの確証がつかめない。卑弥呼の如き有力者をなぜ古事記、日本書紀に記していないのか。おそらく万世一系に拘る古事記、日本書紀の作者に祟神天皇の頃に王統断絶とか秘すべき不都合なことが起こったのであろう。考古学の限界がこの辺にあるのだろうか。いくら証拠を集めても文字情報ではないからあくまでも推理であり推理には異なる推理がありうる。結局邪馬台国について場所を確定するには「親魏倭王」の印を発見するしかないのであろう。

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中将姫と当麻寺

中将姫は平城京時代当時権力の絶頂にいた藤原四兄弟の南家武智麻呂の子で藤原豊成の子として奈良の誕生寺でうまれた。5歳の時母紫の前が死にその後継母が来る。
 9歳の時に中将姫は見事に琴を弾いて、女帝孝謙天皇から三位中将の位を賜わったため中将姫と呼ばれるようになったが、この時継母が恥をかき、その後継子いじめに遭うこととなる。豊成が遠征の折りいじめがひどいため、家来が雲雀(ひばり)山(青蓮寺)へ連れて行き、そこに隠れ住まわせた。
 その後帰京した豊成に都につれもどされ、16歳の時、后妃の勅を賜わったが、世上の栄華を望まない姫は、二上山山麓の当麻寺に入って仏の道に仕えることを決心した。
 以降浄土経一千巻の写経に専念し生身の弥陀を拝みたいと、日頃から念じていたところ霊感を得て、「生身の仏を拝みたいならば、百駄の蓮華の茎から繊維をとって曼陀羅を織るがよい」という仏の言葉を聞いた。そこで、近江・大和・河内から蓮の茎を集めて糸をとり、現在の石光寺の庭にあたる辺りに井戸を掘って、あふれ出る水に糸を浸したところ、ただちに五色に染まった。中将姫は9尺四方の糸繰堂で、一節の竹を軸にして1丈5尺の当麻曼茶羅を織りあげたという。
 29歳の時、生身の阿弥陀如来と二十五菩薩が現れて、仏道に精進を続けた中将法如を生きながら西方浄土へ迎えた。毎年5月14日に行われる「練供養(ねりくよう)会式」では、その様子を再現している。

以上が中将姫伝説のあらましである。中将姫の物語は、13世紀の「當麻曼陀羅縁起絵巻」や「古今著聞集」に、あるいは14世紀の「元享釈書」など収められ、鎌倉時代にはすでに世間に広く流布していた。室町初期になると、世阿弥元清が中将姫を主人公にした謡曲「當麻」と「雲雀山」を作り、姫の名は世人に親しまれるようになった。江戸時代には、近松門左衛門などの劇作家によって中将姫が継母に虐げられる哀話が作られた。

中将姫と当麻寺

当麻寺の伽藍図(当麻寺HPより)

 以前、當麻寺を訪れて何も感じなかったのであるが、当寺の伽藍配置図を見てみよう。現在は通常東正門から入り、真直ぐ西にすすみ本堂曼荼羅堂にお参りする。左右に金堂、講堂のほか、中之坊書院や奥の院など大変見所が多く、こういうお寺なのだと思っていたのである。東西の三重塔が不自然に脇に追いやられているのが何故なのかと思ったくらいであった。しかし最近當麻寺のHPなどをみて納得した。東大寺や法隆寺のように南大門が存在し、本来こちらから入っていくのが従来の動線で、東西両脇に東塔西塔を見、金堂、講堂に参拝するのである。そのように見れば立派な薬師寺式伽藍になっている。おそらく当初は竹内街道に面していたのであろう。はじめは南都六宗の一つ、三論宗を奉じていたが、弘仁年間に弘法大師が当寺に参龍して以来真言宗となる。その後鎌倉時代以降に浄土宗も入り、現在では真言、浄土両宗を奉じる珍しいかたちをとっている。と同時に中世、中将姫伝説が一世を風靡し当麻寺といえば中将姫、當麻曼荼羅ということになり参詣者の関心もそこにあった。そして次第に便利になった東方面が発達し中之坊等後世の建築物が南に密集し南大門もとりはずされ、行き来不能に改造されたのであろう。
 古来寺院は千古の聖典を守り通すのが普通であるが、当麻寺は時代にあわせて教義も建築構造を変えていったのである。しかも個々の構造物は殆ど当時のままの遺構を保っており、本来の東塔西塔の二塔あわせて現存するのは当麻寺だけなのである。

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大和三山の歌

 昔から男女の三角関係はどこにでもあったらしく、この話題は絶えないのであるが、この三角関係を大和の三つの山になぞらえた中大兄皇子(天智天皇)の有名な歌が万葉集に載せてある。その歌を「題詞、長歌、第一反歌、第二反歌、左注」のまま以下に記す。

   中大兄(近江宮に天の下治めたまひし天皇)の三山の歌一首

  香具山(かぐやま)は 畝火(うねび)ををしと 耳梨(みみなし)と 相あらそひき 神代より かくにあるらし 古も 

  然にあれこそ うつせみも 妻を あらそうらしき

   反歌


 香具山と 耳梨山と あひし時 立ちて見に来し 印南国原(いなみくにはら) 
 わたつみの 豊旗雲(とよはたくも)に 入日見し 今夜の月夜 さやけかりこそ

右の一首の歌は、今案(おも)ふるに反歌に似(あら)ず。ただし、旧本にこの歌を以て反歌に載(の)せたり。故に、今も猶(なお)しこの次に載す。また、紀に曰く、「天豊財重日足姫天皇(あめのとよたからいかしひたらしひめ)の先の四年乙巳(いっし)に、天皇を立てて皇太子としたまふ」といふ。(巻1の13〜15)

 まほろば大和の象徴として大和三山がある。奈良盆地の南端とはいえ平地の真ん中にあたかも人工的に配置したように三つの山(香具山、畝傍山、耳成山)が存在する。標高152、199、140メートル、地高62,127,66メートルの小山である。その三山の中央に昔、藤原京が建造され694年から平城遷都710年まで都として栄えた。藤原京以前の飛鳥時代もこの三山はすぐそばで大宮人の永く慣れ親しんだ山なのである。
 なのにこの天智天皇の歌、昔から有名な万葉学者や言語学者が侃々諤々の議論が現在でも続いて、結論の出ていない疑問がある。この三山を男女の三角関係に擬(なぞら)え、どの山が男でどの山が女であるのか。読者はここでしばらく上の歌を熟読玩味していただきたい。

畝傍山

藤原京から見た畝傍山 女性的に見える

畝傍山1

北方向から見た畝傍山男性的である

香具山」

東方向から見た香具山

耳成山

藤原京から見た耳成山

香具山は男か、女か
 々甼饂海/畝傍/雄雄しと...(男らしい、香具山女性説)
◆々甼饂海/畝傍を/惜しと...(人に取られるのが惜しい、香具山男性説)
どちらを取るかで判断が分かれる。さらに,皚△眛鵑弔吠かれ
-1 女の香具山が男の畝傍山を女の耳成山と争った。
-2 女の香具山が男の畝傍山を男の耳成山と争った。
-1 男の香具山が女の畝傍山を男の耳成山と争った。
-2 男の香具山が女の畝傍山を女の耳成山と争った。

 この原因は天智天皇にある。作者はもう少しこの背景を説明すべきなのだ。おそらく、この歌を作ったときには、そのまわりの関係者には、だれが男でだれが女で、どんないきさつで問題がおこったのか周知のこととして歌ったのである。そして何かの男女三角関係の事件を三山になぞられ記憶していた。この時代にはそのようなことは誰でも知っていたことなのである。それなのに、今になってはその背景にある事柄は忘れられて我々の時代に物議を醸しているのである。このことは左注にしるされている。すなわち第二反歌であるが、万葉集の編者が長歌に対して第二反歌は本当に反歌なのか。意味が通らないではないか。でも前の資料にはこの通り記録されているので、その通りそのまま載せましたと記録したのである。なんと親切な編者であろうか。編者が理解できないといって勝手に内容を変えたり削除したら、原資料は現在に伝わらなかったのである。第二反歌は短歌として万葉屈指の名歌なのである。
 ならば第一反歌は万葉編者は理解出来ていたのであろうか。これさえ現在の学者は理解できていないのである。第一作者である天智天皇が制作した歌を誰かが記録し、その記録を万葉編者が取捨選択し現在に残し、現在の読者が理解し鑑賞しているのである。三段階の人間共が違った環境、違った常識のもとに理解するのはもともと無理なのかも知れない。特に万葉集は万葉仮名で書かれているのである。漢字は各々意味があるのに万葉仮名になるとカタカナと同じく表音文字になる時代であって意味がとうらず意味不明の歌が非常に多い。特に困難なのは韓国、中国からの帰化人が韓国語などで万葉朝鮮語仮名などで書かれているらしいのである。


 さて、常識的に解釈してみよう。-2は女と女が男を争うことはあり得るが、男が愛しいとおもった女を女が愛することはホモだから普通ないからこれは有りえない。三角関係といえば男と男が一人の女をあらそうのがふつうだろう。従って、-1が最もありそうだ。-1は女の香具山が女の耳成の彼を横恋慕したと解釈できるし、-2は女の香具山が男の耳成から男の畝傍に心変りしたと解釈できるからいずれもありうるのである。しかしあくまでも在り得ることと、この歌が云いたいこととは別である。
 

 最後にこれも有名な歌である。額田王(ぬかたのおおきみ)は昔大海人皇子(おおあまのおうじ)の妻であったが現在は中大兄皇子の妻になった。大海人皇子が額田王に

 あかねさす 紫野(むらさきの)ゆき 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る

それに対して額田王が大海人皇子に

 紫草(むらさき)の にほえる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我恋ひめやも

と返歌した。
これを現在も我々が知っているから、この事を三山に掛けた歌と思うかもしれないがこれは関係が無いと云うことである。念のために

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内山永久寺

 13世紀(鎌倉時代)に建立された石上神宮の国宝「出雲建雄神社」の拝殿が3月12日何者かにより放火された。火事は幸いぼや程度ですみ、修理可能との事であるが、つい先日は仏像を盗み、家でおがんでいたり、かっては法隆寺の金堂の火事で壁画を消失させた。これは、三島由紀夫の「金閣寺」で有名である。誰がこのようなことをするのか、我々と国宝の距離をますます遠ざける結果になるのを心配する。石上神宮には天理方面に行くとその都度ぶらりと立ち寄るほど何十回となく行ったものである。「出雲建雄神社」の拝殿はその都度眺めていたのであるが何故ここにあるかは殆ど気にしなかった。数年前、これがもと内山永久寺に在ったものであり明治初めの廃仏毀釈によりこちらに移されたものであることを知るとともにその数奇な運命に関心をよせた。

内山永久寺

石上神宮の「出雲建雄神社」


 内山永久寺は石上神宮のすぐ南側の山の辺の道沿いにかって存在していた寺院である。
永久年間(1113年-1118年)に鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第2世頼実が創建し、第3世尋範に引き継がれて堂宇の整備が進められた。このため、当初より興福寺大乗院の末寺としての性格を備え、また本地垂迹説の流行と共に石上神宮の神宮寺としての性格を備えるようにもなり、興福寺を支配していた2大院家の一方である大乗院の権威を背景として、室町期には絶大なる勢力を誇った。最盛期は50以上の堂塔が並ぶ大伽藍を誇り、奈良では東大寺、興福寺、法隆寺につぐ待遇を受ける大寺であった。
ここに本地垂迹説とはかって神仏習合思想で日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えであり、神宮寺とは神社の中にある寺院である。このようにして日本古来の神々と仏が共存する世界を作り上げたのである。
 それが一変して明治に入り「廃仏毀釈」の嵐が吹き荒れることになる。一般に「廃仏毀釈」と言えば、日本において明治維新後に成立した新政府が慶応4年に発した太政官布告「神仏分離令」、明治3年に出された詔書「大教宣布」など神道国教・祭政一致の政策によって引き起こされた仏教施設の破壊などを指す。
神仏分離令や大教宣布は決して仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまった。神仏習合の廃止、神体に仏像の使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の取り壊し、仏事の禁止、民間への神道強制などを急激に実施したために大混乱となった。
 内山永久寺もこの間神宮寺という立場で石上神社以外檀家を持たない為、守護する立場の人がおらず、結果として当時最もひどい迫害を受け、1棟も残さず破壊され僧侶は還俗して神官となり、寺内の仏像、宝物は有識者に引き取られた。現存するものも数多あるが当時の鎮守社である住吉神社拝殿を「出雲建雄神社」の拝殿として大正3年(1914)に現在地に移築し重要文化財に指定され、昭和29年に国宝指定された。

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欠史八代

日本の古代史に欠史八代と名付けられた時代がある。古事記、日本書紀に初代神武天皇から十代崇神天皇の天皇のうち二代から九代の八人の天皇については主たる事跡を書いていない。従来の歴史学者は特殊な場合を除いて、この時代については神武天皇の事跡を語ってからすぐ崇神天皇について語ることになる。神武は日向から東遷して大和に入り、橿原宮に入り、大和盆地の桜井、橿原地区の極く狭い一角を支配したに過ぎない。そして十代崇神天皇のとき、奈良盆地一体と吉備、丹波、北陸、上野の四方に将軍を派遣するまでになった。
 常識的に考えて、この間、大和盆地の勢力争いに奔走していたと思われる。そのために八代の時を費やしたのであろう。初代神武天皇や十代崇神天皇の記述の中にも一部そのような記述が残っている。この八代の天皇について記述をはぶいたのに何かの意図があったのであろうか。
しかし、彼らについては名前、宮廷、御陵、皇后、皇妃、皇子、皇女について記録している。

神武天皇遼

神武天皇遼畝傍東北遼


この時代皇妃、妃の出身氏族や宮廷、御陵は勢力争いの大きなヒントになる。まず皇妃、妃の出身はその時代の同盟氏族が推測できる。かならずしも安定勢力ではないが協力氏族であることが推測できる。次に宮廷であるが、天皇の常駐の住宅であるから、身の安全を守る為にも安定した勢力範囲であることは間違いない。ただし、勢力拡大地域であるかもしれない。この時代は妻問い婚の時代で男が妻の住居に通った時代である。何人もの妃を囲い、おそらく最有力の豪族を父を持つ妃の子が次期天皇となる。天皇候補の子達は母が異なれば、住むところが違い、他人と同じだったのだろう。時期天皇争いは日常茶飯事でいくつもの事例が残されている。
最後に御陵であるが、死後の居場所は最も安全な場所を選んだことであろう。この時代は前方後円墳はまだ確立されていないが、相当な埋葬品があっただろうから、治安の安定した場所でなければならないはずである。このようなことを考慮しながら八代の天皇を検討してみる。

天皇皇居陵墓皇后皇后の実家妃1妃2
初代神武天皇畝傍山麓畝傍山麓事代主命女磯城県主日向
二代綏靖天皇葛城 御所畝傍山麓事代主命女磯城県主春日県主
三代安寧天皇葛城 高田畝傍山麓事代主神の孫磯城県主十市県主
四代懿徳天皇橿原 軽 畝傍山麓息石耳命女磯城県主磯城県主
五代考昭天皇葛城 御所葛城 御所天足彦国押人命女磯城県主磯城県主
六代孝安天皇葛城 御所室葛城 御所押媛磯城県主十市県主
七代孝霊天皇田原本 黒田葛城 王寺磯城県主女細媛命十市県主
八代孝元天皇橿原 軽 橿原 剣池穂積臣妹穂積臣河内
九代開化天皇春日 奈良奈良 春日 物部 伊香色謎命物部丹波和邇
十代崇神天皇磯城 桜井磯城 柳本御間城姫大彦命紀伊国尾張国

記紀に記されたとおり、初代神武は最初畝傍山の周囲だけの狭い範囲しか統治していない。三代安寧、四代懿徳、五代孝昭(こうしょう)の三天皇は師木県主系を出自とする妃から生まれており、神武の子孫と師木県主との密接な関係を示している。師木県主は現在の三輪山麓一帯である。陵墓は4代続いて畝傍山周辺にあり安定した勢力圏を確立したものと思われる。
二代、三代、五代、六代の天皇は葛城に宮廷を確保した。葛城への浸透を物語る。そして五代、六代、七代は陵墓まで葛城である。この時代大和平野のほぼ南半分を征服したもようである。七代孝霊天皇の頃、宮廷を磯城郡に移し、大和平野中央部に侵出し陵墓の片岡は大和川を見下ろす場所にある。大和川は物資流通の中心であり、物流拠点を確保するとともに、子供で桃太郎伝説で有名な吉備津彦を吉備国に派遣し、勢力の拡散をはかった。この頃吉備の文化が盛んに流入し、陵墓の特殊器台形土器や特殊器台形埴輪が盛んに大和の陵墓に適用された。箸墓古墳や西殿塚古墳が代表的である。八代孝元のとき、后は穂積の出である。穂積は物部と同根で天理のあたりが領地であった。いよいよ北部に進出を図る。そして九代開化で春日に都、陵墓ともに移し、ほぼ奈良盆地一帯の支配権を確立した。十代崇神天皇になって伝統的な王陵の地三輪山麓に根拠を移し、大和以外に勢力を伸ばすことに発展した。

 この時代の歴史を考察するに前提となる基礎情報について確認しておく。
仝纏記、日本書紀に記録している、宮廷の場所、墳墓の場所、皇妃の出身情報よりその勢力範囲を推定できる。
古事記は712年、日本書紀は720年に編纂された。この時代に西暦300年頃即ち400年も前のことを記録もなく記憶の言い伝えで書くわけであるから100%正確なはずがない。今でいえば記憶と伝承に基ずいて関が原の戦いを記録するようなものである。
9垢妨纏記、日本書紀は日本国は「天皇の神格化」と「万世一系の天皇家」との基本理念に基ずいて天照大神の血統を絶やすことなく8世紀現在連綿と保ちつずけることを前提とした歴史書である。従って血統の断絶が無いことが前提であるがそのようなことは有り得ないとおもわれる。

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纒向遺跡発掘調査現地説明会

 3月22日纒向遺跡で現地説明会が開催された。いつも通り考古学ファンが大勢集まってきて熱心に桜井教育委員会の担当者の説明を聞き入った。今回は162次とのこと。昭和46年以来連綿と続いておりこの遺跡の調査の歴史を物語っている。纒向遺跡のロマンで概略の説明をしたのであわせて参考にしていただきたい。
 今回見つかった建物跡は女王「卑弥呼」が活躍した時期と同じころとみられ、宮殿や祭殿などの中核施設である可能性が高いと指摘する専門家も多い。

巻向発掘現場図面2

     調査地図面

巻向遺跡09.3.22現地説明会

現地説明会風景

図面を確認してください。前回第20次調査の発掘区域は手書きの細線に囲まれた範囲で3X4米の黒丸の建物柱跡とその周りの小丸印の柵列D、柵列C、柵列B、だけで要約して一辺5米の建物に周辺を柵で覆った建築物が発見された。三世紀初めの建物としては、宮殿や祭殿などの可能性のある中心構築物と考えられており、この建物の遺跡内での役割を確認するにはなお広範囲の発掘調査がまたれていた。それで今回の発掘調査となった。写真を参照いただくと、白い柱が構築物、黄色い柱が柵柱である。再度配置図を見ていただくと今回の確認事項は
〆列A、柵列E、柵列F、の発見。即ち柵柱がA,B,C,D,E,Fとの複雑形状で存在していた。
柱列Gが新たに発見された。柱列Gは柵列Dに平行且つ、柵列E、柵列Cに軸線を揃えて構築されており強い計画性を有している。
A芦麋掘調査したとき確認されている柱列の北面がやはり同一軸に平行して存在している。
従って図面の左側に更にもう一棟、計三棟が平行して存在したことが確認された。

 この遺構の北側と南側は低地になっており、当時は川が流れていたことが分っている。その川には柵が設けられていたことが調査で分っている。即ち三輪山から下ってくる、尾根の最も高い微高地に存在しており、場所的には最良地に存在していたことになる。従ってこの建物が集落の中で最も神聖な建物であることが予測できるのである。


 後から考えれば、この東側をもう少し発掘すれば更に重要なことが判明したかもしれなかった。今度はいつのことになるのか。この一帯を公有地にする為に予算措置をするとのことである。奈良県以外なら、とっくに史跡公園になり集客設備も整えるのであろうが、何せ奈良県はこの程度の史跡は山ほどあり、なかなか予算もとりにくいらしい。

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志賀直哉の奈良上高畑サロン

志賀直哉が奈良市高畑に10年ほど住んでいた。東大寺の西側の道を南にくだり、現在奈良教育大学のキャンパスの北側の道を入ると、本薬師寺の前を北に入った閑静な住宅街にある。春日神社の境内と殆ど地続きとなっている。先日ここに訪れた時、あいにく工事中で、家の中に足をふみいれられなかった。仕方なく庭を一回りして工事している家の中を覗くだけだった。五月になればオープンするとのことであった。
 志賀は1883年(明治16年)陸前石巻で生まれた。祖父がかつて古河市兵衛と足尾銅山を共同経営していたという。従って相当な資産家であった。学習院の初等科、中等科に行き1906年(明治39年)、東京帝国大学へ入学し1910年中退した。
志賀の人生を辿るに彼と深く関わった四つの事柄が重要である。‘眤軸媚阿箸僚于颪ぁ↓白樺派の中心人物としての活動、I秧討箸粒詁、づ賤糧術への回帰である。
内村鑑三との出会いは18歳のときで7年間通った。その間、キリスト教にそまり、当時はやりのプロレタリア文学に足を踏み込まずにすんだ。の父親との葛藤は最初の恋愛問題から父の実業家であることによる作家志望への反対といった生き方に関する衝突で大層深刻なものであった。これが「大津順吉」、「正義派」、「和解」といった作品を生む。さらに母にまつわることなどが重なり、親との決別にいたる。そのことから世田谷、尾道、京都、奈良へと住居を移す。の東洋美術との出会いは、尾道、京都、奈良時代に徹底して作品を鑑賞し、従来のキリスト教的、西洋個人主義に徹した思想に重大な影響を与えたようである。代表作「暗夜航路」は前編は1921年(大正10年)に発表し後編は奈良時代の1937年(昭和12年)の発表で完成まで16年を要した。勿論、殆どが中断の期間が長かったのであるが、その間の作家としての思想変遷が激しく、この作品だけで志賀直哉の人生を理解できる。志賀直哉に限らず、この時代の作家は自伝小説が多く、小説の題材を自分の人生経験にもとめているからである。

志賀直哉の高畑サロン

上高畑サロン


 父親が資産家だったこともあり志賀の家計は父の仕送りに頼っていたようである。当然奈良の邸宅も仕送りであるが、志賀は建築にも関心を示し、設計はすべて自分で行ない、工事は親友の大工と共に作り上げたようである。彼は自分の生活や個室としての書斎に心を配り、友人との応接についても居間と食堂一体となった「上高畑のサロン」と呼ばれる部屋を用意し、白樺派文人に限らず多くの文人、画家等芸術家を招待しては麻雀、囲碁、将棋など遊興にすごし、殆ど作家活動をしなかったようである。作品も「暗夜航路」の後編と2〜3の作品にかぎられた。勿論奈良を初め関西の名所旧跡を訪れ、特に東大寺別当の上司海雲とは特に昵懇の間柄であった。
 志賀が奈良に来る数年前、大正12年、関東大震災があった。この時谷崎潤一郎が芦屋に引っ越してきた。ここで「卍」「細雪」を制作したのであるが時々志賀の家を訪れては色々話をしたようである。お互いに関西の良さに共感し文学、芸術に話がはずんだ。しかし、関西の悪さも共感した。時にはコテンパンの悪口も言ったようである。
 1938年(昭和13年)志賀は家族共々鎌倉に移り住んだ。奈良を去り東京へ帰った後も「奈良はいい所だが、男の児を育てるには何か物足りぬものを感じ、東京へ引っ越してきたが、私自身には未練があり、今でも小さな家でも建てて、もう一度住んでみたい気がしている」と奈良への愛着を表している。
 私事になるが自分も東京育ちで関西に就職した。結婚をし子供を設け、子供たちが学校に行くようになったとき、志賀と同じ思いにかられた。せめて自分だけは関東弁でがんばったのであるが、所詮空しいことであった。志賀と谷崎の会話に私も加わり2〜3云いたいことがあったのである。

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森と泉の泣沢女神


 古代から天の香具山の西北の麓に埴安の池といわれる池があった。その池のほとりは青々とした森に囲まれその一箇所からこんこんと湧き出る泉があった。どこでも同じことであるが水の湧き出るところは人が群れ、この泉を神水とあがめた。各地に水分神社があるが古代より水を崇める風習はどこにでもあった。
 この静かな香具山一帯がひところ大和の中心と崇められた時期があった。大和の中心は日本の中心でもある。天武天皇、持統天皇の頃、飛鳥から藤原京に本格的な都を建設するというプロジェクトが起こり、何回も下見ということで行幸した。この行幸で藤原京に行くには飛鳥から北上して天の香具山の西を目指すのである。当然大宮人も同じことで、新都といえば天の香具山と思われていたようである。今思えば大和三山の真ん中であるから、多少違和感があるが、大宮人の生活感覚からいえば当然のことであった。万葉集にも畝傍山3首、耳成山6首、香具山13首と断然採用が多いのである。
 やがて新都が完成し飛鳥から人々が移り住んできた。この時694年、持統天皇の晩年であった。そして高市皇子が天の香具山の西、埴安の池の畔に大邸宅を建て香具山宮と云われた地に移り住んだ。高市皇子は壬申の乱で最大の功績をあげ、いまや天皇に次ぐ実力者である。
 新都に移って間もない696年、高市皇子がみ罷った。やがて殯(もがり)の儀式が連日連夜おこなわれた。殯(もがり)は日本の古代に行なわれていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでの期間、棺に遺体を安置し、別れを惜しむことをいう。当時の風習で泣き女が大泣きをしたのもこの時であろう。高市皇子の妻と思われる檜隈女王が「どうか生き返って欲しい」と一心に祈ったのもこの殯の時であった。
 この時の挽歌が万葉集に収められている。柿本人麻呂の長歌で万葉一の秀歌であり、皇子に対する惜別の念がこめられている。この長歌の後に反歌として二首の短歌が収められている。そして更にもう一首

  哭沢(なきさは)の神社(もり)に神酒(みわ)据ゑ祈(の)まめども我が大君は高日知らしぬ  (2-202)
  (哭沢の神社に神酒を添えて祈った甲斐なく大君は亡くなってしまったではないか)
 この歌には別に注釈が書かれている。万葉集の編者はこの長歌を類聚歌林(山上憶良の収集した歌集)から採用しているのであるが、さらに或書として上の短歌が檜隈女王の歌として添えていたと記している。当時の習慣として高貴な人の歌を職業歌人が代わって歌うことが多く、この歌も人麻呂が檜隈女王に代わって作ったのであろう。

泣沢女神

この奥に祭神の井戸がある

泣沢女神

哭沢の神社の歌の歌碑


 712年古事記が献上された。古事記には神話として泣沢女神について記している。イザナギノミコトとイザナミノミコトがカグツチ(火の神)を生んだときイザナミがホトを焼いて死んだ。イザナギは悲しみ涙したとき、この涙から生まれた女神という。おそらく、この時の話が古事記に反映されて神話になったと思われる。いつしかこの神社は畝尾都多本神社と呼ばれ泣沢女神を祭神としており、祭殿の奥には水の涸れた井戸を祭っている。いつしか池はなくなり、いまでは人も殆ど訪れずもとの静かな森に返っている。

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結崎の面塚と観阿弥の能

 寺川が大和川に合流する手前、結崎の地に糸井神社がある。祭神は豊鍬入姫命で他に綾羽呉羽の機織の神を祀ったともいわれ、糸とか織物に関する神様が本来の神様であるといわれている。この地より遠くない所に面塚があり猿楽の観阿弥が奈良四座のひとつ観世流の拠点として発祥した土地である。さて、この面塚。こんな伝承が残っているのだそうです。
室町時代のある日のこと。天がにわかに曇り、天から異様な音と共に、寺川の畔に落ちてきたものがあった。落ちてきたモノは、1個の翁の面と、1束のネギ・・・つまり、「翁の面とねぎ種」が降って来たのだ。村人は、翁の面を、ねんごろに葬り、葱(ネギ)の方は、その地に植えて生育した。この翁の面を葬ったところを後世面塚と言い伝えた。

結崎の面塚

結崎の面塚

 更にいま一つ磯城郡田原本町味間に補厳寺があり観阿弥の子世阿弥が禅を習得した禅寺として知られる。この寺は現存する建造物は門・鐘楼・庫裏が残っているのみで現在こそほとんど廃寺に近い状態であるが、中・近世では曹洞宗了堂派の根拠として末寺230ヶ寺を数える大寺だったのである。大和と能楽はこのように観阿弥の頃から切っても切れない関係であるがこの観阿弥の出自について記したい。
   楠木正遠---楠木正成---楠木正行
         姉         
   上島景守---元成---清次(観阿弥)---元清(世阿弥)---元雅---禅竹
            (2男)
            富永左衛門の女
 少し説明しよう。観阿弥の祖父は上島景守でその子元成は南朝の英雄楠木正成の姉を妻にむかえ観阿弥他2名の男子をもうけた。上島家は代々伊賀上野の武士の出である。元成は早くして観阿弥の上二人の子を失っている。理由は分らないが、武士の子として戦場に散ったと予想できる。楠木正成との関係も考えられる。元成は三人目の男子を死なせるのはしのびなく芸能の道にすすませた。当時の猿楽は神社の祭礼に奉納したり、田楽と称しお田植え神事に舞っていたようだ。まだ、芸術度が低く、多く被差別の民が従事していたもようであるが戦争の心配は無い職業であった。清次(観阿弥)は富永左衛門の女と結婚し元清(世阿弥)をもうける。富永家はこの頃は伊賀上野の上島家の近隣にあったようだ。やがて富永家は竜野市揖保川町の富豪として移転する。こうして観阿弥は楠木、上島、富永三家の血筋が流れていることになった。
 この系図は「上島家文書」に記述されており、従来の能学者には受け入れられていなかった。しかし、尾本頼彦氏がこの論文を取り上げ詳細な検証を行い尾本論文を書き上げ、梅原猛氏に鑑定を依頼した。梅原猛氏は慎重な検討の末、作家の杉本苑子、歴史家の奈良本辰三郎らの論考も参考にこの論文の正確性を認め、以後、従来説を論破していくのである。従来説は簡単に紹介すると観阿弥は伊賀生まれではない。楠木正成との関係を認めないとのことである。
 観阿弥は大和結崎に結崎座を設け、これが観世流となってゆく。卓越した演技力により人気を博した観阿弥は、物まね主体の大和猿楽に近江猿楽や当時隆盛であった田楽の歌舞的な長所をとりいれて幽玄な芸風を志向するとともに、当時流行した曲舞(くせまい)のリズムの面白さを導入した新しい音曲を工夫して成功を収めた。やがて息子の世阿弥も成長し二人しての能楽を時の将軍足利義満が認める事となり、大変な寵愛を受けた。足利幕府は4代義持、5代義教と代々能を愛好した。観阿弥の能は物語重視の叙事詩的性格の能であり、世阿弥が後に発展させた抒情詩的性格で幽玄的な趣を究極まで追い続けた能にまでたかめたのである。 

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運慶に会いに行く

 平成20年早春に運慶流出として新聞紙上を賑わせたオークションだあった。運慶作の大日如来坐像で座高61.3cm、ニューヨークでの出品で日本の宝がまた失われるのかと関係者はやきもきしたであろう。結局真如苑という宗教団体が三越に依頼し14億円という高値で落札した。真如苑は真言密教を母体とした教団で今後5年間公立の博物館等に預け調査・公開してもらい10年後に所有地に施設を建設し、公開して祀るという。土地はすでに日産の工場あとを手当て済みであるらしい。一件落着である。
運慶は生まれが分っていない。ただ、長男湛慶が1173年に生まれたのは記録に残されている。その後少なくとも男子5人の実子が弟子となっている。さらに、円成寺の大日如来が運慶初作品として1176年完成していることが分っている。従って長男誕生が20前後として1157年前後の生まれとおもわれる。1223年に没しているので享年66歳であるからそんなにかけはなれてはいない。
 平重盛の南都焼討ちが1181年、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件に代表する源平の争乱により、主たる寺院の建造物が消失し、1192年鎌倉幕府発足を機に寺院の復興機運が盛り上がった。当時運慶の父康慶の一門が奈良仏師を形成し京都の円派・院派とはりあっていた。どちらかというと京都派の方が金堂・講堂のような主要堂塔の造像を多く請負っていた。当時1057年に没した定朝の彫りが浅く平行して流れる衣文、瞑想的な表情など、定朝の平明で優雅な仏像は平安貴族の好みに合致し、その作風は「仏の本様」と称せられていた。宇治平等院鳳凰堂の木造阿弥陀如来坐像(国宝)に代表する作風である。運慶の初期の円成寺大日如来坐像はまだこの流れをうけついでいるが若々しい作風がみずみずしい。さて運慶作といはれる大日如来像はこの真如苑と円成寺以外にもう一体存在する。栃木県足利市の光得寺の重文(座高31.3cm)の大日如来像である。
 一般に像の製作に関する情報は像の中に入れた体内物や台座の裏側、寺社に伝わる縁起書類によって知ることが出来るが、必ずしも書付を記すとは限らない。そういう意味で作者を特定できない作品は数限りなくあり、運慶作品だけでも発見されている作品以外にどれだけあるか分らない。また運慶作といえども100%特定しているとも限らない。この光得寺の大日如来像は樺崎八幡宮につたえられ、明治初年の神仏分離の際、光得寺に移されたものである。樺崎八幡宮の前身は足利義兼の開いた樺崎寺赤御堂で樺崎寺の縁起を記した「鑁阿寺樺崎縁起並に仏事次第」に記されているのである。そして真如苑の大日如来像はX線写真で判明した像内納入品の形態や納入方法が光得寺像によく似ており光得寺像の前段階の特徴を有している。「鑁阿寺樺崎縁起並に仏事次第」によれば樺崎寺の下御堂というお堂に建久四年(1193年)11月6日の願文に厨子に入った三尺皆金色の金剛界大日如来像があったと記録があった。座高もよく似ており真如苑像発見時にこの書類により特定したという。(山本勉氏) 運慶は人生前半は当時の武家の興隆と共に関東地方に多く造像を依頼され納品されているが後半は名声が上がるに従い興福寺、東大寺など関西方面に活動の場を求めたようである。

円成寺楼門

苑池より楼門を望む

円成寺多宝塔

中に大日如来坐像が鎮座する多宝塔


 運慶流出事件も収まったこの冬の一日、円成寺に運慶に会いに行った。春の坂道でおなじみの柳生街道を東進し車で奈良から30分、円成寺の山門に着いた。冬の平日で参観者は殆どいない。参道の苑池をとおして楼門をみれば絶好の写真スポットになっている。楼門はくぐらず通用門から寺の中に入る。入るとすぐに本堂がある。ここの本尊は阿弥陀如来坐像である。この手前に多宝塔があり中にお目当ての大日如来像がある。多宝塔は中に入れず、ガラス越しで中に大日如来像を拝観することになる。外が明るく冬の日差しがさし中は薄暗く残念ながらはっきりと、像を見ることが出来なかった。写真も何回か撮ったが写りが悪く実用にはならなかった。運慶の大日如来像は残念ながらまほろば紀行には紹介出来ないので是非訪問して鑑賞していただきたいと思う。今回は若いころの運慶の作品を大日如来坐像に限って紹介したが、勿論東大寺南大門の二王像や興福寺北円堂の作品が円熟期に達した頃の作品で更に見ごたえのあることは云うまでも無い。

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「大和古寺風物詩」を再読して

 久しぶりに本箱を漁っていたら一番奥から「大和古寺風物詩」が出てきた。前に一度探したことがあったが見つからずに止めた事があった。それが探してもいないのに出てきたのだ。懐かしくなってペラペラめくっているうちにいつか一冊読み終えて、かって読んだ内容をだいぶ詳しく思い出すことができた。写真家入江泰吉の写真が美しい。「まほろば紀行」を書くときのイメージとしていたが、その観察眼や感受性といったところがいかんともしがたく、あまりにかけ離れているのに愕然とした。まあ気をとり直してその感想などをかくことにした。
 亀井勝一郎は1907年函館市生まれ旧制函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)から旧制山形高等学校(現山形大学)1926年に東京帝国大学文学部美学科に入学、1927年には「新人会」会員となりマルクス・レーニンに傾倒し、翌1928年には退学。4月には治安維持法違反の疑いにより投獄され、1930年保釈される。1932年にはプロレタリア作家同盟に属す。その後、仏教との出会いにより開眼し、親鸞の教義を信仰し、宗教論、美術論、人生論、文明論、文学論など人間原理に根ざした著作を連載した。「日本人の精神史研究」は彼のライフワークとなる。1966年死亡した。
 私の本は1971年刊行で幸いにも購入納品書まで綴じこんでいた。見ると昭和48年1月18日となっており,かれこれ40年前ということになる。亀井が奈良に再々訪れていたのは本の中に記されているのを抜書きすると以下のとおりである。(いずれも昭和)

  斑鳩宮  17年秋 17年秋 20年秋
  法隆寺  12年秋 13年春 16年秋 17年秋
  中宮寺  14年春 17年秋 20年秋
  法輪寺  17年秋
  薬師寺  14年春 17年秋
  唐招提寺 17年秋
  東大寺  17年秋 17年秋 17年秋
  新薬師寺 17年冬

勿論この頃の奈良の風景は今とは異なるが、東京、大阪ほどには変わっていないし古都奈良の自然を保存する機運がたかまっているので往時の面影は残っている。しかし法隆寺金堂の火事による消失、薬師寺の復旧再建、法輪寺三重塔の消失と再建など時代と共に変化する様をみると、たかが40年の年月でこれだけ変わるのであるから1400年を経過した往時の景色は想像出来ない。亀井が見た奈良は山々に囲まれた盆地の中の普通の田舎に塔や建物がところどころ建っている風景であり、その一個一個に歴史的な由緒が詰め込まれている日本文化の原点に感激しているのである。亀井の見た薬師寺は東塔と旧講堂だけの朽ち行かんばかりのものであった。彼は朽ち行く古寺に感激しそれも仕方の無いものと達観していたようだ。古仏もかつて火災や人災で現在残っていない仏共をなつかしみ、それが仏の運命であると諦観している。まして現存する仏たちをよくぞ生きながらえたと感激すると共に人間大衆と共に生きそして共に死んでゆく運命を当然のことと思っているのである。

  法起寺遠景法起寺


 法隆寺を建立した聖徳太子は日本の聖人の理想像として描かれ、東大寺、新薬師寺の聖武天皇や光明皇后もまた慈悲あふれた君主として表現されている。現在の古代歴史学では多少違った解釈をなされている。歴史は史実に忠実でなければならないが、かといって日本の聖人の理想像はあまり軽々しく壊して欲しくないと多少は思うのである。

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まほろば同窓会

 2001年5月に同窓会を行った。今から7年前になる。学校は幼、小、中、高一貫校で最長15年同一学校にいたことになる。私は小5より高3まで8年間お世話になった。当時人数の少ない学校であったがそれ故に和気藹々とした楽しい学生生活を楽しんだ。大学はマンモス校だったのでむしろ高校の生活の方が懐かしい。
 私は千葉県市川に実家があり大学を出るまでそこが生活拠点であり、学校も市川にあった。卒業してから大阪に来て、大手メーカーですっかり大阪になじんでいた。長い大阪暮らしであったがやがて東京に転勤し、8年ほどすごした。東京では毎年の同窓会以外にも同窓生とは交流がすすみ、東京には違和感を持たないため、すっかりその生活に溶け込んでいた。やがて2000年になって大阪転勤命令が出て、大阪の元の古巣に戻ってきた。そのようなことから、一度奈良で同窓会をと思い立ち、有志と相談の結果全体同窓会は無理であろうから、希望者のみの観光、ゴルフツアーをしようということになった。希望者を募ったらゴルフ8名、観光4名が参加した。皆、奈良宿泊は初めてが大部分だったので橿原にホテルを取り、奈良の良いところを満喫してもらおうと、色々考えたが、結局ゴロフツアーが中心だったので単純なスケジュールにしかならなかったが、幸い5月でもあったので夕方日暮れが長く、まほろば観光には結構時間が取れた。
そこで以下のようなスケジュールを組んだ。

 前日 ホテルチェックイン
     前夜祭 近所の料理屋で夕食
 第一日 ゴルフ組 花吉野カントリークラブ 
     観光組  奈良の旅(奈良公園、東大寺、薬師寺)
     ホテルにて welcome party 
 第二日 ゴルフ組 花吉野カントリークラブ 明日香訪問
     観光組  大和観光(長谷寺、室生寺)
     ホテルにて farewell party
 第三日 まほろば観光 (明日香村、藤原京、三輪神社、箸墓)
     我が家で昼食 解散

いずれにしても東京人間だから京都、大阪までは来るのであるが奈良、特に南都の方は初めてと云う人が殆どで、折角の機会だから南都まほろばを十分堪能してほしかった。おかげで結構十分に楽しんでもらったと思う。スケジュールを見ていただけたら分るとおり3日連続宴会続きでゴルフの反省、観光内容、そして料理、酒で夜ふけるのも忘れるくらいだった。

花吉野CCにて


第三日は明日香の石舞台、高松塚、飛鳥寺等、更に藤原京、三輪神社、箸墓を巡回し自然と我が家に誘い込んで簡単なミニ懐石を食べていただいた。思わぬ接待に皆恐縮していたが、満足してもらった。
 同窓会もここまでやれば決して忘れることはないだろう。おそらく、二度と行うことはないと思う。東京で奈良のことが出てくるとかならず、当時のことを思い出すと云ってくれる。

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奈良盆地に最初の王権が出来た理由

 古代の王権が奈良盆地に発生したのは単なる偶然だったのであろうか。それとも何か確たる理由があったのであろうか。この点を二つの側面から考察してみたい。原始稲作農業の発達過程と盆地の持つ特徴である。
  稲作が日本に入ってきたのは紀元前400〜300年前と言われている。それ以前はいわゆる縄文時代といわれ、その時一番住みよい環境といえば、清らかな水が十分確保でき小動物が生存して肉食たんぱく質が確保でき、どんぐりその他の野生植物が十分あることであった。勿論海の近くで貝や魚が捕れるところも生活の拠点に適していた。日本にはそのようなところは無数にあり人口は食料が確保出来る範囲で各地に散在していた。

奈良盆地の川

奈良盆地の河川


 原始稲作農業が日本に伝播した当初の条件というのは湿田で人間が大した手を加えなくても稲が自然に育成出来る環境条件が整っている必要があった。当然稲作は九州地区からはじまったのは間違いない。しかしその頃の九州地区にその適地は必ずしも多くなかった。九州地区に多い平野地帯は、中心に大河が流れる沖積地帯で梅雨の時期には洪水が多く、夏季は川が干上がり、到底当時の当初灌漑技術では自然のコントロールは不可能で、わずか平野と山岳地帯の縁に適地があるだけであったろう。この適地を探すと奈良盆地があった。奈良盆地は現在も大河は大和川だけでこの大和川に流れ込む無数の小河が盆地中を魚の骨のように流れ込んでいる。今でもそうであるが大和川が大阪府に流れ込むのは亀の背といわれる信貴生駒山塊と葛城金剛山塊の間の地峡地帯で、当時頻繁に川が堰き止められ、盆地全体が湖沼と化す状態であった。そしてこの湖沼状態と無数の川が原始稲作の絶好の湿田環境を提供していたのである。自然環境の整った所には自然と人口が集まり、主食の備蓄がすすむと平均寿命が延び子供の数も増え人口の増加をもたらした。噂で各地から人々も集まった。
 原始稲作農業が発達するとやがて次の段階にすすむ。湿田から乾田への転換である。従来の自然任せの農業から計画的に行う農業である。この当時の人々は盆地の山麓の微高地を耕して棚田を作り出す。現在も棚田は実在するが、これにより絶対必要な水を適度にコントロールしながら収穫の増大、即ち生産性を高めていった。この頃の農業には灌漑工事が大規模におこなわれた。一枚の田の大きさを自分たちが集められる作業員に合わせて決め、それを何枚も作ると同時に水量の制御を行う。現在行っている田園風景である。この環境にも奈良盆地は全国のどこよりも恵まれていた。奈良盆地は南北25キロ、東西15キロの広さ(狭さ)で絶妙の広さであった。周囲が山であるから農地の適地は普通の平野部の4倍が可能(盆地の東西南北で可能)である。おそらく水田の開墾には小集落が協力した。その集落は現在の村長さん位であったろう。ただし水利権の問題や河川の大工事には更に大きな集団を必要としたであろう。かくしてこの頃から豪族が起こり盆地の周辺部に10〜20程度の部族ができる。彼らは水利権を握り、灌漑工事を指揮し、紛争の解決にあたった。このような時代が紀元0年頃から500年頃の時代である。三輪氏、葛城氏、春日氏など現在でも使用している名前がそれである。
 原始農業の始まる直前の奈良盆地は人口が他の地方に較べて特別多かったとは思われない。むしろ縄文人には住みにくい環境で周囲の山間地帯のほうが多かったかもしれない。人口は10,000人から50,000人と推計してよい。人口は稲作が始まってから爆発的に増加し自然をある程度コントロールできるようになって更に増加した。原始稲作農業が始まった直前の人口は殆ど分らないが、弥生後期の魏志倭人伝に邪馬台国の戸数7万個と書かれている。遺跡発掘による推計では一戸の居住人口は10〜15人、邪馬台国だけで70万人〜105万人。これは現在でも大都市の人口に匹敵し到底信じられない。当時の奈良盆地全体でこの半分ないし4分の1であったろう。まして九州全体ならともかく、100余国に分かれた一国がその人口ではありえない。
 奈良盆地ではいよいよ有力氏族が勢揃いした。彼らは狭い奈良盆地の中、ある時はあい争い、あるときは協力した。しかし争いも小競り合い程度のもので、決定的な争いは極力避けたと思われる。盆地の中をいかに住みよくするかに関心があり、一族撲滅皆殺しという事態は聞かない。彼らには盆地の外という更なる大きな敵がいた。この当時には出雲や吉備や河内や近江に強力な敵が出現しだしていた。盆地はその内と外との差別感を激しく醸成されていった。外なる敵に対して内なる味方。目に見える範囲の有限な同郷意識は他以上に同胞意識を持ったであろう。やがてさらに大きな敵、中国の大国(魏、呉)や朝鮮半島(百済、新羅、高句麗)の国々と相争い協調しながら自分たちの立場を認識しだした。従来盆地の中が我国と思っていたが海外にくらべて国内も我国である。ここまでくれば盆地という境界から海という境界を認識した。ではこの国を何と呼べばいいのか。


 そして日本という名前を発明した。

 以下総括しよう。
 第一段階の海外から移入された原始農耕時代は自然環境こそ農耕の唯一の条件であった。この条件に最大適していたのが奈良盆地であった。
 第二段階は適当に増大した人口に対し、乾田を灌漑するにも奈良盆地が最適地であった。盆地故に多くの適地が存在した。個人農業から団体農業にシステム化された。このシステム化が権力の集中を促した。
 第三段階は権力の集中度合いが盆地故の同郷意識を生みやすく、海岸を含めオープンな環境ではどこまでが味方でどこからが敵かが明確ではない。九州など国が分裂し権力勃興の集積力が遅れた。いち早く盆地内が統一され、その力を盆地のそとに波及させていった。そして日本という概念を最初に確立した。

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竹内街道今昔

竹内は昔から街道の町である。竹内峠の西側は王陵の谷といわれ聖徳太子、推古天皇、孝徳天皇、用明天皇、敏達天皇等、蘇我系天皇(孝徳天皇除く)の陵墓が集まっている。竹内峠の東側は竹内の集落がある。この街道は聖徳太子の時代以前から存在していた。二上山のサヌカイトは石器時代の太古から石器の材料となる石で大量の石器を作り出していた頃から東西交通の中心になっていた。古墳時代は古墳に必要な石や特に石棺を作る材料石を産出していた。山麓に造られた鹿谷寺(ろくたんじ)は凝灰岩の石切り場跡に造られた寺院跡で往時を偲ぶ片鱗がある。飛鳥時代聖徳太子が始めて遣隋使を派遣し、その返礼として遣隋使の使節もこの峠を越えて飛鳥京を訪れた。使節を迎えるにあたり横大路を整備させ地方では6m〜12m、都の周囲では24m〜42mに及ぶ広い幅員を持たせたらしい。西域の珍獣も行列して当時の人々を驚かせたようである。
 この地を探索したのは昨年の冬であった。長尾神社から芭蕉も詣でたという苗村家の下女・孝女伊麻の孝行話を聞いた後、竹内街道を辿った。現在の竹内の街は江戸後期や明治の繁栄はなく、人影も疎らで町並みだけが往時をしのばせる。竹内のほぼ中央部に芭蕉の旧蹟「綿弓塚」がある。1684年(貞享元年)8月野ざらし紀行で松尾芭蕉が41歳の時、門人苗村千里の里を訪れ、「竹内の興善庵」に10日間滞在し、千里の案内で「當麻寺」にも参詣して諸仏を拝み、その合間に芭蕉が詠んだ句が今に残されている。

   綿弓や琵琶に慰(なぐさ)む竹の奥

この句を記念して、1808年(文化5年)10月建てられたもので、正面に「綿弓塚」、左面に「文化第六己巳十月高田紅園愚公建之」と刻まれてる。ここから見る奈良盆地は三輪山を遠くに、大和三山を盆地の中に望み、絶景である。

竹内峠

  綿弓塚の碑

 吉田松陰は長州が生んだ幕末の英傑であるが、彼が大和五條の森田節斎を師としていたことは意外と知られていない。松陰もまた竹内峠を通過した幕末の志士である。師森田節斎の門人の乾十郎・原田亀太郎が、文久3(1863)年、天誅組に加わったため、節斎も幕府から追われ荒見村(現・粉河町荒見)の北長左衛門の家に身を避けることとなった。吉田松陰も、その門に学んだ一人で門下には勤王の志士が多かったようだ。松陰が24歳のときに書いた『葵丑遊歴日録』は、嘉永6年(1853)1月26日萩を発し、途中、地方の名士を訪問しながら江戸に到着するまでの日記である。同年3月12日に竹内村に来ている。日記には「坂を下れば竹内村あり、葛下郡に属す、ここに宿す。」と記し、当日夜遅くまで節斎と歓談したことをほうふつとさせる。

 司馬遼太郎が竹内峠と浅からぬ縁があることはよく知られたことである。司馬は1923年8月7日生まれで母親の実家が竹内で乳児脚気のために3歳まで母の実家に里子に出されていた。著書『街道をゆく』の「竹内越」の章で、司馬は旧當麻町の景色の美しさについて言及している。二上山とその頂に落ちる夕陽、樹叢にうもれてかすかにうかがえる當麻寺などを長尾から眺める風景は、「大和で一番うつくしい」と表現している。また、全国の取材旅行で各地を訪問して、いろいろ美しい人情、風景にふれているが司馬の原風景は、幼児のころ見た竹内の風景で、以後の作品の血肉にしみこんでいると云う。神武天皇が生駒から大和に入るとき追い返されたという長髄彦の古墳が竹内のそばにあり司馬はしばしばそれを眺めたと書いていた思うが、その長髄彦の古墳は私は未だ確認していない。

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稲の来た道

日本に稲作民が渡来した頃から弥生時代が始まる。この時代、水田稲作民は日本にとって大変おおきな影響をあたえた。水田稲作を普及させたことだけに限らず、日本人の起源、日本語の起源にまで及ぼす影響をあたえたのである。稲はどこから来たのかという疑問は稲の文化を誰が持ってきたのかということと同じである。
 紀元前500年頃中国では司馬遷の「史記」によれば春秋戦国の時代、列強の豪族は中原に覇を競ってしのぎを削っていた頃、揚子江の蘇州に呉、会稽に越が本拠を構えあい争い、一時越王勾践が山東半島の瑯琊(ろうや)に都して西安を窺った。越はその頃から操船にすぐれ且つ水田稲作を業としていた。揚子江周辺は稲作の穀倉地帯で国力も充実していた。或時は越兵は何万人もの兵を得意の舟を繰り、東シナ海を北上し中東半島に行き着いた。また或時は呉に完敗し、家族もろとも越国をはなれ、船で沿岸諸国を漂流した。この人々は春秋戦国の騒乱の間中続き海賊化することも多かったようである。彼らはやがて山東半島に水田稲作文化を移植し、更に朝鮮半島西部に行き着き、一部日本にも上陸した。
 その頃日本は縄文晩期で中国越人の移入を待って弥生時代に入って行く。これは最近の考古学の進展により山東半島や朝鮮半島の水田稲作遺跡の発掘結果、稲の来た道の正体が徐々に明らかになってきた。それによれば遼東半島から朝鮮北部は中国北部の影響が大きく、又気候的にも騎馬民族の流れをくみ、水田稲作には適さず、食料といえばとうもろこし、ひえ、粟といった乾燥畑作穀物が中心であったので遼東半島を迂回したことは考えられない。もっとも山東半島は水田稲作には最適地とはいえず、その痕跡がある程度で、朝鮮半島も西部、南部、中部に遺跡が分布している。稲の道は山東半島から直接朝鮮西部を目指し一部日本を目指したのであろう。彼らは日本を発見しその水田稲作の適地の豊富なことに、やがてその数を増したと思われる。日本は未だに縄文時代で当時の人口は20万から50万で殆ど争いはなく、高温多湿の気候は無限に稲作適地があったと思われる。縄文人とは住む適地も違う。争いに明け暮れた故郷と較べれば雲泥の差であったろう。彼らは湿地帯に水田を開墾し、高台に住居をかまえた。数100年かかって日本への流入がおこなわれた。
 最近の研究の結果弥生時代は紀元前500年ころはじまるが、縄文晩期と称し更に前800年ころから弥生の痕跡が見えて来ている。それは北九州板付遺跡で水田稲作の遺跡が確認され徐々に北九州沿岸一帯に広がっている。それはたとえば壺であるが、これは食物保存用の土器で縄文時代には全く現れないもので、先ほどの稲の通り道の痕跡として理解されているものである。
  紀元前200〜0年頃人口は不明であるが100万人に達していたと思われる。これは流入人口の増大にもよるが弥生人の平均寿命の伸びと多産化による。食物の保存がきき計画的な食料備蓄による生活の改善がおおきな原因である。魏志倭人伝による当時の倭人を「断髪分身し水に潜り魚を捕る」と書いてあるのは当時の呉人、越人のことであり、髪をざんばらにし刺青している様を朝鮮南部から日本の沿岸に住んでいたのを見たのであろう。
  やがて弥生人が相当な数になれば、小さなクニが出来る。クニは田の畦をつくったり、水路を作る。水利権の問題も無視できない。首長が選ばれこれらを管轄する。河川の灌漑は大多数でなければ出来ない。田植え、刈り取りには全員でお祭がおこなわれた。開墾地はやがて九州では飽和状態となり、適地を求めて中国地方、近畿地方に広がった。さらに稲作の適地が拡大していった。これらのクニが魏志倭人伝では100を数えたと書いてある。


唐子鍵遺跡

唐子鍵遺跡で発見された土器に書かれた塔を参考に復元した塔

 では原日本人である縄文人はどうしたのであろうか。文化の異なる民族がうまく混血したとは限らない。当時の弥生人の頭骸骨の標本をみれば明らかにその骨相が異なる。大まかには縄文人は南九州の隼人や東日本の蝦夷等に押し出されたようである。もちろん西日本にいた縄文人は混血した者も多かったろう。このように縄文時代にくらべて数百年のうちに圧倒的に弥生人が増えたのである。では圧倒的に増えた弥生人の言語は中国語になったのかといえばそうではなかった。移民の人々のことを考えれば考えやすい。すなわち一世の人は故郷の言語をつかうだろう。しかし、二世は家族とは故郷の言語を使うが、外では現地語をつかうだろう。三世は内も外も現地語になってしまう。移入は数百年に渉って行われたのであるから一ロットは数十人と思われるので結局は多数の使用する言語を使うことになり結果的にはいくら絶対多数になっても原日本語を使用したのであろう。ただし水田稲作の言葉などもともとなかった言語は現地語をつかったであろうし、方言やアクセントなどに過去の痕跡がのこっているのかもしれない。この辺は新たな研究が必要である。

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檜隈寺と東漢氏

近鉄飛鳥駅を出て東に向かうと高松塚古墳から飛鳥の方向に行くが、途中右に曲がり南に向かうと、キトラ古墳の方向にゆく。このあたりでこんもりとした森が見えてくるが、これが檜隈寺跡で現在於美阿志神社になっている。このあたり一体を檜隈といい、かつて東漢氏(やまとのあやうじ)の根拠であった地である。東漢氏は応神天皇のころ朝鮮半島百済国から渡来してきた中国後漢系献帝の後裔阿知王を祖とする一族であると、主張した一族である。ちなみに応神天皇の頃阿智王に続いて楽浪郡出身の王仁らが日本列島に渡来して河内国を本拠地とし西漢氏(かわちあやうじ)と称した。紀元前後中国漢が滅びる前後に平壌(楽浪郡)とソウル(帯方郡)に漢の領地があり、漢の末裔が国の滅亡とともに朝鮮半島に移り住み、更に半島をも追われて日本に来たとされる。西漢氏は河内王朝時代に栄えたと思われるが明日香に都が移る頃からその勢力は東漢氏の方に移ったようだ。
 当時の日本は応神、仁徳の河内王朝以降、倭の五王の時代国書や外交文書の記述を主として新たに文字文化の必要性がたかまる。彼らはまずこの役割から始まり、やがて古墳の築造、大土木工事や大灌漑工事、埴輪の製作、機織、建築、武器の製造そして要人警護にいたるまで当時の朝廷で急速に必要を迫られた技術を提供し、必要に応じて不足の知識、技術、要人を更に渡来させ充足していったことにより朝廷に入り込み権力を確立していった。ちなみに二大渡来氏族の秦氏も同じ技術集団で主に機織集団から始まり広い分野に技術を導入し主に京都方面に定着していった。秦氏は東漢氏ほどには政治に深く入り込まず経済面に力を注いだ。平安京遷都には彼らの功績がある。彼らの顕著な功績は文字の移入であり仏教文化の導入であろう。さらに上記の技術を通じ、当時の日本に不足していたあらゆる先進文化を導入し定着化したことであろう。
 しかし、この大きな役割と後世に残した功績の割には後世にその名を知らされていない。なぜか。当時から氏姓制度が確立されつつあり新撰姓氏録(皇別、神別、諸蕃)1182氏姓ではこれに記された氏族の約1/3が渡来系とされる諸蕃氏族であった。それでも参議以上の身分には坂上田村麻呂以前は任命されていない。移民系は参議以上にはなれないという不文律があり、そのころから差別されていたようである。それは政治的差別であり、天孫族、天皇系氏族、を絶対視する伝統である。古事記、日本書紀がこの流れを正当化し、更に明治維新による皇国史観が差別感情を助長した。崇峻天皇暗殺に於ける主犯蘇我馬子に対し東漢直駒に暗殺を命じ、このことにより影の軍団、闇
の軍団の存在となりその存在は地下にもぐった。大陸系の歴史書と日本史とはかなりの部分が食い違い、いまだに両者の見解が異なるようである。1300年以上も前の史実をいまでも伝説の中に葬っている必要はないと思う。両者一致した真実の歴史を歴史教科書の中に記述してもらいたいものである。
 さて坂上田村麻呂は東漢氏の子孫で、桓武天皇の時代に征夷大将軍に任命され東国蝦夷との戦争に大功をあげ、後、参議となって公卿(くぎょう)の仲間入りをする。その後、中納言を経て正三位大納言(右近衛大将)にまで至った。一方、系図調査の結果、歴史上有名な奥州藤原氏(清衡・基衡・秀衡ら)は、血脈上、坂上田村麻呂の末裔である可能性が高い事が分かった。奥州の地で坂上氏から秀郷流藤原氏への養子縁組がされている。このことはあまり世に知られてない。さらに京都清水寺は坂上田村麻呂の建立である。


於美亜支神社
於美阿志神社の正面(檜隈寺跡)

 このような東漢氏の歴史であるが、檜隈寺はこの強物どもの夢の跡である。金堂、講堂の跡の礎石が往時をものがたる。於美阿志神社はかつて檜隈寺と共存していたのであろう。阿知王を祭神とする。オミアシ、アチオミ、なぜか似ている。


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操作説明

(1)商品検索は  ‐ι癖未慮〆ができます。

   作家別に検索ができます。

動画像を導入しました。各商品詳細ページでビデオ画面がでますのでクリックしてください。約20秒を目途に撮影します。まほろばギャラリーにも採用しています。これから順次追加しほぼ全商品に適用するつもりです。

(2)店長日記は毎日更新しています。備前焼の使い方を主に紹介しています。まほろば紀行の更新も紹介しています。

(3)まほろば紀行は主として奈良県内の紀行及び文化、伝説などを紹介します。週2回を目途に更新します。ご意見、感想などお待ちしています。

(4) まほろばギャラリィーは当店で保存している非売品です。

賀名生(あのう)の里

先日NPO法人「うちのの里」と「賀名生(あのう)の里歴史民族資料館」共催で「西吉野の歴史と蛍の鑑賞会」が催された。「うちのの里」は登録有形文化財藤岡家住宅を維持管理されているNPO法人でこの事は以前「五條市近内町の藤岡家住宅」で紹介した。今回は(「藤岡玉骨」と「太平記」〜玉骨の作品から〜)と題して藤岡家住宅、学芸員の川村優理さんの講演に出席させていただいた。場所は「賀名生の里歴史民族資料館」で久しぶりに賀名生に向かった。吉野川は奈良県内の呼び名で和歌山県に入ると紀ノ川となる。熊野から流れる十津川がやがて丹生川(にうかわ)と名を変えて五条で吉野川に流れ込む。この丹生川の流域に賀名生がある。この博物館は賀名生皇居跡といい今でも現存している「堀家」の敷地に建てられたもので、後醍醐天皇縁の品や、拝領品など西吉野と南朝の深いつながりを感じられる歴史的資料が揃っている。ここは南朝一代後醍醐天皇、二代後村上天皇、三代長慶天皇、四代後亀山天皇がそれぞれ一時皇居とされたところである。後亀山天皇が北朝後小松天皇に三種の神器を渡して南北朝争乱は歴史上決着し各々九六、九七、九八、九九代の天皇となった。しかし、争乱はなおも続き南朝後胤が吉野山を中心に数百年に渉って繰り広げるのである。北朝後小松天皇に渡した三種の神器は実は偽者で代々後南朝に受け継がれていたというから話は小説めいて来る。
 川村優理さんは藤岡家住宅でどんどん発見される遺品を整理展示すると共に、文学作品等の翻訳、解釈し、一般人に理解出来るように苦労されている。その説明の中から以下について説明された。蔵書には太平記全40巻を初め太平記関連掛け軸等、14歳で玉骨自身が書写した太平記21巻の「先帝崩御事(せんていほうぎょのこと)」の写し文の掛け軸があった。これは私は実物を拝見していないが、川村優理さんによれば14歳の少年にして見事な筆まわしで、この文の内容からして鬼気迫る思いになると云っておられた。この後醍醐帝崩御にあたって遺言された内容に「.....コレヲ思フ故ニ、玉骨ハ縦(たと)ヘ南山ノ苔ニ埋ルトモ、魂魄(こんぱく)ハ常ニ北闕(ほくばつ)ノ天ヲ望マント思フ.................ト委細ニ綸言ヲ残サレテ、左の御手に法華経ノ五巻ヲ持セ給、右ノ御手ニハ御剣ヲ按(あんじ)テ、八月十六日ノ丑剋ニ、遂ニ崩御成ニケリ」の一文を発見された。玉骨の名前の由来に関心を持っておられた川村優理先生は従来色々あった説からたちまちこれだと確信を持たれたようである。五条に生まれ育って太平記に関心を持つのは当然として、発見される遺物からしてその関心の高さが異常であるのを不思議に思っていたと云っておられるが、この一文、特に御醍醐天皇の遺言文を書畢されたところに魚骨の一念が感じられる。御醍醐天皇は遺言通り吉野の如意林寺に北向きに墓を立てて北朝が存在する京都をにらんでいる。玉体もおそらく法華経と剣をかまえているのであろう。執念の深さをおもわせる。


賀名生の里

後醍醐天皇の賀名生皇居(堀家)  (五条HomePageより)


 従来五条は尊王の気風の強い場所で、南北朝を初めとして幕末の天誅組の古里としても有名で、五条、賀名生、十津川の一連の集落はこれらの生々しい足跡が辿れる。講演が終わって、博物館の外は夕暮れの太陽が、尚、あたりの盆地を照らしていた。賀名生の里は梅林でも有名で、大和の三大梅林の一つに数えられており、季節になれば盆地は梅林でうめ尽くされる。南北朝の頃既に賀名生の梅林の和歌が詠まれているところをみると、御醍醐天皇も憤怒の心を一時安ませられたのかもしれない。小休止の間、今日参加の人々と多少の会話を交わしていると、やがて次のほたる鑑賞に出発するという。バスで15分ばかり丹生川を南に下り、やがて天の川という支流に逸れて数分のところでバスをおりた。橋がかかっておりその上や
渡りきった川向こうがほたるの見所である。今尚外が明るくてあと暫く待つことになった。そして暗くなる毎にはたるが現れ、すっかり暗くなると見事なほたるの乱舞を見ることができた。 

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甘樫丘東麓遺跡の現地説明会

 2009.6.21に、甘樫丘東麓遺跡の現地説明会があり例の通り参加した。前回の説明会より規模が小さく、事前の説明も不十分だったようで私の参加時間では人数も前回を下回ったようである。甘樫丘東麓遺跡は1994年が初調査で7世紀中頃焼土、焼けた壁土、炭化した木材、多数の土器が確認され、2005年から継続的な調査が実施された。2006年には7世紀前半の石垣が約15メートルにわたって検出され、この谷を7世紀前半から後半にかけて大規模な造成を繰り返しながら継続的に利用されている様子が明らかになった。2007年の調査では谷の奥部に掘立柱建物が複数建てられていたことが判明した。今回の調査では石垣がどうように続いているのかを確認するのと遺跡の東辺部の状況を明らかにすることを目的とした。(現地調査資料より)
 結果石垣の途切れる南端を確認し前回と合わせて全長34メートルの石垣の全容が確認された。この谷は大規模造成工事に伴い埋め立てられ谷側を石組の溝をめぐらしていた事を確認できた。

甘樫丘東麓遺跡

遺跡の全容図面

甘樫丘東麓遺跡

遺跡の石垣の一部

 甘樫丘は上空から見ると八つ手の手のひらのように尾根と谷が何本も存在し、そのひとつを利用して谷を埋め立て屋敷を造成したものである。早くからこれが蘇我蝦夷、入鹿の宮廷跡であることを予想して発見当時は大変な評判になったものである。この根拠は「日本書紀」皇極天皇3年(644)ここに蘇我蝦夷、入鹿親子が家を建てたことが記されている。甘樫丘は標高148メートルの小山で山頂に登ると東は飛鳥川をまたいで飛鳥寺、岡本宮、等、明日香の中心部が全貌でき、西は畝傍山から二上山を望み、北にやがて出来る藤原京方面、南は吉野連山を望む絶景の地になっている。蘇我氏がこの地に要塞のような家を建てたのは、当時の権力の絶頂期を伺わせる。それを物語る出来事を「日本書紀」から拾うと

552年 蘇我稲目が欽明天皇に仏教興隆を進言
587年 馬子が物部守屋を滅ぼす
592年 馬子、東漢直駒に崇峻天皇を殺させる
642年 蝦夷、蘇我氏の祖廟(そびょう)を葛城に建設、
     天皇しか許されない「やつらの舞」を行う
     蝦夷、入鹿の双墓を造営
643年 入鹿、山背大兄王ら上宮王家を滅ぼす
644年 甘樫丘に蝦夷・入鹿が邸宅を建て、子供を王子と呼ばせる
645年 入鹿暗殺。翌日、蝦夷が自宅に火を放ち自害

 以上の記事により蘇我氏の専横が記されているが、「日本書紀」は720年藤原鎌足の子不比等によって実質完成したものである。「古事記」(推古天皇まで)とともに古代日本を体系的に記した歴史書が他に無いので、全面的にこれに頼るしかないため絶対的な存在となっているが、断片的に伝えられる資料によれば、必ずしも正しいことだけを伝えていない。と最近の学者はそれぞれに説を公表し書物を発行している。これも明治以来の皇国史観から脱したことのたまものであろう。不比等が最も意を注いだことは、藤原氏の正当性である。どこの馬の骨か分らぬ(これも色々説がある)人物がいきなり歴史に現れ、先祖を天児屋根命と名のり神武天皇に随伴して大和に入り、中大兄皇子に急接近して大化改新を捏造し、蘇我氏を徹底的に悪人にでっちあげ、以前の歴史を抹殺した。さらに天皇を利用し公地公民と称し当時の豪族から土地を取り上げ殆ど藤原氏のものとし、以降の歴史を我が物とした有史以来の大悪人である。....このへんのことを書くとついつい熱くなる。筆者は橿原市曽我町に在住するので蘇我氏に親近感をもつが、1400年の恨みを持つものではない。ただ歴史が捏造されていると思うと黙っていられない。
 発掘現場から飛鳥川に沿って北に行き甘樫丘の北の端に行くと、ここにも日本史上忘れることの出来ない場所がある。次回はここを案内する。

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仏教伝来と豊浦寺

 史上名高い仏教伝来について復習しておこう。

552年 (欽明13年)百済の聖明王から金銅釈迦佛を欽明天皇に贈られた。この処置につき重臣と諮り物部尾興・中臣鎌子等は強くこれに反対し、蘇我稲目が小墾田(おはりだ)の家に安置、後に向原(むくはら)の家を寺にしたのが始りである。

582年 敏達天皇11年には、向原の寺を桜井道場とし、翌12年(583)には司馬達等(しめだちと)の娘、善信尼とその弟子2人を桜井道場に住まわせている。この3人の尼は、崇峻天皇元年〈588)に百済に留学し、二年後〈590)に帰国し、桜井寺(桜井道場)の住持となった。

585年 馬子、大野丘に仏塔を立てる。この時国内に悪疾がはやり、物部守屋、中臣勝海が仏塔を壊す。仏像は難波の堀江に投じられ、尼僧は捕らえられ海石榴市の人前で鞭打ちの刑に処された。

588年 百済から仏舎利(遺骨)が献じられたことにより,蘇我馬子が飛鳥寺の建立を発願し,596年に創建。日本最初の本格的な寺院となった。
 
593年 推古天皇元年即位、豊浦宮を皇居とする。蘇我稲目の旧邸を豊浦寺とし桜井寺の機能を移す

594年 聖徳太子三宝興隆の詔をだす。

603年 推古11年  皇居を小墾田宮に遷す。旧皇居の跡地を蘇我入鹿に下し向原寺とする。
    信州の善行というものが都見物に来た際、難波の堀江を通った時、仏像に呼び止められ拾い上げると立派な仏像なので背負って信州に持ち帰った。最初臼の上に祀っていたのが長野県飯田市の元善光寺で、やがて善光寺を建設し本尊とした。
以上の経過を辿っているが多少の異説もある。

 甘樫丘の北端部一帯に豊浦(とゆら)という集落がある。明日香は甘樫丘の東麓を流れる飛鳥川の東をいい、厳密に云えば明日香に含まれていない。しかしいかにも明日香らしい風景である。この豊浦こそ日本の仏教のルーツである。現在の向原寺は元は蘇我稲目の邸宅で尼寺の桜井寺となりその後豊浦寺となったあと向原寺となった。さらに向原寺の一角に難波の堀江があり小さな祠が池の中にたっている。難波の堀江については大阪の浪速の堀江説もありどちらが正しいか分らない。ただこの時代百済、任那との交流が盛んで、浪速は外交都市として繁栄した。大和川は現在と違い上町台地にぶつかると流れが北上し大川に合流していた。従って明日香から海石榴市にでて大和川一本で大阪にでられる、この頃の主要交通路であった。陸路竹内街道を通る横大路が整備されたのもこの頃である。



難波の堀江と祠


向原寺正面

 推古天皇の豊浦宮跡が1957年に発見され三次にわたる発掘調査が行われた。丁度この向原寺の地下が講堂であった。発掘の結果以下のことが分った。
ゞ眛押講堂・塔・回廊や尼房の基壇と思われる遺構が確認された。
発掘跡から何層もの版築(地盤を固める為に、質の異なる土や砂等を数センチの単位で幾層にも突き固めていくこと。)が確認され豊浦宮や桜井寺の基壇と思われる地層と想像できる。
 現在向原寺の南側に金堂基壇が発見され、北から講堂、金堂、塔が直線に並んだ形であることが判明した。これにより豊浦寺は東西80m・南北150mはくだらないだろうと推定され、また金堂の大きさは東西17m・南北14mに及ぶと想定された。
と掘された瓦が貴重で、創建時の豊浦寺は、飛鳥寺同様軒平瓦は使用されていなかったとされている。また、飛鳥寺のものに酷似した鴟尾片が出土している。豊浦寺では、約28種の瓦が創建に用いられたとされており、それは、百済系・高句麗系など多種多様であったようだ。

豊浦寺

 底の石敷が豊浦宮跡、奥の土の層に版築が見える。

 向原寺に入っていくと庭の手入れをしているおばさんがいた。200円払うと本堂内に案内された。中には発掘当時の写真や瓦の写真などを展示していた。更に一体の阿弥陀如来像の写真を見せてもらった。飛鳥仏というか高句麗仏というか、大変古いもののようであるが、これがご本尊なのか、善光寺仏なのか聞き漏らした。さらに特別みにということで、奥の本尊の中に入れてもらえた。そこには豊浦寺縁起ともいわれる絵巻が掲示されており上に記述したような内容の絵巻が20こま程に表現して書かれていた。この作品は明治に入って作成されたらしく、元興寺縁起絵巻(元興寺の縁起を絵巻にしたもので、飛鳥寺の創建説話と仏教伝来を伝える超一級資料)に似せて内容もこれから引
用したもののようである。
 さらに本堂の軒下に発掘当時の断片を保存しているのを見学させていただいた。発掘のほんの一部で全体は現在の寺の地下に永久保存されている。なるほど版築が確認され、時代ごとにいろんな建築物があったことが確認できた。
 寺を辞して、寺の南に甘樫坐神社(あまかしにいますじんじゃ)がある。祭神は推古天皇で何の変哲もない神社であるが看板を見ると盟神探湯(くがたち)の神事について由来を書いていた。盟神探湯というのは当時の裁判で裁判者(当時の権力者)が被告(当時の権力者に反抗する者)に対し、ある事柄にたいし真偽を問い、その正否を占うもので、釜に湯をたぎらしその熱湯の中に石を入れ、その石を素手で掴み取り火傷をしなければ、嘘をついていないと判断される、まことに権力者の勝手な裁判である。相手に濡れ衣を着せて排斥するには絶好の手段である。ここでは毎年4月の最初の日曜日に盟神探湯神事が行われているようだ。「日本書紀」によれば允恭天皇4年(415)氏姓制度の混乱を正すため、甘橿の神の前に諸氏を会して盟神探湯を行ったと伝えてる。

くがたち

(上)盟神探湯神事が行われる場所。神石の前に釜をセット

くがたち

盟神探湯神事の進行

 
(甘樫坐神社(あまかしにいますじんじゃ)で盟神探湯(くがたち)の神事を見る
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2003_04_06.htm)

 最後に車を置いた豊浦駐車場に帰った。この向原寺の北100メートル位のところに、今はバスの停留所になっている場所一帯が稲目の小懇田の邸宅があった所で、桜井寺などが移築された所のようである。ここにも看板がたっていた。見ると小懇田宮跡と書いてある。更に見ると現在の小懇田宮跡は雷丘の東方であり、蘇我稲目邸宅跡と書いていた。この辺一帯に住宅跡の遺構が発見されている。何度か移動したと思われる桜井寺の跡も、この辺かもしれない。小懇田宮跡は3つの説があり、三十八柱神社で紹介した。 


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難波の池と祠

難波の池と祠
豊浦寺

盟神探湯神事1

盟神探湯神事1

くがたち

盟神探湯神事2

盟神探湯神事2

くがたち

豊浦宮発掘跡

豊浦宮発掘跡

豊浦寺

奥田の蓮取り行事

  吉野山・金峯山寺の蓮華会は、毎年7月7日(古くは6月9日)早朝に、大和高田市奥田の蓮池の蓮取り行事に始まり、吉野山一山の僧侶が蓮を迎え、金峯山寺蔵王堂にその蓮を供え蓮華会を営む行事である。翌日8日に大峯奥駈道の道沿いの拝所に蓮を供えながら、山上ヶ岳・大峰山寺まで蓮を持ち運び供える行事である。この蓮華会では、蔵王堂にて献花の後、蛙を人間に変える修法「蛙とび」の儀式が行われ、この方がひろく知られる。これらは、室町時代から行われてきた吉野山金峯山寺における蓮華会一連の行事である。
 このように『奥田の蓮とり行事』は県指定無形民俗文化財に指定され、蓮華会には無くてはならない最初のステップである。奥田の蓮は近くの「捨篠池」で栽培される。7月7日が近ずくと池全体が蓮の花が咲き見学者で賑わう。この池の近くに福田寺があり、ここが役の行者の母親、刀良売(とらめ)の終生の場所でもある。従って蓮の花の出発にあたって福田寺と近くの刀良売の墓所を出発点としている。この池にはもう一つ有名な説話が残されている。病にかかった刀良売がなにげなく蓮の茎を池に投げ込むとそれが蛙の目にあたり一つ目蛙になったという。刀良売はその事をいつまでも気にやんでいた。そしてそのまま亡くなったという。そのことを役の行者は知ってか知らずか、蔵王堂の「蛙とび」はそれが契機だったともいう。

奥田の蓮池

「捨篠池」の蓮 まだ蓮はわずかしか咲いていなかった。

奥田の蓮池

そのうちの一輪

 福田寺行者堂には、役の行者の母・刀良売の寝姿の像(涅槃像、ねはんぞう)や刀良売ゆかりの数々の遺物が残されている。また門を入った右側に小さい石地蔵がいくつも並んでいる。日照りで雨がほしい時はこの石地蔵の小さいのを選んで、縄でしばり、堂の南側の蓮池(はすいけ)に放り込むと、投げ込まれた石仏は「雨を降らしてやるから出してくれ」と言い、必ず雨が降るといわれ雨乞いの地蔵として知られている。


福田寺

役の行者の母・刀良売の寝姿の像(涅槃像

 奥田のこの地から御所市茅原の吉祥草寺がある場所の辺まで東西4キロ、南北5キロの広大な土地をかつて賀茂氏が所領していた土地といわれ当時の大地主であったという。「吉祥草寺」との寺名は、役行者が「吉祥草(きっしょうそう)」という草を用いて庵を結び、仏神を祀ったことに由来すると伝わっている。この吉祥草寺が役の行者の生誕地といわれ、役の長者の遺品の数々がのこされている。修験道の開祖である「役行者」は、役小角(えんのおづぬ)の名で知られ、白鳳時代の七世紀後半を中心に、奈良県の葛城山や大峯山(金峯山)などで活躍した。『続日本紀』によると、小角は文武天皇三年(六九九)、韓国連広足(からくりのむらじひろたり)の讒言(ざんげん)により伊豆国に流されたと記されているが、その後様々な伝説が加えられ、また全国各地の霊山を開創し、修行したと伝えられている。そして江戸後期には「神変大菩薩」の菩薩号を賜り、現在も修験者たちに篤く崇拝されている。またこの寺では、毎年正月には吉祥草寺最大のお祭り「大とんど法要」が行われる。無実の罪で伊豆に流されていた役行者が、大宝元年(701)正月に茅原の里に無事帰還し、里人がこれを喜び、大松明を焚いて祝ったのが始まりといわれ、このお祭りは国の無形民族文化財に指定されている。

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藤ノ木古墳の被葬者

先日久しぶりに法隆寺近くにゆく機会があったので、その近くの藤ノ木古墳を訪ねてみた。藤ノ木古墳は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西2丁目に所在する、直径約48m・高さ約9mの円墳で、昭和60年〈第1次〉と昭和63年〈第2・3次〉に3回の発掘調査を実施している。この頃藤ノ木古墳の発見は大きな社会的反響があり、物珍しさに自分も現地調査見学に参加した。このときは草に覆われた小山であったが整備事業で美しく整備され公園化されていた。出来た当時はこのような美しい古墳だったのであろう。
 この七月、所属している歴史の会の夏季講演として毎年講師をお願いしている、橿原考古学研究所の千賀久先生に今年もお願いした。先生は考古学の中でも特に馬具の研究に詳しく藤ノ木古墳の装飾品特に馬具について詳しく研究されたようである。
 藤ノ木古墳の発掘結果は以下のとうりである。
仝妬は前方後円墳ではなく円墳である。
横穴式石室に未盗掘の家型石棺があった。
4蹴阿僕ド覆龍眛雫盞診篭颪存在した。
ご銃發砲脇鷽佑寮椎男性が合葬されていた。
ゾり太刀と金銅製品が添えられていた。

藤の木古墳

藤ノ木古墳の全景

 ここで朝鮮半島を中心に東北アジアの情勢を見ておこう。
552年 仏教が伝来する。
562年 新羅が任那を滅亡させる。半島の三国時代の始まり。
572年 敏達天皇たつ。
586年 用明天皇たつ。
587年 穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺
588年 崇峻天皇たつ
589年 隋、中国統一
592年 崇峻天皇暗殺
593年 推古天皇たつ。聖徳太子摂政となる。
601年 斑鳩宮なる。
603年 小懇田宮遷都。
612年 隋の高句麗征伐(第一回)

 552年当時朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の三国が常に領土を狙い、常に国境が移動していた。高句麗に攻められた百済は倭に支援を求め、代償に仏教を伝来させた。このために仏像や寺院の建立の為の技術者を初め多くの文化と共に渡来人が渡来しなければならなかった。任那が滅亡したのもこの頃で半島の南部沿海は朝鮮系倭人で紀元前後から海洋民族としてこのあたりを占拠していた。中国の力が弱体化すればその隙に高句麗が半島を南下し百済、新羅をせめる。結果、小国の群立していた任那は玄界灘に押し出され、命からがら九州に逃げ込んできた。やがて任那は半島地図から国名が消えた。その多くは日本に渡来人として数代のうちに混血し日本人となった。新羅も黙ってはいられない。やはり、倭と協定を結ぶべく、主に鉄器と金銅製器具を倭に伝えた。

 さて敏達天皇が崩御すると用明天皇が即位した。そして翌年、二年目にして用明天皇も崩御した。かつて皇位を伺っていた穴穂部皇子は何を思ったか、敏達天皇の殯の宮に侵入して、用明天皇の皇后・炊屋姫(かしきやひめ、後の推古天皇)を犯そうとしたが、寵臣の三輪逆(みわのさこう)に阻止された。そのことをを恨んだ穴穂部皇子は、物部守屋(もののべのもりや)と共に兵を動かし、三輪逆を殺した。寵臣を殺されて逆上した炊屋姫は、蘇我馬子(そがのうまこ)らに詔して、穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺させた。
 蘇我馬子は穴穂部皇子の弟の泊瀬部皇子(崇峻天皇)をたてた。ここに物部戦争が勃発する。戦争を制した馬子は崇峻天皇をも誅した。そして、後継に炊屋姫は実子竹田皇子を推したが若年ゆえに暫定的に自ら皇位につき推古天皇となった。そして、用明天皇の皇居磐余池辺雙槻宮(ふたつきのみや)を離れ、甘樫岡の豊浦に炊屋姫の父蘇我稲目の旧宅跡に、豊浦宮をたて即位した。

 さて、聖徳太子はすべてこの経緯をみていた。そして哀れと思ったのであろう。太子にとって穴穂部皇子も泊瀬部皇子も叔父にあたる。宅部皇子は宣化天皇の皇子で物部に近い。しかし泊瀬部皇子と共に死んだのだ。推古天皇即位と共に皇太子となり、小懇田宮を計画し、斑鳩宮を計画した。601年、603年に実現したが、これと同じ頃この二皇子の墓を計画してもおかしくない。まして皇太子で推古天皇の意を気にすることなく、大概のことはできたはずである。斑鳩の地であるから膳氏に命じたのかもしれない。埋葬物の金銅製王冠や太刀や馬具は新羅から移入された。これらは被葬者の死後、発注され製作された。これは、装飾文様がすべて死者の葬送を意味する物で生前身につけていたはずがないのである。石棺も含めて準備だけでも数年はかかって当然である。このように考えるとこの被葬者は穴穂部皇子と宅部皇子に違いないと思われる。

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 ボクシングというスポーツがある。時々テレビで放映され日本も世界チャンピオン戦などに再々出場してくる。華々しくて男のスポーツに見える。しかし見ていて何となく底が浅いように思えてならない。ボクシングファンには申し訳ないが自分にはそう思う。始まる前から喧嘩腰、相手を見下し下品な言葉の応酬である。負けた人の哀れな様相にくらべ、勝った人のはしゃぎようは見ていて不愉快である。それを極端に行くのがプロレスであろう。日本人が外人をとことんやっつけるのは痛快であるかもしれないが勝負の美学というか、何か不足している。

 それに比べて柔道は礼に始まり礼に終わる。勝って驕らず、負けて腐らず。当然勝った方は嬉しいだろうし、負けた方は悔しい。だがそれを表にださない。なぜこのように訓練されているのだろうか。柔道にしろ剣道にしろ弓道にしろ、日本の武道には道がついている。すなわちこの道なるものがすべての規範となり、勝った負けたの勝負の他にもその前後の行動までを規格化しルール化している。この道なるものは一体何なのであろうか。武道とは、「武芸に関する道、武士の守るべき道」。武術とは、「武士が戦いのために身につける技術」(『大辞林、三省堂)とある。
 思い当たるものとして一つは神様に奉納しているという考え方である。神前試合とか奉納試合は勝負を神に捧げると云う考え方である。そしてもともとはそれがルーツであることである。神の前では作法が第一であるという考え方がとことん浸透していると思える。この点相撲道は神前奉納の典型であり、また能もしかりである。

相撲神社

奈良県穴師の相撲神社の土俵、

昔、野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)が初めて天覧相撲を行った伝説があるところ。


 勝負事に関しては碁道、棋道も同じ。神前に供えるものかどうか、このルーツは良く判らないが、少なくとも名人戦やテレビの棋戦で勝ったものがガッツポーズをし、負けた者がうな垂れ、打ちひしがれている姿は想像できない。
 

 道にかんしてはスポーツに限らない。茶道、華道、書道、等。日本は何故かくも道が好きなのだろうか。一つの芸事にその芸の本質をとことん突き詰め、ルール化し哲学化してしまい、そして道として確立してゆく。茶道の歴史は古い。茶道は、抹茶を飲み楽しむ事に様々な文化が加わって発展した。つまり、茶室や庭など住まいに関する空間、茶道具を選んだり鑑賞したりする工芸、そしてお茶会に出てくる懐石料理や和菓子などの食、客人を気持ちよくもてなすための点前〔てまえ〕作法が融合した総合芸術である。もともと茶道の最盛期は千利休の頃確立された。豊臣秀吉や戦国武将に茶人が多く、金銭もかけた。現代は女性の稽古事や、行儀作法として活用していることが多いが、それ以降連綿とつずいている。自分は茶をやらないが、もし茶席に呼ばれることがあればおそらく急場しのぎに茶の基本を覚えてゆくだろう。普段はなんでこんな堅苦しい、面倒なことをと思うがその茶の基本こそ最も自然で理にかなった作法なのであろう。


 また選挙がはじまる。選挙は戦後のものでまだ歴史が新しすぎる。当然まだ選挙道なるものは無い。公職選挙法は犯罪か犯罪でないかの一線を決めるもので、道を定義したものではない。日本で生まれたものではないので、そのような発想も無いのであろう。この勝敗の表現方法がまた下品である。大の男共がバンザイ、バンザイでテレビ向けに大はしゃぎして、敗者に対して何の思いやりも無い。だれか選挙道なるものを開発してくれないか。

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「近き飛鳥」「遠き飛鳥」

河内王朝が始まった応神、仁徳天皇時代、朝鮮半島も大変な時代で高句麗の南下による百済への圧迫、新羅の伽耶地方の併合と戦乱状態であった。本来海洋民族である倭人どもは中国、朝鮮、倭国の東シナ海沿岸の三国にそれぞれ分散居住して交易をもって生活していたのであるが、この動乱の時期、生命の危機を避けて半島から北九州地方に渡来人としてやってきた。もちろん半島から日本海側の出雲、若狭、越、の方にもやってきたようだ。当時の国内はめまぐるしく変わる環境変化の中国内の体制強化を急ぎ、文化の吸収、鉄器などの技術習得と武器、農機具の鉄器化、古墳の構築技術、建築物の高度化など大急ぎで外来技術を吸収しなければならない環境におかれていた。ここに渡来人を受け入れる必要性があった。この頃から国家的な受け入れもおこなわれた。
 4・5世紀の渡来人で代表的な集団といえば秦(はた)氏と漢(あや)氏である。彼ら渡来人たちは優れた技術と能力を持ち,日本の国づくりを根底で支えたと言える。
 秦氏は4・5世紀ごろに朝鮮半島の新羅(「波旦」が出身地か)からきた弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする氏族で、弓月君は127県の3万〜4万人の人夫とともに九州に渡来した。これが全国に散り後世秦河勝がでて推古時代に活躍するし、遷都の造営にも貢献した。
 東漢氏(やまとのあやうじ−倭漢氏)は応神天皇の時代に百済(出身地は加羅諸国の安羅か)から17県の民とともに渡来して帰化した阿知使主(あちのおみ−阿智王)を祖とする氏族で東漢氏は飛鳥の檜前(桧隈:ひのくま−奈良県高市郡明日香村)に居住して,大和王権(大和朝廷)のもとで文書記録,外交,財政などを担当した。また,製鉄,機織や土器(須恵器:すえき)生産技術などももたらした。
 西文氏(かわちのふみうじ)は応神天皇の時代に渡来した王仁(わに)を祖とする集団で,古事記・日本書紀によると王仁は日本に「論語」「千字文」を伝え,日本に文字をもたらしたとされる。西文氏は河内を本拠地として,文筆や出納などで朝廷に仕えていた。
 この東漢氏、西文氏は各々飛鳥という地名を持っており、それぞれ河内王朝の宮廷がある難波宮から近い所にある大阪羽曳野の飛鳥を「近き飛鳥」といい、大和檜前の飛鳥を「遠き飛鳥」となずけたらしい。もちろん諸説紛々で正解は分らない。

檜隈寺塔

阿知使主(あちのおみ)が居をかまえた檜隈寺跡の塔

 当時は所謂倭の五王の時代で古事記、日本書紀は国内事情だけで歴史書というより代々の大王の事跡と皇統の正当性に重きをおき、必ずしも事実を正確に反映しているものではない。従って歴史家は記述の正確性を疑い当時の歴史を自信をもって書けない。その点松本清張や黒岩重吾といった歴史好きの推理作家は大胆に推理したものを堂々と本に表している。素人にとってはそのほうが、理解できるし面白い。また、中国歴史書はこの頃の外交関係を年代入りで記述している。よってこの時代を東北アジアの規模で理解できるし、またそれなくして当時の日本は語れないのである。
倭の五王を家系図的にあらわすと以下のとうり。

応神天皇(15) 仁徳天皇(16)  履中天皇(讃さん)(17)
                     住之江皇子
                     反正天皇(珍ちん)(18)
                     允恭天皇(済せい)(19)  安康天皇(興こう)(20)
                                     雄略天皇(武ぶ)(21)

 「近き飛鳥」「遠き飛鳥」については古事記、日本書紀にいわれが書いてある。仁徳天皇が崩御した後、次期履中天皇の新嘗の祭の後履中天皇が酒を飲み酔いつぶれた。その時皇位を覗っていた弟の住之江皇子が履中天皇を襲って宮中に火をつけた。そんな履中を助けたのが阿知使主(東漢氏の主)で、馬に履中を乗せて大和に逃げるべく国分の丹比野(たじひの)まで逃れて目がさめた。履中が大和に通じる河内飛鳥を通過するとき、女が現れ穴虫峠越は兵士がいる。竹内峠越えにするように忠言した。この忠言に従いやがて石上神宮に無事到着した。すると弟の水歯別(後の反正天皇)が会いたいといってきたが履中は弟を疑い会わなかった。水歯別は自分には反逆心などないと言って来たので履中は水歯別に使者を遣わし住之江皇子を殺すように命じ、実現したら会おうと伝えた。そこで水歯別は難波に戻り、住之江皇子の側近である隼人の曾婆訶理(そばかり)に大臣にしてやると騙して住之江皇子を殺させた。水歯別は曾婆訶理と共に難波に戻る途中、大和と河内の境で曾婆訶理を殺す。そしてその場で祓禊(はらい・みそぎ)をなし翌日石上に向かい履中と接見することが出来た。そこで記紀は曾婆訶理を殺した場所を「近き飛鳥」とし倭の石上を「遠き飛鳥」と記している。これが「近き飛鳥」「遠き飛鳥」の初見であろう。

しかし、このような言葉は誰かが始めに意図があって作ったものではなく、何時とは無く自然に人々に語り伝えられるものである。以下は想像の範囲のもので全くの私見である。
言葉の発生は倭の五王の出現前で使ったのは渡来人であろう。上にも述べた通り、当時の倭人は東シナ海沿岸に住み自由に航行していた海人であろう。彼らは交易が主で安全のために武装をし、時には海賊にもなった。もともとの始まりは春秋戦国の時代、中国南部の呉、越の海人が戦国を逃れ東シナ海を北上し中国の山東半島、遼東半島、朝鮮半島へと渡り歩いた。この地域が平和になればその土地土地に住み着き自分たちの王国を形成した。おそらく朝鮮半島の伽耶地方の分国はこれらの集団であり、北九州にも存在したのであろう。上にも述べたとおり、四世紀の中国、朝鮮は動乱の時代となった。特に高句麗の南下は百済、伽耶、新羅にとって大変な脅威となった。
現在の中国に見る如く、チベット人、ウイグル人の迫害は尋常なものではなく、人類浄化政策を推し進める。当時はもっとひどく、占領した地域の住民は人種が違うこともあって皆殺し、または域外追放が常識であったようだ。沿海州の倭人はこの環境に晒され、安住の地を求めた。当時からさみだれ式に日本(当時この言葉は無かった。日本もまた倭人の国と思っていた)に移住していたが、いよいよ我慢ならず、その決心をしなければならなかったのであろう。倭人は日本をどのようにみていたのであろうか。日本は世にも類まれな水田稲作の土地である。日本は東に行けばまだまだ住むに適した土地がある。日本の大半はまだまだ後進国で自分たちの技術を必要としている。
秦氏の弓月君は応神天皇の招きもあり、日本行きを決心した。東漢氏の阿知使主も同様であろう。王仁は文化移入目的で日本に請われて来たのかも知れない。いずれにしても領主は決心をしても領民は故郷を離れるのに抵抗したかもしれない。しかし背に腹は変えられない。明治の日本のように移民政策を取り、移民先をこの世の天国のように宣伝され、のちいつか現実に失望したのであろう。ブラジル移民や満州国の建設を思い起こせば想像できる。彼らの行く先は決まっていた。即ち飛鳥である。飛鳥は二つある。大和と河内。大和を「遠き飛鳥」、河内を「近き飛鳥」と彼らはいったのであろう。やがておとぎ話のようにウサギがワニの背を伝わる如く船団を組んで日本にやって来た。これらのお祭がいまでも盛んに行われている。
 いずれにしろこれら移民の人々も数世代経過すれば日本に混血し新しい日本人がうまれたのである。


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「しらたま」

特別中高校のころから和歌や俳句が好きだったわけではないのであるが、教科書に載っていたのであろうか、石川啄木や若山牧水の歌がいつまでも忘れられず代表的な作品を今でも覚えている。

  しらたまの 歯にしみとおる 秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりけり  牧水

中でもこの歌をいつも酒を飲むと思い出す。

 私の母は彼女の従姉弟に備前焼陶工の岩本修一さんがおり、母が若いころから備前へ行ったり、展示会などあれば会いに行って、ついでに作品を大量に買い込んできていたようだ。私も時々両親が大阪に出てきたとき、一緒に伊部へ付き合わされたことがしばしばであった。両親にとっては伊部の東隣りの福河村寒河(現在は備前市日生町寒河となった)と云うところが出生地で、先祖帰りも目的の一つだったのである。好きな物があれば適当に購入し、帰りにはお土産に結構ないただき物をいただき、年がたち、積もり積もれば結構な量がたまってきた。

 20〜30年も前のことであろうか。例により日本橋三越で個展を開いた時、写真の徳利を買ってきて、毎晩晩酌を楽しんでいたのを時々実家に行ったとき見ていた。一合五勺ほど入る徳利で焼も良いし格好も良い。かなりの値段だったらしい。普通の飲みかたで特に悪い酒ではなかった。酒を飲んだあと、残りの雫を手のひらに受け、酒を徳利になすりこむのである。こうすれば徳利の肌は酒光りして一段と光沢がよくなるらしい。ある日この徳利を私にくれるようにたのんだ。そして半ば強引に家に持ち帰った。


 それからしばらく毎晩晩酌にこの徳利を使った。そして、まもなく母は亡くなった。相変わらず晩酌はこの徳利である。母がしていたように最後に酒を地肌にすりこんでは、母を思い出した。不思議なことに従来かなりの量飲んでいたのが、適量がこの徳利一杯であるようになった。

 長かった会社勤めも終わり、この後なにをしようか考えたあと、現在の備前焼ネット販売をやりだした。年金もあり、がつがつ金儲けをしなくても良いのであるが、暇つぶしとボケ防止に適当と思い、決心したらすぐ始めた。今までパソコンもEXELしか使うことがなかったが、店舗設計からデジカメ、画像処理、HTMLの基礎、何よりも集客のための工夫はかなりきつい。会社では、困れば部下にやらせればすむのに、今は誰も手伝ってくれない。暇つぶしとボケ防止には大いに効果があった。

 そこで、我が家の商品は「明けゆく海」という命名の非売品はじめ、古くからある備前焼が結構ある。そこで、手持ち品に名前をつけたいと思った。作家ではないので外部にださず、自分だけの楽しみである。そういう訳で以前からこの徳利に名前をつけたいと思い、当初の歌を思い出した。「しらたま」である。いつの頃か「しらたま」とは酒にかかる枕詞と思っていた。そして何の疑いも持たず、確認のため広辞苑を引いてみた。酒はおろか枕詞とはどこにも書いていない。勝手にいつか自分の思う込みであった。しかし思い込みであろうが何であろうが、「しらたま」以外はもう考えられない。

 我が家には結構人が来て酒盛りをすることが多かった。そして気が向けば今まで買いためた徳利とぐい飲みを進呈した。皿や花器は残っているが、酒器はあまりないのである。誰だったか、酒の席で「しらたま」の歌の話をしたと思うのであるが、差し上げた徳利はすべて「しらたま」の命名であることを遅くなったが申し添えておく。

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蘇我氏の出自

蘇我氏については「蘇我氏の奥津城」で最初に書いた。しかし蘇我氏の出自についてはこのような簡単なものではなさそうだ。主に3つの説があり、百済王室に直接間接に関係している。前提として主として倭の5王時代の百済に関し基礎知識を確認しておこう。
 百済の歴史を記述したものとして主に三国史記がある。他に同じ時代の中国の外交史があり、倭の5王の存在を今に伝えるのもこの記述があるからである。日本書紀と同じように三国史記も不正確なところ、自国に有利な記述が随所にあり必ずしも正確なものではなさそうであるし、下の王の年代についても諸説があるようだが、他に資料が無いのである程度信じざるを得ない。百済の王朝の初代は紀元前に遡るが関係あるところをしるしておく。

毘有王(第20代:427年 - 455年)
蓋鹵王(第21代:455年 - 475年 )
文周王(第22代:475年 - 477年 )   昆支  
三斤王(第23代:477年 - 479年 )  東城王 (第24代:479年 - 501年 )
                                       武寧王 (第25代:502年 - 523年)   
                                       聖明王 (第26代:523年 - 554年)
             
  蓋鹵王の時代百済は大変な国難におそわれる。北の高句麗の南下を受け百済はかねてより親交を結んでいた倭や中国に盛んに応援を求めていた。東には新羅があり、伝統的に仲が悪い。新羅は国力がつくと共に百済や南の沿岸の加耶諸国を盛んに侵略を加えた。蓋鹵王はかねてより渡来人として百済民族の東漢人を集団移動させており(「遠き飛鳥近き飛鳥」参照)一種集団疎開先が倭にあった。自国の前途にいよいよ危機を感じた蓋鹵王は倭との親交を保つ為、皇女や高官の子女を送りこんでいたらしい。ところが倭は彼女らを後宮に入れ蓋鹵王に無礼な態度に出た。日本書紀によるとその中の池津姫に石川楯という恋人がおり、雄略天皇の後宮入りを拒んだ為、二人を焼き殺した。蓋鹵王は、倭王に対し激怒し次の皇帝文周王の弟(蓋鹵王の実子)の昆支王を461年に倭につかわした。蓋鹵王は昆支王に百済の血を絶やさないことを頼んだ。そして昆支王は倭にきて河内飛鳥に住んだ。河内飛鳥の飛鳥戸神社は昆支王を祀っている。昆支王は5子おり2子を百済に返し、第3子以降倭に留まったという。
 やがて475年、高句麗軍が百済の首都漢城(ソウル特別市)を攻撃してきた。これに先立ち、文周王(22代)は重臣木碧致らとともに南方に逃れて、応援を求めて(倭?)再度帰国したときは王都は陥落しており、蓋鹵王は処刑されていたという。文周王は直ちに王位について熊津(忠清南道公州市)に遷都したが暗殺された。やがて三斤王が即位したが若年で死し、昆支王の子東城王を倭から送り返し百済王とし東城王となった。その後、武寧王、聖明王と帝位についた。聖明王は538年欽明天皇のとき、仏教公伝となり日本の歴史に登場した。



昆支王を初代とする飛鳥部氏を祀る飛鳥戸神社本殿


 さて蘇我氏の出自についての3説であるが 蘇我氏の系図は伝えられるところによると
  武内宿禰 蘇我石川宿禰 蘇我満智宿禰 漢子 高麗 蘇我稲目
とつずく。武内宿禰は伝説上の人物で天皇4代に渉り仕えたというが葛城氏が代々仕えた代表として名を残したものである。
‖禮案算瓩寮發倭媛羯瓩離襦璽珍媛羸仞扈蒜は、大和川の支流石川の流域から起こり、竹内峠を越え葛城の一部と結びその後蘇我稲目の時、曽我川流域に移り住み蘇我を名乗った、というのである。
△海譴紡个渓舅督二氏は木碧致が蘇我満智宿禰を名乗ったという。木碧致は文周王と共に南に向かい倭にきて支援を求め、10.000の兵を連れて百済に帰ったというが、木碧致は倭に留まったという。
9岩重吾氏は昆支王また彼の子が蘇我石川宿禰であるとする。すなわち蘇我氏百済王朝論である。

の根拠を次にあげる。
 この時代日本の天皇を大王といわれていたようだ。まだ日本も天皇もその名が無かった。中国漢の時代、天子は天に仕え、皇帝は臣を統る、という思想があった。すなわち蘇我稲目以降、蘇我氏全盛の頃、大王は天子であり蘇我氏は皇帝であると信じられていたようだ。蘇我氏の権力の源泉はここにあった。天皇が天子と皇帝を兼ねる絶対君主となるのは天武天皇の時代以降である。当時の国々は各々部族国家で大王は天子であって天にたいして仕えていて部族の臣民の統治は部族長に任されていた。かろうじて雄略天皇の時代この二つを兼ねる絶対君主をめざしたが、完成には至らなかった。
 その中で東漢人が蘇我氏を自分たちの絶対君主の如く臣従していた。蘇我氏の命なら崇峻天皇も穴穂部皇子も暗殺してしまう。東漢人にとって百済王は絶対の存在で、蘇我氏が百済王の臣下の出ならこのような隷属はありえないのではないか。蘇我氏がたとえ渡来人としても東漢人のほうが蘇我氏よりはるか以前より渡来していたのである。
 百済王と倭王では当時とすれば格の違いが歴然としている。この差は百済系渡来人にとって、天皇と離れ小島の族長ほどの違いがある。雄略天皇は石川楯の旧領を昆支王に与え、葛城円大臣を滅ぼした時にその土地を昆支王の子供達にあたえている。蘇我蝦夷が皇極天皇に蘇我の旧領である葛城の土地の返還を求めたり、葛城の高宮に先祖の廟を営んだ時に、「やつらの舞」を舞わしたというのもこのことがあったからであろう。

日本書紀を編纂する時、藤原不比等は蘇我氏の扱いに苦心した。そして蘇我氏を徹底的に悪人扱いをした。なぜなら蘇我氏が百済王の流れを汲むものなら天皇の絶対的な権威を守られない。蘇我入鹿を暗殺し蝦夷を死に追い詰めた大義名分が成り立たない。このことを徹底して隠したのだ。甘樫岡の蝦夷、入鹿邸が炎上し「天皇記」と「国記」が消失したというのも、そのことを抹殺するため自分達が消失させたのではないかと疑う。これらは聖徳太子と蘇我馬子が編纂したものである。火災のあと「国記」は天智天皇に届けられたと日本書紀はいう。「天皇記」は天皇家の系譜の伝承を記したものと考えられている。『国記」は記紀の説話部分といわれているが消失したため内容は分らないが諸説あるようだ。いずれにしても現存すれば日本の古代は今より正確且つ変わったものになっているはずである。
   昔私は聖徳太子が何故斑鳩や飛鳥ではなく大阪に御陵があるのか不思議に思ったことがあった。蘇我系の大王が王陵の谷に葬られているのを最近知った。敏達天皇(30代)、用命天皇(31代)、推古天皇(33代)、孝徳天皇(36代)たち皆蘇我系である。

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「やつらの舞」とは、縦8人X横8人、合計64人で舞う舞い。天皇の格式の舞。諸侯は6人X6人、計36人。大夫は4人X4人、計16人。士は2人X2人、計4人。と、決められている。

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太子道


 奈良県の地形を見ると二つの特徴がある。図に見るように大和川を魚の背骨にして支流となる川が子骨のように北から南からながれこんでいる。盆地の川はこれ一本である。もう一つは盆地の標高で一番低いところは大和川が大阪に流れ込むところで約30m、一番高い盆地部は約100m、全体として大和川の南の支流は北西に,北の支流は南西に流れている。飛鳥時代以前の南北の道はおそらく川に沿って通っていたとおもわれる。なぜなら川を渉るのは大変難儀なことだからである。奈良時代になって条理制をとり東西に横大路、縦に下つ道、中つ道、上つ道の3本が官道として開通され南北交通はこの道を利用することになるが、これ以外の道はこのまま残ったとおもわれる。また、田んぼであるが,必要な水は主として川の水をひくことになるが、川に沿った田んぼは川に平行となる。灌漑用水も田の方向に沿うことになる。従って必然的に奈良県の道も北から西へ20°傾いた地形となる。太子道といわれる今回主題の道も飛鳥川と寺川の間を巧みに縫って通っている。

奈良盆地の川

奈良盆地の河川の状態


 さて聖徳太子の斑鳩の宮が完成したのが601年、小懇田(おはりた)の宮に移ったのが603年、太子の亡くなったのが622年である。従ってもし大子が太子道を通って毎日通ったとして20年間である。更に小懇田が定説とおり豊浦(とゆら)の近辺もしくは雷岡(いかずちのおか)東方どちらでも17km、もし桜井(大福)の三十八柱神社(みそやはしらじんじゃ)の近辺と考えたら12kmである。説話によれば斑鳩寺を建てるのに飛鳥から矢を吹き、落ちた所が屋就神社(やつぎじんじゃ)で、これでは近すぎるというのでそこから第二の矢を吹いた。するとそこは屏風(びょうぶ)近くの杵築(きつき)神社内に落ち、更に三の矢をついだ。そこで落ちたのが斑鳩であったので其処を斑鳩寺の場所に決めたというのだ。それはともかく太子道はこの3区画で説明する。

太子道

    太子道(筋違道)

http://sanzan.gozaru.jp/kodou/taisimiti/taisi1/taisi1.html  の図を拝借)


 飛鳥、屋就間では太子道の面影は殆ど無い。ただこの飛鳥桜井橿原地帯は太子の伝承が多く、古道も多い為5,6通りが用意されている。伝説とおり屋就街道は太子道であろうといわれている。屋就神社近くに多(おお)神社があり春分、秋分の頃は東に三輪山から太陽があがり、西に二上山へ陽が沈む所である。
 最も太子道の面影を残しているのは屋就屏風間である。この間、黒田、伴道、屏風の3キロの間はその痕跡をよく残している。太子腰掛の石や太子接待の絵馬がある杵築神社は太子昼食時、屏風をたてて風を防いだということが「太子伝私記」に記されているという。太子道から少し離れるが、額安寺がある。ここは太子が自分の太子達の教育のため、インドの祇園精舎をまねて学問所を作ったのが始まりで、太子が晩年病気になったのを推古天皇の名代として見舞いに来た田村皇子(後、舒明天皇)に額安寺建立を託したという。額安寺は官製最初の大寺として、以降百済大寺、大官大寺、大安寺と教義を次いだのである。
 太子道を歴史の道として鑑賞するのであれば、このあたりまず黒田の桃太郎伝説で有名な考霊天皇の庵戸(いおりと)神社。能の面塚、島の山古墳などであろう。
 屏風より北の道であるが、図のコースは少し西よりであるが実際のコースは、もう少し直線的に進み吐田(はんだ)のあたりで大和川を渡ったはずであるが、今では殆ど姿を留めていない。更に進み安堵(あど)町から高安に向かう。大和川は昔から洪水の多い川であらゆる支流が流れ込むこの地帯は、洪水の中心である。現在でも少し前までは大和川が氾濫し、支流の川の水が行き場を失って流域に溢れ出す。奈良、大阪県境の亀の背は今も地盤の悪い地震地区で、ここが塞がれれば奈良盆地一体は沼地と化す。太子の時代から今まで1400年、100年に一度の災害でも15回見舞われていることになる。灌漑工事の幼稚な昔は洪水の巣であった。やがて高安から西に向かい、法起寺、法輪寺、中宮寺、と続き斑鳩寺にいたる。
 いわゆる筋違道といわれる太子道はここまでであるが広い意味での太子道は斑鳩を中心とした太子縁りの各道々をいう。特に太子が崩御して磯長(しなが)へ葬られた太子葬送の道は忘れられない。この道は竜田から船戸の渡しを渡り王寺に入る。達磨寺(だるまじ)を過ぎ片岡山の餓え人に出会った片岡山を過ぎ、現在の国道168号に沿い更に国道165号に沿って逢坂(おおさか)にいたる。直進すれば国道168号で左におれれば屯鶴峰(どんずるほう)から穴虫峠である。峠を越えればやがて磯長にいたる。
 さてこの太子道、太子は17キロもある道を毎日往復したのであろうか?常識的にはありえない。よく分らないが例えば1ヶ月小懇田で勤務し、1ヶ月斑鳩で生活したというのが常識的なところであろう。さらに太子は摂政後半は殆ど事跡がない。蘇我馬子と政治哲学が合わず、斑鳩で仏教三昧で暮らしたと思われる。太子信仰がはやりだしたのは平安の後期以降である。『聖徳太子伝暦』は10世紀に出来上がりこの頃のことであろう。太子信仰が興隆するといよいよ伝説化され同時に太子詣でがはやったのである。太子詣では法隆寺にとどまらず、あらゆる太子の足跡のある場所を訪れた。これがやがて太子道として後世伝説化されていったのであろう。

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先祖代々の墓

 父の生前、父より突然電話がかかってきた。寒河(そうご)に墓があって、父方の祖母の実家の山下さんに、長年墓の世話をしてもらっているが、もう、歳をとってこれ以上世話が出来ないので何とかして欲しいとのこと。父は墓の魂を抜き、取り壊してしまいたいのでそのことを自分にして欲しいとのことだった。
 寒河に墓があることは殆ど意識になかったし、何度も岡山に行っているが墓参りなど誰の口からもでてこなかったので、まったく寝耳に水のことであった。千葉県市川の即随寺に父の作った墓があり、その中には祖父(父の父)、母が葬られている。祖母(父の母)の話はたまにでてきたが、その墓の話しまでは話題にでてこなかった。自分にとっての先祖代々の墓は、何の疑いも無く市川の墓と考えていた。寒河のどこにあるのか、どんな墓なのか、見当もつかないまま、9月2日に女房と二人で車で寒河にでかけた。


 すこし寒河(そうご)のことを説明しておこう。ここは、岡山県備前市日生町寒河(昔は和気郡日生町寒河)といい両親の生まれ育った故郷で両親の親戚もたくさんいた。赤穂線が山陽線相生から瀬戸内海側に岡山まで走っており途中播州赤穂、備前日生とつずくが、寒河はその間で、丁度兵庫県と岡山県の県境にあたる岡山側である。瀬戸内海の海岸線に山脈がつずき寒河は山脈の北側にあり、四方山に囲まれた盆地状のところにある。しただって、普段は海を見ることなくすごしていた。
 私が当地にきたのが戦前昭和19年で父親が出征するというので両親の家に疎開をすることになった時である。以降5年間田舎暮らしで物心ついたのも寒河である。幸い戦争にあうことも無く終戦を迎え、大変貧乏しながら過ごしたのをよく覚えている。戦後父が無事帰国し村中集まって歓迎してくれたのを覚えているが、まもなく家族を残して東京に出て行った。戦前勤めていた会社にもどるためだ。年に一度帰ってきてはいつもみやげに板チョコをもってきた。こんな美味しいお菓子がこの世にあるのかと思ったことであった。そうこうしているうちに、父は市川に家族の家を買い、そこへ引っ越した。昭和24年のことである。寒河のことは従ってあまり覚えてはいないはずなのであるが、市川の家では寒河の親戚、友人がしょっちゅう出入りし、家に寝泊りもして、その都度田舎の話が酒のつまみにでてくるのである。田舎のことはこれらの話がいつか自分が体験した如く覚えているのである。

 とりあえず叔父(母の弟)の家に行く。昨日電話をしておいたのと、すでに父から連絡されていたので、叔父から山下にも連絡されていた。すぐに山下に立ち寄った。山下は自分にとって初対面であり、多少のきまずさもあったが、話を聞き、父からの連絡どうりの話であった。老夫婦二人で奥さんに墓まで案内された。
墓は赤穂線寒河駅の裏にあり、なだらかな山裾の寒河の村を見渡せる、見晴らしのよい場所で、寒河共同墓地といい、手入れの行き届いたきれいな墓地であった。
山下の奥さんに“これですよ”と初対面した墓は墓地の中腹、東の隅にあった。三基の墓が囲いをされて手入れも行き届いており、山下にはずいぶん気を遣ってくれていたことがしのばれる。向かって右に、原家代々の墓と書かれ昭和十二年十一月原春太(祖父、父の父)建立と記されていた。真ん中はすでに文字も見えなくなっていたが、右脇に明治二十三年とかすかによみとれたが、四行ほどの刻印は読み取ることができなかった。更に一番左側の墓は細長い石が立っていた。山下の奥さんに“これは馬の墓だそうですよ”と云われたとたんに、はるか昔、祖父の言葉を思い出した。“寒河の墓には馬も一緒に葬っている”。

先祖代々の墓

先祖代々の墓


 祖父は若くして祖母をなくし長いやもめ暮らしで、市川では毎朝お経をとなえていた。自分は子供なりに祖父のうしろに座り、時々お経を聞いていたことがあった。おそらくその時の言葉であったのだろう。叔父(父の弟)もやはり出征し生死の境をさまよいながら帰国したとき、一緒に戦地を過ごした愛馬が死に、尻尾を形見にもちかえったのだという。話を聞いた祖父が墓を建ててあげたのである。急に懐かしさが込み上げてきた。昔聞いた何げない話が今一連の現実になった。
 叔父が墓石の下の石をとりのぞいた。骨坪が一つ出てきた。水がたまりその中になにが入っていたのかわからないが、おそらく祖母の骨であろう。ただ、この墓は永代供養もおわり魂はないはずである。祖母はまだ自分が生まれる前になくなりその記憶がないのである。父が市川に墓を作ったとき、寒河から分祀したと云っていたが、自分の御先祖をどう処置したのか改めて聞いておく必要を感じた。
 山下の奥さんにはこの墓は自分が責任をもって今後の処置をこうじることを伝え、別れた。実は山下の奥さんと別れた直後、叔父が“もう一ヶ所案内するところがある。いまから行こう。”と言い出した。7、8年ほど前、寒河の市役所から突然一通の葉書が舞い込んできた。国勢調査で区画確定の作業をおこなうので立ち会って欲しいとのこと。びっくりして両親(当時母も元気だった。)に事情を話すと、深谷(寒河の隣り村)の山に昔、祖父が畑を持っていたということだった。日時を指定していたのと仕事に忙しかったのとで父が叔父に代理をお願いしたことがあった。
その後、多少要領を得ない話が何度か出たように思うが、欲がないのか無関心で結局うやむやのまま今日に至っていた。叔父にしてみれば任されて気になっていたことなのであろう。寒河の村から少し西に行ったところで山脈が途切れている。墓のある山の裏手に入ったところで車を降り、なだらかな山裾を上がり始めた。そこは山の南斜面で眼下に瀬戸内海を見下ろし、すぐ向かいに鹿久居島が広がる景勝の地で、この一帯は瀬戸内海国立公園の一角である。さらに鹿久居島の右手奥に日生諸島を望み海は牡蠣の養殖場になっていた。山のぐるりに寒村が点々としており農業か漁業を営んでいるのだろう。
あまり人も見当たらなかった。みすぼらしい民家の庭先のようなところを通り、畑道を抜けたところにきた。
 畑の境界の上は雑木林になっており叔父が“この辺のはだ”と指をさしたあたりを見渡した。山の斜面ではあるがそれほど急ではない。区画立会は結局は行われていなかったようである。
“昔この裏手に道がありそこを行くと古池という大きな池があったんじゃが”当時この土地の話があったころ多少気にはなっていたので、はっきりさせておいたほうがよかろう。100坪なのか1000坪なのかも分らない。祖父は東京に出るときお寺に寄付をしたと云っていたそうであるが、お寺にはその記録がないと叔父は云っていた。なだらかな山、波のない海。岡山の海は来るたびにやさしさを秘め自分のふるさとをいつも感じていたが、それはあくまでも備前や片上湾の海であり、両親と時々見た虫明や日生諸島の島々の光景であった。
 祖父やその両親達の生活の場に立ち会い、先祖代々の墓に詣で、自分が持っていた岡山の海の原風景は、実は鹿久居島を正面にした深谷の瀬戸内海であることを始めて悟った。
叔父を車で家まで送り、その足で近くの店で線香と花を買い、改めて墓石を洗い、花を献じ、線香を供えた。長い間人任せにしていた非礼を詫びた。母親が生前山下に盆暮れの付け届けを欠かさなかったのは、このことがあったからだ。死んだのちそれも途絶えた。祖父が自分に馬の話をしたのも、この墓が気になって仕方がなかったからであろうか。確かに馬まで分祀をしていなかったろうから。とりあえず、この墓は壊すのはやめよう。自分たちが生きている間は自分で墓の世話をしよう。春秋のお彼岸の頃は、花を供えに来よう。

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百済寺と百済大寺

 『日本書紀』によれば、舒明天皇11年(639)の秋7月、天皇は「今年、大宮と大寺を造る」と記し、西国の民を徴発して大宮(百済宮)の造営にあて、東国の民を徴発して大寺(百済寺)の造営にあてたという。その年の12月には、「この月百済川の側に九重塔を建つ」とある。7月に詔を出し12月に完成するはずがないので、九重塔を建つと決定し民の徴集が成り起工したという意味であろう。皇極元年(642)9月に、百済大寺を建てるために近江と越の人夫を動員したことが『日本書紀』に見える。おそらく、舒明天皇の時代には完成せず、造立工事はその後、皇后の皇極天皇に引き継がれたと思われる。
 この百済大寺がどこにあったかは古くから謎になっていた。そして幻の百済大寺と言われていた。
従来、奈良県北葛城郡広陵町百済と云う地域に百済寺がある。山部赤人が万葉集に

  百済野の 萩の古枝(ふるえ)に 春待つと 居(を)りしうぐひす 鳴きにけむかも 巻8−1431

の歌があるが、おそらくこのあたりで詠んだ歌であろう。百済人が多くこの土地に住み附いたと言われる。そしてここに春日若宮神社とその境内に百済寺三重塔がある。本堂は大織冠(たいしょくかん)と呼ばれ、談山神社の本殿を移築したものと伝えられる。寺伝では、舒明天皇十一年、聖徳太子建立の熊凝精舎の由緒を継いで百済川河畔に創建された百済大寺といわれるが、創建・沿革についてはつまびらかでない、と伝える。寺の0.5キロ右に曽我川が左0.5キロに葛城川が流れている。曽我川を当時百済川と云っていたのかも知れない。三重塔は鎌倉時代に建立された。

百済寺三重塔

百済寺三重塔


 余談であるが大織冠というとおり、藤原鎌足所縁の神社であり、ここより2〜3キロ離れた橿原市の曾我は蘇我氏の故里といわれ、乙巳の変での蘇我入鹿暗殺を憎み犬猿の仲である。お互い交流もなく婚姻を行わないと聞く。2000年以前までは、ここが百済大寺と信じられていたのであるが、しかし、九重塔があったとしたら、その基壇が発見されない。朽ちたとしてもどこにでもあるはずの屋根瓦も発見されていない。大宮らしきものも無い。ここが百済大寺と自信がもてないまま、いつか幻の百済大寺といわれていた。
 1997年奈良県桜井市吉備の吉備池のあるところで巨大な廃寺が発見された。やがて、吉備池廃寺となずけられた。古くからこのあたりに古瓦が発見され話題には上っていたようであるが、大規模な発掘調査がおこなわれ、塔基壇、回廊、中門、僧房と見られる遺跡が発見され、現地調査も行われた。やがて奈良文化財研究所などの研究でこれが幻の百済大寺であることの結論がだされた。吉備池廃寺の特長は、同時代の他の寺院に比較して基壇が突出して大きいことである。金堂基壇は面積が山田寺の3倍以上、元薬師寺の2倍となる。塔基壇は山田寺や元薬師寺の4倍以上の面積である。金堂、塔を囲む回廊の規模も他を圧倒している。ただし、寺の正面である中門が中央軸からずれ規模が極端に小型であるのが不思議である。伽藍は塔と金堂が平行に並んだ四天王寺式である。しかし多少の疑問が残るのは一つは百済川の所在が分らないこと。寺川が流れているが百済川との関係がいま一つわからないのともう一つは『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』に出てくる「子部社」の存在に不明な点である。

大官大寺伽藍図

大官大寺九重塔

http://inoues.net/club/asukaagain1.html))を借用


 太子道でも触れたとおり官製大寺の最初は熊凝精舎であるが、この頃はまだ高官子弟の学舎であったらしく百済大寺は画期的大寺であった。文武天皇の時代、天の香具山の南700メートルの地に高市大寺建立の詔が発せられたが、完成間近で焼け落ちてしまったという。高市大寺は後、大官大寺とよばれた。平城京に都が移ると716年に六条大路に面し大安寺が建立され、聖徳太子建立の熊凝精舎の由緒を継いだことになるが現在は昔の面影を残していない。
 さて、百済大寺のある吉備の地であるが吉備内親王や吉備真備がいる。共にこの地に住んだようであるが、元は当時の租税の「租庸調」の「庸」、すなわち京へ上って労役が課せられた吉備の人々が住んだ場所についた名前である。他に飛騨、出雲、豊前、備後、土佐、等々があり、奈良全体では無数にある。

吉備池の堤の北西の隅に立っている歌碑は大津皇子の歌である。

 ももつたう、磐余の池に鳴く鴨を、今日のみ見てや、雲隠りなむ

西側の堤の中央辺りに立つ歌碑は大伯皇女の歌である。

 うつそみの、人なる吾や、明日よりは二上山を、いろせと吾が見む

 朱鳥、(あかみとり)元年冬十月無実の罪をきせられて持統天皇の前に引きたてられた大津皇子は処刑を言い渡されて、飛鳥から磐余を通って戒重の自宅に帰る途中、磐余池のほとりで詠んだ歌で、大伯皇女の歌は後日伊勢から飛鳥に帰って、大津皇子を偲んだ歌である。ここから二上山が良く見える。ただし磐余池はこの更に南、池ノ内のあたりで現在は池はなくなっているという説のほうが有力である。

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天皇家のルーツ

天皇家のルーツといえば天皇家の出身地がどこかということになるが、この問題を考えた場合、どの天皇のルーツをいうのかが大変な問題になり日本古代史の最大の疑問となってくる。例えば神武天皇をいうか、崇神天皇をいうか、継体天皇をいうか、その根拠はと云われたら、とたんに困ってくる。今回のテーマは古代天皇家が何故磐余(いわれ)に宮殿を求めたかについて考えたい。

宮殿名に磐余の名のつく宮殿は以下のとおり

神功皇后(203年)磐余稚桜宮      

 17 履仲天皇(401年)  同      

 22 清寧天皇(480年)磐余甕栗宮   

 26 継体天皇(526年)磐余玉穂宮        

 30 敏達天皇(575年)(訳語田:現在の戒重)磐余幸玉宮  

 31 用明天皇(585年)磐余池辺双槻宮 

磐余とはどの範囲をいうのかというと数々の説がでてくる。

一番狭い範囲でいうと上記宮のあったあたり、桜井市の南西、天の香具山の北西から池ノ内、阿倍のあたりが間違いない。しかし、有名な「海柘榴市(つばいち)」のあったあたりはおそらく磐余にふくんでよい。横大路の起点である磐余橋はすぐ近くにあるし、その西北に磐余の町名が残っている。吉備の春日神社には「磐余邑顕彰碑」がたっている。さらに広くとれば、昭和17年文部省刊行の「神武天皇聖蹟調査報告」に「磐余」は『旧十市郡内、旧安倍村大字池之内および旧香久山村大字池尻付近と推定』せられているが、この中で橿原神宮付近に磐余の地名があったこと、曽我川の畔、真菅の地に磐余神社が現存することから、古くは「磐余の野(いわれのの)」といわれていたことが分っている。

 古代天皇のル−ツといえば以下の三代の天皇をおもいだす。

10 祟神天皇 磯城瑞籬宮

11 垂仁天皇 纒向珠城宮

12 景行天皇 纒向日代宮

さらに近い過去からは以下の二代をおもいだす。

29 欽明天皇 磯城島金刺宮

30代 敏達天皇 訳語田幸玉宮

さて磐余を天皇のルーツと考えたのはいつのことであろうか。まず考えられるのが初代神武天皇の幼名は、記紀各々、神倭伊波礼琵古命、神日本磐余彦尊といい、イワレヒコは当初から呼ばれていた名前のようである。かれが大和入国直前、磐余の地で長髄彦との戦いに勝利し入国を果たした記念の土地である、と云うことを記憶していた。二つには、10代祟神天皇以下景行まで、磐余を磯城島まで含めて聖地であると考えていたかと云うことである。そしてそう考えたのは誰であるのかということである。

10代祟神天皇以下は三輪王朝といい、まだ部族国家の一つとしている。奈良盆地には他に葛城王朝があり、三輪王朝と対立していたという。この問題はさておき神功皇后は磐余稚桜宮とともに創造の人物であり創造されたが故に記紀の時代まで下がって考えてもよいが、17 履中天皇(401年)はそうはいかない。実在したとしたら天皇自身がすでにこの時代この聖地を知りかつあこがれていたことになる。

磐余稚桜宮

神功皇后が即位したとされる磐余稚桜宮

神功皇后(203年)が磐余稚桜宮に即位したとあるが、現在の常識では架空の人物とされている。そして応神天皇を生み出す手段としてつくりあげられた虚像である。応神天皇も創造された天皇で仁徳天皇こそ最初の河内王権の初代であろうというのが河内王朝説である。この説に従うと

 26 継体天皇(526年)は5072月樟葉宮に即位してから、磐余玉穂宮に皇居をおくまでに20年の歳月を要した。以下その経過をしめす。

5072月、樟葉宮(くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。

51110月、筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。

5183月、弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。

5269月、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。

これを見ると継体天皇が磐余玉穂宮に大変な執着を持っていたようである。大和に入らねば天皇ではないといわんばかりである。逆に大和入りを強力に阻止した勢力がいたということである。このあたり黒岩重吾氏の説を借りると、雄略天皇の死後、清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇と三代の天皇が物部、葛城の後ろ盾を受けて皇位を継承した。これに不満を持つ蘇我、大伴、巨瀬らが継体を担ぎ皇位継承争いを起こしていたというのである。この結末も九州で新羅と結んだ磐井の乱が起こり、国内争いどころではなくなり、急ぎ講和を結び磐井にあたったというのである。話は磐余であるが、清寧天皇は磐余甕栗宮に即位しているが、これら3人の傀儡天皇が実際その宮に住居したかどうかは何ともいえない。

 結局、磐余は輝かしい過去の栄光を背にした傀儡政権の不必要な都の集めところであった。磐余に都を置いたといえば皆が納得したにすぎないのである。黒岩重吾氏はこの天皇が血の断絶後の初代天皇の都と定義しているが、少し議論が乱暴ではないかと思う。

 磐余には磐余池がかつてあった。万葉集の歌の宝庫である。今はその所在が不明である。おおよその位置は池ノ内と池尻の間といわれている。代表作は大津皇子の絶世のうたである。この歌は何度詠んでも胸にせまるものがある。

ももつたう、磐余の池に 鳴く鴨を、今日のみ見てや、雲隠りなむ

朱鳥、(あかみとり)元年冬十月、我が子草壁皇子に皇位を嗣がせんがため、持統天皇は、我が子のライバル大津皇子に無実の罪を着せて死を与える。万葉集が詞書して「大津皇子死をこうむる時、磐余の池の堤に流涕しての御作歌」と記している歌である。 (百済寺と百済大寺)百済池の堤にこの碑がたてられている。しかしこの百済池は磐余池ではない。日本書紀の履中天皇の二年(430年前後)十一月の条に「磐余池を作る」とある。その後、磐余池の名は、日本書紀継体天皇七年(510年前後)九月の春日皇女の歌と、用明天皇元年(585年)五月の穴穂部皇子の記事に出てくる。

他方、吉備池の下に、六百四十年頃に建てられたと推定される基壇を発掘している。この池が百済大寺であろうがなかろうが、基壇が廃された後にしか吉備池はできないのである。したがって吉備池の築池は640年(すぐ廃寺になったとして)以降でなければならない。

確かに吉備池は磐余のほぼ中心地帯である。池ノ内近辺はすこし南によりすぎているようである。

しかし、持統天皇から訳語田(おさだ)(現在の戒重)の家で死すべきことを命ぜられた大津皇子は、明日香の奥山から香具山の東の道、戒外川(かいげがわ)沿いの、いわゆる橘街道を歩いた。香具山の麓を抜けたところで、その道は磐余池比定地の池之内と池尻との真ん中を抜ける。そこにあった磐余池。悲劇の池である。

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古代仏教-役小角-

日本の古仏教は聖徳太子に始まり、空海の真言密教をもって完成する。聖徳太子は仏教を国教と定め、仏教の奥義を究めたが、当然のことながら、ほんの一握りの少数者にしかその教義が体得されなかった。一般大衆に縁あるものになるためには鎌倉仏教まで待たねばならないが、仏教は確実にその数をました。日本に仏教が伝わったのは538年であるが、その際に伝わった戒律は、不完全なものであった。当時、出家は税を免除されていたため、税を逃れるために出家して得度を受けない輩(私度僧)が多く、出家といえど修行もせず堕落した僧が多かった。戒壇(かいだん)とは仏教用語で、戒律を授ける(授戒)ための場所を指す。戒壇は戒律を受けるための結界が常に整った場所であり、授戒を受けることで出家者が正式な僧尼として認められることになる。結果的にこの不備を補うそのため、唐より鑑真が招かれ、戒律が伝えられた。この戒律を守れるものだけが僧として認められることとなった。その結果、仏教界の規律は守られるようになった。鑑真は754年、東大寺に戒壇を築き、同年4月に聖武天皇をはじめ430人に授戒を行なった。これが最初の戒壇である。その後、東大寺に戒壇院を建立し、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇を築いた(天下の三戒壇)。
 行基は668年大阪の鳳で生まれた。彼は704年(37才)生家を家原寺として改造し畿内中心に寺院を建てて民間伝道を始めた。彼の弟子は私度僧で戒壇を受けていなかった。行基が死ぬときには49寺(道場)にまで膨れ上がっていたという。ここに至るまで行基は伝道だけではなく、社会事業に手をだし、道路や橋をつくった。この勢力が大きくなるに従い、南都六宗等、既成寺院の反発が強くなり、民間伝道が僧尼令違反となり禁止されるが、民衆の力にはおよばず、修行者の得度を許された。やがて743年聖武天皇より慮舎那仏の造立の発願が発せられ、造立の理念により行基の弟子の大動員が許可された。
 もう一つ特記すべきは、木造の製作である。寺や道場には仏像がなければならない。民間伝道では金銅仏や乾漆仏は作れない。そこで考えられたのは木から彫りだす木造である。木には昔から神が宿ると信じられていた。多くの弟子のなかには多彩な技術の人がいたとおもわれる。この頃の仏像は殆ど素木で出来ており風貌は蔵王権現のような異相の形相が新しい神というべき仏に移ったのではないか。奏澄(さいちょう)と云う人がこの頃の時代の人で白山信仰を広め神仏習合の先駆けとなり、近江の岩間寺を中継地として都に通い元正天皇の病気を癒した。かれはその寺の近くに群生している桂の木から仏像を彫った。奏澄は木彫仏製作者であり神仏習合思想の先駆者であった。行基はこのような思想も受け入れ、大衆を先導した。
 行基は東大寺の良弁とも親交があった。良弁もその生まれは卑しく,山岳修行者として厳しい修行の時を送った。その頃行基を知り深く尊敬するようになったと思われる。良弁は華厳思想を体得し、東大寺にビルシャナ仏を作ろうとした。行基は法相の僧でありお互いどの程度理解していたかは分らないが、華厳仏教の平等思想に共鳴していたらしい。東大寺の慮舎那仏の建立には良弁と行基の親交があった。その縁がやがて皇室の信任を得、後日49院のうち5院に田3町を、1院に田2町をあたえられ、大僧正に任ぜられた。『続日本紀』にも大いに功績をたたえられた。

吉祥草寺

役小角の生まれた御所市茅原の吉祥草寺

 さて役の行者であるが、資料が殆どないらしい。一つは『続日本紀』に簡単な記事が載っている。それは文部天皇3年(699)の役の行者の記事

「役君小角、伊豆嶋に流さる。始め小角、葛木の山に住みて、呪術を以て称めらる。外従五位下韓国連広足が師なりき。後にその能を害ひて讒ずるに妖惑を以ってせり。故、遠き処に配さる。世相伝えて云はく、『小角能く鬼神を役使して、水を汲み薪を採らしむ。若し命を用いずは、即ち呪を以って縛る』といふ」
ここから、韓国連広足は宮廷の典薬寮の呪禁師(じょごんし)で呪文を唱えて邪気をはらい病気を治す呪禁は仏教と道教の二種類ありどちらかを役小角に学ぼうとしたらしい。
 普通、人間離れなことを書かない『続日本紀』も、役小角を怪異な人間と見ていた。もうひとつは『日本霊異記』で『続日本紀』の内容を何倍にもオ−バ−に呪術を書いている。
 役小角は高賀茂朝臣といい、葛木上郡茅原村にうまれる。(奥田の蓮取り神事)。現在の吉祥草寺である。生まれながらにして賢く、厚く三宝を敬うとともに、道教を心がけ40歳の時、孔雀明王の呪法を習い、鬼神を使って大和の金峰山と葛城山に橋を架けようとする。神々は憂いて葛城山の一言主神が天皇に役小角に反逆心があると訴えた。天皇は追手を遣わし役小角を捕らえようとするが、なかなか捕まらないので、その母を捕らえた。小角は母を助けんと山からおり捕らえられた。そして、伊豆に流されたが小角は海の上を走り、飛ぶことも鳥のようだった。そして、昼は天皇の命に従い島におり、夜は富士山に行き修行をしたという。この二冊の小角、前者は呪術の内容は分らないが、後者は孔雀明王の呪法と明記しており、天皇に訴えたのは前者は韓国連広足であり、後者は一言主神である。孔雀明王というのは、密教の四大法の一つであり、祈雨や病気の快癒を祈るものである。
 梅原猛氏は次のように語っている。日本の基層文化は縄文であり、渡来した弥生族は縄文人を征服し創った国家とする。平地を追われた縄文人は葛城山や吉野山に逃げ込んだ。縄文人は胴が短く手足の長い,古モンゴロイドで当時土蜘蛛といわれた。柳田国男が『遠野物語』で描いた里人を驚嘆させる山人の文化はこのように山に逃げ込んだ縄文人の文化である。縄文文化は甚だ呪術的な文化であった。山人は縄文時代から脈々と伝わる呪術に長じ、また役小角のように新しい呪術である道教や仏教を取り入れ里人がとうてい持つことの出来ない呪力を持っていた。役小角は三つの点で重要な人物である。第一に山人であること。第二に強い呪力を持っていた。第三に反逆の精神を持っていたことである。この鍵が役小角の人物を説く鍵である。
 蘇我、物部戦争という仏教と反仏教の争いを経て、仏教側が勝利し、聖徳太子を得て厚い仏教国になったが、神はどうなったか。山や森は縄文時代以降神のいるところである。反逆精神を棄てない山人たちが山にこもり、いつまでも守り育てた宗教が呪術仏教であり、南北朝まで脈々と続いてゆくのである。

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空海と最澄

空海は讃岐国多度郡でうまれた。15歳のとき母の伯父を頼って上京し18歳で山岳修行者の仲間に入った。24歳で『三教指帰』を書き、儒教、道教、仏教の三教を比較し仏教の優位性を論証した。そこでは、仏教が儒教、道教を排斥するものではなく仏教に含まれる修行の一段階であるとする。空海は人間の思想を、世俗、儒教、道教、声聞、縁覚、法相、三論、天台、華厳、密教、と十段階に分け、それぞれの段階に応じた心があり、上の段階にゆくほど下の段階の心をそれ自身の中に含んでいるとする。かれは真言密教が最もすぐれた仏教であると修行の過程でさとるが十分日本に伝わっていないことを嘆いていたのであろう。
 やがて、804年幸運にも留学僧に選ばれ、20年の中国入学を認められた。中国ではインドから来た密教僧である不空の高弟、恵果に真言密教の秘法を教わるが、当時の中国では真言密教の全盛期はすでに終わり、廃仏の動きまであった。空海は密教を中心とする多くの仏典、法具を持ち、2年で日本に帰った。これは当時、『闕期の罪』に問われるが、『御請来目録』を提出し、弁明書つきで無罪を願いでた。朝廷は困り大宰府にしばらく留め置いた。そして嵯峨天皇の時代になり、上京を許された。
 空海は嵯峨天皇に大いに寵愛された。一つは前平城天皇が復位を志し、薬子の乱をおこした。薬子は自殺し、平城天皇を幽閉したがその怨霊に悩まされ、空海の真言密教による呪術により鎮魂した。もう一つは天下の三筆といわれる天皇の文学趣味である。嵯峨天皇の友であり師である空海を優遇し、空海の仏教の根拠地高野山と、都の中心地東寺を与え、さらに宮中に真言院を建てる事を許された。東寺は桓武天皇の時代、すでに顕教寺院にならい、東大寺にならった伽藍配置がきまっていた。即ち中門を入ると、左右に東塔、西塔を配し、その奥中央に金堂、その後ろに講堂の配置である。しかし空海は密教の思想を取り入れ、見事に密教寺院に変えてしまった。東塔を残し、西塔を灌頂院に作り変えた。灌頂院は密教における最も重要な建物で、僧や俗人が師から灌頂を受け大日如来と一体化する儀式を行うところである。金堂は従来とおり、薬師如来を本尊にまつり、更に講堂を大日如来を中心に如来五体、菩薩五体、明王五体、天部六体の木彫の仏像を並べた。即ち、講堂は顕教の金堂である。

東寺正門

東寺正門

 このように聖徳太子にはじまる仏教を行基や役小角の神仏混交の試みを、空海が見事に花を咲かせた。空海は蘇我、物部戦争以降もぎくしゃくしていた神と仏の関係を東大寺建立にあたって、応神天皇を主神とする宇佐八幡を上京させ、天神地祇を代表し東大寺建立を祝福して以来、ぎくしゃくは収まった。そして東寺の伽藍配置により神仏混交が決定的となったのである。そして明治の廃仏棄却まで神と仏は一体のものとして日本独自の宗教観を確立した。

 さて最澄は空海より7年早い767年生まれである。空海は知の人、最澄は情の人のようである。珍しく果敢に戦う論争の人である。近江国滋賀郡の生まれ、14歳で得度し19歳で一人叡山にはいる。その時の願文によれば悟りを開くまで山を降りないと書いてある。奈良仏教に嫌悪感を感じ人里はなれた叡山を目指したのは天台仏教である。華厳仏教は唐の時代に栄え天台仏教は隋の時代に栄えた、いはば時代遅れの仏教であった。しかし、彼は聖徳太子以来の『法華経』を根本経典として、太子の伝統を継ごうとしたようである。いま一つ日本に戒律を教え伝えた鑑真が天台宗の僧であり、その精神に共鳴したからである。
 やがて幸運に恵まれることになる。道鏡に始まる腐敗した奈良の都を棄てて京都に都を定めた桓武天皇との出会いである。おそらく和気清麻呂が最澄を天皇に引き合わせたと思われる。和気清麻呂は道鏡を天皇にせよとの神託の真偽をたしかめに宇佐八幡神宮に行き、『天つ日嗣が必ず皇緒を続けよ』との神託を受け、報告した。結果流罪となるが、孝謙天皇が亡くなると、許され高官についた。桓武天皇になると特に重用された。奈良仏教に楔をいれた清麻呂が仏教の改革者として最澄に目をつけたのである。桓武天皇も最澄を厚く遇し、やがて入唐還学僧にえらんだ。唐への旅に通訳の弟子をつれ且つ、在唐九ヶ月で帰国した。このとき一緒に渡唐したのが空海である。
 最澄が空海に興味をもったのは、空海が提出した『御請来目録』を見てからである。最澄が見たことのない密教関係の経典が多く、空海から借りて密教に強い関心をしめした。そして和気氏の氏寺高尾山寺に赴き空海から灌頂を受ける。これは少なくとも密教において最澄は空海に弟子入りしたことになり、一躍空海の名を高めた。最澄は愛弟子の泰範を空海のもとに遣わした。
 最澄は留学から帰ったものの、唐で十分な真言密教を学んでこなかったことに不満を感じていた。天台仏教が奈良仏教にかわる、新しい仏教になるためには国家鎮護と玉体安穏を祈る呪力を必要とするが、天台仏教にはそれが無い。天台仏教は、その巨大で思弁的な理論体系と止観と云う優れた修行の方法をもっていたが真言密教が持つ呪力が不足しているのである。
 しかし両雄並び立たず、お互いに袂を分かつことになる。最澄は「大日経」とともに真言密教の根本経典である「理趣書」の注釈書『理趣釈経』を借りようと依頼するが空海は拒否する。真言密教の秘儀は行を行ってこそ体得出来るのであって、文書では理解できない。秘儀を知りたくば空海の所に弟子入りせよと云ったのである。ここで両者の間に大きな亀裂が入るとともに、泰範が空海のもとを離れない。最澄は再三泰範に手紙を出し、比叡山に還ることを促す。空海は泰範のかわりに手紙を書き天台と真言の優劣まで論じている。論争好きの最澄もこのときだけは、下手にでてただ哀願するばかりだった。
 最澄は二つの大論争を行なっている。ひとつは奈良仏教を代表する徳一との論争である。最澄は『法華経』の教義に基ずいて、人間は仏性を具えていて、すべて仏になることが出来る、という。徳一は法相宗の教義に基ずき、物性は皆が持っているわけでない、と説く。この論争の内容は最澄の論文は残されているが、徳一の論は残されていない。結論が出る前に両者は死んでいる。しかしこの論がやがて法然、親鸞に受け継がれていく。
 もう一つは延暦寺に戒壇を設立するについてである。従来正式に僧になるには東大寺に行き戒壇をうけるなければならない。これは本来宗教改革をめざす叡山が奈良仏教の下手に立つことになる。最澄は従来の戒壇を小乗仏教の戒も混じった、不純且つ複雑な戒である。これを純粋且つ簡素な一向大乗戒が必要と『顕戒論』にあらわす。しかし、奈良仏教の大反対にあい、生前念願はかなわなかった。最澄という名前はおそらく自分でつけた名前である。「最も澄んだ人」というのは一生、果敢な論争に明け暮れたこの人にふさわしい名である。

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日本の地政学

日本の文化を考察するのに最も基本的な基盤は、その地政的特質を確認しておく必要がある。
 まず第一に日本列島の地理的位置である。アジア大陸の東辺に弓状に連なり、北は亜寒帯的風土のシベリアに手が伸び、南は亜熱帯的気候の東南アジアの多島海まであり、中央は朝鮮半島を陸橋とした中国東北部に連携している。その総延長3000キロ、東に太平洋、西に日本海、北にオホーツク海、南に東シナ海と四面に海に囲まれ、誰一人国境線を引くことなく、自然の国境にめぐまれた。

日本地図
 

日本地図

 第二に自然環境の多様性である。主要な島々は脊梁山脈で東西に分かれ、東は温暖、西は豪雪地帯、周辺には多数の半島・島嶼・岬湾に恵まれ、関東以南は暖流が流れ、明るく暖かい。照葉樹林に囲まれ、暖海の魚類は豊富である。一方北海道、東北、北陸、山陰地方は寒流にさらされ、曇天降雪、暗く寒い。最北部の北海道、東北は亜寒系動植物が繁り、北洋の漁業が豊富である。本州だけでも北欧と南欧の気候風土を我が物とし、ユーラシア大陸の南北の様相を独り占めにした、世界でも稀有な気候、海岸を持つ大国なのである。
 第三に民族構成の多重性である。縄文の昔からシベリア経由し北海道、東北へ、あるいは、朝鮮半島経由で東北アジア、華北から北九州、山陽、山陰に、東シナ海、南シナ海経由して華中、華南、東南アジアからの渡来人が南九州、太平洋沿岸地域へと渡来してきたと思われる。縄文の人々は、その原郷はどこか分らないが、華北から東南アジアまで雑多な人種から構成されていたことが分っている。渡来の動機は種々あろうが、一度日本に渡来したら移民先の原郷と同じ気候風土で、かつこれ以上四囲の海のため移動出来ない環境は、おのずと永住を強いられることになる。人種的にも民族的にも一定の「日本型」を持たない多様な人種、民族の「坩堝」となったのである。そして原郷以来の形質・文化伝統・性格をいまだ保持し人種、民族のデパートで多元的な世界が原日本なのである。
 大陸からつかず、離れずの位置は国土の独立性を自然に保ち、国土を破滅するような移民や、大量の攻撃からの自然の防衛性を確保した。といいながら絶海の孤島ではなく、自分に必要な文化のみ取り入れられる、まことに都合のよい環境を享受できたのである。

 時代は弥生時代にはいる。早くはその始まりは紀元前1000年ともいわれるが、大体紀元前300年〜400年といわれる。この時代の最大の特徴は水田稲作農耕の発達である。(稲の来た道を参照)弥生文化をもたらしたのは呉、越の揚子江流域の倭人の来日である。ここは華北と異なり、古くから水田稲作が発達し、かつ船を操り、漁労につうじていた。紀元前3〜400年前、時代は中国春秋戦国時代で呉、越両国は互いに仲がわるく絶えず戦争を繰り返していた。紀元前334年「越」の敗北を機に華南から華北に流出し山東半島に進出した。そして朝鮮半島の南部を通過し北九州にやってきた。日本の沿岸は良好な港湾にめぐまれ自然の水路が発達し、高温多雨、稲作に原郷以上の好適地を提供した。戦争に明け暮れ、明日をも知れない危険を避け、東シナ海に乗り出した呉越の難民は、日本を目指した。当時のこれら難民を倭人といい、東シナ海を中心に交易や沿岸の略奪を働いて、近辺の住民を恐れさせていたようだ。

 日本にやってきた倭人はいきなり、適地を求めて水田稲作を始めた。適地はいくらでもあった。北九州板付(那国)、唐津、有明湾岸、大分、島根半島、広島、岡山、難波など初期から中期の遺跡が点在する。ここで分ることは長い期間かけて徐々に稲作が発達したのではなく、いきなり水路をつくり優れた灌漑設備を早い時期から高度な技術を持ち込んだことが分る。ならば、当時の縄文人と弥生人の交流はどのようなものだったか。かっては稲作が輸入され徐々に縄文人が弥生化したと信じられていたようであるが現実は全く違い徐々に僻地に追いやられたのである。縄文人の人口はある調査では縄文時代を通じて、2万人から26万人、これも気温の変化に応じて増減したようで、一般の動物とおなじく気候変動に敏感な動物であったようだ。一部、稲作に順応した縄文人もいたようだが、殆どは新しい文化になじめず、弥生人に押されて、山中へ、東北から南九州に日本の辺境地区に圧迫されてようである。これらは人骨の研究などで明らかになった。

 日本国を名乗ったのは天武天皇の時代であるが、それまでは国という概念がないまま、数千年をすごした。国境の概念もなく、当然入国管理をすることも無く、渡来人はあくまで渡来してきた人であり移民ではないのである。時の中国皇帝より「お前はどこの国のものだ」と聞かれて答えられず「私」と云う当時の言葉「わ」を名乗り、勝手に中国がわが「倭」国と名前をつけ、漢字をつけたというのは、本当か嘘か分らないが、ありそうなことである。これではいかんと云うことで、しばらくは「倭国」を名乗ったが、中国から見て蔑視語なのを嫌い、「日本」と名を改めた。  

聖徳太子は遣隋使の書簡に日本を「日出る国」といい、中国を「日没する国」と名乗った。このとき初めて我が国名の無いのに不都合を感じた最初の人であろう。倭国とは云いたくなかったのであろう。このとき太子は「日出る国」をどの範囲を想定していたのであろうか。

 すなはち、国など、国境など必要ないあいだは、何の不都合を感じず、いったん相手と区別する必要になったとき、何の考慮もなく、誰も不思議に思わない間に四島とその周辺の島々が「日本」と決まってしまう不思議さは、他国では考えられないことであろう。これが、地政学の日本に有理にはたらいた最大のものである。

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徐福伝説

今から2200年前はるばる日本に来た中国人がいた。名前を徐福といい、今でも日本各地にその足跡を残している。その元を調べれば、司馬遷の「史記」にはじまる。「史記」巻百十八『淮南衝山列伝』によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり戻らなかったとの記述がある。ただし、同じ史記の『秦始皇帝本紀』に登場する徐市は始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後始皇帝が現地に巡行したところ実際には出港していなかった。そのため改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており、「不死の薬を名目に始皇帝から物品をせしめた詐欺師」として描かれている。
 山梨県富士吉田市の宮下家に古くから保管された富士山南麓の不二高天原における、日本の超古代史の事が記載されているが、その中に徐福伝説を記述している。それによると

BC.278 徐福誕生
BC.259 始皇帝誕生
BC.221 始皇帝即位
       斉の国滅亡
      始皇帝は不老不死の薬を探し求めていたところ、徐郷県(山東省龍口市)で徐福と出会う。
      徐福ははるか東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という      三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと申し出た。
BC.219 徐福 琅邪より出航。若い男女ら3000人を伴って大船団を編成。
BC.210 始皇帝崩御
BC.208 徐福死去

徐福伝説

徐福時代の中国

 この伝説は,1982年,江蘇省において徐福が住んでいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり,実在した人物だとされている。そして,徐阜村には石碑が建てられた。驚くことに,その村には現在も徐福の子孫が住んでいるという。代々,先祖の徐福について語り継がれてきたようだ。このことから徐福は、中国、朝鮮、日本に大ブームをまきおこす。
 日本における徐福の足跡は全国におよんでいる。その主なものをしるすと
  青森県 小泊村      
  秋田県 男鹿市      
  山梨県 富士吉田市 孝霊帝の時、秦の徐福結伴して薬を東海の神山に求む。ここに到るに及び、ついに とどまりて去らず。 福源寺山門鶴塚碑  
   山中湖村 秦の徐副が不老不死の薬を求めてこの地に来て、子孫が住み着いた。 長池地区伝承  
   河口・吉田 現在、徐副の子孫は秦氏と称し、波多、羽田を名乗る家が数軒ある。「甲斐国誌」  
   河口湖村 始皇帝の命で徐副は海を渡り、紀州那智が浦に上陸、熊野三山を通って富士山に登った。    供のおきなの娘を娶って帰化し、土民に養蚕などを教えながらついに湖畔で果ててしまった。
  東京都 八丈島      
愛知県 名古屋市熱田      
     小坂井町      
  和歌山県 新宮市 孝霊天皇6年丙子(紀元前285年)秦の徐福来朝す。 徳川頼宣が墓碑を建立
  三重県 熊野市      
  京都府 伊根町 徐副は若狭湾の伊根に上陸した。 新井崎神社覚書 浦島太郎伝承地
  広島県 宮島町      
  高知県 佐川町      
  山口県 上関市祝島      
  福岡県 筑紫野市      
      八女市      
  佐賀県 佐賀市金立町 孝霊天皇の72年、徐副は男女数千人を率いて日本に来てとどまった。
   立山雲上寺は徐副の跡を留めた霊地である。 「鎮西雲略」 「街道諸国記」
  諸富町 徐福は現在の佐賀県諸富町新北の搦、寺井の地にとどまり、金立の北山に入った。 伝承 毎年  1月20日に徐副祭
  武雄市 (徐副一行は)伊万里湾より上陸して黒髪山から蓬莱山へと進み、今日の武雄にとどまる。
  山内町 徐副一行は大船20隻に分乗して伊万里津に来航、黒髪山(山内町)
  蓬莱山(武雄市)、金立山(金立町)に不老不死の仙薬を求む。 「山内町誌」 郷土資料「牛窪記」
  伊万里市      
  富士町      
  有明町      
 熊本県 金峯山      
 宮崎県 延岡市      
     宮崎市      
 鹿児島県 串木野市冠岳 。郷土史「頂峯院文書」  
  坊津町      
  屋久島町  

 さて、徐福伝説はこの伝説の発生が縄文時代から弥生時代の変わり目の出来事であり、且つ、徐福の出航地が琅邪であることが気になる。琅邪は(稲の来た道)で紹介したように、江南の地、呉及び越の激烈な戦争を繰り返し、大量の難民が東シナ海を北上し琅邪に拠点を作り上げた。この難民は船をよく操縦し、且つ、水田稲作を得意とする民族で、琅邪のある山東半島は水田稲作に適さず、朝鮮半島から日本に新天地を求めた民族である。これを契機に日本の水田稲作が普及し弥生時代に入っていくのである。この時代背景のもと徐福伝説ができあがったのではないか、と思われる。大量の難民が米を伝えたことは事実であるから、その一団の渡航記憶がこの伝説となったと理解すれば納得できるのである。

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弥生時代の船

 ここしばらく、弥生時代を形成した稲作渡来人について記した。(稲の来た道)(徐福伝説)(日本の地政学)。今回はどのような船に乗って日本のどこに渡来したのかを調べてみることにする。
 まず船であるが、当時の船を想像するのに一つは遺跡の埋蔵物、例えば壺や埴輪などに描かれた絵画から類推する、もう一つは船そのものの発掘品を観察することである。絵画に見える船は葬送品や特別の構造船で、通常使われていた船は遺跡発掘品に多い丸木船である。

 縄文の頃から人々は船に慣れ親しんでいた。遺跡にはたくさんの船が発掘されている。特に丸木船は日常の必需品として必要性が高かった。1本の木から丸木舟をつくるには、舟の長さは丸太の長さ以上にはできない。もっと長い舟をつくろうとすれば、舟を前後で半分に切り、その間に刳りぬいた木を継ぎ足せば、元の木よりも長い舟をつくることができる。また、舟を縦に切り、その間に板を入れて継ぎ足すことによって元の丸太よりも幅の広い舟をつくることができる。これらの舟も、丸木舟あるいは丸太舟とか刳りぬき舟と呼ばれている。こうして何枚もの板を組み合わせ、より大きく複雑な構造の舟がつくられるようになってきた。しかし複雑な構造は強度に弱く、強度を増すには接着技術や加工技術を必要とし、用途に応じて木材の太さ、長さ、を工夫したようだ。
 更に重要なのは船の用途が外航か内航かにより決定的にその構造が異なる。外航すなわち海で海峡を横断するとか、呉越から東シナ海を北上して山東半島に外征したり、山東半島から朝鮮半島にきたり、朝鮮半島から対馬経由北九州にくる場合の船は、船の横断面が「V」字に底が深くなければ海上スピードがあがらない。喫水線が深くなることにより、船の安定も増すことになる。一方近海で使う船は横断面が「U」字型すなはち、平底で喫水線が浅く作られる。船の用途は様々であるが基本的に浅瀬の場所での作業に使用されたり、浅瀬の川を遡る必要がある。稲作渡来人の観点にたてば、この船が死活的に重要であった。渡来する時の船と目的地に到着した後の船は、各々違っていたのであろうか。彼等は水田稲作の適地を探してそこに定着した。適地とは、船着場として船を係留しておくための潟があること。水田稲作を行うための低湿地があること。適当な小山があり小川が流れており、常時水田の水が得られること、などであった。彼等は呉越で水田稲作の技術を習得しているから、適地さえあればすぐに稲の栽培にかかれた。稲作の農閑期には得意の操船で漁業にも従事でき、魚貝を手にいれた。船を自由に使えるから、海上交通は得意のうちであったから、物流にも便利であった。
 それでは、具体的に渡来人たちは日本のどこに渡来したのであろうか。ここ2〜30年の間、水田遺跡が多数発掘され、その全貌がかなり判明してきた。その中でも福岡の板付遺跡は初期水田稲作の遺構として、貴重である。ここは紀元前500〜300年ころから開拓され、稲作の端緒についての情報を提供してくれる。具体的には縄文晩期から弥生初期の遺構の過渡的な様相を提供する。すなはち、土器の変遷、初期の水田の模様、初めて渡来した弥生人の生活状況などの興味ある情報である。おそらく、初めてに近い状況で開拓者が現れ、開拓されたものだろう。板付けといえば「那の津」で北九州一の良港であり、最初に開拓されるのは理の当然である。更に北九州の唐津湾近辺は魏志倭人伝の「伊都国」で、ここも天然の良港、水にめぐまれ、水路が発達し、手を加えずに稲作の出来そうな土地である。これらが3〜400年の間に日本中に広がった。日本の水田稲作に関する、最適な自然環境に当時の倭人たちは競って渡来してきたようだ。
 代表的な遺跡の分布する地方は出雲、敦賀、富山、佐賀、有明、大分、愛媛、広島、岡山、浪速、和歌山、尾張、静岡など全国すべてである。これら初期の水田はとにかく手を加えなくとも稲作が出来ることである。特に出雲については出雲神話があるように古くから開けた。島根半島を中心に神門水海、宍道湖、中海、美保湾を抱え、大山が航海の絶好の目印となり、早くから弥生文化が発達するとともに、その文化の結晶が出雲神話に集大成された。美保神社には古くから「諸手船」の神事が伝えられている。美保神社の祭神、事代主命が美保関の沖で釣りをしていたところに、国譲りの可否を問うために送られた使者が諸手船に乗ってやって来たという故事を再現しているとされる。この船が昔の船を思い浮かべるに、良い見本となろう。

諸手船は1艘につき9名が乗船 する。
  真剣持ち 1名  船の舳先に立てる3つ股のマッカという剣を持つ役
  大脇   1名  大櫂(舵取り)の補佐役
  大櫂   1名  舵取りの役。 高天原からの使者に擬る。
  漕ぎ手   6名  水夫

諸手船

諸手船神事

なお、諸手船は2本の材木をくり抜いてつぎ合わせた古代の丸木舟(まるきぶね)を思わせる船で、古代の造船技法を伝える貴重な資料である。重要有形民俗文化財の指定を受けている。渡来に使用した船はおそらく、このような船であろう。出雲に渡来した状況を記憶した神事であろうとおもわれる。尚、荒神谷遺跡から400本もの銅剣が発見され加茂遺跡からは36個もの銅鐸が発見され一躍古代史の主役に躍り出た。


 やがて最良の条件の土地を使い果たした渡来人は更に奥地に農地を求めた。必要なら盆地の中にまで進出した。奈良盆地は人々があふれてきた。そして全国一の人口をかかえることとなった。奈良は浪速を正面に控え、絶好の防御地域である。ただし初期農耕と異なり、大規模な水利工事や灌漑施設を必要とした。唐子鍵遺跡などその最たるものであった。
 瀬戸内の国々も農耕に適した地形が無数にある。水田のことはさておいて、ここ瀬戸内は九州、ヤマトを結ぶ交通の要所である。ここの特徴として地峡部分が多く潮の満ち干が激しく潮の流れが複雑で、とにかく島が多い。従って、ここを通過するには瀬戸内の地理に明るく、潮の流れに精髄し、操船技術にたけていなければならない。潮待ちのための停泊所が各地にあるのもその為である。
 額田王が「熟田津(にきたつ)に船(ふな)乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」と松山の熟田津で歌った有名な歌もこの潮待ちを歌ったものである。
しかも弥生の頃、治安が悪く島影から海賊が横行していた。船に乗る者はすべて海賊と思い、防御に全精力をそそがねばならない。瀬戸内の出口と入口は地形的に、戦略的に重要で、特にここを押さえられたら、瀬戸内は死の海と化す。
 

 稲作技術も徐々に発達してくる。銅製器具の発明、鉄器の発明など顕著な発明で、飛躍的に生産性の向上がはかられ、食料の貯蓄は貧富の格差を生む。灌漑作業が大規模化し、ムラの代表者が選ばれる。食料の貯蓄がすすむと、ムラとムラの争いが起こり、やがて環濠でムラをとり囲む。吉野ヶ里、登呂遺跡、池上曽根遺跡、唐子鍵遺跡など代表的弥生遺跡は弥生後期のもので相当発達した後のものである。

 忘れてはならないのは、日本文化の源流がこの時代に育まれたことである。現在に残る農耕文化は田植えに始まり刈り取りに終わる年中行事から生まれたもので、現在もなお祭などで毎年の歳時記として生き続けており、村の鎮守の神様にはじまる神道も、元はといえばムラの相談事の場所から発生したものである。やがて有力者が死に、埋葬などして神聖な場所になった。縄文言語を土台にして弥生言語が混合し、新しい言語が生じたのもこの頃である。鉄器文化は農業の劇的に生産性に寄与し、人口にあわせて山野を開拓した。戦争道具としての武器の発達は大量の殺戮を生んだ。
 やがてムラはクニになり、地方豪族があらわれ、その代表が大王となる。

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呉太伯伝説

古代中国で日本に影響を与えたもう一人の忘れられない英雄がいた。呉太伯(ごたいはく)である。時代は周王朝で紀元前1000年頃に起こり、その終わりころ紀元前800年頃の話である。

呉太伯は水田稲作の故郷、呉の初代皇帝で伝説の人である。司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。呉太伯の父は古公亶父(ここうたんぽ)といい、3人の子があった。長男が太伯(泰伯)、次男が虞仲(ろちゅう)、三男が季歴(きれき)といった。末子・季歴は英明と評判が高く、この子の昌(しょう)は、聖なる人相をしており後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されており、古公もそれを望んでいた。太伯、虞仲は季歴に後継を譲り南蛮の地、呉にながれて行った。呉では周の名門の子ということで現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み断髪し、全身に分身(刺青)を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないことを示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。しかし、この逸話は実際に南方の蛮族である呉が後に春秋の覇者となった時の美談として創られた可能性が高いと見る史家が多い。


 その後、中国の春秋時代、越(えつ)王勾践(こうせん)に敗れて死んだ呉(ご)王闔呂(こうりょ)の子夫差(ふさ)は、薪の上に寝て父の仇(あだ)を忘れぬように努力し、ついに会稽(かいけい)山に勾践を破って降参させた。勾践はのち許されて帰国したが、以来、つねに苦い胆を部屋に掛けておき、それを嘗めては自ら復讐心をあおり、とうとう夫差を滅ぼして「会稽の恥」を雪(すす)いだ、と伝えている。所謂臥薪嘗胆の語源である。
 
 「晋書」の倭は自ら言う、太白の後、と書いてありこれが日本において長い論議を巻き起こす。
 明治以降の古代史は「魏志倭人伝」や「倭の五王」が、とかく関心があり、呉太伯については話題に上がってこないが、明治以前には”皇祖太伯説”が盛んで、その後の呉太伯は日本にやってきて、やがてその後裔が神武天皇であると喧伝された。皇祖太伯説をいいだしたのは中厳円月(1300〜1375)でかれは「日本紀」を著して世に出した。「日本を以って呉の太伯の後とする。それ、太伯荊蕃に逃れ、断髪文身し、交龍と共に居る。その子孫、筑紫にきたる。おもうに必ず時の人、以って神と為ん。これ天孫、日向高千穂の峰に降るの謂いか。」と記している。これに皇室の怒りをかい、焚書処分となった。「記紀」の皇祖を神に求めず人間に求めた草分けで天神後裔史観(神と天皇が一本につながる)を最初に脱した人物である。

同時代に北畠親房(1293〜1354)が「親皇正統記」を著し皇祖太伯説を批判した。

 戦国時代キリスト教が入った頃、キリスト教徒、不干斉ハビアン(1565〜1621)が「妙貞問答」を著し、仏教、神話を全否定し不自然な天神後裔史観を批判した。日本に伝道に来ていたペドロ・モレホン(1563〜1639)とジョアン・ロドリーゲス(1561〜1634)はキリスト教教義により皇祖太伯説を肯定し太伯=神武天皇を支持して「日本教会史」皇祖太伯説を著した。ゼウスを世界の創造の絶対神とするキリスト教にとって、天地創造神話は絶対容認できない。16世紀当時、「倭寇文化圏」なるものが厳然と存在した。倭寇文化圏は実態は浙江・福建の中国人が主体で日本人と朝鮮人が加わった私貿易の武装集団であり、国境を越えた海民集団であった。鉄砲が伝来したのもこの頃で、倭寇最大の首領、王直の中国船にポルトガル人が乗って種子島に鉄砲を伝えたものである。中厳円月も一時中国江南に留学しており、コスモポリタン的思想の持ち主であった。
 江戸時代に入り林羅山(1583〜1657)は「神武天皇論」をあらわした。実は中厳円月の件はこの書にかかれたものが現在に伝わったものである。合理的思考の持ち主でありかつ儒者であり、皇祖太伯説を肯定した。「オオナムチ、ナガスネヒコは我国の古の酋長であり、神武はそれにとって代わった人間ではなかろうか」。当時の儒者は中国崇拝論的な思考があったようであるが、それ以上に歴史を合理的に解釈しようとする態度が太伯説を肯定に導いたものと思われる。それに対して儒者の新井白石(1657〜1730)は「古史通」を著し”皇祖太伯説”を否定し新解釈をしめした。すなはち「神は人なり」と喝破した。 
 国学者本居宣長(1730〜1801)は皇祖太伯説は日本を夷狄と賤しめ、中国を中華と尊敬する心から出たものと批判した。ただし邪馬台国九州説いいだし、大和朝廷勢力がいまだ九州に及ばず、同地の小国家が中国の王朝と独自に通じていたと解釈し現在にもその論が生きている。儒者の天孫後裔史観の不合理に対し新解釈としての皇祖太伯説を採用したのに対し国学者の偏狭なな天孫後裔史観は共に時代を背景にしているところが面白い。江戸時代はその他数々の儒者、国学者が自説をあらわしており、百花繚乱である。
明治に入り那珂通世は「外交繹史」の中で皇祖太伯説を批判、皇国思想、中国蔑視思想にかたむいていく。鳥居龍蔵は「倭人の分身と哀牢夷」を、喜田貞吉は「漢籍に見えたる倭人記事の解釈」を著し「倭人伝」の文身、断髪などを中心に海人俗の新解釈に道をひらいた。戦前は極端な皇国史観の中、歴史の暗黒時代であった。国家統制のため自由な歴史研究が阻害され、停滞した。

呉太伯も神武天皇も共に伝説上の人物であり、現在においては取るに足らない議論であるが、以下の点で重要な視点が見落とされている。

1.倭人の起源について重要な示唆にとんでいる。日本文化の根源である米の渡来について、日本人のルーツについて、このテーマは重要である。
2.国家、国境に捉われない発想が重要である。日本の歴史は日本4島の歴史に偏りがちである。特に平安以降、江戸時代まで半鎖国的な歴史環境を保ったため、古代史の上でもその偏狭さがみえる。近代史が世界史的視野に立たなければ理解出来ないのと同様、古代史も中国、朝鮮、をはじめ広くアジアの環境条件が日本史を大きく左右した。この視点はもっと日本史の中に取り入れるべきであろう。
3.記紀と中国史書との関連の捕らえ方をもっと積極的に取り入れるべきではないか。ただし古代史は文字情報が少なく、記述そのものの信用性が薄く、多くは考古学の発掘調査に依存する面が多い。発掘調査は文字情報と異なり推定する場合がおおく、必ずしも確定情報とはならないし、研究に時間がかかる。

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大伴家持とその時代

宮廷  天皇 権力者44
元正 げんしょう 715〜724  718 大伴家持生まれる
聖武 しょうむ 724〜749   727 旅人大宰府に赴任
                 728 山上憶良と親交
                 729 長屋王の変
                 730 大宰府で梅花宴、旅人家持帰郷 万葉巻5
                 731 旅人死68歳
                 732 坂上大嬢・笠女郎
                 736 秋歌4首 万葉巻8
                 738 独り天漢を仰ぎ述懐の歌 万葉巻17
                 739 亡妾悲傷歌 万葉巻3
                 740 東北行幸に従駕、歌を詠む 万葉巻6
                 742 橘諸兄宅で奈良麻呂主催の宴 万葉巻8
                 743 恭仁京賛歌 万葉巻6
                 744 安積親王挽歌 万葉巻3
                 745 従5位下
                 746 7/7越中に赴任、弟書持死哀傷歌 万葉巻17
孝謙 こうけん 749〜758   752 8/5帰京、少納言に任ず
                 754 兵部小輔を拝命山陰道巡察使に任命
                 757 兵部大輔に昇進
                 758 因幡守に左遷
淳仁 じゅんにん 758〜764 762 信部大輔に任ず、因幡より帰京
                 763 恵美押勝暗殺計画発覚
称徳しょうとく764〜770   764 薩摩守に左遷
  孝謙重祚         767 太宰小弐に任ず
                 770 民部少輔任ず、大宰府より帰京
                    左中弁兼中務大輔、正五位に昇叙
光仁 こうにん 770〜781   771 従四位下に昇叙
                 772 左中弁兼式部員外大輔に任ず
                 774 相模守、左京太夫兼上総守
                 775 衛門督
                 776 伊勢守
                 777 従四位上に昇叙
                 778 正四位下に昇叙
                 780 参議、右大弁
桓武 かんむ 781〜806   781 正四位上に昇叙、春宮太夫
                   従三位公卿に列する
                 783 中納言に就任
                 785 陸奥国にて死去
                    この時中納言従三位春宮太夫兼時節征東将軍
                 806 従三位に復位、永主ら隠岐より帰京

 大伴家持が生まれたのは養老二年(718)で平城京である。718年といえば平城京遷都が710年で、いまだ都が整わない8年後のことである。そして亡くなったのは785年、その前年(784)に長岡京遷都があり、まさに奈良平城京とともに生まれ死んだ人生だった。3歳のとき、父大伴旅人が征隼人時節大将軍として単身九州に赴任し、10才の時太宰師として大宰府に就任した。 その時を機に家持と2歳下の弟の書持を妻(大伴郎女)と共に帯同した。旅人としては大伴家の伝統と名誉を子供たちに伝える必要を感じていたのである。しかし、到着一ヶ月後に大伴郎女は病気が急に悪くなり、まもなく死んだ。家持にとって近親者の死は遭遇した最初のことであり、旅人は深く悲しんだ。平素から酒好きの父はさらに深酒がかさなった。
  験(しるし)なき ものを思わずば 一杯(ひとつき)の 濁れる酒を 飲むべくあるらし
  生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくをあらな
生きている間は楽しくありたいと旅人はいうが、悲しそうな父の姿はいつまでも、家持の記憶に残った。
 
 大伴家は名門の家柄である。720年には舎人親王らによる「日本書紀」が著された。家持が生まれてから二年後である。そこには、天孫降臨の際、大伴氏の遠祖天忍日命は武装して先導されたと記されている。神武天皇が東征された時も遠祖日臣命(道臣命)が大来目を率いて大和への道を先導したとある。雄略天皇の大連であった大伴室屋は靫負(ゆげい)三千人を領して宮廷の守衛に当たったといい、以降大伴氏は久米部、佐伯部、靫負などを率いる指導者の地位についた。 室屋の孫、大伴金村は朝鮮半島との外交交渉にも活躍した。継体天皇の折、任那四県に対する支配を容認する決定を下している。のち、欽明天皇の時代その措置を批判されて失脚し、政権の主導権は蘇我氏に移った。
大化元年、蘇我氏が倒されて新政府ができると、金村の孫・長徳が右大臣になり政界に復した。さらに、先の壬申の乱の折には、馬来田、吹負が大海人皇子に味方し近江朝廷方の軍と戦って大きな功績をたてた。
 旅人は子供たちにこれらを聞かせ、家持には家の再興を、書持には学者の道に行くことを願った。しかし大伴郎女の死後旅人の不便もさることながら、もっとも困ったのは二人の子供の教育問題だった。あれこれ悩んだ結果、旅人の異母妹の坂上郎女を大宰府に呼び寄せることとした。坂上郎女は前夫が何人かおり子供が二人いた。大伴坂上大嬢と大伴坂上二嬢である。このうち大伴坂上大嬢が後、家持の妻となるが、当初は母と二人の女性が加わって、はなやいだ生活を送った。坂上郎女も名門大伴家の後継者を大切に育てた。さらに彼女は当代随一の女流歌人で、家持には大いに影響を与えた。もう一人、旅人の友人で九州に来ていた筑前守、山上憶良を家持に引き合わせた。後世「山柿の門」といわれ家持に大きな影響を与えた歌人に山上憶良と柿本人麻呂がいた。「山」は山辺赤人の説もあるが、おそらく山上憶良であったと思われる。

朱雀門

朱雀門


 731年、大納言に昇進し奈良に帰ってまもなく、旅人は78歳で死んだ。奈良は佐保の地に大伴家の住宅があった。父に託されて武門の道をゆくべく期待され、本人もそのつもりで武芸に励んだが、和歌の道にはとかく関心があった。坂上郎女をしたって多くの女性が家に訪れては歌会を開いた。その中で万葉集に収められている、女性からの歌が数多く残されている。
笠女郎、山口女王、大神女郎、中臣女郎、河内百枝娘子、粟田女娘子、紀女郎、阿部女郎、平群氏女郎などで家持宛に来た歌に返歌をした者、無視された者、数多くあるのである。特に笠女郎は万葉の代表的女流歌人であるが彼女から24首の歌を贈られているが、わずか2首しか返事を出していない。かなり華やかな女性関係であったようだ。
   
 22才のころ家持には二つの悲劇が起こった。一つは佐伯末麻呂との親交の中、娘の阿耶女と出会い、恋におちた。やがて子をなし、佐紀郎女となずけた。この阿耶女が死んだ。悲嘆した家持は「亡妾悲傷歌」を万葉集に残した。もうひとつは安積皇子の死である。安積皇子の死は少し複雑である。
 当時聖武天皇には県犬養広刀自の間に安積皇子がおり、おりからの実力者橘諸兄がいた。諸兄には息子の橘奈良麻呂がおり、家持とは親交があったが、安積皇子の天皇即位を画策していた。一方もう一人藤原不比等の娘、光明子がおり藤原家の期待をになっていた。光明子自身も藤原氏の期待に答え、藤原氏よりに行動した。当時、藤原四兄弟が相次いで天然痘にたおれ、聖徳太子の祟りと恐れられ、法隆寺の再興を計画した頃である。藤原氏の実力者は藤原仲麻呂で、聖武の皇太子に光明子の娘安倍内親王をおした。ここに両派の葛藤があった。当初、長屋王の息子黄文王が皇太子候補であったが、密告により捕らえられ、拷問死している。聖武天皇が難波宮に行幸し、安積皇子も随行した。難波京と平城京の最短、暗峠の近く、桜井の頓宮で急病にかかり急ぎ恭仁京に還ったが、二日後に急死した。帰還の理由は脚の病ということであった。このことが後世大問題となって「橘奈良麻呂の乱」となる。

746年家持は越中守に任じられ富山県高岡に赴任した。これは橘諸兄から伝達された。当時全国約60の「国」があり大、上、中、下に4区分されており、越中は上国とされていた。当時は地方分権で国司は大きな権限が与えられており、中央政府にとって当時まだ東国は未開地で、競って地方に勢力を拡大していた。従って家持の越中国赴任は大伴家の勢力拡張と出世の糸口と考えられはりきっていた。越中時代は「富山県高岡市の二上山」を読んでいただきたい。ただし、弟の書持がこの年没した。
家持は弟の死を悲しみ、その人となりを「花草花樹を愛でて、多く寝院の庭に植う」と述懐した(同17-3957)。

橘諸兄、奈良麻呂父子との親交は万葉集の編纂につながっていった。橘諸兄は『万葉集』の撰者の一人といわれている。これは、『栄華物語』月の宴の巻に、「むかし高野の女帝の御代、天平勝宝5年には左大臣橘卿諸兄諸卿大夫等集りて万葉集をえらび給」とあり、これが元暦校本の裏書に、またある種の古写本の奥書にもはいったことが、一定の信憑性をもつものである。のちに、仙覚は橘、大伴家持の2人共撰説を唱えるにいたった。

 家持は783年中納言に就任後、785年陸奥国にて死去するまで尚、30年を生きた。年表に見るごとく全国各地に赴任をした。この間藤原氏の全盛時代でもあり、家持は体制側につくことはなかった。これが、家持の出世に大きく影響した。この間出世と左遷をくりかえし、従三位公卿どまりとなった。785年家持が死んでなお、事件にまきこまれる。この時桓武天皇で、天智天皇、志貴皇子、白壁王(光仁天皇)と代を次ぎ桓武にいたる。おりから藤原種継の勢力の伸張期であり、天皇の寵愛を一身に受け、表向きはすべて種継に任した。桓武天皇は代々天武系の天皇の都である平城京を嫌い、遷都を考えていた。種継は天皇の意を受け、長岡京遷都を画策した。長岡京は交通の要地であることと、種継の母が秦氏の出で、その根拠地であることが長岡遷都の理由である。桓武天皇には弟の早良親王がおり、立太子していたが、早良親王には何の相談もしていなかった。そのため桓武と早良親王との中は円満ではなく、種継とも疎遠にしていた。やがて種継が暗殺された。がこれが大事件となった。激怒した桓武天皇はすぐ犯人捜査を命じ、実行犯の二人の兵士を尋問の上、即刻死刑に処した。そして事件の首謀者として大伴継人(旅人の弟田主の孫)、大伴竹良(大伴一族)、大伴家持があげられた。家持は死して一月の後のことあった。

 藤原種継暗殺に早良親王が関与していたかどうかは不明である。だが、東大寺の開山である良弁が死の間際に当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと(実忠『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。種継が中心として行っていた長岡京造営の目的の1つには東大寺や大安寺などの南都寺院の影響力排除があったために、南都寺院とつながりが深い早良親王が遷都の阻止を目的として種継暗殺を企てたという疑いをかけられたとする見方もある。その後、桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)の発病や桓武天皇妃藤原乙牟漏の病死などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。延暦19年(800年)、崇道天皇と追称され、大和国に移葬された。
家持の死について「続日本紀」には「中納言、従三位の大伴家持が死んだ」と記されている。律令制度では人の死の表記として上から順に崩、薨、卒、死の四種類である。家持は従三位だったから「中納言、従三位の大伴家持が薨じた」とあるべきだが、身分の除名処分をうけて死んだと表記されているとおもわれる。ただし806年死から20年後に名誉を回復し元の従三位に復帰した。

大伴氏は伝統ある武門の出である。新興の藤原氏とは家格が違う。しかし、権勢は藤原氏にあった。大伴氏が藤原氏の側につくのを潔しとしなかったのであろう。彼は父の遺言もあり、大伴の家名の維持につとめ必死であったが、常に、大友氏凋落の危機を感じていた。彼の歌は常にどこかもの悲しく、根底に哀感をひめている。栄光の過去があるからこそ、現実の危機を常に感じている。

 忍坂(おさか)の 大室屋に 人多(さわ)に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも 
  みつみつし 来目の子等が 頭椎(くぶつつ)い 石椎い持ち 撃ちてし止まん
 
 海行かば 水漬(みず)く屍 山行かば 草蒸す屍 大君の 辺にこそ死なめ のどには死なじ

これは久米歌である。神武天皇に付き従い大和平定物語に組こまれた宮廷歌謡である。代々大伴氏が歌い継いだ栄光の歌である。

 
 さて応天門の変は、平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件である。応天門は平安京の朱雀門の内側、朝堂殿の南側にあり大伴氏が建立しこの門を守護するのが任務となる栄光の門である。この応天門が放火され、大納言伴善男は左大臣源信の犯行であると告発したが、太政大臣藤原良房の進言で無罪となった。その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。

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人類と環境-1-

 今回は米国人ジャレド・ダイアモンドの本「銃・病原菌・鉄」の内容を数回に分けて紹介しようと思う。今まで読んだ本のうちもっとも感銘を受けた本の一冊である。著者はニューギニアで生物学の研究をしていた時、現地の政治家ヤリに質問をうけた。「白人は2世紀前、まだ石器時代のニューギニアにやってきて、集権的政治組織を押し付け、鉄の斧、マッチ、医薬品、医療、飲料、傘などさまざまな物資を持ち込んだ。ニューギニア人はこれらの有用性をすぐ理解し活用した。あなた方は白人はたくさんのものを発達させ、ニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものは、殆どない。それは何故なのだろうか」。大変素朴な質問であるが、その時は答えることができなかった。この質問にこたえるのがこの本だあるというのである。

  

発生ハッセイ紀元前キゲンゼン移動イドウサキ紀元前キゲンゼン二次ニジ移動イドウ紀元前キゲンゼン
人類ジンルイ誕生タンジョウアフリカ北部ホクブ7,000,000メソポタミア1,000,000欧州オウシュウ南部ナンブ500,000
アジア南部ナンブ500,000
オーストラリア40,000
ニュージニア33,000
ポリネシア1,200
シベリア20,000
北米ホクベイ12,000
南米ナンベイ10,000
      

                     人類の全世界への移動時期

 人類が地球上に出現したのは今から700万年前である。アフリカの中部の猿の進化した動物がやがてゴリラと枝分かれしその後チンパンジーとも枝分かれして人類が誕生したといわれている。その後世界にひろがるのであるが、その状況は図のとおりである。そのおおまかな模様はメソポタミヤに移動した人類が一部欧州方面に、一部南アジアに、一部シベリヤに移動し何回かの氷河期にベーリング海峡を渡ってアメリカに移動した。南アジアに移動した人類は中国、インドシナから、当時まだ存在し地続きであったスンダランド経由でニューギニア、オーストラリアに移住したものとおもわれる。その年代は図のとおりだが相当な誤差もあると思われる。そして最後の氷河期が終わった13000年前を人類進化の出発点として考えることにする。それ以上前のことを検討しても人類の進化は全世界で、たいした相違はない。この時点すでに世界の主要な地域には人類が存在したようである。しかも各地域の人類の能力差は殆どなかった。まだ文明期に入っていなかったのである。

 一体、人類がこの地球に誕生して以降、初めから能力に差があったのだろうか。そのようなことではあるまい。人類の発生当時人類はひとしく狩猟採集の生活を送っていた。何の知恵も働かせず近くにある食物を取って食していた。身のまわりに食物がなくなれば滅亡するしかなかったのだ。これには白人の先祖も黒人の先祖も黄色人の先祖も等しく、狩猟採集生活をしており、その内容に何の変わりもなかったのである。しかし時がたつにしたがって、食物を栽培し家畜を育て、武器を発明し、生活をコントロールできるようになった。しかしこれは世界一様に発達したわけではない。早く進歩したところ、いつまでたってもむかしにままに取り残されたところ、まったくのまばら状態であった。この差は一体何の差があったのだろうか。最近の世界史でコロンブスが1492年アメリカ大陸を発見して以降、西洋による侵略がアメリカでアフリカでアジアでオーストラリアで展開された。圧倒的な国力の差になすすべもなかった。その印象ばかりが強烈であるから、あたかもこの差が民族の差であるように錯覚するのであるが、冷静に考えてみれば人類発生当初より差があったはずがないのである。

 スペイン人のインカ帝国の侵略は衝撃的である。アメリカ大陸発見以来北米から中米、南米へと侵入してくる。1526年パナマ、コロンビアに移住したスペイン人が持ち込んだ天然痘は皇帝ワイナ・カパックと後継者のニナン・クヨチをあいついで死亡させ、アタワルパと異母兄弟ワスカルによる分裂をひきおこした。これで弱体化した帝国に1532年カハマルカの戦いをひきおこした。インカ8万の兵士に対しピサロ軍60人の兵士に106人のならず者だったと記録されている。これが一人の犠牲者も出さず、数千人の死者と皇帝アタワルパを捕虜にし市場空前の保証金をせしめた挙句、殺してしまったのである。ついでハウハ(80人の騎兵) ビルカスワマン(30人) ビルカコンガ(110人) クスコ(40人)と戦争を仕掛け、ついにインカを皆殺しに滅ぼした。この少数対多数の戦争の旧世界と新世界の出会いの結末をもたらしたものは何だったのであろうか。火縄銃、銃器、鉄剣 対 槌、矛、手斧、投石機という武器の違いはインカ兵が接近する前に死んでいた。馬に騎乗するピサロ軍に対しインカの兵士の徒歩での対抗はお話にならなかった。当時のインカには馬もいない、鉄もないのである。

 アメリカインデアンの滅亡も悲劇に終わった。コロンブス当時、原住民の人口は200万人とも2000万人ともいわれ、正確な数字は記録されていない。西部劇でおなじみのアメリカ東部から西部への侵略劇は、インカより相当長く続いたが、その間、西洋式の馬や鉄砲などの軍備をととのえ、侵略軍に対抗した。しかし、思わぬ強敵があらわれる。天然痘やペストといったヨーロッパでかつて流行した伝染病をももたらしたのである。西洋人は既に免疫していたので大きな被害はなかったが、純粋培養の無菌状態のアメリカインデアンたちには何の免疫も持っていなかった。たちまち大流行してその人口の大半を死に追いやった。インデアンを滅ぼすのに槍や鉄砲は必要なかったのである。もちろん西洋人は意図して病原菌を持ち込んだわけではなかったのであるが、期せずして大量殺戮劇をなしとげたのである。
 この病原菌による大量殺戮はアフリカでもオーストラリアでも南洋の島々でも引きおこしている。このような人種入れ替えにも似た侵略殺人は、槍や鉄砲ではとうてい間にあうものではない。病原菌殺人がなければ旧世界の人口はアメリカインデアンやオーストラリアのアポリジニなど、もっと多く生き残っていたであろう。病原菌はエイズウイルスがアフリカで発生させた以外はすべて西洋世界が発生させたものである。
 なぜ、これだけ圧倒的に旧世界と新世界の差が開いたのかという原因は、武器や馬具だけの差ではなく、最後は情報の差というべきであろう。旧世界では新世界があるなどとは考えてもいなかったのであるし、造船技術、航海技術、を持ち合わせていなかった。何よりも帝国主義的中央集権体制が軍事力強化をはかることができたのである。

 では、これだけの差が発生したのは、結局、旧世界と新世界の人類の能力の差だったのか。これにはまだまだ異論があるのである。

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人類と環境-2-

 前回はインカ、アメリカを例に西洋の圧倒的な力の差について記した。(人類と環境-その1-)この力の差はつきつめてゆけば
―討鮹羶瓦箸靴辛靂呂琉掬歸な差、馬による機動力の差
外洋船製造、航海術、気象学など近代技術の圧倒的な差
J源の発明から始まる情報伝達技術の差
け嵒造療狙

ということになる。しかし、この差は人種による持って生まれた資質の差ではない。これらの要因をさらに遡って要因を追求してみよう。13000年前に同一スタートラインに立った、あらゆる人類が等しく最初にもとめるものは衣食住である。そのうち、まず食について考えよう。スタートラインに立つ以前から食をもとめる行動は、700万年前からはじまっていたのであるが、13000年前までは、等しく狩猟採集の生活であった。それが11000年前には食物の栽培を行い、家畜の飼育をはじめた。最も早かったのは西南アジア、すなはちユーラシアである。ここでは紀元前8000年まえから食物栽培がはじまる。ほぼ同時期に家畜の飼育がはじまる。ユーラシア以外では中国、中米、南米アンデス地区、北米東部が地域独自に食物栽培可能な土地であったが、そのスタートはユーラシアからかなり遅れることになる。この一覧表が下図である。

地域チイキ

野生ヤセイシュから独自ドクジ出発シュッパツして地域チイキ

植物ショクブツ

動物ドウブツ

検証ケンショウされた最古サイコ年代ネンダイ

ネンマエ

1

南西ナンセイアジア

小麦コムギ

エンドウ

オリーブ

ヒツジ

山羊ヤギ

8,500

2

中国チュウゴク

コメ

雑穀ザッコク(アワ、コーリャン)

ブタ

カイコ

7,500

3

中央チュウオウアメリカ

トウモロコシ

インゲンマメ

カボチャ

ナナメントリ

3,500

4

アンデス、アマゾン

ジャガイモ

キャッサバ

ラマ

テンジクネズミ

3,500

5

北米ホクベイ東部トウブ

ヒマワリ

アカザ

2,500

6?

サヘル地域チイキ

モロコシ

アカザ

ホロホロチョウ

5,000

7?

西ニシアフリカ

アフリカヤムイモ

アブラヤシ

3,000

8?

エチオピア

コーヒー

テフ

9?

ニューギニア

サトウキビ

バナナ

7,000

からまれ土地トチ野生ヤセイシュ栽培サイバイになる

10

西ニシヨーロッパ

ケシ

エンバク

6,000

11

インダス流域リュウイキ

ゴマ

ナス

コブウシ

7,000

12

エジプト

エジプトイチジク

ショクヨウガヤツリ

ロバ

ネコ

6,000


                   図1 栽培の開始時期


 しかし、それはどの地域も一様に等しく始めたわけではない。当然そのスタート時期にずれがあった。しかし食料の生産は計画的に栽培するのと野生植物を採取するのにその生産性において10倍〜100倍の差がある。家畜を一箇所に集めて飼育し食料をとるのと、野生種の動物を追いかけて採取するのでは、だれがみてもその生産性は極端に異なる。そして食料栽培は自ずと定住生活となり、人口密度がたかくなる。子供の出生率もたかくなる。したがって人口がどんどん増えてくる。 一度食料生産を始めたら、その効果が徐々に人類の生活に変化をもたらしはじめる。食料の生産は備蓄を容易にする。備蓄を始めると、作業の分業がはじまる。食料の生産に従事する者と食料生産以外の者、そのうちでも、族長、その家来、各種の技術者、等等である。この人々が新しい技術を生み出すことのなる。例えば道具の開発、運送従事者等である。

 しかし、食料栽培がいきなり始まったわけではない。初期の栽培は大変未熟なものであり、おそらく試行錯誤の繰り返しであったのだろう。なにが栽培に適した食物なのか、栽培に必要な技術や道具はなにか。なによりもその地方に原種があるのかないのか。これらを最初にハードルをこえるのは困難であったであろう。そんな面倒くさいことをするより、野にある植物を採取したほうがはろかに手っ取り早かったであろう。一歩の差が大きな差になっていった。地域による栽培食物と開始時期をみると、ユーラシアの有利性がはっきりする。まず10000年前には小麦、大麦、エンドウが栽培された。これらの祖先種は栽培に有利な特性をそなえている。自生しながら大量な採集が可能であり、種子をまくだけで簡単に発芽した。これらの特性は移動狩猟採集民にとっては栽培、定住生活に移行が簡単であった。4000年前にはオリーブ、イチジク、ナツメヤシ、ブドウが栽培可能となった。これらは3年から10年の期間がかからないと収穫にならなかったが定住生活がこれを可能にした。その後リンゴ、ナシ、スモモ、サクランボの栽培がはじまる。これらの果実は栽培が困難なもので、試行錯誤のすえ栽培化に成功した。これらをみると、この地域に栽培可能な原種が存在したこと、当然のことながら栽培が簡単なものから順次栽培にはいっている。これらは地球環境の最大の恩恵を受けていることがわかる。

 ユーラシアに続いて食料生産に入ったのは西ヨーロッパ、インダス、エジプトである。これは明らかにユーラシアの技術の伝播によるものである。これらの地域には栽培植物の原種が発見されていない。もしあったとしても独自に開発するよりもユーラシアから伝播した技術を真似をしたほうが早く、確実に導入できる。一方中国、中米、南米アンデス地区、北米東部は、自生植物により独自に食物栽培が可能な地域であった。しかし、中国を除いて、ユーラシアからかなり遅れることになる。これらは何故なのだろうか。最初の発生地であるユーラシアから海をへだてて技術が伝播されず、原種も栽培のしにくいものであった。独自に栽培することのむずかしさを示している。

 一方、家畜の栽培である。原始人たちは動物性蛋白質がどうしても不足がちになりやすい。このため人口の増加が制限される。動物捕獲に危険がともなう。紀元前11000年までにはあらかた哺乳動物は絶滅していた。これは自然環境の変化により寒暖を繰り返した結果もあるが、動物同士の自然淘汰もあり、人類の捕獲の結果でもある。しかし人類は食料栽培と同じ時期から、動物の飼育をはじめた。哺乳類で家畜化されているのはほんの数種類の陸生の大型草食類だけである。これらのうち由緒ある14種が家畜化されその中でもメジャーな5種とマイナーな9種に分類される。
 

種類  年代(紀元前)   場所

犬        10000   西南アジア、中国、北米

羊         8000 西南アジア

山羊        8000   西南アジア 

豚         8000   中国、西南アジア

牛         6000   西南アジア、インド、北米

馬         4000   ウクライナ

ロバ        4000   エジプト

水牛        4000   中国

ラマ/アルパカ  3500   アンデス

フタコブラクダ   2500   中央アジア

ヒトコブラクダ   2500   アラビア

                

  図2 哺乳類が家畜化された時期


家畜の定義は計画的に出生させ、種の改変を行って、人間に従順な動物である。したがって、インド象などは出生から育てるのは困難で、野生のまま捕獲して飼いならすので家畜とはいわない。家畜化可能動物は地上に148種ほどいた。しかし実際に家畜化されたのはユーラシア13種(72種)、アフリカゼロ(51種)、南北アメリカ1種(24種)、オーストラリアゼロ(1種)という結果である()内は家畜化可能動物。即ちユーラシア以外はアメリカ1種をのぞいて家畜化されていない。ここにもユーラシア優位がみられる。これは何故なのか、ユーラシア人以外は知恵がなかったのだろうか。
 家畜化を阻害する条件を6つあげる。これらはどれかひとつ該当すれば他がすべて該当しなくても家畜化は不可能である。
 ̄造量簑蝓F食獣は餌の確保に飼育以上のコストがかかる。したがって、肉食獣は不適。
∪長速度の問題。生育に時間のかかりすぎる動物は不適(ゴリラや象)
H某上の問題。大群の中で生殖行為を行うことが出来ない種(チータ、ビクーニャ等)
さだの問題。人体に危険を加えるものは不適(クマ、ライオン、シマウマ)
ゥ僖縫奪になりやすい動物(シカ、トナカイ)
序列性のある集団を形成しない動物。牛や馬や羊は集団行動する。A,B,C,D,Eの牝馬がいれば、この順で序列をつくる。Aが一番上で順次B、C、D、Eが上の馬に服従する。Aの集団はまず牝馬、子供馬の年齢順最後が牡馬で秩序を形成する。したがって人間は牝馬Aをコントロールすることにより、全体をコントロールできる。人間の替わりに犬でもよい。

 このように人類は穀物を栽培し家畜を飼育して移動狩猟採集民の生活から定住にと変化してきた。文明の起源はこのようにユーラシアが一歩先んじて出発した。


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人類と環境 -3-

 前回(人類と環境 -1-  人類と環境 -2-)家畜について述べたがこの内、犬と馬は特別な存在であった。犬はペットとして、また、番犬や家畜の誘導犬として活躍した。犬以外家畜のいない所では食用となった地域もあったが、基本的には実用犬として利用した。また、馬は従来の戦闘の方法をかえて、戦争の機動力として活躍することになる。牛は食用以外に牛乳やチーズを供給した。羊は羊毛を衣服に利用した。(人類と環境-その1-)(人類と環境-その2-)
  一度食料の計画的生産がおこなわれ、家畜の飼育により単位面積あたりの生産性が飛躍的に増大するようになると、当然その有効性を真似する人々もおおくなる。この地域伝播性について考えたい。世界地図をみると、たとえばユーラシア地区は東西に西ヨーロッパから東は中国北京あたりまで地続きである。この距離13000キロ。これに対しアメリカ大陸は南北15000キロ、東西最大4800キロ、アフリカの南北3200キロである。これが、世界の文明史に決定的な差を生じたとしたら驚くべきことである。東西に地続きということは同一緯度の中を地続きであるということで、食料生産や家畜の成育においてほぼ同一条件であるということだ。ある地域が春ということはこの東西の帯の上はすべて春である。すべてが例えば温帯の帯にあることだ。これは隣地区同士にすばやく伝播することを意味する。現にオセアニアから西ヨーロッパには2500年で伝播しており、インドのインダス地方には1500年の時間しか経過していない。

世界地図

世界の大陸の方向


 これに対してアメリカは食料生産の面で異なっていた。その最も歴然とした違いは、大型動物が飼育されていなかったことである。ユーラシアでは13種の大型動物が肉や乳といった動物性蛋白質、羊毛、毛皮の供給源として飼育されていた。また馬など運搬手段として、鋤を引く動力として、あるいは軍用動物として活躍していた。一方アメリカはといえば、わずかに一種ラマ/アルパカのみで肉、毛皮、毛織物の原材料の供給源であったし、運搬手段であったが、人を運ぶことはなかったし動力源として活躍することもなかった。軍用にも使用されなかった。これらの途方もない違いは大型野生動物が更新世末期に絶滅してしまったことに原因があり、もし絶滅していなかったら、様相は変わっていたであろう。勿論小型動物として鶏、アヒル、ウサギ、犬、猫など生息していたが、大型動物のような人間にとっての有用性には格段の相違があった。
 一方農業生産においても異なっていた。南北アメリカは共に農業が行われていたが、蛋白質の乏しいトウモロコシの栽培に多く依存していた。ユーラシアは種を散播するがアメリカは点播であった。鋤は動物に牽かせるがアメリカは人力であった。アメリカの大平原は土地が硬く、耕作に苦労する。動物の排泄物を肥料に利用できなかった。このように自然環境の違いの上に、人口の少なさ、技術の蓄積の違いにより、格差は歴然としていた。
 その上にアメリカは南北に長い関係で北極カナダから北米、パナマの地峡を越えて南米インダスにいたる。さらにアルゼンチンに至るまで、途中、北極から山脈から、砂漠に至る障害に遭遇する。これを種や技術が伝播するには多くの障害があり、数千年の時間でも足りないのである。北から南まで気候風土が五層にも六層にも別れ、かつパナマ地峡の熱帯雨林帯は種の伝播には決定的に不利であった。以上述べた条件であるから人口が当然少なく人口が増えることがない。北米東南部は居住好適地でありながら、人口がまばらで連続性がなく東西方面にも山地や砂漠により寸断されて、発展が出来なかった。
 やがてコロンブスが1492年アメリカ大陸を発見すると、まもなくスペイン人がやってきて、インカ帝国、アステカ帝国を滅ぼした。圧倒的な戦闘能力と伝染病に、原アメリカ人は2000万の人口が全滅の憂き目にあった。やがて北米は西欧人の天国となる。

 もうひとつの大陸アフリカもアメリカとほぼ同じ運命をたどる。アフリカも南北に長い地形を持ち、赤道をはさんで、多様な気候を有する。西暦1000年頃、この南北に五つのエリアに分断されていた。北から白人、黒人、ピグミー族、コイサン族、そしてマダガスカル島にはインドネシア人である。ピグミー族、コイサン族は今でもアフリカにしか住んでいない。共に狩猟採集民で熱帯雨林帯に住み、ピグミー族は黒人より更に皮膚の色が濃く、体系も小柄である。コイサン族はかってホッテントットとかブシュマンと呼ばれアフリカ南部一体に広く分布していた。白人が侵入したころ、彼らは隅においやられ、やがて人口が激減した。人種が五つに分断しているように、自然環境も種種多様である。まず北アフリカの地中海沿岸から赤道以北サハラ砂漠までである。ここでは、気候も地中海気候でユーラシアとは近くそれぞれ種や食料、家畜など伝播したと思われる。ここではエジプト文明が栄えるなど一時、世界の文明をリードした。サハラ砂漠の南岸にはピグニーが生存しているが、これより南側は食料の原種が殆どない。また、家畜種も猛獣ばかりで家畜化に成功した動物は皆無である。したがって、ピグニー族、コイサン族は長く狩猟採集生活を余儀なくされた。近年南アフリカが入植により、農耕生活が可能になった。最後にマダガスカルであるが、ここにはアジア民族が早い時期入植してきた。これは、台湾、インドシナあたりからボートに乗った海洋民がジャワ、スマトラに向かッた民族で一部マダガスカルに向かったものとおもわれる。先に記したように南北の気候、地形が多様で、家畜も農業も原種が存在せず、伝播にも障害がおおく、南北の伝播は不可能であった。

 ユーラシアはいつまでも有利な条件ばかりを享受してはいられなかった。紀元前2000年ころから土地が乾燥し砂漠化してゆく。これは、人口の激増と家畜の増加による、自然破壊が主な原因であった。特に雨量が他に比べて少なく、増加した人口、家畜の総数を賄うには少なすぎた。やがて文明はギリシャ、ローマから西ヨーロッパにと移ってゆく。中央アジアからインド方面に移って行く。これも自然の摂理であった。

 結論を述べると、ヨーロッパ人がアメリカやアフリカやオーストラリアを植民地化できたのは、白人の人種主義者が考えるように、ヨーロッパ人と他の人種に、人種的な差があったわけではない。それは地理的偶然と生態的偶然のたまものにすぎない。しいていえば、それは、ユーラシア大陸とアフリカその他の広さの違い、東西に長いか南北に長いかのちがい、そして栽培化や家畜化可能な野生祖先種の分布状況のちがいによるものである。つまり究極的にはヨーロッパ人とアフリカ人、ヨーロッパ人とアメリカインデアン、ヨーロッパ人とオーストラリアのアボロジニ人が各々の土地が入れ替わっていたら、現在の白人が少数民族に陥っていたであろうことは容易に想像できるのである。

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纒向遺跡第166回調査発掘現地説明会

纒向遺跡については以前2回書いた。最初は纒向遺跡のロマン、2回目は纒向遺跡発掘現地説明会であった。2回目は162次の調査説明会でこの時の調査区の東に更に建物跡がありそうだということがわかっていた。今回はこの建物跡を実際調査してそれがどのようなものなのかを、確認するための発掘であった。そのため当レポートも前回の調査報告の続きとしてご覧いただきたい。前回の調査報告(纒向遺跡発掘現地説明会纒向遺跡調査区内遺構配置図) の図面を見ていただきたい。この図の地点Gに一部柱の跡が見える。これで東地区に更に遺跡があることが予想されたのである。しかも、ラインDとラインGが平行している。これは162次で発掘された建物と何らかの意図された建物が存在することが予想された。案の定今回の発掘は大変な発見で全国古代史ファンの注目をあびた。
 もともと纒向遺跡は三世紀前半、大和朝廷の前進にあたる巨大な遺跡が発掘された頃から、邪馬台国に比定され大和説の中心として考えられていた。なにしろ石塚古墳等最古の古墳群が纒向古墳として存在し、且つ、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳が近所にあり、時代が合うこと、大和朝廷の古さとであることなど考えて、邪馬台国が大和国家につながるものと考えられているのである。

 今回の発掘調査図面と第20次、第162次遺構配置図をみていただきたい。第20次発掘遺構は建物Aで第162次発掘遺構は建物Bであらわしている。更に今回発掘されたのは建物Cと建物Dである。すなわちラインGの建物は、建物Cであった。更に大きな建物が建物Dとして、地上に現れたのである。ここで注目すべきは、建物A、B、C、Dが東西軸にたいして5°ずれて建物、柱列の方向が一直線に統一されていることである。一番大きい建物Dは南北4間(19.2m)X 東西4間(12.4m)であり、建物Cとの距離6.4mであった。尚、建物Cは東西両端の柱列が消失されており、実測されていないがおそらく3間X2間(南北8m、東西5.3m)と推定される。建物Dの用途はまだ確定されていない。おそらく王の居館であろうが今後の研究がまたれる。専門家の推定で建物の東西側面図と発掘現場の写真を掲載する。発掘現場写真では太い柱と細い柱があるが、太い柱は屋根まで突き抜けた柱で細いものは床を支えるものである。

 いずれにしても3世紀前半の建物は環濠や地形に沿った形で立てるもので、このように土地を整地して4棟一列に計画された建物は他に類例がない。4棟の各々の役割が判明されれば、当時の状況も相当理解できるようになるだろう。

 この場所はJR桜井線巻向駅のすぐ西側でこれ以上東に何があったか発掘はむずかしい。線路の東は住宅密集地である。しかし、発掘調査は全遺跡地帯の10%も達していない。まだまだ、なにが出てくるか分からないのである。情報によるとこの遺跡は現在私有地であるので、公共機関が買い取って公用地にすることを、計画しているようである。そうなれば遺跡保存は格段に進み、調査も進展する。

 一言苦言を評したい。今回の発掘は確かに画期的ではあるが、これがすぐに邪馬台国と結びつくものではない。それは誰でもわかっているのであるが、マスコミが騒ぎ立て、地元が観光開発に観光客を呼び込むことに熱心で、そればかりが先行してしまう。

 そもそも、3世紀はじめに日本が統一されているはずがない。その頃は国というものがまだ概念もないのである。邪馬台国の使者が中国の国王にお前の国の名はと聞かれて、何のことだか分からず自分という意味の「わ」を「倭」と国名にされてしまったというのが何か本当のような気がする。魏志倭人伝にも沢山の国名が出てくるが、すべて九州地方のもののようである。当然大和にも国王的な存在はあったのであろうが、この時代せいぜい大和盆地に10か20ある部族の一部族であったはずだ。九州僻地のヤマタイの一小国が隣の国との戦争に困り果て、大義名分を貰いに行ったのであろう。邪馬台国論争は東京出身者が九州説をとり、関西学者が大和説をだいたいとっている。どうも我田引水的である。
 

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纒向遺跡166拡大図

纒向遺跡166拡大図面

巻向遺跡2

纒向遺跡166発掘現場拡大図

巻向遺跡3

建築物D東立面図

巻向遺跡1

人類と環境 -4-

  このシリーズもこれで4回目となる。ニューギニア、オーストラリア、ポリネシアについて記す。
 この三地区に人類が定着し始めたのは、33,000年前、40,000年前、1,200年前である。4万年前は東シナ海一体は氷河期で、水面が今より100m低かった。台湾は中国と陸続きであり、マレー半島からジャワ、スマトラとスンダランド大陸により陸続きで、ニューギニア島には最短80キロの距離であった。またニューギニアとオーストラリアは一体で陸続きであった。従ってこの頃スンダランドに住んでいた南アジア系の民族がスンダランドからニューギニアにカヌーで渡り、更にオーストラリアの南東、南西の隅まで移動した。これらの人類はオーストロネシア人といい、もともとアジア系の民族であった。やがて最終氷河期が終わり、海水面が100メートル上昇し現在の地形になるとニューギニア、オーストラリアの周辺は海となりインドシナの島々は大陸から取り残され3万年の間、人類の移動は途絶えた。勿論ポリネシアはこの頃は無人島であった。3万年の年月はこの地区の人々の様相はアジア人と全く隔絶した容嬌になっていた。ニューギニアのパプア語もオーストラリアのアボロジニ語もアジアの母語とはかけはなれた言語となっていた。

スンダランド

スンダランド  かつて氷河期といわれた頃大きな大陸があった。

 オーストラリアは高温で乾燥し(降雨量は年間50ミリ)大部分が砂漠で東南と南西部のわずかな居住可能地に、原住民は狩猟採集民として移動生活をしており、農業は行っていなかった。家畜も飼育せず、金属器も弓矢もなかった。首長社会も形成しているわけではなく、小規模血縁集団で暮らしていた。彼らはいまだに石器時代で暮らしていた。オーストラリアの東南、タスマニア島は13000年前温暖化で海水が上昇し完全孤島となってから、西洋人が入る1800年頃まで、5000人の現地人はオーストラリアより更に古い、原始生活をする民族として発見された。

 一方ニューギジアは赤道直下で高温で多雨、世界でも最も雨量の多い地域である。火山活動が活発で前進後退を繰り返す氷河に高地は侵食され、渓谷を流れる川が大量の沈泥を低地に運んでいる。そのため若く、肥沃な土壌に覆われている。このため低地は石器時代をぬけず、焼畑農業でバナナやヤムイモを栽培する狩猟採集生活を送っていた。またサゴヤシからとれるでんぷん質を主食としており、これが高カロリーでしかも高生産性であり、必然的に農業より狩猟採集生活のほうが生活しやすく、いつまでも農業に進展しなかった。1200メートル以上の高地では、わずかに農業をいとなんで、定住生活を行っていた。しかし、山々で分断され人の往来はなく、狩猟採集と高地の小規模定住生活では、人々の知恵も技術も蓄積されず、閉ざされた原始生活を送っていた。世界で言語といわれるものが5000あるうちの1000言語がニューギニアにあるということは、島内が全く統一されてないことをあらわしている。

 紀元前4,000年頃、台湾と中国の間に海人が発生した。彼らは船をよくあやつり、盛んに交易などして活発に海の行き来をしていた。船は大変優秀で島近辺を航行するときは、底の扁平な舟で川や湾内を往来していた。そのほうが底が浅く、航行範囲が広かった。しかし大海を航海するときは、それではすぐ転覆せてしまうので、底の尖った安定性のあるスピードの出る舟を使ったようである。また腕木(アウトリガー)という転覆防止の工夫もされていた。この人々が台湾を出発し、フィリッピンからジャワ、スマトラ、ボルネオあたりに遠海航行をしたらしい。これは台湾の古代遺跡から、船を作る道具が多数発掘されたのと、言語が東南アジア一帯似通っていることから、推測できる。これらの人々はやがて、ニューギニア、オーストラリアから更にその先フィジー島、サモア諸島、マルケサス諸島、ハワイ諸島へと航海した。更に一部はアフリカの手前マダガスカル島にまで行きついている。この内ジャワ、スマトラ等いまだに石器時代を出ない島々には新人種にすべて占領されたが、ニューギニアだけは占領を免れた。これは島内高地の既に農耕を始めていた場所では、抵抗力が強く、わずか沿岸付近だけが、占領されたようである。これは、この民族特有のラピタ土器がポリネシア諸島一体に出土しているが、これがニューギニア島からも発見されていることからもわかるのである。それとある程度農耕生活にはいっていることは、熱帯特有のマラリヤ病にかかり、他の民族はこれを受け付けなかった事情があったようだ。

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人類と環境-5-中国

 さて中国である。中国は農耕が始まったのは8000年前で、小麦やアワ、コーリャンなどを栽培していた。また、家畜も豚、山羊、蚕など飼っていたようだ。中国は主に北部黄河一帯方面と南部揚子江一帯に分かれて発達したようであるが南北の関係も、地形的に途絶えていたわけではなく、それなりに交易していた。注目すべきは4000年前には米を江南一帯で栽培が始まっていたようである。河姆渡(かぼと)遺跡は水田の痕跡を現代につたえている。このことはユーラシアに負けず劣らず早くから文明は発達していたことをあらわす。中国南部、インドシナ方面は民族のるつぼである。これは言語の分布を見ればわかる。この地方には8つの言語ファミリーがあり、これがインドシナ地区に入り乱れている。 ファミリーというのは異種言語で、民族が異なることで、ファミリーの中に無数の方言を有する。通常言語は地域ごとにまとまりをもつのであるが、これが入り乱れていることは、長期間相当な圧迫を加えられ、民族の移動を余儀なくされた証拠である。これは多民族が北からの圧迫を受け、民族がちりじりばらばらに住み着いたことをあらわす。実際中国の言語は中心部は漢語で統一され統一国家が早くから確立されていたことがわかる。統一過程において人種浄化や言語の統一が大規模に行われた形跡である。すなわち、中国は農耕に入る基本的条件としての農耕の原種が存在し、的確な家畜の原種が存在していたことがわかる。しかも大量な人口を吸収できる規模に存在したことが特徴である。このため、周辺地域から多くの民族が流入した。寒冷期になると食料が不足する北方民族は常に中国中心部に進入し、生存競争を展開した。と同時に農耕社会は権力の集中化をうながし、権力集権国家が早くから指向された。

中国の年代は有史以前も含めて下図のようになる。

年代備考
仰韶文化(中原)BC4000〜2000彩陶
竜山文化(中原)BC2300〜1500黒陶
 青蓮崗文化(長江下流域)BC3800〜3400
 屈家峰文化(長江中流域)BC2300〜2100
 良渚文化(長江下流域)BC2000〜1900
   (注:河姆渡(かぼと)遺跡)BC5000〜3000
夏文化BC2050〜1550推定
殷(商)BC1550〜1027竜山文化に接続
周王朝BC1027〜
 西周BC1027〜771
 春秋時代BC770〜403
 戦国時代BC403〜221晋は韓、魏、趙に分裂
秦王朝BC221〜206
漢(前漢)BC202〜AD8

この間仰韶文化(中原)が紀元前4000年から2000年に存在したと伝えられている。この頃から漢語の統一、他民族の圧迫、排斥がおこなわれたようだ。内乱が打ちつずき、このあたりの人種存在争いは日本では考えられない峻烈なもので一族総抹殺、追放、人種浄化にいたる。万里の長城を見てもその一端が理解できる。先に記した台湾から端を発した海洋民族の大移動もこのような人種圧迫からきたものであろう。好き好んで危険な遠洋に出るはずがない。日本への米の渡来もこの一端であろう。

 さて有史以来、中国はユーラシアに劣らない生存のための基礎的条件を保持していた。十分な食料、家畜を有し、定住生活を可能にした。中国は常にユーラシアより文明の点で進んでいたと思われる。紀元0年当時、青銅冶金技術、城砦技術、装飾墓、文字の発明、500年当時、鋳鉄、製紙、磁針、車、火薬など。とりわけ集権国家体制で西洋文明に先行していたとおもわれる。なのに何ゆえ近世において西洋文明に遅れをとったのであろうか。最後にこの問題を考えてみたい。

 下記地図をご覧いただきたい。ヨーロッパと中国の地図である。話を15世紀前後に飛ぼう。
        

欧州と中国

欧州と中国


 地図の形はいつも同じであるが、15世紀の頃はこの形が決定的な差となってあらわれた。
一言で表現したらヨーロッパは海洋国、中国は内陸国であることだ。ヨーロッパの海岸線は長く入り込んでいる。特にアフリカ北部との交易は重要で地中海の存在が大きい。北欧や英国との交易も海を使う。一方中国は殆どが陸運で、黄河、揚子江の交易も必要なら運河を開通させたほどである。朝鮮、日本との交易も中国国内に比べたら無にひとしい。にもかかわらず、1405年鄭和は最初の大航海を試みている。明朝永楽帝の命によりこの航海は、『明史』によれば長さ44丈(約137m)、幅18丈(約56m)という巨艦であり、船団は62隻、総乗組員は2万7800名余りにのぼる。蘇州から出発した船団はチャンパ→スマトラ→パレンバン→マラッカ→セイロンと言う航路をたどり、1407年初めにカリカットへと到達した。
5回目は1417年の冬に出発し、本隊は前回と同じくアデンまで到達したが、途中で分かれた分隊はアフリカ大陸東岸のマリンディにまで到達したという。1419年8月に帰国、ライオン・ヒョウ・ダチョウ・シマウマ・サイなどの珍しい動物を連れ帰っている。特に永楽帝を喜ばせたのはキリンであり、これは王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物「麒麟」として紹介されたからである。鄭和は第7回まで実行している。

鄭和の船

鄭和の船(予想図)

この頃の世界の大航海を見ると以下のようになる。
1405年 鄭和が永楽帝の命により第1次航海へと出る。
1431年 7回目航海 永楽帝の死後に孫の宣徳帝の命令による。
1492年 コロンブスがバハマ諸島に到達。
1497年 バスコダガマ アフリカ南端の喜望峰を通過 翌年インドのカリカットに到着
1520年 マゼラン海峡発見

中国の航海は鄭和以降中止される。宣徳帝以降の鎖国政策が実行されて、航海の経費を節約された。鄭和の詳細な記録も宦官の思惑により廃棄され、歴史上からも抹殺された。これは皇帝による興味の範囲をでておらず、絶対国家の皇帝の命令が絶対的であった。中国は常に独裁国家であった。これは中国を取り巻く東南アジア全体が中国こそ中華の国と認めており唯我独尊体質が現在に至るまでつずいてきた。従って強大な敵があらわれても、宦官国家は危機感を持たず、意思決定が常に遅れた。しかし、基本的には海洋航海を必要とする環境ではなかったことが主な原因である。
 一方ヨーロッパは欧州の強国が互いに鎬をけずり、折からの領地拡大に腐心していた。ひとつの発見が次の興味を呼び、さらに次の発見をうながした。領土拡大は資源獲得、交易量拡大につながり、富の蓄積につながった。
 歴史にもしはないが、もし鄭和が喜望峰をまわり、イベリア半島まで到着していたら、後の時代は変わっていたであろう。モロッコか、ポルトガルにこれだけの軍隊を見せつけ、大打撃を与えていたら、後世における屈辱的な侵略はなかったであろう。かえすがえす、残念である。

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欧州と中国拡大図

欧州と中国

欧州と中国拡大図

鄭和の船

鄭和の船

衾田陵(ふすまだりょう:手白香皇女陵墓)

 奈良盆地の国道で169号線がある。これは山辺の道に沿った国道で、この道をドライブすると古の大和を満喫することができる。桜井から天理、奈良までの国道で大神神社から石上神宮までが特に美しい。美しいだけでなく、風景の一こま一こまが「記紀」「万葉」をはじめ古代大和の歴史が包まれており、しかも考古学ファンにとっては未開発の歴史の宝庫である。未開発であるから想像をかきたてるのだ。桜井方面から北上すると右手は奈良盆地と大和高原の境目で一帯が山裾で、ここに眠る古墳群は大小あわせて名前のあるもので百にのぼる。今回はこの一角代表的な古墳である、衾田陵とそれに関連する陵墓の比定の話である。


 あらかじめ登場する陵墓の概略を示しておく。

古墳宮内庁比定想定陵墓長後円部径前方部幅 築造時期古墳場所
西殿塚古墳手白香皇女崇神天皇(10)234m135m、118m3世紀後〜4世紀初大和古墳群
西山塚古墳不明手白香皇女114m65m70m6世紀初大和古墳群
今城塚古墳 不明継体天皇(26)約350m約100m148m6世紀前高槻市郡家新町
大田茶臼山古墳 継体天皇不明226m147m117m5世紀中茨木市大田
山辺の道勾の岡 崇神天皇不明242m158m 100m4世紀始柳本古墳群

 主人公は手白香皇女である。継体天皇の皇后になった。この皇女が薨去した。死亡年齢、年月は不詳であるが、継体天皇の皇后になったのは503年で6世紀はじめに生存したのは確かである。そして、大和の衾田に葬り、崇神天皇陵の陵守を兼ねさせたと記録された。それを衾田陵といわれてきた。すなわち手白香皇女の御陵を衾田陵というのであるが、それが具体的にどこの陵かが問題なのである。明治9年天皇の陵墓の治定の時、衾田でも最大の西殿塚古墳を衾田陵とし現在に至っている。しかしこれがあやしいのである。西殿塚古墳は未発掘であるが修理をした時に採取した埴輪の破片から、この陵は3〜4世紀の墓であり、この年代特有の特殊器台から明らかに年代が合わないのである。この近辺の古墳群はすべて3〜4世紀の墓であり、その中で6世紀初の西山塚古墳が1個ある。西殿塚古墳は後円部を北にむけたいわゆる北向き古墳であるが、この古墳は南向きで300mはなれて、後円部を沿い合わせているように見える。これが衾田陵であれば年代的にも合い、記録どうり崇神天皇陵の陵守を兼ねさせたとなれば、西殿塚古墳こそ崇神天皇陵であることになる。ならば現在の崇神天皇陵はだれの陵であるのか。このへんは確証がないので宮内庁も具体的に行動を起こしていないし、もた行動をおこすと、天皇陵なるものがドミノ倒し的に変更されなければならない。もともと伝承に基ずいて明治以降宮内庁が治定したもので、当然記紀などを参照したのであろうが、記紀自体が数百年前の伝承に基ずいて作成されたものであるから必ずしも正確ではないのである。山辺の道勾の岡陵を崇神天皇陵に治定する以前は西殿塚古墳が崇神天皇陵と言い伝えられていたようなのである。とすれば衾田陵とは西山塚古墳をいうというのが考古学的知見である。

西殿塚古墳

西殿塚古墳

西山塚古墳

西山塚古墳


 さて継体天皇は応神天皇の5世の孫ということで皇位についた。このあたり(天皇家のルーツ)を参照してください。応神天皇の5世の孫といっても当時の人々はおそらく信じなかったのであろう。歴史家は天皇家断絶が少なくとも3回あったという。最初は10代崇神天皇、2回目は15代応神天皇、3回目は継体天皇である。継体は側近のすすめもあって24代仁賢天皇の娘手白香皇女を娶った。手白香は正当な応神天皇の流れを汲む血筋であった。従って後継問題も手白香皇女の子供であれば問題ないと思ったのであろう。実際欽明天皇をもうけ、29代天皇についた。この欽明が二人の蘇我馬子の娘を娶り、その子供たちが蘇我家の隆盛を築くのである。

 手白香皇女の夫継体天皇も以前は大田茶臼山古墳が「継体天皇三嶋藍野陵」として治定されていた。今もそれは変わっていない。しかし、ここから1.5KM東に今城塚古墳がある。1997年から10年にもわたって、10次に亘る発掘調査がおこなわれた。その結果築造時期や埋葬されていた埴輪や備品から、こちらのほうが継体天皇の陵に考古学的には合致することがわかった。大田茶臼山古墳は以前から陵の整備がなされ堂々たる姿をそなえているのに比べ、今城塚古墳はその名が示すとうりかっては戦国時代、三好長慶の出城として築城されたが、織田信長によって攻め滅ぼされ、古墳は荒れ果てていた。現在高槻市と茨木市にわかれているが、かっては三好の地といはれていたのかどうかわからないが、治定時点では立派なほうを継体陵としたようだ。現在史跡公園として整備されているが、史跡公園ということは宮内庁指定の天皇陵とはならないということか。

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日本弥生の原景

 上海の南に河姆渡(かぼと)という遺跡がある。1973年から78年までの文化大革命のさ中に、今から7000年前の地層から栽培稲の稲束が発見されてた。世界4大文明と称される中国の「黄河文明」と時を同じくして、長江(揚子江)流域にも古代文明が存在していた事実が明らかになったのである。発見された稲束は、10cm〜80cmに及ぶ厚みを持った稲籾(もみ)とわら束だった。遺跡からは、野生種「ルフィポゴン」も見つかった。栽培の元になった野生稲である。これで、ここが稲の栽培源流地であることがほぼ確定したと言える。現在野生種はこの地方には生育していないが、水牛や象の骨が発掘されているので当時はもっと気温が高く、上海の北あたりまで野生種は生えていたと考えられる。河姆渡遺跡発掘の後、長江流域で次々に遺跡が発掘され、今の所一番古い遺跡は14000年前の「仙人洞遺跡」とされるが、これは栽培稲の測定はされていないので、今の所学会定説としては「稲は、長江流域でほぼ10000年前くらいに栽培が開始された。」と言うことで合意をみているようである。細かい年代測定については諸説あるが、栽培稲がインドではなく、長江中下流域で生まれたという説には反対意見はないようだ。従来「インド・アッサム地方−中国・雲南省が稲の起源」との説をくつがえし、揚子江流域が起源であることが重要である。農業栽培は米にかぎらず、原種が存在してこの原種を本格的な人工栽培に変化していく進化をたどる。おそらく、その期間は数千年を要するであろう。そして他地域に伝播する。(人類と環境-1-ユーラシア参照)稲の来た道参照)。

河姆渡遺跡2

稲のルート

河姆渡遺跡1

河姆渡遺跡稲の原種をおもわせる湿地帯


 発掘物の調査から動物の肩甲骨や木で作った鋤で土地を耕し、貝殻で作った刃物で稲の穂を摘んでいた。木で作った杵が見つかっているので、籾を臼に入れて脱穀していたようだ。米は甑を使って蒸して食べていた。こしき【甑】とは 昔、強飯(こわいい)などを蒸すのに使った器である。
 飼っていたブタは食料であり信仰の対象でもあった。石斧で木を切り削って高床式の建物を低地に建てて住んでいたと考えられ、その形態は佐賀県菜畑遺跡の有様と酷似している。杭州市にある同省文物考古研究所によると、河姆渡遺跡では1970年代の発掘調査で、5900年から6400年前の層から赤漆塗りの椀、7000前までの層から漆塗りとみられる筒が出土したほか、ウルシの花粉や漆が塗られたとみられる土器なども見つかっている。
 日本への稲のルートについても、朝鮮半島経由というのがこれまでの主流だったが、日本最古と言われる岡山県朝寝鼻遺跡のプラントオパールは、水田稲とも陸稲とも区別が付かない「河姆渡」型の稲であり、起点と終点が同じと言うことになれば、必ずしも朝鮮を経由していない稲がある可能性も俄然高まったといえる。またかって柳田国男が唱えた、いわゆる第三のルートといわれる「南からの海上の道」についても、このルートを通ってきた稲が熱帯ジャポニカであることが佐藤助教授のDNA分析で明らかになっている。つまり稲は、3つのルートの全てから日本列島にもたらされたことになるのだ。

 これが日本にきたのは板付遺跡の例を説明したが、菜畑遺跡も有力な説である。「魏志倭人伝」に現れる「末廬国」(まつろこく)は、佐賀県の、ここ唐津を含む松浦半島東側一帯にあったクニだと考えられている。古代から大陸との交流が多くあった場所である。菜畑遺跡は唐津市の西南部にある。昭和55年から56年にかけて行われた発掘調査により、縄文時代前期から弥生時代中期に至る遺跡である事が確認された。なかでも縄文時代晩期後半(約2500〜2600年前)の水田跡の発掘と、付随して出土した数々の農機具は、我が国稲作の起源が縄文晩期後半まで遡る事を明らかにした。福岡の板付遺跡の発見では半信半疑だったものも、ここに至っては「縄文時代の水田」を認めざるを得なくなった。稲作は弥生時代に開始されたのではなく、縄文時代の末期に既に定着していたのである。もちろん稲の最初の一束が日本に来たときが、弥生の始まりの定義ではない。
 遺跡からは、多数の炭化した米や石斧、石包丁、石鏃などの石器をはじめ、クワやエブリ(柄振り)その他の農具とともに20〜30の水田跡も発見されている。また稲作のみならず、アワ、ソバ、大豆、麦などの穀物類に加えて、メロン、ゴボウ、クリ、モモなどの果実・根菜類も栽培していた事が判明した。中でもメロンが縄文後期に既に栽培されていた事は大きな驚きである。さらには平成元年の発掘で、儀式に用いたと思われる形のままの数頭のブタの骨が出土し、ブタが家畜化されていた事を裏付けた。これらの事実から、「菜畑遺跡」は我が国「農業の原点」であった事が証明されたのである。

菜畑遺跡

菜畑遺跡から発掘された縄文田

 北陸地方における縄文時代の特筆すべき遺跡「鳥浜貝塚」は、福井県三方町の三方駅から西方約1km、三方湖に注ぐ「はす川」と高瀬川の合流地点にあった。発掘現場そのものは現在水中に没しているが、この河原付近に最近(平成12年5月)この遺跡をテーマにした「縄文博物館」がOPENした。遺跡の発掘調査は、昭和37年から60年まで10次にわたって行われた。その結果、約5000年〜6000年前の縄文時代前期の遺跡である事が確認された。縄文時代には「鳥浜貝塚」の周辺まで湖がせまり、遺跡の西方から伸びる丘陵が岬のように湖に突きだしていた。縄文人達はこの丘陵先端の南側斜面に住居を構え、貝殻をはじめさまざまな日常生活のゴミを廃棄して遺跡が形成されることになった。「鳥浜貝塚」は海抜0(ゼロ)メートル以下の低湿地遺跡と呼ばれる河床の下から見つかっているため、さまざまな遺物が破壊・分解される事無く今日まで残ったもので、縄文人が湖岸から水中に捨てていた日常生活のゴミの山が彼らの生活ぶりを現代に蘇らせる「宝の山」となったのである。とくに調査が進んだ段階での第4次発掘調査(昭和47年)では、「鳥浜貝塚」のシンボルとも言える縄文時代の逸品「赤色漆塗り櫛」が発見された。9本歯の短い飾り櫛とみられ、堅いヤブツバキの1枚板で作られている。縄文時代にこれほど完全な漆塗り技術が存在していたとは誰も想像すらできず、各方面に大きな衝撃を与えた。その後、三内丸山遺跡をはじめとして幾つかの縄文遺跡から漆塗り製品が発見される事になるが、当時は「縄文時代観」を覆す大発見だった。「取り上げた瞬間は真紅の櫛だったものが、5000年後の空気に触れたとたん、手の中でみるみる黒ずんだ赤色に変色していった。」という報告書の記述は、発掘現場に居た者ならではのリアルな驚きと興奮が伝わってくる。漆塗り製品の出土はその後も続き、赤色漆を全面に塗った上に黒色漆で模様を描いた木製の深鉢や皿、さらには焼いた上に真っ赤なベンガラを塗って仕上げた丹彩土器など、当時の技術の高さがしのばれる。

縄文漆の櫛

縄文漆塗りの櫛(鳥浜貝塚)

 また、鳥浜遺跡からは1981年7月と1982年に丸木船が1隻ずつ出土した。前者は縄文時代前期のもので、当時この期の丸木舟としては日本最古であったので第一号丸木舟と名付けられた。(1998年に京都府舞鶴市浦入遺跡でも同時期の丸木舟が出土している。)保存状態は良好であるが先端部分が失われている。船尾はとも綱を巻き付けたものか浅いくぼみが残っていて、長期間使用されたことが窺える。舟体は直径1メートルを超えるスギの大木を竹を縦に二つに割る要領で造ったと想像でき、内と外を削り、火に焦がしたりして造っている。舟底は平たい。長さ6m、最大幅63cm、厚み3.5〜4cm、内側の深さ26〜30cm。後者は縄文時代後期(約3000年前)のもの船底のみが残っていた。現在の長さ3.4m、最大幅48cm、厚みは4cmで、内側には肋骨のように舟を補強するためのものか、または、漕ぐ時に足をかけるものか分からないが、凸型に彫り出してあった。河姆渡遺跡で発見された赤漆塗りの椀や7000前までの層から漆塗りとみられる筒との関係は明らかではないが、最初の稲作渡来人はすでにこの頃から徐々に渡来はじめていたのかもしれない

稲作渡来人と船

土井が浜頭骨

土井ヶ浜遺跡から発掘された人骨

 最後に人骨である。土井ヶ浜遺跡は本州最西端に位置する山口県の響灘に面する西海岸沿いにある弥生時代の埋葬跡で300体を超える人骨が発見された。約2,100年前ごろからこの付近に居住していた弥生人たちは、この丘陵地を墓地として使用するようになった。かれらは体の軸がほぼ東西になるように埋葬し、しかも頭をやや高くし、顔が西側を向くように、すなわち海岸の方向へ顔を向けて葬られていた。土井ヶ浜遺跡は昭和28年から昭和32年まで5次にわたる発掘調査がおこなわれ、初めて弥生人の顔・かたちが判明した。彼らの顔・かたちは、面長で、鼻根部が扁平で、高身長という、縄文人とは異なる容貌をしていることが明らかとなり、日本人の形質変化の研究や日本人の起源論争に大きな一石を投じることになった。この人々は揚子江沿岸から来た稲作渡来人であろう。

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天誅組の変

  天誅組の変(てんちゅうぐみのへん)は、幕末の文久3年(1863年)8月17日に吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団(天誅組)が公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件である。尊皇攘夷派による、初めての武力蜂起とされる。大和義挙、大和の乱などとも呼ばれる。


 時系列にそって天誅組の変を追ってみよう。

(五条入府まで)
8月13日 孝明天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられる(大和行幸)。この大和行幸を推進したのは、長州藩に気脈を通じる三条実美ら攘夷派公卿であった。吉村寅太郎は松本奎堂、藤本鉄石、池内蔵太ら攘夷派浪士と語らい、大和行幸の先鋒となるべく大和国へ赴くことを決議。
14日 吉村らは中山忠光を誘い出し忠光を大将とする同志38人(内、土佐脱藩18人、久留米脱藩8人)は大和国へ向う。大坂から船を出し、堺へ向かう。船中で忠光ら同志一行は髪を切って決意を示した。
15日 堺(「天誅組上陸地」の碑が建てられている)に到着
16日 払暁に高野街道を通って河内をめざし、狭山に入る。狭山藩の陣屋へ使者送り、家老朝比奈縫殿が対応。天皇御親征の節には天誅組に加わる旨を回答する。
17日 天誅組は河内観心寺に入り更に千早峠を越えて大和国へ入る。幕府天領の五条に到着した天誅組は、代官所を襲撃、代官鈴木源内に降伏を要求、鈴木源内は首を刎ねられ、天誅組は代官所に火を放ち、桜井寺を本陣に定めた。

(8月18日の政変)
18日 天誅組は鈴木源内を梟首し、五条を天朝直轄地を宣言する。天誅組は中山忠光を主将、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石を総裁とする職制を整え、自らを「御政府」と称した。
近隣の高取藩に恭順勧告し、高取藩もこれに服する旨を伝えてきた。
一方、天誅組の過激な挙兵を知った京の三条実美は自重をうながすべく平野国臣を使者に送った。
大和で天誅組が意気を揚げていたとき、京では政局が一変していた。会津藩、薩摩藩と気脈を通じた中川宮が巻き返しを図り、参内して孝明天皇を動かし、大和行幸の延期と三条実美ら攘夷派公卿の参朝禁止、長州藩の御門警護解任を決めてしまった。驚愕した長州藩兵が宮門に駆けつけ会津・薩摩藩兵と対峙して一触即発の事態になる。結局、長州藩は武力衝突を避けて撤退、攘夷派公卿は都落ちして失脚。朝廷の実権は佐幕派が握ることになった。
19日 平野国臣が天誅組の本陣がある桜井寺に入り、平野は当初の目的を忘れて天誅組に同調してしまう。しかし、直後に京での政変が伝えられ、挙兵の大義名分が失われた上に天誅組が暴徒と決め付けられ追討の命が下されたことを知り、愕然とする。幕府の追討軍に備えて、忠光ら首脳部は協議の末、本陣を要害堅固な天の辻へ移すことを決める。
20日 天誅組は天の辻に入り、本陣を定めた。尊王の志の厚いことで知られる十津川郷士に募兵を働きかけ、960人を集めた。天誅組は「御政府」の名で近隣から武器兵糧を集め、十津川郷士も半ば脅迫でかき集められたこともあり、天誅組の強引な指示には疑問を持つ者が少なくなかった。
先に天誅組に恭順を約した高取藩は態度を翻し、兵糧の差し出しを断ってきた。これに激怒した天誅組は高取城攻撃を一決する。

( 高取城攻撃)
25日 中山忠光率いる本隊が高取に向かい、吉村寅太郎は別働隊を率いて御所方面に進出して郡山藩に備えた。天誅組の進発を察知した高取藩は防備を固める。千人余の天誅組に対して、高取藩の兵力は200人程。
26日 払暁、狭い小道を進軍してきた天誅組に対して、高取藩兵は大砲と鉄砲を激しく撃ちかけて来た。烏合の衆である天誅組はたちまち大混乱に陥り、公家の忠光にこれをまとめる能力はなかった。天誅組は潰走して五条へ退却する。これを知った吉村は決死隊を編成して夜襲をこころみる。26日夜、決死隊は高取藩の斥候に遭遇、これに斬りかかるが、味方の誤射により吉村が重傷を負ってしまう。決死隊はなすところなく退却して、高取城攻撃は失敗した。

天誅組の変

天誅組の変関連図

(天誅組壊滅)
幕府は紀州藩、津藩、彦根藩、郡山藩などに天誅組討伐を命じた。
9月1日、朝廷からも天誅組追討を督励する触書が下される。
5日 中山忠光が吉村寅太郎らに再度合流して天の辻の本陣へ帰った。
6日 諸藩の藩兵が動き出し、紀州藩兵が富貴村に到着、天誅組は民家に火を放って撹乱した。
7日 天誅組先鋒が大日川で津藩兵と交戦して、五条へ退ける。天誅組は軍議を開き大坂方面へ脱出することを策す。
8日 幕府軍は総攻撃を10日と定めて攻囲軍諸藩に命じた。総兵力14000人に及ぶ諸藩兵は各方面から進軍、天誅組は善戦するものの、主将の中山忠光の命令が混乱して一貫せず兵たちは右往左往を余儀なくされ、忠光は人望をすっかり失ってしまった。脱退する者も出始め天誅組の士気は低下する。
14日 紀州・津の藩兵が吉村寅太郎らの守る天の辻を攻撃、吉村は天の辻を放棄した。中山忠光は天険を頼りに決戦しようとするが、朝廷は十津川郷に忠光を逆賊とする令旨を下し、十津川郷士は変心して忠光らに退去を要求する。
19日 進退窮まった忠光は遂に天誅組の解散を命じた。
天誅組の残党は山中の難路を歩いて脱出をこころみるが、重傷を負っていた吉村寅太郎は一行から落伍してしまう。
24日 一行は鷲尾峠を経た鷲家口(奈良県東吉野村)で紀州・彦根藩兵と遭遇。那須信吾は中山忠光を逃すべく決死隊を編成して敵陣に突入して討ち死に、藤本鉄石も討ち死にし、負傷して失明していた松本奎堂は自刃した。
27日 一行から遅れていた吉村寅太郎は鷲家谷で津藩兵に撃たれて戦死。天誅組は壊滅した。「天誅組終焉之地」碑(東吉野村鷲家)
中山忠光は辛くも敵の重囲をかいくぐり脱出に成功、27日に大坂に到着して長州藩邸に匿われた。忠光は長州に逃れて下関に隠れていたが、禁門の変の後に長州藩の実権を握った恭順派(俗論党)によって元治元年(1864年)11月に絞殺された。
(生野の変)
事件の後の文久3年(1863年)10月に平野国臣が但馬国生野で代官所を襲撃して挙兵。幕府軍の追討を受けて敗北している。


 今、手元に「夜明け前」という本がある。作者は村山岩夫氏という。かれは辞世の和歌の収集に生涯を傾けているという。天誅組と水戸天狗党の「主役になれなかった群像」ということで、この物語をたどり、登場する無名の志士の辞世の句を、数百首記録している。この中から4首、以下に掲げておく。幕末の志士は何時生涯をとじてもよいように、あらかじめ用意していたようである。屍の内懐から出てきた辞世の句である。

乾十郎(36)五条の国学者
  今はただ 何か思わむ 敵あまた うちて死にきと 人の語らば

前木鏡之進(24)十津川郷士
  いましめの 縄は血汐に 染まるとも 赤き心は などかはるべき

吉村寅太郎(26)幕末の土佐藩出身の志士。天誅組の首謀者の一人
  吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙を見よ

中山忠光(19)
  権大納言中山忠能の七男。母は平戸藩主・松浦清の娘愛子。明治天皇の生母中山慶子は同母姉にあたる。正室は平戸藩主・松浦熈(祖父・松浦清の息子)と正室・筆子(島津重豪の娘)の娘富子。富子との間には子女はいないが、長州藩の支藩である長府藩潜伏中、現地女性の恩地トミを侍妾とし、仲子(南加、嵯峨公勝夫人)をもうけている

  思いきや 野田の案山子の 梓弓 引きも放たで 朽ちはつるとは


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柿本人麻呂泣血哀慟歌(きゅうけつあいどうか)


 柿本人麻呂は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。しかし万葉集以外信頼できる資料がなく、660年頃〜700年頃の生存で、これは持統天皇の代であり平城京は経験していない。万葉集で確実に生存を確認できるのは680年 (天武9) 人麻呂歌集(ひとまろかしゅう)七夕歌の中の一首(巻10・2033)は、この年の作で、制作年代が明らかな最初の歌である。700年 (文武4) 明日香皇女(あすかのひめみこ)が没す。制作年代が明らかな最後の歌として明日香皇女殯宮挽歌(巻2・196〜8)を作っている。人麻呂はこのあと数年後に没したと思われる。
 このように人麻呂の生年も死亡年も家族も分かっていない。死の原因も自然死、刑死、自殺など死亡場所も島根県益田市らしいが、歌に鴨山がうたわれているが場所は特定できない。益田の山中とか離れ島とかいわれ論争の的になっている。生前どのような官位を持っていたのか、あるいは何もなかったのか、分かっていない。賀茂真淵や斉藤茂吉がいろいろ調査をし説を唱えているが、梅原猛氏が反論し例の調子で相手の人格をも罵倒するかのごとき筆法で「水底の歌」で論断する。すなわち、事実は何も分かっていないのである。このことは横において人麻呂のまほろばにおける生活と恋愛について万葉集の歌から推論したい。

 奈良県に柿本神社が二つ、人丸神社が一つある。勿論全国いたるところに柿本神社があるが、天理の近く櫟本の柿本神社は和邇氏又は春日氏の領地で、ここで生まれたと推測されている。春日氏の出であろうといわれている。それが葛城市の新庄の柿本神社で生活していたが、藤原京に勤めてから、橿原市の人丸神社から通ったと推測される。ここから藤原京まで徒歩30分もかからない。都での勤務は原則朝6時出勤で、12時に終わる。その後は自由で人麻呂は万葉に出ているように、和歌の家庭教師のようなことをしてアルバイトしていたと思われるのである。弓削皇子や忍壁皇子や明日香皇女や舎人皇子の名が万葉集に出てくるので、おそらく彼らの歌指導をしていたのであろう。特に挽歌を贈った皇子皇女の係であったのであろうか。

 いつの頃か人麻呂は恋をしていたようだ。万葉の中からそれらしい歌をさがしだすと以下のものが有力である。これから見ると持統天皇の采女であろう。采女は規定があって出身が畿内の臣・連・伴造の子女である。既婚・未婚は問わず年齢も問わない。当然才能豊富、容姿端麗、立居振舞も優れていたであろう。万葉に限らず恋の歌が多い。特に人麻呂は多く、これはかならずしも多情な人間だったとは限らない。皇子、皇女に歌の指南をしたときの見本として製作したものも、多かったであろう。

  皇祖(すめろぎ)の神の御門を かしこみと 侍従(さぶろ)ふ時に 相へる君かも(11-2508)
  真(ま)そ鏡 見とも言はめや 玉限る 石垣淵の 隠(こも)りたる嬬(つま)(11-2509)

    伊勢の国に幸(いでま)す時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂の作る歌 (三首)
  嗚呼見(あみ)の浦に 船(ふな)乗りすらむを をとめらが 玉裳(たまも)の裾に 潮満つらむか(1-40)
  釧(くしろ)つく 答志(たふし)の崎に 今日もかも 大宮人の  玉藻刈るらむ(1-41)
  潮騒に 伊良虞(いらご)の島辺 榜ぐ船に 妹(いも)乗るらむか 荒き島廻(しまみ)を(1-42)

 上3首は持統天皇が伊勢行幸のとき、随伴せずに京に留まっていたときの歌と注記している。これは世情多難な時、物部石川麻呂が行幸を諌め、ちょっとした騒動があった時である。何故人麻呂が随行しなかったのか分からない。随伴しないのに何故歌など歌うのであろうか。勘ぐれば、随伴者に例の采女がいたのであろうか。

 やがて人麻呂の歌に巻向方面の歌が多くなる。異常に多いのだ。万葉には巻向を歌った歌はそれほど多くはない。しかし、人麻呂のこの方面の情景は、初めは心うきたつものが多いのだ。この中から巻向の情景を詠んだものを拾い出そう。

  動神(なるかみ)の 音のみ聞きし 巻向の 檜原の山を 今日見つるかも(7-1092)
  三諸の その山並に 児らが手を 巻向山は 継(つぐ)の宣(よろ)しも(7-1093)
  我が衣 色取り染めむ 味酒(うまさけ) 三室の山は 黄葉(もみじ)しにけり(7-1094)

 どのくらい浮き立つ時期が続いたのであろうか。いつの間にか、不安げな歌が多くなる。痛足川は現在穴師から巻向一帯を流れる川である。由月が嶽(弓月が嶽)は巻向山である。この頃、子をもうけたようであるがこの不安は産後の肥立が悪かったのであろうか。

  痛足河(あなしかわ) 河波立ちぬ 巻目の 由月が嶽に 雲居立てるらし(7-1087)
  

 足引の 山河の瀬の 響るなへに 弓月が嶽に 雲立ち渡たる(7-1088)

弓月が嶽

弓月ヶ嶽

やがて愛妻は死ぬ。
  巻向の 痛足(あなし)の川ゆ 往く水の 絶ゆる事なく また返りこむ(7-1100)
  黒玉の 夜去り来れば 巻向の 川音高しも 嵐かも疾き(7-1101)

  物部(もののふ)の八十(やそ)宇治川の 網代木(あじろぎ)に いさよう浪の 行く辺知らずも

上の一種は人麻呂の代表歌で私の好きなうたである。この一連の主題に必ずしも沿ったものではないが、人の無情を悟り、人生のはかなさを歌ったものである。妻の死が大きく影響しているものと思う。

 穴師には何回も行ったが、人麻呂を想定していたわけではない。今回、再度穴師を尋ねた。ここは桜井の北、箸墓の北側で、国道169号線相撲神社口を右折する。丁度巻向遺跡の東である。この小道は兵主神社に行く道で、相撲神社も兵主神社の中にある。その途中には、垂仁天皇巻向陵、景行天皇山辺道上陵、があり、更に珠城山古墳が存在する。この道を東に向かって傾斜を上ると、やがて山辺の道と交差するところに来る。ここで車を降りた。なるほど人麻呂の歌の情景とはこのような所であったのか。東を見れば三輪山と巻向山(弓月が嶽)が迫ってくる。北には景行天皇陵が雄姿をみせる。当時はすでに、出来上がって、伝説を伝えていたであろう。西を見れば眼下に巻向の里がある。丁度巻向遺跡のあたりである。例の四連建ての宮殿を人麻呂は見たのであろうか。それともすでに地中に埋まってしまっていたのだろうか。箸墓は山の陰で見えない。はるか大和盆地の西の果て、二上山が伝説をこめて雄姿を見せている。これほど「まほろば」を想定できる場所はない。山辺の道を南に行けば、檜原神社から大神神社に行く。北に行けば崇人天皇陵から衾田に行く。更に行けば石上神社から奈良である。
この交差点から半径100米の円内に人麻呂の愛妻が居り、人生の喜びと悲しみを体感したのである。

そして泣血哀慟歌である。

  柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血(きふけつ)哀慟(あいどう)して作る歌二首 并せて短歌

うつせみと 思ひし時に 取り持ちて 我が二人見し 走出(はしりで)の 堤に立てる 槻(つき)の木の こちごちの枝(え)の 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹(いも)にはあれど 頼めりし 子らにはあれど 世の中を 背(そむ)きしえねば かぎろひの 燃ゆる荒野に 白栲の 天領巾(あまひれ)隠り 鳥じもの 朝発(だ)ち行(いま)して 入日なす 隠りにしかば 我妹子(わぎもこ)が 形見に置ける 若き児の 乞ひ泣くごとに 取り与(あた)ふる 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 我妹子と 二人我が寝し 枕付(づ)く 妻屋(つまや)のうちに 昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし 嘆けども 為(せ)むすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽易(はがひ)の山に 我(あ)が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根さくみて なづみ来し よけくもぞなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば(2-210)

短歌二首

  去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は照らせども相見し妹はいや年離(さか)る(2-211)

  衾道(ふすまぢ)を引手(ひきて)の山に妹を置きて山道を往けば生けりともなし(2-212)

この歌の中の地名について説明しよう。「大鳥の 羽易(はがひ)の山」は、このあたりから見る三輪山と巻向山の二つの山が大鳥が羽根をひろげたように見える。この様を人麻呂は表現したのであろう。引手の山は竜王山である。ここから引っ張り出したような尾根がつずき、その尾根の先に渋谷山古墳(景行天皇陵)と行燈山古墳(崇神天皇陵)がある。竜王山の斜面には、有名な無数の群集墳がある。この頃の人々は死ぬと、この傾斜面に土葬で埋葬したのである。引手の山すなわち死者の山である。衾路とは衾田陵でしるした手白香皇女の墓に行く道,即ち穴師から引手の山への葬送の道である。

 題書に記しているとおり、泣血哀慟歌は長歌二首、短歌が各二首ずつの構成である。長歌2-207とその反歌二首は省略した。2-207は別紙に掲載したが、 (柿本人麻呂泣血哀慟歌別紙) 「天飛ぶや 軽の路は 我妹子(わぎもこ)が」とあるとおり、軽は現在の橿原神宮駅の近辺で、穴師とは藤原京をはさんで反対側にあたる。同時に二人の妻を亡くする訳がないので、どう考えればよいのであろうか。人麻呂に好意的に考えると以下のようになるのだ。もともと二つの長歌は別々に作られた。2-210は真に人麻呂の妻を亡くした時の挽歌であり、2-207は友達か短歌生徒の挽歌を本人に代わって作ったと考えるのである。人麻呂は本来そのような職業歌人だからである。題詞は万葉集編纂の折、大伴家持か或いは他の人が、勝手に付け加えた、と考える。またもう一つの説は「軽」即ち、軽の市の歌垣にかかわって木梨軽之皇子の物語をも育んだ「軽」の忍妻伝説の存在を想定した虚構の歌であるとの説もある。まことに勝手なこじつけだけれど、このように考えれば矛盾もないし、円満である。歌だけで考える一人の歌人の人生は、これ以上真実に迫れない。

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柿本人麻呂泣血哀慟歌別紙

柿本人麻呂1

柿本人麻呂像

穴師1

穴師路と山辺の道の十字路(直進兵主神社神社、右檜原、左衾田、手前巻向)

穴師2

「大鳥の 羽易(はがひ)の山」といわれた左巻向山、右三輪山

巻向方面

巻向方面を望む、下のほうに巻向遺跡がある

柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血(きふけつ)哀慟(あいどう)して作る歌二首 并せて短歌

天飛ぶや 軽の路は 我妹子(わぎもこ)が 里にしあれば ねもころに 見まく欲(ほ)しけど やまず行かば 人目を多み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さね葛(かづら) 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて 玉かぎる 磐垣淵(いはかきふち)の 隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れゆくがごと 照る月の 雲隠(くもがく)るごと 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉(もみちば)の 過ぎて去(い)にきと 玉づさの 使の言へば 梓弓(あづさゆみ) 音に聞きて 言はむすべ せむすべ知らに 音(おと)のみを 聞きてありえねば 我(あ)が恋ふる 千重の一重も 慰もる 心もありやと 我妹子(わぎもこ)が やまず出(い)で見し 軽の市に 我が立ち聞けば 玉たすき 畝傍(うねび)の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉鉾(たまほこ)の 道行く人も 一人だに 似てし行(ゆ)かねば すべをなみ 妹(いも)が名呼びて 袖ぞ振りつる(2-207)

短歌二首

秋山の黄葉(もみち)を茂み惑(まと)ひぬる妹を求めむ山道(やまぢ)知らずも(2-208)

黄葉(もみちば)の散りぬるなへに玉づさの使を見れば逢ひし日思ほゆ(2-209)


うつせみと 思ひし時に 取り持ちて 我が二人見し 走出(はしりで)の 堤に立てる 槻(つき)の木の こちごちの枝(え)の 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹(いも)にはあれど 頼めりし 子らにはあれど 世の中を 背(そむ)きしえねば かぎろひの 燃ゆる荒野に 白栲の 天領巾(あまひれ)隠り 鳥じもの 朝発(だ)ち行(いま)して 入日なす 隠りにしかば 我妹子(わぎもこ)が 形見に置ける 若き児の 乞ひ泣くごとに 取り与(あた)ふる 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 我妹子と 二人我が寝し 枕付(づ)く 妻屋(つまや)のうちに 昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし 嘆けども 為(せ)むすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽易(はがひ)の山に 我(あ)が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根さくみて なづみ来し よけくもぞなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば(2-210)

短歌二首

去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は照らせども相見し妹はいや年離(さか)る(2-211)

衾道(ふすまぢ)を引手(ひきて)の山に妹を置きて山道を往けば生けりともなし(2-212)


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井上博道氏の意訳

 井上博道氏の写真集(『奈良万葉“鳥』)の巻末を飾る写真は、いわゆる「泣血哀慟歌」と呼ばれるを添えている。それはきっとこの写真に撮された「石川池」付近が、歌に詠まれている「軽の市」周辺であることに加えて、この落日の色が妻の死を嘆く人麻呂の「血の涙」を思わせるからなのかも知ない。
 この「泣血哀慟歌」には、市場に立つ妻やその妻を求めて人前で袖を振る自分の姿を描いていることなどの細かい部分で、実際の話なのか疑問視される上に、そもそもこの長い長歌に別伝があることなど、多くの点で「物語」的な面が見られている。そのため、これは本当に人麻呂が妻を亡くした時に詠んだ直情の歌ではなく、宮廷サロンなどで発表された文芸作品であろうと考える人もいる。
 『万葉集』に記された「題詞」をそのまま信じて「真実」と見るのか、或いは、あくまで「虚構」の文学作品と見るのかは、その歌を「よむ」読者の人生そのものに関わってくると思われる。結局、歌を解釈し鑑賞することは、自分の人生を振り返ることなのかも知れない。

【大意】

  柿本朝臣人麻呂が、その妻の死んだ後に
  泣血哀慟して作る歌二首 あわせて短歌

(天を飛ぶ)軽(雁)の道は 妻の 里なので よくよく見たいとは思うけれど 絶えず行くと 人目も多く しばしば行くと人に知られそうだし さね葛のように 後で逢って共寝をしようと大船を 頼むような気持ちで 玉のように輝く 磐の垣根に囲まれた淵の内に 隠るように 逢わず恋い慕っていたら 空を渡る太陽が 沈みゆくように 照る月が 雲隠れるように 沖の藻のように 私に靡き寄り添っていた妻は 「黄葉の 散るように亡くなりました」と (玉梓の)使者が言うので 梓弓の音を聞くように知らせを聞いて [また「知らせだけを聞いても」]言いようもなく しようもなくて 知らせだけを 聞いてすます気にはなれないので この恋しさが 千分の一でも 慰められる晴れる気持ちもあるかと 愛しい妻が いつも出掛けて見ていた 軽の市に 私も行って立ち止まって耳をすますと (玉だすき)畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえない (玉桙の)道を行く人も一人として 似ている人が通らないので もうどうしてよいかわからず 妻の名を呼び 妻が現れないかと袖を振った [或本には「妻の名のみを 聞いているだけでは耐えがたいので」という句がある]  (巻二・二〇七)

  短歌二首

秋山の 黄葉が繁っているので 道に迷ってしまった 
 妻を捜したくても 山道がわからないよ [また「道を知らないで」] (二〇八)

黄葉の 散りゆく折に
 (玉梓の) 使者を見ると 妻と逢った日のことがあれこれと思われてならない (二〇九)


まだ普通にこの世の人だと 思っていた時に [また「生きていると思っていた] 手に手を取って 私と二人して見た 走り出の 堤に立っている 槻(ケヤキ)の木の あちこちの枝の 春の葉の 繁っているように若いと 思っていた 妻であるが 頼りにしていた 女であるが 世の中の摂理に 背くことはできず 陽炎の 燃える荒野に 純白の 大空の領巾に包まれて 鳥のように 朝に家を発って 落日のように 姿を消してしまったので 妻が 形見に残した 幼子が物乞いしさに泣くたびに 取り与える 物もなければ 男だというのに 小脇に抱え持ち 妻と 二人で寝て 枕を交わした 離れの内で 昼も うらさび暮らし 夜も ため息ばかりついて明かし 嘆いても どうしてよいかわからなく 恋しくても 逢う方法もない 「大鳥が羽を交わしあうという 羽易の山に 私が恋しく思う 妻はいる」と 人が言えば 岩根を踏み分けて 苦しみながらやって来た その甲斐もない 生きていると 思っていた妻が 玉がゆらめき光るように ほのかにさえも 見えないことを思うと (二一〇)

  短歌二首

去年見た 秋の月夜は 今年も照っているけれど
 一緒に見た妻は ますます年とともに遠ざかっていく (二一一)

衾道よ 引手の山に 妻を置いて
    山道を帰って行くと 生きている甲斐がない (二一二)

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平城京遷都

  万葉集に次ぎの一句が残されている。題書のとおり太上天皇は元明天皇である。長屋の原は現在天理市長柄であろう。すると、平城京遷都の旅は上つ道を通ったことになる。

和銅3年(710)庚寅の春2月、藤原京より寧楽宮に遷りましし時、御輿を長屋の原に停めてはるかに古郷を望みて作らす歌 一書に云はく太上天皇の御製

  飛ぶ鳥の 飛鳥の里を 置きて去なば 君があたりに 見えずかもあらむ

 43代元明天皇は考えていた。今藤原京から平城京への遷都の途上である。なぜ平城京に移らなければならないのか。時は710年、いとしい夫草壁皇子に先立たれ、陵墓を明日香に置いたまま、亡き夫と離れて暮らさねばならない。気のすすまない移転である。考えてみれば今から21年前だ、藤原不比等が直広肆(従五位下)判事に任じられてはじめて宮中に上がってから、藤原鎌足の子ということもあり、ずいぶんと強引な態度が見えていた。690年藤原京の着工が開始され694年には明日香から藤原京に移ってきた。藤原京に移っても工事はまだつずいていた。704年一応都は完成ということにしたが、あちこち不備なところが目立った。なのに707年、都を奈良にうつすという詔をださなければならなくなった。この年文武天皇が崩御された。文武天皇は自分の子である。子に先立たれた母としては大変つらい思いであったが、悲しむ暇もなく自分が天皇になろうとは。どうしてこんなことになったのであろうか。
 藤原不比等の策略に違いない。不比等にとって文武の死は思いがけず、あまりに早すぎた。もうしばらく皇位にいて、やがて文武の子、首皇子(後の聖武天皇)に皇位を譲る考えだった。そのために不比等の娘宮子を文部の妃に入れ、首皇子をもうけた。しかしまだ、首皇子は9歳にしかならない。皇位につくにはまだはやすぎる。首皇子につなぐのにどうすればよいか。そうだ、草壁の皇后元明を皇位につけよう。彼女なら天智天皇の娘であるし、女性天皇は何人も先例がある。不比等はここではっきりと首皇子に焦点をあて、この孫のために万難を排しても天皇につけねばならない。このための戦略に取り組んだ。  
 だけど、何故平城京に都をうつさなければならないのか。自分の父天智天皇が白村江で唐にやぶれ、命からがら明日香にもどり、身の危険から近江に都をうつした。しかし壬申の乱により自分の伯父天武天皇と自分の義姉持統天皇夫婦が心血そそいで構想した藤原京である。従来明日香の都は天皇の私邸のごときもので、強敵唐や新羅に対抗するためにも、国威を発揚するためにも、私邸ではなく日本国の首都が必要だと純粋に考えた本格的な都である。自分の夫草壁皇子も、はれて新都の主になるはずであったのだが、はからずも替わりに自分が新都の主になった。藤原京は南東方面が高く、北西方面に低く、あたりの川はすべて北西の大和川に注ぐ。したがって地下水の流れが都に流れ込むなどと、下水工事の発達してない当時の欠陥を、不比等親派がいいたてるが、そのようなことは、今の権力をもってすれば、どうにでも出来ることなのだ。もう一つ、藤原京は南に狭く、発展性がないと。そのようなことは、前もってわかっていたことである。

天武天皇系図

複雑に入り組んだ血統図


 平城京が出来上がるにつれ、元明は不比等の意図を悟った。平城京を見てみよ。これは藤原家の都以外の何ものでもない。内裏こそ中央北側にあるが、東端二条から五条まで都より高いところに外京と称し藤原家の所領で都を見下ろしているのである。東端に藤原氏の氏神興福寺を配し、その南は元興寺で蘇我氏を押さえつけている。そしてその中に東宮がある。東宮とは皇太子の居館である。藤原氏は皇太子をも取り込んだ。皇太子にやがて藤原の娘を嫁がせ、皇位につけ、その子がまた皇位を継ぐ。こうすれば天皇家は代々藤原の血統でつながれる。取り敢えず今のところ不比等の思惑とおりに事がすすんでいる。

平城京図

 遷都から10年経った。そして翌年、元明は死の床にいた。この10年あまりを振り返った。714年元明は退位した。不比等の豪腕にほとほと疲れた。次から次へと出てくる不比等の要求に反抗するすべもなくすでに限界だった。退位を申し出て、次期皇位は元明の娘で文部の姉である氷高内親王に白羽の矢があったった。44代元正天皇である。首皇子は尚若く、もうしばらくピンチヒッターに繋いでもらわなければならない。元正に目をつけたのも不比等であった。716年不比等の娘光明子もすでに首皇子と同じ15歳である。そろそろ結婚させよう。これで首皇子は自分の孫、皇后になるはずの光明子は自分の娘である。あとは天皇、皇后になるだけだ。そして720年藤原不比等は死んだ。自分の野望の限りを尽くしての死であった。そして721年元明上皇も死亡した。

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桓武天皇と呪詛別紙

桓武天皇関連系図

桓武天皇系図.

桓武天皇と怨霊

 系図をみていただきたい(別図拡大図)。天智天皇系と天武天皇系に大きく分かれ、天武系が平城京時代を制し特に聖武天皇時代最盛期をむかえる。聖武天皇と光明皇后の間に基王と阿倍内親王がいたが、基王は生後まもなく亡くなり、以降男子に恵まれなかった。やがて阿倍内親王が皇位につき第46代考謙天皇(のち48代称徳天皇)になるが結婚することが出来ず、生涯独身を通したため、後継者ができなかった。聖武天皇には県犬養広刀自の間に井上内親王(いのえ(いがみ)ないしんのう)がおり、称徳天皇亡きあと最後の聖武天皇の実子であり、白壁王と結婚し他戸(おさかべ)親王を生む。他戸親王は聖武天皇のながれを汲む最後の男子となり且つ天智天皇系の血をもうけつぐことになった。白壁王は天智天皇の第7皇子・志貴皇子の第6子でのち49代光仁天皇となるのであるが、ほかに妃に渡来系高野新笠がおり、山部親王(のち50代桓武天皇)と早良(さわら)親王をもうけた。そして山部親王には実子安殿(あで)親王(のち51代平城天皇)があった。この構図が以下の物語に大変重要である。

桓武天皇系図.

 白壁王は744年、36歳で聖武天皇の皇女・井上内親王を妃としたことからにわかに昇進を速め、759年、従三位、762年、中納言に任ぜられる。764年には恵美押勝の乱鎮圧に功績を挙げて称徳天皇の信任を得て、766年には大納言に昇進した。だが、度重なる政変で多くの親王・王が粛清されていく中、専ら酒を飲んで日々を過ごす事で凡庸を装って難を逃れたといわれている。

 称徳天皇が後任を決めずに崩御し聖武天皇の子孫が絶えた。そのため称徳天皇の後半は次期皇位につき血なまぐさい事件があい次いだ。称徳天皇の即位直後から子孫の断絶を見越し、その皇嗣問題では、天武系の文室浄三を推す吉備真備と藤原百川ら藤原氏の推す白壁王に分かれていたが、771年称徳天皇が崩御すると、途端にこの二派は暗闘をはじめた。結果的に白壁王派が皇位を譲り受け、ここに天武系の天皇に代わり天智天皇系の49代光仁天皇が誕生した。この時白壁王63歳、山部王35歳、早良王22歳、井上内親王54歳、他戸王11歳であった。

 一方、井上内親王は717年生まれ、聖武天皇の親王ということで幼少で伊勢の斎王に選ばれ、744年斎王を解かれてからまもなく白壁王に嫁いだ。この時、すでに30歳になっていた。37歳の高齢で酒人内親王(さかひとないしんのう)を生み、さらに761年45歳で他戸親王を出産した。他戸親王は女系とはいえ、唯一の聖武天皇系の男子ということが光仁天皇即位の決め手であったとされる。

 光仁天皇は井上内親王を皇后とし、他戸親王を皇太子とするが、772年、井上内親王が光仁天皇を呪詛したとして大逆の罪により皇后を廃し、皇太子の他戸親王も廃した。井上内親王が何ゆえすでに天皇であり高齢でもある光仁天皇を呪詛するのか理由が分からない。一説では皇太子他戸親王を早く天皇にしなければ息子の山部親王が何をするかわからないといった焦りからの行為であるとの説もある。しかし井上内親王の不安どうり、事がはこんだ。翌773年1月には山部親王が立太子し、10月、井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の邸に幽閉され、同6年4月、幽閉先で他戸親王と共に薨じた。一説によれば殺害といわれている。これによって聖武天皇の皇統は完全に絶えた。

 早良親王は白壁王の時代、将来展望がないまま東大寺に入って修行をしたが、光仁天皇即位の際、還俗し桓武天皇即位とともに皇太子となった。だが、東大寺の開山である良弁が死の間際に当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと(実忠『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。本来光仁天皇は天皇位はおろか、明日をも知れない不安定な立場にあり、次男の早良王を東大寺に僧侶として一生を送らせるはずだった。しかし、思いがけず皇位がころがりこみ、自分の高齢を思い、東大寺の後ろ盾を頼りにした処置であり親心であった。

 桓武天皇は即位するや、早速長岡京遷都を計画した。天皇は天武天皇系の平城京を極端に嫌い、光仁天皇から始まる新王朝にふさわしい帝都を望んだ。天武天皇と天智天皇とは兄弟ではないというのは、この頃から公知の事実だったのであろう。
 「続日本紀」で桓武天皇とその側近であった藤原種継のやり取りが残っており、「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」という桓武天皇に対し、種継は「山背国長岡」を奏上した。長岡は桂川、加茂川、宇治川、木津川が合流し淀川を経て大阪湾に注ぐ、水上交通の要所であったことから交通の便をかわれた。また秦氏の所領であったことも、藤原種継につながる縁戚関係から選ばれたとおもわれる。784年早速藤原種継を造宮長官に任じ翌年新春、長岡京で祝賀をおこなっている。
 それに先立って、遷都の話がでるや、東大寺、西大寺等、南都の大寺院は反対に動き、早良親王に接近し、遷都阻止に動いた形跡がある。785年、種継事件がおこる。遷都後間もない785年、種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日亡くなった。桓武天皇が大和国に出かけた留守の間の事件だった。桓武天皇は激怒し犯人探索を命じ、暗殺犯として大伴竹良らがまず逮捕され、取調べの末、大伴継人・佐伯高成ら十数名が捕縛されて首を斬られた。事件直前の旧暦8月28日に既に死亡していた大伴家持は首謀者として官籍から除名された。事件に連座して配流となった者も五百枝王・藤原雄依・紀白麻呂・大伴永主など複数にのぼった。その後、事件は桓武天皇の皇太子であった早良親王にまで及び、無実を訴えるため絶食して淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死した。もともと種継と早良親王は不仲であったとされているが、早良が実際に事件にかかわっていたのかどうかは真偽が定かでない。しかし家持は生前春宮大夫であり、高成や他の逮捕者の中にも皇太子の家政機関である春宮坊の官人が複数いたことは事実である。この前後の出来事を年代風にしるすと

781 桓武天皇即位
782 氷川川継、乱をおこす(天武、新田部系塩焼王の子)
784 長岡京着工
785 造宮長官藤原種継暗殺
   皇太子早良親王廃され流刑地の途上憤死
789 蝦夷との戦いに大敗
   平安新京着工開始
790 天然痘流行
792 辺境をのぞき正規軍を廃し健児をおく
   日照りによる飢饉、疫病の大流行や、皇后や皇太子の発病
   原因を探るために占ったところ、早良親王の怨霊であることがわかり、御霊を鎮める儀式を行う
都の中を流れる川が氾濫し、大きな被害となる
794 平安京遷都 

 このようなことが連続して起こり、桓武天皇は平安京造営に着手することになる。長岡京も含め、平安遷都は理由が二つといわれていた。天武天皇系との断絶を機に人心一新をはかること。南都仏教から距離をおくこと。そして長岡京からの移転は、新京での忌まわしい事件が連続したことである。たしかに洪水対策はこの時代、治水技術が幼稚で、事前調査不足があったようである。水害はさけられなかった。しかし真の理由は別のところにあった。梅原猛氏や井沢元彦氏の提唱する、怨霊説である。上にあげた理由は納得できるものであるが、時の権力者の心を動かした動機となるものは心の問題であるという。怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。

五条御霊神社

五条市御霊神社

 安殿(あで)親王の立太子が完了し一段落してのもつかのま、桓武天皇の身辺に不吉な事件がつずく。早良親王が死んで3年後、夫人の藤原旅子が死に、実母高野新笠、皇后藤原乙牟漏も相次いで死んだ。蝦夷には大敗し、早良親王を抹殺してまでしてつけた安殿親王は病弱であった。陰陽師の占いでは怨霊による祟りであるとの結果であった。怨霊とか祟りというものは、心理的なもので、歴史にはなじまないとされていたが、上の二人は直接的な動機に怨霊をとりあげた。実際、桓武天皇は平安遷都以降、あらゆる手段を使い早良親王の怨霊しずめをおこなっている。五条には御霊神社をつくり井上内親王、他戸親王、早良親王を合祀している。京都に上下御霊神社があり「八所御霊」を合祀している。実際桓武天皇がこれらの人々の祟りを恐れ、神社仏閣に怨霊鎮めに躍起になったことを思うと、その死の真因は桓武天皇側にあると見るのが必然であろう。

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神武天皇陵決定始末記

神武天皇陵は現在の地に確定されるのに、いろいろと紆余曲折があった。もともと神武天皇御陵は
  1.「古事記」には、137歳で亡くなり、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」とある。
  2.「日本書紀」には、127歳で亡くなり「葬畝傍山東北陵」とある。
  3.同じく壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者を送って挙兵を報告したと言う記事がある。天武期には陵寺として大窪寺が建てられたとみられる。
また、『延喜式』によると、
  4.神武天皇陵は、平安の初め頃には、東西1町、南2町で大体100m×100mの広さであった。貞元2年(977年)には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられた。
とあるが中世には神武陵の所在も分からなくなっていた。

 国学が盛んになる江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっていた。貝原益軒や本居宣長、竹口英斎等である。一方、水戸光圀が『大日本史』の編纂を始めた頃、幕府も天皇陵を立派にすることで、幕府の権威をより一層高めようとした。

そして文久年代、おりからの尊王攘夷運動が始まる一方、皇女和宮の降嫁問題や日米条約勅許問題で公武合体が盛んに取りざたされていたのにあわせて、幕府が先手をうって諸藩に幕政改革の建白書を求めたところ、宇都宮藩家老間瀬忠至(ただゆき、後戸田と改名)が「山陵御修理の建白書」を提出した。1862年(文久2年)、宇都宮藩に修陵を命じ家老間瀬忠至を修陵事業の責任者に任命した。やがて朝廷では山陵御用掛を置き、幕府も戸田忠至を山陵奉行に任じた。
 そこでまず最初に手がけなければならないのは初代神武天皇陵を何処にするかが大きな問題であった。この当時、神武天皇陵なる伝承地は以下の三箇所であった。もともと生存の可能性のない天皇の御陵は、あるはずがないのであるが記紀の記述は恐ろしいもので、畝傍山東北側に古くから伝承されているのである。三箇所とは

1.畝傍山の丸山 
(大和の国高市郡洞村の近く)
2.大和の国高市郡白橿村山本のミサンザイ
(神武田。現在の神武天皇陵の場所。橿原市大久保町字ミサンザイ)
3.四条村の福塚
(塚山ともいう。現在、綏靖天皇陵とされている。大和の国高市郡四条村。現在の橿原市四条町)

畝傍御陵見取り図

畝傍御陵見取り図

 安政2年(1855)の古図面をみていただきたい。畝傍山から東北に向かって上から1.2.3の順に並んでいる。古く江戸初期には3.の塚山は候補地に上がっていたが、この頃は1.2.の二つにしぼられていた。そのうちでも1.の丸山が最有力で畝傍山東北の山陵にある。しかし、この時2.のミサンザイが神武天皇陵と指定された。そして15,000両の金を投じて、百あまりある御陵の修築をおこなった。この時の裏話として丸山を指定したかったが、洞村の被差別部落の立ち退きに大量の金がかかるため、やむなくミサンザイになったと言われている。

 蒲生君平は『山陵志』で「洞村のことを相伝うるに、その民はもと神武陵の守戸なり。およそ守陵の戸は、みな賎種。もと罪隷をもって没入したる者は、郷にならばず」といっている。

 明治に入り、明治天皇の御勅許を得て、橿原神社(明治23年(1890年)に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。さらに明治44年(1911年)から第一次拡張事業が始まり、橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。その際、周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、洞部落208戸、1054人が大正6年(1917年)に大久保村に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。

 この時の記録として菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)はその著書のなかで、洞村の区長宅で多くの老人たちから聞いた洞村内部の話を次のように伝えている。

1.洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転(大久保町)し、今は街路整然といしている。もとは畝傍山の東北の尾の上であり、『古事記』『日本書紀』は神武天皇陵と伝えているところと一致する。
2.当時の洞村の神社を生玉(いくたま)神社という。祭神は神武天皇とのことだが確かではない。
3.この部落は、神武天皇陵の守戸であると伝承している。神武天皇陵は、畝傍山の東北の尾の上の平らなところで、丸山宮址のところとも、生玉神社のところとも伝えられている。
4.旧家は、御陵と伝えられているところの下で、『ひぢり垣内(かいと)』ととなえ井上、辻本、楠原、吉岡などが本家。ともに日向からおともしてきた直系の家来で、そのため墓守になったと伝えられている。
5.丸山宮址と呼んでいるが、宮があったとは聞いていない。径25間の平地で、円形をなし、その中心が、径3間ぐらい、こんもりと高く、昔は松の木が茂っており、その上を通ると音がして、他のところとは変わっていた。

6.その境内に、7つの白橿(しろかしわ)の大木があった。最後のものは周囲すでに皮ばかりで、そのなかが、6尺からの空洞であった。皮ばかりでも『しめ縄』がかけられていた。
7.白橿村というのは、御陵に白檮の大木が7本もあったからで、神代からのものと伝えられていた。
8.明治の初年、神武天皇陵認定のときに、この地の人が賤民であったばかりに、神武戸と称する部落の人の作り田を、強制没収でとりあげてしまった。それが、今の御陵となっている地(ミサンザイ)である。神武戸とは、神武天皇陵の戸、入口の意味である。ミサンザイは国源寺の跡地である。
9.今の御陵は真実の御陵でないといったら、全村千人のものが、放りだされて路頭に迷うかもしれないので、頭(かしら)がかたく箝口令(かんこうれい)をしいていて、絶対に口外しなかった。今の御陵は真実の御陵と方向があべこべである。

 洞村の人々が九州から来て、神武天皇の墓守をしたという伝承は、洞村のすぐそばにある丸山が真の神武天皇陵であることを支持しているように見える。また丸山に生玉神社がある。 津久井清彰が描いた「畝傍山東北面の図」にも「生玉明神社」として描かれている。この神社は『日本書紀』の文において、壬申の乱のさい「身狭(むさ)の社にいる生霊(いくたま)の神」が、神武天皇陵に馬および種々の兵器を奉れ、と述べたことと関係があるのではなかろうか。集落の移転に伴い、大正9年に現在の大久保町3-56番地に移され現在も存在している。

 1940年(昭和15)というと皇紀2600年である。即ち神武天皇が即位したときを皇紀初年とし、記念の年にあたった。いまでは知る人も少なくなったが、いまでも注意しておれば皇紀2600記念の碑が旧村落の中心に建てられている。おりから対米戦争に向かう直前、日本の士気をたかめるため盛大な行事が行なわれ、神武御陵の修復、橿原神宮の拡張、参道の整備やその沿道の樫の木の植樹などおこなわれた。この畝傍山東北麓の工事に先立ち橿原考古学研究所が設立され初代所長末永雅雄先生の指揮により夥しい遺跡発掘がおこなわれた。また鹿沼景揚(東京学芸大学名誉教授)が記したところによると、丸山宮址の樫の古木の根を全部アメリカのミシガン大学に持ち込み、炭素14による年代測定をすると、当時から2600年前のものであり、その前後の誤差は±200年ということであった。このことから記紀の神武伝承にはなんらかの史実の反映があるとする説もある。いずれにしろ工事が終わると現在の姿にかわり、過去の風景が一変したのである。

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神武天皇決定始末記拡大図

神武天皇決定始末記拡大図

畝傍御陵見取り図

図1  畝傍御陵新旧見取り図

一番上が丸山真ん中がニサンザイ一番下が塚山としるされている。

畝傍御陵見取図2

図2  畝傍御陵見取り図

丸山宮、生玉神社を確認、ここが洞村だった。畝傍山の東北

畝傍御陵見取り図3

図3 畝傍御陵見取り図

志貴皇子の憂愁

天智天皇、天武天皇の時代の皇子達は何故か魅力的な皇子が多い。今回は志貴皇子を取り上げる。
 志貴皇子は天智天皇の第七皇子である。桓武天皇の系図を見ていただきたい(桓武天皇系図)。天智天皇と白壁王(光仁天皇)の間に〇印がついているが、これが志貴皇子である。皇子の生誕年はわからない。しかし、天武8年(679、吉野の盟約)には、20歳を越えていたと推測でき、すぐ次の兄の川嶋皇子が657年生まれであるから、658年から660年の間にくると思って間違いはないだろう。明日香にあった斉明天皇の「後岡本宮」で生誕した。だが、天智天皇の大津宮への遷都にしたがって、少年時代を琵琶湖のほとりで送ることになる。そして、人生を一変させたであろう673年の壬申の乱で、時代は天智から天武の世となり、天智の皇子である志貴皇子の微妙な立場が想像される。それは志貴の青春期の入り口にあたる。志貴は万葉集に6首の歌をのこした。いずれも秀歌で万葉を代表する歌人とも伝えられている。

 次の歌はおそらく近江朝の頃の歌とおもわれる。
    皇子の懽(よろこび)の御歌一首
    「石ばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも」 (巻8─1422)
           ◇垂水 高い所から流れ落ちる水。滝。

 672年壬申の乱が始まり、天武天皇が弘文天皇軍を破り都を飛鳥浄御原宮においた。そして、679年天武8年5月に、天武は皇后と6人の皇子を伴い吉野に行幸する。壬申の乱の起点となった思い出の地で、皇子たちに将来の協力を誓わせる。天武には腹違いの多くの皇子たちがいたが、この時は、天智系も含めて、成人した皇子たちが集ったらしい。草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子、忍壁皇子、志貴皇子という序列で「書紀」には出てくる。河嶋も志貴と同じく天智系である。「書紀」には、草壁が一番に誓いの言葉を述べて、後に諸皇子たちが続き、天皇が襟を開いて6人を抱いたとある。

 686年、天武天皇が崩御し持統天皇が皇位についた。志貴の身辺は急に慌ただしくなってきた。天武天皇が健在の間は皇位の継承問題は起きなかったが、草壁皇子が皇太子についてから、持統天皇の恐怖政治がはじまった。草壁皇子は病弱でいかにも弱々しい。それに較べて大津皇子は人格、体力とも天武に似て誰の眼にも皇位にふさわしい。天武も大津の将来に期待をいだいていたらしい。出生も母が大田皇女で持統と姉妹の間であり遜色ない。大田皇女は早世したのが大津には不幸であった。持統は何が何でも天武と持統の子孫に皇統を継がせたかった。草壁の次はその子5歳の珂瑠皇子(後の文武天皇)にする。やがて持統の毒牙が大津にふりかかる。河嶋皇子の密告により大津の死が宣告される。大津が謀反の行動を起こしたか持統の陰謀か、永遠の謎である。ただ当時の権力者は自分の野望のため、多くの人々を抹殺してきた。権力者のライバルが常に生命をおびやかされる。おそらく皇子たちは恐怖にふるえあがったであろう。志貴は天智系でかつ卑賎の采女の子であるため皇位の可能性はない。しかし、いつ毒牙が向かうかわからない。これ以来、自分の立場に十分な配慮をはらったのであろう。自分の才能を歌にむかわせたのかも知れない。

 やがて持統は藤原京遷都を計画し、694年遷都した。

    明日香の宮より藤原の宮に遷居せし後に、志貴皇子の作らす歌
     「采女の 袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」 (巻1−51)

 慶雲三年は706年である。文武天皇が難波の都に行幸したときの歌である。

    慶雲三年丙午(ひのえうま)、難波宮に幸(いでま)す時、志貴皇子の作らす歌
     「葦辺ゆく 鴨の羽交(はがひ)に 霜降りて 寒き夕へは 大和し思ほゆ」 巻1−64)

【語釈】◇葦辺ゆく 葦のほとりを泳いでゆく。◇羽がひ 背中にたたんだ両翼の交わるところ。◇大和 原文は「倭」。今の奈良県にあたる。


 しかしこの天武と持統の血筋の男子は短命に生まれつき、皇統の維持のために無理に無理をかさねた。このため、二人の女帝を生む結果となる。元明天皇、元正天皇である。この二人は男子天皇のつなぎとして擁立された。やっと聖武で安定かと思われたが、またまた、男子にめぐまれず、孝謙天皇を擁立することになる。この女帝ははじめから天皇になるべく、皇太子から皇位にのぼりつめ、結果は皇統が絶えることになる。ポスト称徳天皇(考謙の重祚(ちょうそ))をめぐり更なる後継問題が連続した。この背後には藤原不比等の野心があった(平城京遷都 参照)。当時の政治はほぼ藤原不比等の手の内にあった。藤原氏に刃向かうものは命の保障はない。

    志貴皇子の御歌一首
     「むささびは 木末求むと あしひきの 山の猟師に 逢ひにけるかも」 (巻3−267)

【通釈】むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。

 平城京での志貴皇子は高円山の麓に住所をかまえた。高円山にはむささびがたくさんいたという。権力に抗し没落した皇子が沢山おり、その末路をいたんだであろう。自分への戒めとしたのかも知れない。
 
    志貴皇子の御歌一首
     「神なびの 石瀬の杜の ほととぎす 毛無の岡に いつか来鳴かむ」 (巻8-1466)

◇神なび 「神の坐(ま)すところ」を意味する語。◇石瀬の杜 不詳。奈良県生駒郡斑鳩町の龍田地方の森、あるいは同町の車瀬の森(龍田神社の南)、あるいは同郡三郷町の大和川北岸の森かという。◇毛無の岡 不詳。志貴皇子の住まいの近くの岡であろう。

    志貴皇子の御歌一首
     「大原の このいち柴の いつしかと 我が思ふ妹に 今夜逢へるかも」 (巻4-513)
◇大原 奈良県高市郡明日香村。◇いち柴 原文は「市柴」。「いつしば」とも。「いち」は「いつ」と同じく勢いの盛んなことを表わす語。
 
 これらの歌は隠忍自重する心境を語ったものか、捲土重来を期した歌か。

689年 志貴皇子は撰善言司に任命された。善言とは為政者の倫理の指針となるような教訓を集めた書物で幼少の文部天皇の教育教材の編纂役である。
703年 大宝3年、持統天皇の殯宮のあと、志貴皇子は造御竈長官に任命され、火葬設備の造営をつかさどった。持統は天皇としては初めて荼毘にふされ、天武が眠る明日香の大内山稜に合葬された。奈良時代の貴族の間では火葬がブームとなったが、持統の火葬はその走りである。この功績によるのか、翌年には四品に叙され、封100戸を増益されている。(品位とは親王の序列で、一品、二品、三品、四品に序列されていた。)
707年 慶雲4年、文武天皇の崩御に際して、志貴皇子は「殯宮のことに供奉」している。 政治的な派手な動きはないが、地味ながら重要な役を着実にこなして、時の主流派に貢献するという印象がある。自分の立場をよくわきまえて、賢明に時流に処していった人であっただろうか。
708年 三品に昇進した
709年 白壁王(のち光仁天皇)生まれる。
715年 二品に昇進
716年 死亡
 以上の生涯を送っている。白壁王は志貴皇子の50歳頃の子である。この頃は平城京遷都の直前の頃である。そして
死亡の時期は58歳〜60歳、光明子が聖武の皇太子妃になる藤原氏の絶頂の頃であった。これ以降白壁王の時代となるが、父志貴皇子以上に呼吸のつまりそうな時代だったであろう。だがこの親子は長寿で天命を全うした。そのおかげであろう、やがて光仁天皇となり、桓武に時代をひきつぐことができたのである。(桓武天皇と怨霊参照

高円山

志貴皇子の住んでいた高円山

 志貴皇子の葬送は高円山で行われた。万葉後期の代表歌人笠金村は挽歌を贈った。

 霊亀元年歳次乙卯の秋九月、志貴親王の薨ぜし時に作る歌 并せて短歌

梓弓 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 幸矢(さつや)手挟(たばさ)み 立ち向(むか)ふ 高円山(たかまとやま)に 春野(はるの)焼く 野火(のび)と見るまで 燃ゆる火を いかにと問へば 玉桙(たまほこ)の 道来る人の 泣く涙(なみた) 小雨(こさめ)に降れば 白栲(しろたへ)の 衣(ころも)ひづちて 立ち留まり 我に語らく 何しかも もとなとぶらふ 聞けば 哭(ね)のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き 天皇(すめろき)の 神の御子(みこ)の 御駕(いでまし)の 手火(たひ)の光ぞ ここだ照りたる(万2-230)

 短歌二首

  高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに(万2-231)

  御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに(万2-232)

 下の歌は、笠朝臣金村の歌集に出でたり。或本の歌に曰く

  高円の 野辺の秋萩 な散りそね 君が形見に 見つつ偲はむ(万2-233)

御笠山 野辺ゆ行く道 こきだくも 荒れにけるかも 久にあらなくに(万2-234)

【通釈】[長歌] 梓弓を手に取り持って、勇士たちが、狩の矢を指に挟み持ち、立ち向かう的――その名も高円山に、春野を焼く野火かと見える程盛んに燃える火を、何故と問うと、道を歩いて来る人の、泣く涙が小雨のように降るので、真白な喪の服が濡れていて――立ち止まり、私に語ることには、「どうしてまた、そんなことをお尋ねになる。聞けば、ただ泣けるばかり。語れば、心が痛い。天皇の尊い皇子様の、御葬列の送り火の光が、これほど赤々と照っているのです」。
[短歌一] 高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散っているのだろうか。見る人もなしに。
[短歌二] 御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。


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十津川村と新十津川村


 十津川村は奈良県の南西部にある。古くは神武天皇が東征のおり、八咫烏が道案内をしたことから、村の祖先は八咫烏であると信じられていたようである。その事もあってか昔から尊王思想が強く天武天皇が吉野で蜂起した際にも吉野軍に参加したり、保元の乱(1156)の保元物語でも、十津川戦士が登場する。しかし、特に有名なのは南北朝時代、南朝後醍醐天皇のとき、皇子大塔宮護良親王の十津川落ちでは親王を守護し、この村で幕府追討の策をめぐらせた。また賀名生の行宮警備にあたるなど郷民の功績も多く、後醍醐、後村上、長慶の三帝の御綸旨も数通 におよびぶ。楠木正成の孫の楠木正勝が最後まで南朝方につき十津川に立てこもったことなどもあり、十津川には尊皇の気風が育まれた。足利幕府の成立以後も守護大名は十津川を放棄し続け、豊臣秀吉による太閤検地では、封建支配に組み込まれようとしたが、さしたる租税も徴収されず、実質的には十津川は治外法権として一種の自治を保ち続けてきた。

 幕末には、文久三年(1863)の天誅組の変に呼応して1800人が挙兵したのをはじめ(天誅組の変)、勤皇、尊王活動をするものが多くなり、幕府支配を脱して朝廷の管轄に入るとともに御所警備にあたるなど中央での活躍もめざましく、明治4年(1871)には郷民全員が士族に列せられた。宮廷警護については、薩摩、長州、土佐の三藩以外では十津川郷士のみが任ぜられたといい、それほど十津川郷の勤皇精神は高く評価されていた。

 その十津川に大洪水がみまった。明治22(1889)年8月19日、村は集中豪雨に見舞われた。山津波が各地で起こり、土砂は川をせき止め逆流した。このときの一日の雨量902mm、1時間170mm最大を記録し、豪雨は19,20日に及んだ。死者168人、流失や全壊した家屋は426戸を数えた。この洪水により土地の大崩壊が起こり、天然ダムが53個発生し最大の高さ83Mに達し、さらにこれらが次々に決壊して大被害を誘発し、町資産の70%を失ったという。未曾有の大災害である。

 翌年1890年、十津川村の人々600戸、2489人が生まれ故郷を後にし、トック原野(徳富川流域)に向かった。村の2割の人たちだ。当時北海道開拓と称し国家事業として北海道に人をおくりこんでいた。この事業にのったわけである。夢のような豊かな生活を約束していたが、現実そのようなことはなかった。苦労に苦労を重ね、その子孫が3代、4代とつずき、新天地を開拓していった。ふるさとの名にちなんで新十津川となずけた。

十津川村

十津川村と新十津川村


 このことを川村たかしさんが小説にあらわした。「新十津川物語」である。川村たかし先生は1931年 奈良県五條市生まれ。 奈良学芸大学(現 奈良教育大学)卒業、五條市の小、中、高校、奈良教育大学、梅花女子大学で教鞭をとる。               

日本児童文芸家協会会長。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。2002年、紫綬褒章受章される。

  内容は主人公「津村フキ」が十津川村大洪水に見舞われた9才の少女から90才を過ぎ、更に子、孫,曾孫まで延々と土地に埋もれて生活する。時代とともに徐々に豊かになると共に価値観も変っていく女の強さを表現したものでる。

 この物語は、明治22年8月、奈良県吉野郡十津川郷を襲った集中豪雨から始まる。

 吉野・紀伊山系の山ひだ深く、降り始めた雨は三日二夜。
 天地の闇は、うわさに聞く地中の暗に変わらず、間断なく桶の水をぶちまけるかの如く、
 時にはまた、千本の細引きが山々、谷々にたれこめるかの如く降りつづき、
 やがて大崩落を引き起こした。人は、
 山津波
 山抜け
 山潮等々とよんだ。
 縦横50間を超える大崩れ1,080、以下の山崩れ7,500。死者168人。
 こうして 600家族 2,489人は、はるばると北海道をめざす苦難の旅に出る。

 著者 川村たかし


 1990年、村創設100周年を迎え、NHKでドラマ化され斉藤由貴が演じる津村フキを記憶している方も多いであろう。このことを記念して「新十津川物語記念館」も建設された。津村フキの17歳当時をイメージした銅像もたてられた。


 現在新十津川町は2009年9月現在で人口7357人、面積496平方キロ、人口密度14.8人で米どころである。

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木梨軽太子と軽大郎女

 古事記の下巻の中で異彩を放つ歌謡が軽太子と軽大郎女の話である。二人は第19代允恭天皇の第一皇子と第五皇女で登場する。古事記と日本書紀では少し話しがちがい、前者では衣通姫は軽大郎女として現れ、後者では允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹、八田皇女を衣通姫としており、軽大郎女もまた八田皇女の劣らず美しい皇女であったとして小野小町をいれて日本三代美女に数えられている。第四子が穴穂命(あなほのみこ、後、第20代安康天皇)第七子が大長谷命(第21代雄略天皇)である。以下古事記に記した歌を詠む。

天皇が崩御された後、木梨之軽太子(きなしのかるのおおみこ)が皇位におつきになることを定めていたが、太子がまだ即位しないうちに、その同母妹である軽大郎女(かるおおいつらめ)と密通して、歌っていうには
  
  あしひきの 山田を作り 山高み 下樋(したび)を走せ 下訪ひに 
  我が訪ふ妹を 下泣きに 我が泣く妻を 今夜こそは 安く肌ふれ

また歌っていうには、

  笹葉(ささば)に 打つや霰(あられ)の たしだしに 率寝(いね)てむ後は 人は離(か)ゆとも
  愛(うるわ)しと さ寝(ね)しさ寝てば 刈薦(かりこも)の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば

 軽太子が即位しないうちに、百官と天下の人々とはみな、太子に背いて穴穂御子についた。そこで、太子はこれを恐れて、大前小前宿禰の家に逃げ込んで、武器を作って備えた。穴穂御子も、また武器を作った。そして、穴穂御子は軍勢を集めて、大前小前宿禰の家を囲んだ。そうして、家の門に着いた時、激しい氷雨が降った。そこで、歌っていうには、

  大前 小前宿禰が 金門蔭(かねとかげ) 斯く寄り来ね 雨立ち止めむ

すると、その大前小前宿禰は、手を挙げ膝を打って喜んで、手を動かして舞を舞い、歌を歌いながら出てきた。その歌にいうには、

  宮人の 足結(あゆい)の小鈴 落ちにきと 宮人響(とよ)む 里人もゆめ

 このように歌って、穴穂御子のところに参上して申し上げるには「我らが天皇となるべき御子よ、同母兄である皇子に兵を差し向けてはなりません。もし兵を差し向けたなら、必ず人はあなた様のことを笑うでしょう。私が太子を捕まえてお渡ししましょう。」と申し上げた。そこで、穴穂御子は兵を引いて退きなさった。そして大前小前宿禰は、その軽太子を捕まえて、穴穂御子のもとに連行引き渡した。その太子が、捕らえられて歌っていうには、

  天廻(あまだ)む 軽の嬢子 甚(いた)泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く

 そして、その軽太子は伊予の湯(道後温泉)に流した。また、流そうとした時に、歌っていうには、

  大君を 島に放らば 船余り い帰り来むぞ 我が畳ゆめ 言をこそ 畳と言わめ 我が妻はゆめ 

 その時、衣通姫(軽大郎女の別名)は、太子に歌を献上した。、その歌にいうには、

  夏草の あいねの浜の 蠣貝(かきがい)に 足踏ますな 明かして通れ

 さて、その後に、なお太子を恋い慕う思いに堪えかねて、その後を追って伊予へ行った時に、歌っていうには、

  君が往き 日長くなりぬ 造木(やまたず)の 迎えを行かむ 待つには待たじ

 そして、追いついた時に、太子は待ち迎え、大郎女をかき抱いて、歌っていうには、

  こもりくの 泊瀬(はつせ)の河の上(かみ)つ瀬に 斎杙(いぐい)を打ち
  下(しも)つ瀬に 真杙(まぐい)を打ち 斎杙(いぐい)には 鏡をかけ
  真杙(まぐい)には 真玉(またま)をかけ 真玉(またま)如(な)す 我が思う妹(いも)
  鏡如(な)す 我が思う妻 ありと言はばこそよ 家にも行かめ 国をも偲ばめ

 このように歌って、そのまま一緒に自害した。

 日本書紀』においては、巻第13に衣通姫伝説についての記述がある。その中では允恭24年の夏6月、軽皇子と軽皇女の相姦が発覚し、皇太子を処刑することはできなかったので、軽皇女を伊予に追放したとある。さらに允恭42年春1月に天皇が崩御した後、同年冬10月に穴穂皇子と戦い、形勢不利と悟った大前小前宿禰が軽皇子の助命を穴穂皇子に嘆願するものの、軽皇子は自害したと書かれている。
 この違いを詮索することはしない。しかし、古事記、日本書紀を通じて、皇子が殺されたり自害するケースは、大体皇位継承争いであるようだ。そして敗れた側は不名誉な記事で落着する。古事記には皇后忍坂大中姫に九人の皇子皇女がいると記しているが、必ずしも皇后の子とは限らない。異母兄妹である可能性が大変おおきい。当時は同母兄妹は姦淫禁止であったようだが、異母兄妹の場合の結婚は、いたるところにあらわれてくる。
 また兄弟同士の皇位継承争いが非常におおい。これは、当時の男は一夫多妻で多くの妃をもうけた。そして妃のところに通い、子をなしたら妃にあずけっぱなしで、つぎからつぎへと子を成した。大体妃は当時の有力豪族の娘であるから、子供同士は顔を合わすことはなく、子は親の勢力を背景に次の皇位を狙うのは仕方がないことであった。

 

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日本人の来た道 -総括編-

 日本人が日本のルーツをたどりたいと欲求にかられるのは、他国と違う特別のわけがある。それは日本という地理的条件と結構長い歴史的情報の蓄積に多く理由があるようだ。例えばアメリカなどはせいぜい300年〜400年の歴史である。古くを辿っても、アメリカインデアンではアメリカ人の知的満足はともかく、それ以上の満足はなく欧州人に関心があるのは仕方がない。むしろこれから数千年の後、アメリカ人がどのような顔かたちをしているか見てみたいものである。白人、黒人、黄色人種のほどよく交じり合った、今とはちがう均一な人種になっているだろう。その時米国人のルーツをたどる興味がわいてくると思われる。白人はどこから、黒人はどこから、黄色人種はどこから来たのか、いつごろからそれがひとつの人種になってきたのか。欧州人なども多人種の入れ替えで、自分たちとは違う人種の祖先など興味がないであろう。日本は何千年前にさかのぼっても、そこは日本であったし、その頃住んでいた人々は日本人の祖先であることに異論はあるまい。だからこそ、その成り立ちについて知りたいと思うのである。
 人類の祖先猿人がアフリカで発生し各地に移動したことについては人類と環境ユーラシア編で触れた。第一図がその経路である。日本人も例外ではない。数百万年前のことはともかく、最後の氷河期が地球を襲う5万年まえから1.5万年前にアジア大陸と日本が氷で接続したときに、寒気を避けて大量の北東アジア集団が日本に移住してきた。それまでに住んでいた、石器時代人は吸収されたか、駆逐されて現在は何の痕跡も残っていない。これが、日本の人種をも変える変動の第一波である。そして第二波は弥生時代の稲作倭人の大量移入である。日本の人種を変える変化はこの二度を経験したことによると思えばよい。戦後の日本は食の改善と都会的住環境の変化を経て大型化し、相当な体格変化がおこなわれたが、これは、本質的に血の入れ替えがあったわけではない。戦前も戦後も同じ遺伝子なのである。
 もう少し日本人を分類すると三種類になるようである。北のアイヌと南九州から南西諸島に移動した、いわゆる熊襲と隼人、残りの大多数を占める本土の人々である。この違いは第一次北東モンゴロイド集団が氷河時代、北海道方面から日本にきて、それまでの石器時代人を吸収または駆逐して以来、ほぼ均一な縄文人によって占められていたのを、2500年前、北部九州で相次いで始まった水田稲作農耕と、金属器を武器にした当時の倭人の大量渡来による遺伝的効果が、日本のほぼ全国に波及し、更に文化の中心が畿内に移ってからも、朝鮮、中国方面の渡来人が相当数渡来した結果、内地では稲作の適地から波及し、しかも近距離から遠隔地へと浸透した結果、地域差がうまれ人種としての多様性が生じたのである。北海道は縄文時代本州と共通の文化圏を有していたが、弥生時代に入ってからも稲作文化が伝播せず、縄文色が色濃く残ったし、依然として採取生活を基本とした文化にへだたり、体質的にも次第にアイヌにかわっていった。本州でも山間僻地はいつまでも縄文要素が残り、漁業の専門集団もしかり、近距離でも、山人といわれる鉱山生活者は縄文的要素が残ったまだら模様になっていった。以上が日本の地域性の発生の根源である。
 
 人類を分類するとき、何をもって分類するかは、相当な議論がある。しかしたとえば日本人と西洋人を比較したとき、一見して同じ人種であるとは言わない。では中国人とではどうだろうか。朝鮮人とは何が違うのか。人種とはある集団単位の人種特性の平均の比較である。その人種特性を何に求めるかで、無限の分類ができる。関東と関西でなにか違うのであるが、その違いを人類の特性値で比較したとき、明確になるはずである。ではどうするのか。それは意味があるのか。
 昔からいわれたことであるが人種を分類すると、大きくモンゴロイド、コーカソイド、ネグロイドとなる。黄色人種、白色人種、黒色人種である。このように人種特性のなかでも、一番目につくのが肌の色である。皮膚の断面は表面の表皮とそれを裏うちする丈夫な真皮の二層になっており、さらにその下にあって脂肪を多量に含み筋肉や骨と結合する皮下組織になる。
 皮膚の色を決めるのは主として表皮の一番下にある基底層で産出される黒色色素のメラニンの量できまる。メラニンが多いほど肌が黒く、少ないほど色が白い。紫外線は表皮を通過して真皮に到達するが、表皮を通過する量はメラニンに反比例する。この紫外線はプラス、マイナス両面があり、紫外線の透過が不十分であれば骨の発育等に支障をきたし、過剰な透過は皮膚組織の変化をもたらし、そして共に人体に悪影響を及ぼす。太陽の紫外線は赤道付近でもっとも強く、緯度が高くなるほど弱くなるから、熱帯に住む人の黒い肌は皮膚ガンや過ビタミン症から身をまもるのに必要だし、北欧の人の白い肌は骨の発育に必要なビタミンDの確保に欠かせないのである。これは長い間の自然への適応結果である。
 このように現在のある母集団が他の母集団に対し人類特性の違いを比較検討するのが地理的変異といい、ある母集団が時間的にどのように変異したかをみるのが時代的変異という。一般的に進化は時代的変異であり、人種は地理的変異である。さて人類は嘗て、猿人、原人、旧人、新人と時代的進化をとげたが、この変化の切れ目は古くから紀源説と置換説がある。すなはちこの間絶えず進化をしたという説と、その都度置き換わったという説である。現在はミトコンドリアDNAを武器に置換説が有力で、アフリカの一地域から出発した新人が欧州、アジア、アメリカに広がったという説である。

 人類の進化の話はこれくらいにして日本人に話を移す。日本人は世界から日本という島国に隔離をされて、大きくは二度にわたる混血を経て、時代的に進化し現在にいたっている。この隔離と混血が日本人という人種に決定的に作用した。ここで、人類の特性値を計数で表現する項目をあげる。時代的変異を表現するのには人骨を計測する。頭と体の骨が、代表的であり、歯などもよく特性をあらわす。過去数万年、数千年の人骨が偶然現在に残り、標本として蓄積された数が相当数になった。地形的変異を表現する指標としては代表的なものをあげると、皮膚の色、頭髪や眼の色や形、指紋、掌紋など、遺伝的形質として血液型、耳垢タイプ、赤血球酵素型のGPO、白血球抗原型(HLA)、血清タンパク型のGm等を利用する。これらの特性値を母集団毎に平均を求め、適当な数項目の間の多変量解析をほどこす。この値の遠近により種の遠近をはかる。例えば第2図は日本各地の6項目の生体計測地を解析した結果である。

 日本人はモンゴロイドに属している。アメリカインデアンもモンゴロイドに属していることがミトコンドリアDNAの解析結果証明されたが、アジアにおいては北方と、南方モンゴロイドに分かれる。さらにこのうち日本人に近い、華北、華中、華南と朝鮮を比較すると、華中に比較的近いとの結果である。稲作渡来人の影響が相当色濃く現れているようだ。
 日本個々について調べると、まずアイヌは北海道アイヌ、サハリンアイヌ、千島アイヌに分かれるが、これらが混血して、現在は北海道アイヌに収斂している。かってアイヌはコーカソイド説や古アジア民族単独説などあったが、最近はモンゴロイドで決着している。これは歯の形態、血液型、血球酵素、血清タンパクなど総合的解析の結果導かれたものである。西南諸島においては、アイヌと同根説があった。かって縄文一色だった日本人が九州に渡来した弥生人に南北に押し寄られ南北に旧民族が残ったという説であるが、係数的には南西諸島人種は本州よりアイヌに近いが、一概に同種とはいえず、一部湊川人など南方系の血もまざり、一様とはいえないようだ。まして九州南端から沖縄を含め先島諸島まで千数百キロにわたる範囲を占めるので、多種の混血になっているようだ。
 最後に大部分を占める内地人でも例えば東日本と西日本では、一様とはいえない。東と西の言葉のアクセントや習慣にずいぶん違いがある。

東日本西日本
居るイルオル
麺類蕎麦うどん
調味料醤油食酢
餅の形四角
鰻の料理焼き蒸す
炊飯様式イロリ(炉)ヘッツイ(カマド)
運搬具背負子天秤棒
ミズナラ(針葉樹)アラカシ(照葉樹)
上はほんの一例であるが、これらは地理的勾配をもつ文化的変異である。北の端と南の端は明らかに違うが、ではどこが境界かといえばはっきりしない。要するにある文化、慣習が徐々に浸透していった結果まだら模様になった現象である。これも、縄文的文化に弥生的文化が侵入してきた結果おきた現象であり、日本文化の特徴である。

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日本人の来た道-縄文編-


 旧石器時代最後の5万年前と2万年前地球に大きな変化があった。7万年前は地球が寒冷化に向かい始めた時であり、2万年前は温暖化に向かい始めた。7万年前から始まる寒冷化は北極に氷河が積みあがって、海水が下がり始め、温暖化が始まる直前にそのピークに達した。海面は120メートル後退し、現在海抜120メートル以下の間宮海峡や樺太の宗谷海峡は陸地つずきとなり、対馬海峡も140メートルといわれ、指呼の間となるほど朝鮮半島に接近した。朝鮮半島からの文化の交流もかなり頻繁で陸つずきになったとの説もある。内海となった日本湖を取り巻く環境は今とは違い、黒潮が運ぶ水蒸気が少なく、乾燥して草原がひろがり、内陸の平原状態であったようだ。そのため、シベリアからナウマンゾウやオオツノジカなど大型動物が北海道から東北方面へと渡って来た。マンモスも北海道にきたことが知られている。しかし、津軽海峡は海深140メートル以上で、陸つずきにはならなかったようで、本州にはマンモスは確認されていないが、小動物は冬季、氷結した海上を本州に渡来してきたもようである。動物を追って旧石器時代人もまた、日本にやってきた。この頃の人類が現代人とDNAの繋がりがあるかどうかは不明であるが、日本国土を共有したことは間違いない。温度は現在より格段に寒かったようであるが、夏季は必ずしも氷に閉ざされていたわけではなさそうだ。
 この頃の石器は大型動物を襲うための手槍や1個の原石を加工し、掻器、削器や、動物の骨を加工した骨角器を作っていた。この頃が旧石器時代で長期間つずいたが、やがて寒冷化のピークがすぎた2万年前から、日本の周りは海に囲まれ始めてほぼ今日の地形になった。温暖化はすすみ、かっての草原は針葉樹林などに覆われ、大型動物は滅び始める。と同時に人類も食料の変換を強いられる。この頃の動物はシカや熊やうさぎなど小動物にかわり、敏速な動きに対応するべく、武器である石器も変更をよぎなくされた。この頃の石器を細刃石器といい、同じ規格の石刃が多数製作できる、石器の大量生産が可能となった。
 宗谷海峡と対馬海峡に大量の海流が流れ込むようになると、四季が明確になり始める。日本海側は大量の雪が降り、太平洋側は乾燥する。すると、東日本は冷温帯落葉広葉樹林帯を中心とした、西日本は暖温帯常緑広葉樹林帯に覆われる、東西二元化の植物帯となる。そして小動物の狩猟を常時行うのが困難となり、替わってドングリ、クリ、クルミなどの堅菓類や野生のイモなど植物性食料資源の活用を発明されだした。これらは貯蔵がきくため保管したり、煮炊きをして堅菓類のあく取りをするための土器が発明される。この土器を持って縄文土器時代に入ることとなる。

 では、これら縄文時代の人々はどこから、日本に来たのであろうか。大きく二つの意見にわかれる。北方起源説と南方起源説である。7万年前から始まった寒冷化は海水を氷河に吸い上げ、海面を120メートル押し下げた結果、南のマレー半島とジャワ、スマトラ、ボルネオの島々が一帯の陸地となり、スンダランドといわれる、図3のような地形となってきた。と同時に南部モンゴロイド人が大量にすみついた。ニューギニアとオーストラリアも陸続きになり、5万年の時期を経過した。やがて2万年前になり再び温暖化が進行し、再び現在の地形となるや、スンダランドの人々は、住む土地が海となった。人々は一部ニューギニアとオーストラリアに隔離され、長い間の環境適応により現在の人種に進展した。一部はジャワ、スマトラ方面に住み付き、残りはインドシナに移動した。インドシナは人種のるつぼとなり、大変な生存競争を繰り広げることとなる。結果華南から南西諸島をつたって、九州に上陸したというのが、南方起源説である。勿論、朝鮮半島経由で来た者もいたであろう。湊川人は沖縄県具志頭(ぐしかみ)村の採石場で発見されたほぼ全身の人骨化石で、約1万8000年前のもの。身長は153センチと小がらで、この人骨の特徴は、中国南部に約3万5000年前に住んでいた人に似ており、湊川人は大陸から渡ってきたものと考えられている。(図4 湊川人の模式図)
 一方北方起源説は先にも触れたように、樺太から北海道を経由し東北、関東に動物を追ってきた、東北アジアのモンゴロイド人である。さらに、東北アジアから朝鮮半島経由で西日本から東に向かったモンゴロイドがいたといわれる。これら三方向から日本に渡来したという説が現在は有力である。(図5二重構造モデル

 次に縄文人の生活を追ってみよう。1962年福井県三方五胡で地下7メートルから今から約1万2000年前(縄文時代草創期)、約6メートルで約8000年前(縄文時代早期)、約3メートル下で約5500年前(縄文時代前期)の縄文遺跡が発見された。ムラは縄文時代前期の6000年〜5500年前が最盛期であったことが分かった。発見物は赤漆塗の櫛をはじめとする漆製品、石斧の柄、しゃもじ、スコップ状木製品、編物、縄などの有機物遺物やヒョウタン・ウリ・アサ・ゴボウ等の植物遺体、丸木舟、糞石など、通常は腐食して残りにくい貴重な遺物が、水漬けの状態で良好に保存されていたため、「縄文のタイムカプセル」と呼ばれる。約5,500年前の遺物層が約60cmの厚さで検出され、その中には、ドングリ・クルミなど堅果(ナッツ)の種子層、魚の骨やウロコなどの魚骨層、淡水の貝殻の貝層が確認された。秋に採取した森の食べ物を秋から冬にかけて食べ、春には三方湖で魚や貝をとっていたことが分かった。また、土をふるいにかけて魚の小骨まで洗い出した結果、夏は若狭湾に回遊するマグロ・カツオ・ブリ・サワラを捕って食べていたことがわかり、季節に応じた食生活の様相が明らかとなった。また鳥浜遺跡から1981年7月と1982年に丸木船が1隻ずつ出土した。前者を第一号丸木舟、後者を第二号丸木舟となずけた。第一号は縄文前期のもので、舟体は直径1メートルを超えるスギの大木を竹を縦に二つに割る要領で造ったと想像でき、内と外を削り、火に焦がしたりして造っている。舟底は平たい。長さ6.08M、最大幅63CM、厚み3.5〜4CM、内側の深さ26〜30CMである。第二号は縄文後期のもので、長さ3.4M、最大幅48CM、厚みは4CMで、内側には肋骨のように舟を補強するためのものか、または、漕ぐ時に足をかけるものかは不明だが、凸型の彫り出しがあった。材は第一号と同じくスギ材で造られていた。丸木舟は、鳥浜の人の活躍の範囲を拡げたことであろうし、食料獲得に果たした効果も大きかったと推定される。漁撈関係では、他にスズキ・マダイ・クロダイ・サメ・フグ・イルカ・シャチ・クジラの骨なども出土しており、淡水魚・海水魚・貝類・堅果・野菜など多様な食糧利用が明らかとなった。(図6)
 遺跡北部の椎山丘陵の南斜面部から竪穴住居跡三軒分が1984年に検出された。住居跡は、一号から三号と名付けられた。一号住居跡は、平面の一辺が2.8M程の隅が丸い四角(隅丸方形)であり、二号住居跡は、平面の長径3.2M、短径2.4メートルの楕円形である。三号住居跡は痕跡である。一、二号共に床面のほぼ中央に囲炉裏が掘られていて、壁柱穴づくりである。これら三軒とも縄文時代前期のものである。
 このように縄文期には動物の狩猟は不安定な収穫を嫌い、漁業や堅果物の摂取が主になってきたようである。実際関東地方では内陸部では堅果類、果実など植物が75%、雑穀類が11%で、蛋白質の80%以上を植物に頼っていたようだ。海岸部では蛋白質の44%を獣肉、35%を魚貝類、11%を植物からとバランスよく摂取していたと報告されている。
 縄文時代の人口を見てみよう(図7)。もう一つのデータを見ると、早期2万人、前期11万人、中期26万人、後期16万人、晩期8万人となっており、ほぼ同じ数字である。更に死亡率は一歳未満が高く30%が死亡している。更に15歳以上の平均余命は31歳となっており、圧倒的に短命である。そして人口分布は東日本が90%、西日本は10%と圧倒的に東が多い。これは植物の種類が落葉樹が多く、堅果類を多く獲る結果、東が当時は住みよかったと思われる。

 以上見たように日本人のルーツは縄文人とみて、この縄文人は何処から来たかという問題に帰着する。日本人の人骨やDNA、あるいは血清からは、いまだに確実に北方、南方と断定できない。むしろ東北アジア、華北、華南、南洋諸国と入りみだれて日本に入り、るつぼのごとく攪拌された人類であると思われる。ただこの比率がどのくらいであるか、によりどこの傾向が強い弱いということになる。ただ縄文人骨は多くない。古代人のDNAも採取されにくい。要するにデータが極端に不足しているのである。ただ、少ないデータからの多変量解析結果を図2にしめす。


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日本人の来た道-弥生1-

 従来弥生時代は水田稲作の開始をもってその始まりであると理解していた。しかし、水田稲作はおおよそ紀元前500年ころ、日本に入ってきたようであるが、陸稲稲作はそれより数千年前からはいってきていたようである。そしてこれが弥生歴史上無視できないことであると、最近注目をあびている。これを縄文稲作といったり、あるいは縄文弥生時代といったりしているのである。この時代はどのような時代だったのかを最初に検討したい。
 最近の研究でプラントオマールが注目されている。これはイネ科植物が枯れたとき、有機物は分解されて土に還るが、珪酸体はガラス質であるため腐ることなく、そのまま1万年でも土の中に残留することになる。その珪酸体というガラス成分が掘り出されたものがプラントオパールと呼ばれるものである。プラントオパールは植物の種類によってその形状が違う。事前にその形状を把握していれば、遺跡などから出たプラントオパールがどういう植物に由来するものか分かるわけである。このプラントオパール分析法が開発されることによって、栽培や農耕の遺跡が発掘されなくとも、米粒や籾殻が検出されなくとも、イネのプラントオパールが認められれば稲作の可能性を考えることが出来るようになった。しかも炭化米や籾殻、籾痕などが検出されても、他所から持ち込まれたのではないかという疑いが拭えないが、プラントオパールは葉や茎がなければ発生しないものであるので、多量のプラントオパールが検出できれば、少なくともそこにイネが生育していたと考えてよいのである(図8)。
 さて、このプラントオーパルの検出例をみると紀元前5000年にさかがえるようである。この起源は長江の下流域、水田稲作の故郷とも言うべき、河姆渡遺跡のあたりであるというのだ。そして熱帯ジャポニカこそ陸稲稲作の種類であったようだ。この稲作は粗放稲作で、やや高い台地のようなところでの、焼畑のような稲作であったとすると、これからは畔(あぜ)のような遺構はもとより、鍬(くわ)などの道具も出土することは期待できないと言わねばならない。従って考古学上の証拠物件が発見されないのである(図9.)。そしてサンプルを分析すると、その4割は有明海沿岸地域、3割が岡山県沿岸地域で発見されている。
 縄文後期になると、日本の黒曜石が産出された。有名な話では伊豆の神津島や隠岐島、阿蘇などで黒曜石を産出し、全国に輸送網を開発したようである。国内に限らず、ウラジオストックや朝鮮半島にも運んだことが、遺跡発掘の結果判明している。(図10)古代人は材料や道具に対する執着心が特に強く、材質についてこだわりがあったようである。このようになると、運搬手段となる、舟の構造、製作方法など興味がわくが、このような手段があったとしたら、大陸と日本の交流がかなり、頻繁におこなわれていたことが、予想できる。長江下流域は当時から交易の活発な地域だった。魏志倭人伝や倭寇の歴史は最近の話ではなく、紀元前2000〜3000年あるいは更に古い歴史を有しているかもしれない。黒曜石の交易に端を発して海上輸送で歴史をリードしていたことであろう。この一環で朝鮮半島や日本に大陸のコロニーなどが存在していたかもしれない。それが朝鮮半島南端や有明海や児島湾に当たるのかもしれない。
 さて図11は縄文後期の気温変化図である。今から4〜5000年前は温暖期で日本に限らず全世界が、特に温帯地は快適な気候の中にあった。それが4000年から3000年前にかけて寒冷化してくる。全体で平均3度ほど低下した。大陸地方は図12のごとくシベリアから北部中国に民族移動が起きた。中国は伝統的に寒冷化すると北部の民族が南下を始め、民族トラブルを巻き起こす。食料の奪い合いになり、大量の難民が発生する。日本も例外ではなかった。日本列島の豊かで安定した東日本の落葉広葉樹林帯(ナラ林帯)の森、特に温暖帯系のクヌギ・コナラ・クリなどの森からは、寒冷化が進む3,000年の間に、冷温帯系のブナ、ミズナラなどの林に大きく姿を変えた従来9割が東日本にいた人類が、次第に異常気象の連続と落葉樹の減少により、当時の主食である栗やドングリ、クルミなどの堅果類が極端に不足してきた。これらが不足すればこれらを餌とする小動物も減少し、狩猟生活の獲物の不足に直面する。人々は寒冷化した東から温暖な西に移動をはじめた。図13は日本の人類移動である。図7は縄文末期の人口減少をあらわしているが、特にこの時代、関東、東北の人口は激減した。これは人口移動だけではなく、食料不足による、出生率の低下によるものであろう。図14は結果東と西の人口変化である。東北の三内丸山古墳が消滅したのもこの頃であろう。
 この頃西日本は堅果類が少なく、縄文人としては住みにくい世界であった。特にバイカル湖文明圏から渡来した東日本縄文人にとって、西への移動は苦痛であったが、背に腹はかえられず、西への移動を決断せざるをえなかった。実際西は人口が倍増している。このことは西文明と東文明の融合を意味し、日本人の成り立ちを更に複雑化した。
 西日本の生活は主として海岸近くに住み魚貝類を採取し、焼畑農業もサイドビジナス的に行っていた程度であろう。この頃の人口は10000人から20000人で殆どまばら状態であった。四国など無人島に等しかった。当時の西日本としては人口も少なく、受け入れ余地は十分だったが、食料をどう確保するかが問題であった。
 大陸での人口移動の影響は日本にも押し寄せてきた。当時青銅器時代に入っていた北方民族の騎馬と青銅器で武装した集団に華中、華南の人々はひとたまりもなかった。この頃から徐々に、東支那海の倭人が日本近海に登場することになる。先に記したように、日本はおそらく未知の地ではなかったと思われる。避難先としては温暖の地、倭国は好適地であった。江南人は食物栽培の術にたけており、食料不足の西日本人にとっても歓迎すべきことであった。図15は水田稲作前期のもようである。菜畑遺跡を見ながら、初期水田稲作の時代を見よう。
 この水田遺跡は板付遺跡と同様、日本最古の水田遺構である。この菜畑遺跡は1979年12月発見された。その結果、この遺跡は16の層からなり、縄文前期から弥生中期に亘る複合遺跡であることが分かった。上の層から8層目の下部からは、縄文晩期末の夜臼式突帯文土器と共に、水田址10枚が発見された。その発見に止まらず、さらにその下(9〜12層)、縄文晩期後半の突帯文土器、夜臼式よりも古い山ノ寺式といわれる土器の層から、水田址4枚や「水田稲作」に必要な道具がセットで発見されたのである。菜畑遺跡の最古の水田期(突帯文土器・・山ノ寺式期)では、イネの花粉と共にアワ、アズキ、ヒョウタン、メロン、ゴボウ、シソなどの主に畑で栽培される植物と、カタバミ、イヌホウズキ、ナズナ、ハコベなどの畑雑草の種子が数多く出土し、その上の層(突帯文土器・・夜臼式期)になると畑雑草が減少し、代わって水田雑草の花粉や種子が急に出てくる、という。
 すなわち、この菜畑ムラでは、「水田稲作農耕」は、当初、山の寺式期すなわち縄文晩期後半に、採集・漁労や従来からの畑作の中で、小規模に導入され、夜臼式期(板付遺跡と同時期すなわち縄文晩期末)になって、本格的になったと考えられるのである。縄文時代の稲作は、縄文前期以来3,000年に亘って、焼畑技術の延長線上の稲作か、低湿地を利用した水陸未分化の粗放稲作であった。
 それに対し菜畑ムラの稲作は、小規模ではあったが、次元の違う稲作技術、すなわち“水田稲作農耕”の技術セットを取り入れた最初の稲作であった。この非常に手数のかかる、縄文人が長い間、頑強に拒否し続けた“農耕”という、生業の大転換を“もたらし”且つ“受け入れた”人達はどういう人々であったのだろうか。
 (稲の来た道)で紹介したようにこの頃から長江下流域から倭人が流入してきた。このルートは図15で示す。当時春秋戦国時代に入った中国は、民族流入と戦争激化で混乱を極めていたらしい。この人々は水田稲作を正業にし、舟の操業を得意とした人々である。おりからの騒乱にボートピープルとなった人々が海外におしだされた。かねて黒曜石など運搬していた頃から、交易していた倭国とは、見知らぬ他国ではなかったのであろう。人口少なく温暖な地があり、水田稲作に適していることを十分知っていたのであろう。彼らはルート2または3を使って日本にきた。ただ菜畑ムラに関していえば水田稲作以外の生活用品はすべて縄文時代の品物で、これは縄文時代の生活に水田稲作を取り入れたことをものがたっている。
 菜畑遺跡の近くに曲り田遺跡がある。この遺跡では朝鮮半島の土器と縄文土器が混在して発見された。これは当時の朝鮮渡来人と縄文人が混在して生活していたことをものがたる。すなはち当初の渡来人は無人の土地に新たに水田を開いたのではない。すなはち、当初渡来人は計画的に日本に渡来して、現地人と同居したということである。
 

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日本人の来た道ー弥生編ー拡大図

東西人口

図1 弥生時代の人口移動状況

各時代人口

図2 縄文各時代、各地域の人口状況

人口増加率

図3 弥生初期1000年間の人口増加推定

二重構造

図4 日本人の二重構造状況

弥生実年代

図5 弥生時代の実年代 従来の年代から数百年弥生時代が早まった

突帯文期の稲作遺跡

図6 弥生文化の西進状況

松菊里型竪穴住居の分布

図7 竪穴住居の西進状況

登呂の遺跡高床倉庫

図8 長江方面からの高床式倉庫

甕棺墓の分布

図9 北九州における甕棺墓の分布

遼寧式青銅器文化

図10 東北アジアからの渡来人の経路

東個胡の勢力と南下の経路

図11 紀元前500以前の東北アジアの状況

環壕・環濠集落の伝播

図12 環壕集落と環濠集落

環壕集落は北部から来た防御的環壕

環濠集落は長江方面から来た水利的環濠

紀元700年

図13

弥生飛鳥

図14

環濠集落

図15 江蘇州の環濠集落

唐古鍵土器片

図16 唐古鍵遺跡から発見された楼閣の図が描かれた土器片

唐古鍵楼閣

図17 土器片をもとに再現された楼閣

日本人の来た道ー弥生2ー

 さて弥生人といっても、そのルーツは単純ではない。図1に示すように、北九州では縄文晩期から初期渡来人は日本にやってきていた。その渡来人は魏志倭人伝に伝えられる、倭人といわれる東シナ海を徘徊する人々で中国、南朝鮮、倭国を拠点として海上生活を主としていた。このころは国境などなく、沿岸地方に住んでいた人々は皆同僚と思っていたのではないか。彼らは、前回紹介したように黒曜石を運搬したり、あるいは沿岸地方で漁労生活をしたり、中国からはいってきた焼畑農業をしたりして生活していた。そして弥生初期になり、最初の水田が現れる。それが菜畑遺跡や曲り田遺跡に住んでいた人々である。この頃北九州内は図2に示すように6000人少々の人口しかいなかった。これでは沿岸地方だけに人がおり、内陸地には無人であったろう。当初の水田稲作は当時南朝鮮に広く利用されていた、突帯文土器がつかわれていたことから、朝鮮半島を中心に文化を共用する人々が、水田稲作を行っていたようである。すなはち、頭骨の標本検査では現地人の頭骨が多く、現地人が朝鮮半島に行って習得してきたか、ないしは渡来人を自分たちの部落に招いて、稲作の指導を受けたようにしか見えないのである。即ちこれは縄文後期にかけて人口が半減するほど生活に窮し、日本人絶滅の危機に瀕していた当時の縄文人が新しい食料を求めていた当時の日本人のあせりを感じるのである。
 2800年前になると、板付遺跡が出現する。この頃から無文土器時代にはいる。これは日本に入ってからは遠賀川系(おんががわけい)土器といわれ、これが九州一帯から中国、近畿地方にあらわれる。このころから本格的に弥生時代となる。一度渡来人による水田稲作が行われると、この渡来の波はくいとめられなかった。渡来する人々にとっては、おりから中国北部の戦乱を逃れ、朝鮮半島から日本に逃れ来るひとが多数にのぼった。一方日本国内は当初殆ど無人の荒野でいくらでも、受け入れ可能な状態であった。これを大陸側から見た場合、寒冷化に伴い南下する、北方人の騎馬と青銅器に圧倒され、南部方面に圧迫された人民の避難先として日本が着目されたようである(図15)。この強大な南下プレッシャーがなければこのあとの、人口急増は理解できない。第一次の波は倭人たちの受け入れであったが、第二波は東北アジアの北方人だったようだ。これが朝鮮半島から玉突き状態で日本に上陸した。この頃の文化は遠賀川系土器に代表される土器類と竪穴式住居である。そして第三波は江南地区からの渡来である。この渡来文化として環濠集落農業や甕缶墓の風習である。これらが図13、図14に示すごとく千年の間に瞬く間に普及した。
 この間の人口普及状況を見てみよう。弥生の始まり時期は人口は東日本で64900人、西日本で10900人、合計7.6万人であると推定されている。圧倒的に東日本偏重である。これが弥生後期で東日本292600人、西日本302300人、合計約60万人である。すなはち千年間に9倍の人口増である。この人口増は渡来人+出生率であるが、互いの数を推定して計算している。それによるとこの千年の間、純渡来人として53,900〜115,500人(毎年50人から100人)が渡来し新たに出生率として0.2ないし0.3%/年で増加させたことになる。これは人口絶滅に瀕していた日本人口を起死回生させたのは、当時から始まった稲作のおかげであるといえるのである。稲作のおかげで食料生産が計画的に行われ、適当な備蓄が可能となって、しかも少しずつ富が蓄積されてくる。
 しかし弥生中期稲作の波は一時中断される。日本の二重構造といわれるラインで若狭湾から伊勢湾に至るラインである。これは西から普及してきた稲作文化と従来の落葉樹文化、いわゆる縄文人集団に衝突したことをものがたる。簡単には従来の狩猟文化を捨てられない人種が抵抗をした経緯だろう。この間十分稲作文化になれ更に人口の増加に耕作面積が不足してきた、西部弥生人にやがては一服ののち、再び東部地区への進出を計って行く。この速度は北海道を除く日本東西1000キロ、1000年で当面の稲作文化完了したとすると、1世代50年として子の代になったら平均20キロ東進して新田畑を開墾したことになる。
 稲作は日本に数々の文化をもたらした。衣食住のあらゆる分野に新技術が導入された。農耕を効率的に行うのに、当時から発明された、青銅器や鉄器が殆ど同時に伝達されてきた。このことは、農業の生産性を高め、人口の吸収力を高め、出生率の向上に寄与した。物流が盛んになり、情報伝達が急速に発達した。そして、年々歳々の歳時記が稲作中心におこなわれ、田植えに始まり刈り取りに終わる年中行事が全国的な規模でおこなわれ、盆や正月の風習がうまれた。現在の風俗の基底をなす、文化がこの頃から始まったのである。


 奈良県磯城郡にある唐古鍵遺跡は弥生中期の代表的環濠集落である。水田稲作が近畿に到着するころには、中国長江方面から朝鮮半島を経由せず直接九州、近畿地方に渡来するようになった。唐古鍵遺跡はその代表的な例である。巻向遺跡は唐古鍵遺跡が発展的に巻向に行ったものであろうといわれている。現在知られている遺跡面積は約30万平方メートル。規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。平成11年(1999年)に国の史跡に指定され、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている(図19、図20、図21)。全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。内側の環濠は幅8メートル以上、その大環濠を囲むように幅4~5メートルの環濠が4~5重に巡らされる多重環濠であった。これらの多重環濠群は居住区の外縁を幅150〜200メートルで囲み、環濠帯を形成している。各居住区の内部は未調査であるが、村の西南部に河内や近江、紀伊など各地の搬入土器が多く出土する市的な場所、また、南部では木器の未成品や青銅器鋳造関連遺物や炉跡、北部ではサヌカイトの原石や剥片が纏まって出土する所などがあり、各種工人の居住の場所と推定される。南地区の中央部に高床建物がたっていた可能性が高く、中枢部と考えられる。このようなことから大環濠内では、各種の機能別に区画されていたと考えられている。
 やがて文化の断続ラインであった二重構造ラインを突破してから、中部、関東に稲作が浸透し、ついに東北まで到達した。この間、品種の改良を何度もおこなわれたようである。環濠の作り方など水利の改善、鉄器の採用、高床式倉庫など住居の改良など、次第に歴史時代の日本に入ってきた。


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日本人の来た道-歴史時代編-


 北九州で始まった稲作の初期段階、いよいよクニの萌芽が現れた。この一部が図18の現在福岡県早良クニの状況である。弥生時代、当時の最先進地域であった北部九州では、当初、それぞれ個別の集落として存在していた「ムラ」が、農耕を基本に持つ高い人口再生産力を発揮してムラの拡大・分化を生み、近辺の生産適地を埋め尽くすように未開地を耕作地へ変えていった。その結果増加した「ムラムラ」が、弥生前期後半ごろから小共同体(おそらく血族集団、本家と分家などから構成されたような共同体)に成長し、更にその小共同体が、指導力を持った中心的な小共同体と、そういう小共同体との共存を図ろうとする従属的な小共同体とに階層化し、それらが一つのグループとなって「クニ」を形成し始めた。クニ形成の基本的要因は、水資源の共有化や管理の一元化の必要性が生じたことにあったと思われる。
 図21は紀元前後の北九州のクニグニの状況である。漢書にあらわれる百余国とはこのような状態を表しているのであろう。ここだけで40余国であるが、更に九州南部や四国、中国、近畿を含めさらに韓国南部の扶余をおそらく含んでいたのであろう。
図19に当時のクニ及びリーダの概念を表にしたものである。地域はムラ、基礎地域、クニ、国、国家に統合されている。各々の首長の副葬品などが発見されている。
 わが国に空白の四世紀といわれる時代がある。非常に活発な外交活動をしていながら、信頼できる記録がないためなかなか真実がわからなかった。日本書紀で神功皇后の時代で、内容が突飛で信頼に足るものではなく、朝鮮半島の三国史記(新羅本紀)の記載や三国遺事があるが、これらの下敷きとなった「旧三国史」など原本が現存しないこと、そもそも執筆が12世紀のことであり、4世紀の史実をどの程度正確に伝えるかは明らかでないこと等から鵜呑みには出来ない。そうなると考古学的知見で歴史の隙間を埋めざるを得ない。
 先に「邪馬台王権」は台与の死後衰え、「ヤマト王権」の時代に移ったのではないかとしたが、それを証明する遺物が釜山金海地区の遺跡から出土した。2〜3世紀の墳墓群が中心の良洞里遺跡から出土した倭系の遺物は小型仿製鏡や中広形銅矛など、弥生後期の北部九州で製作されたとみられるものが少なくない。ところが同じ金海の大成洞遺跡や釜山東の東萊(とうね)の福泉洞遺跡の4世紀代の墳墓群からは遺物として、巴形銅器や碧玉製石製品、筒型銅器など、いずれも畿内のヤマトを中心に分布しているものが出土した。 これは3〜4世紀にかけて朝鮮半島の伽耶地区との交流の当事者が、北九州の勢力から畿内の勢力へと急激に転換した結果だと思われる。これは邪馬台王権の時代、外交・交易の利権を伊都国王が握っていたと考えられ、それがヤマト王権の時代となって外交・交易権も畿内に移ったと考えられることに合致する。
 玄界灘に沖ノ島という絶海の孤島がある。ここには宗像大社の沖津宮が鎮座する。4世紀後半この沖ノ島で「海北道中(うみきたのみちなか)」の守り神の祭祀が本格的に行われるようになった。それも地元九州の豪族が独力で行えるレベルのものでなく、この祭祀にかかわる遺物8万点が国宝に指定され海の正倉院と呼ばれるほどである。このことは4世紀半ばまでに朝鮮半島と倭を結ぶ最短ルート、「海北道中」をヤマト王権が掌握したことを物語ると考えられるのである。これらの考古学的証拠から4世紀はヤマト王権が内政はもちろんのこと、外交・交易までその権力を掌中に収め、支配権を確立した時代であったということが出来るだろう。言い方を変えれば、ヤマトの勢力による列島主要部の政治的統合が実現した世紀であったということも出来るだろう。図29を参照いただきたい。半島ルートを掌握し、伽耶にはおそらく拠点まで確保したヤマト王権に建国後間もない百済が接近を図り、一種の軍事同盟が結ばれた。強国高句麗が南下策をとりはじめ、それに脅威を感じた百済は軍事的パートナーが必要だったからである。
 一方、ヤマト王権にとっても百済は先進の文物の供給先として有用な存在であったに違いない。百済には高句麗に占拠された楽浪や帯方の遺民すなわち中国系人士が少なからず移住していたからである。奈良県石上神宮に銘文の入った七枝刀という国宝が所蔵されている。その銘文の大意は「泰和4年(369年)によく鍛えた鉄で七枝刀を造った。かってこのような立派な刀はなかったが、百済王の太子が倭王のためにわざわざ造ったものである。後世まで伝え示されたい。」というようなことである。
 要するに七枝刀を倭王に贈ったということは、百済が倭王の地位を認めていたわけであり、倭国と百済の間にそういう緊密な国交が存在たということであろう。そしてそれが軍事同盟にまで発展していたことは、やがて百済の要請を受けてその宿敵高句麗と倭が直接戦火を交えることになることで証明される。それを伝えるのが広開土王碑(好太王碑とも言う)で資料の乏しい4世紀、半島での倭の動向を記した貴重な資料である。
 この碑には「倭」は強国として現れる。そして本質的にはその強国を打ち破った高句麗国の広開土王の武勲は素晴らしいものである、という顕彰碑である。だから多少、誇張もあるであろうことは想像に難くない。しかし根も葉もない虚構と見てしまうことはもちろん出来ない。簡単にその内容を拾うと
391年 倭が百残(百済の蔑称)、新羅を「臣民」とした。
396年 広開土王みづから、倭の「臣民」となった百残を討った。
399年 新羅に倭兵が侵入したと聞いて新羅の救援を約束した。
400年 新羅救援のため5万の兵を派遣し、逃げる倭兵を追って任那加羅まで追撃した。
404年 倭の水軍が帯方界にまで侵入したので、広開土王みづから兵を率いて倭に壊滅的打撃を与えた。
 この碑文を裏側から読むと、ヤマト王権が力をつけ百済や新羅とは比較にならぬ強国として4世紀の朝鮮半島に登場してきたことがわかる。巨万の兵を渡海させたり、大水軍を帯方方面まで侵攻させたり国力の急拡大には眼を見張るものがある。これは中国が五胡十六国時代の混乱期にあり、ヤマト王権としても中国(東晋)の後ろ盾は当てに出来ないという時代、むしろ軍事力を強化し自立して伽耶だけでなく百済や新羅を擁して半島経営に当たろうとした思惑が感じられる。あるいは高句麗の強い南下意欲に対し百済新羅を緩衝勢力として援助し、伽耶の鉄利権を守ろうとしたのかもしれない。
 さらに直接的な利益としては、軍事援助の見返りとして従来以上に多くのヒト資源やモノ資源がこの列島にもたらされたと考えられる。これらの知識人や技術者、鉄素材や先進文物を独占したヤマト王権はその再配分を通して各地の首長たちへの支配力を更に強めていく。この時期、4世紀末葉、大王の墓がもっとも大型化する古墳時代中期を迎えることになる。

 いよいよ五世紀に入る。この時代、宋王朝の時代を含め、前近代の東アジア世界の国際関係は、中国王朝を中心とした冊封(さくほう・・官爵を授ける)という形式で秩序付けられていたとして、中国史学の西嶋定生は「冊封体制」という概念を提唱した。すなわち中国に朝貢して来る夷狄(いてき)は、皇帝の徳を慕ってやって来たのであるから遠来の夷狄の朝貢は、皇帝の徳の高さの証明とされ、皇帝の権威を高めた。一方、周辺諸国の王も、皇帝の冊封を受ければ、王としての地位を盟主である中国王朝に承認されたことになるから、国内の権威が高まり、周辺諸国との外交関係でも優位に立つことができた。
 わが国は倭の五王の時代である。宋書の倭の五王の記述が重要な意味を持つのは、彼等が宋王朝に“執拗に”“異様な官爵”を求めたことであり、またその外交的意味である。倭国王は珍から武まで一貫して、何故かしら、当時すでに存在しない秦韓と慕韓を軍政権の範囲に含めるよう求めている。また「百済」も軍政権の範囲に含めるよう強引に求めている。強引という意味は、百済は倭より早く宋王朝に朝貢していて、すでに宋から「使持節、都督百済諸軍事、鎮東大将軍、百済王」という立派な独立国としての冊封を受けている存在であったからである。図29は珍、済、武の宋王朝への要求と返事である。武王には結局百済の支配権はみとめられなかった。
 北方騎馬民族説の江上波男は次のように説明する。やや長くなるが原文のまま引用する。
-- それは、当時の倭王は.現実には朝鮮で任那(伽羅)一国だけを直轄領にしていたにすぎないが、かつて馬韓・弁韓・辰韓の三韓時代に、その支配権を三韓全体に及ぼしていたという事実、ないしそのような有力な伝承があって、したがって倭王は、現在でも南部朝鮮のすべてを支配する歴史的根拠・潜在的権利を保有している、という立場をとっていたのではないか。
そうして、その立場を明確にするために、新羅も百済も、そのもとになった秦韓・慕韓におよぶまで、過去から現在にいたる南部朝鮮の・・ただし弁韓をのぞく・・国々の名を列記して、南部朝鮮の支配権を過去にさかのぼって宋に追認させようとしたものではあるまいか。
 また百済について強硬に要求したのも、同様な理由からで、現在百済は独立国であっても、他の南部朝鮮諸国と同様.本来倭国に属すべきものであるということを、宋に確認させようとしたのであろう
         

  弥生時代に入ってから異常に増えてきた人口は飛鳥奈良時代になって更にその速度を増してきた。図23を見よう。200年から750年の人口増加は更に10倍にふえた。59万人の人口が500万人を超えた。人口増加率を仮に年間0.35%とした場合でも、年間800人、550年で44万人の渡来人を受け入れたことになる。弥生時代から奈良時代まで100倍の人口になったことは、渡来人による混血が十分行き渡ったことになり、混血のるつぼの中に新しい日本人が発生したことをものがたる。
 
 平安時代初期の815年、新撰姓氏録が成立した。自らの出自を表明し、それが公表されるということであるから、表明を躊躇する貴族も多かったと見られ、これの編纂には予想以上の年月が必要であったと言われる。出来上がった新撰姓氏録は、五畿七道六十六ヶ国すべてに亘る膨大なものであったようだが、現存しているのは左京・右京と五畿内(山城、大和、河内、摂津、和泉)の分だけである。新撰姓氏録編纂の目的は、 各氏族を皇別、神別、諸蕃に分類して、その祖先(出自)がわかる目録作りにあったと言われている。逆に言えば平安初期の段階では、すでに貴族でも何処の誰か判らないような状態であったことが窺われるのである。各分類は大辞泉によると次のように解釈される。
 ・皇別氏族・・ 皇族を祖先とする氏族。橘氏・源氏・紀氏など。
 ・神別氏族・・神代の神々の後裔 と伝えられる諸氏。藤原氏・額田部氏など。
 ・諸蕃氏族・・ 中国・朝鮮から渡来したと称する諸氏。秦(はた)氏・漢(あや) 氏・百済(くだら)氏など。
 新撰姓氏録の内容、特に渡来系の内訳を詳しく見ると図24のようになる。

白村江の戦争を期に倭国は大陸の権益をすべて失い、大陸からひきあげた。唐の報復を恐れ、大宰府まで戦線を後退させ水城を築いて防戦に専念し、都も大津に引きこもった。国名も倭国を改め、日本とした。ここではじめて日本国が誕生し、従来の国境の不明確な状態を解消した。日本の認識である。これより渡来人の帰化は激減する。
 白村江の大敗で半島からの渡来が途切れてから150年、平安初期段階で渡来系だと申告した貴族はこの畿内圏で326氏族、全体の28%であったことがわかる。且つ、夫余系の騎馬民族と見られる氏族は百済系、高麗系、任那系合わせて、ほぼ60%に達する。決して無視できない集団であったといえよう。もちろん、この数字は列島全体の姿を表すわけではない。 畿内圏という特に渡来人が多かった地区の数字であり、かつ支配階層のなかの割合であったことにも留意しなければならない。従って、渡来系貴族以外の被支配者層やボートピープルは当然含まれていない。図22は新羅、百済、任那系以外の大陸系渡来人をしめしている。

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日本人の来た道歴史時代拡大図

早良国

図18 早良国

クニ及びリーダーの概念

図19 クニ及びリーダーの概念

朝鮮四郡の設置と東アジア90454.jpg

図20 朝鮮四郡の設置と東アジア

倭国百

図21 倭国100国

渡来系氏族

図22 古代氏族の祖先伝承

古墳時代から奈良時代人口増加

図23 古墳時代から奈良時代の人口増加

新撰姓氏録の渡来系内訳

図24 新撰姓氏録の渡来系内訳

縄文弥生奈良人口

図25 縄文、弥生、奈良の地域別人口推移

古墳時代の主な渡来人集

図26 古墳時期の主な渡来時期と集団

五胡十六国の時代

図27 五胡十六国時代の中国

倭の五王

図28 中国宋王朝による冊封

魏志倭人伝の時代の東アジア

図29 魏志倭人伝時代の東アジア

みかさの山にいでし月かも

 古今集に以下の和歌が掲載されている。百人一種にも選ばれた阿倍仲麻呂の一句で、大方の人はご存知であろう。以下紀貫之の前書き、あとがきをそえて鑑賞してみよう。

「もろこしにて月を見てよみける」

     「あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさの山に いでし月かも」

「この哥は、むかしなかまろをもろこしにものならはしにつかはしたりけるに、あまたのとしをへて、えかへりまうでござりけるを、このくにより又つかいまかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとていでたちけるに、めいしうといふところのうみべにて、かのくにの人むまのはなむけにしけり。よるになりて月のいとおもしろくさしいでたりけるをみて、よめるとなむかたりつたふる」

 前書きは問題ない。あとがきは大意つぎのようなものだ。
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¬製(中国東海岸)における別離の宴における作歌である。
その現地で、そこで海上に「月が出た」のを見て作ったもの、と語り伝えられている。

 阿倍仲麻呂の主な略歴を記す。
698年 阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。
717年(霊亀2年)多治比県守が率いる第8次遣唐使に同行して唐の都、長安に留学する。同期の留学生には吉備真備や玄靴いた。
725年 洛陽の司経局校書として任官、
728年 左拾遺、
731年 左補闕と官位を重ねた。
733年 第九次遣唐使が帰国する際に帰国を願い出たものの、玄宗の許しを得られずやむなく唐に残り、次の機会を待つことになる。
751年 第十次遣唐使が派遣され、このとき副使を勤めた吉備真備との15年ぶりの再会などを喜び、いよいよ望郷の念を強めたに違いないと思われる。玄宗に帰国を再度願い出、ようやく帰国の許可が下りたとき阿倍仲麻呂は55歳になっていた。
仲麻呂の便乗した大使藤原清河の第一船は途上で難破し、安南(現在のベトナム)に流れ着いてしまう。安南に流れ着いた第一船は現地人の襲撃を受け、180余人の乗組員のうち生き残ったのが10余人となる悲惨な体験をするが、阿倍仲麻呂や藤原清河は難を逃れ、2年後に長安に辿り着く、てっきり仲麻呂(中国名では晁衡または朝衡)が死んでしまったと思った杜甫は「嘆晁卿衡」という詩を作って哀悼したという。長安に戻った阿倍仲麻呂は再び玄宗に仕え、藤原清河も唐朝廷に仕えることになった。
第三船(吉備真備便乗)が屋久島に漂着したものの帰国
第四船(大伴古麻呂、鑑真和上便乗)も無事帰国
第二船は行方不明
753年 帰国する仲麻呂を送別する宴席の時に、王維ら友人の前で日本語で詠ったなど諸説ある。
770年1月 長安にて死去

 当初の歌は10人中9人は奈良春日の地を思って詠んだものと思っている。どの万葉集の解説書もそう書いている。しかし考古学者古田武彦氏はこれは九州の歌であるという。
世に九州王朝説がある。歴史の主流ではないが一部信じられているようだ。その主張点を記す。
‥径好縫縫ノミコトが竺紫(つくし)日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。これは長垂山の海岸に渡来したのであろう。これは博多湾の南、現在も地理上存在する。これが九州王朝の初代である。
日本国を名乗り始めた天智天皇以前の歴史の主要な出来事はすべて北九州の出来事である。そのころ都は太宰府におかれていた。その転機になった出来事は、663年白村江の戦争の敗北である。九州王朝筑紫君薩夜麻が唐に捕虜となり、唐に連行される。8年後に帰国をゆるされる。
8纏記、日本書紀の歴史書はその原本は九州王朝で作成されていた。大和に都が移ってからは、歴史は改竄されすべて大和の出来事のごとく書きなおされ、九州王朝の痕跡を消し去った。
じ極葉集といわれる巻1、巻2は九州王朝でつくられたもので、場所、事柄は九州が主体である。九州王朝の痕跡を残す歌は削除されるか、一部内容と作者を巧妙に変更して残した。そして大伴家持以降万葉集編纂時に前書き、後書きを付して正式な歌集とした。万葉集が編纂がおわるのは平安時代になってからである。

 倭姫王は天智七年(668)二月、倭大后となる。天智天皇の危篤および崩御の際に詠んだ歌四首が万葉集に収められている。そのうちの一首をしるす。

天皇の聖躬(せいきゆう)不予(ふよ)の時、大后の奉る御歌一首

  天の原ふりさけ見れば大君の御寿(みいのち)は長く天(あま)足らしたり(万2-147)

【通釈】天空を振り仰いで見れば、天皇の御命は長く、空に満ち足りるほどである。
【補記】天智十年(671)、天智天皇臨終の際の歌。天皇は同年十二月三日、崩御。四十六歳。

倭姫王は舒明天皇の孫。古人大兄皇子の子で皇子は天智天皇に暗殺されている。倭氏とは当時百済の王系の貴族で、倭氏にひきとられて養育されたのか、後、仇の男の妻になっている。この頃の宮廷の著名人は出自がはっきりしない貴人が多い。特に有名なのは鏡王女(天智天皇の妃から中臣鎌足に下された)、額田王(天武天皇から天智天皇へ再婚、著名な女流歌人)の姉妹で、当時百済の滅亡で数千とか数万の百済王室とその家臣が日本に帰化している。その一員ではなかろうかといわれている。大阪枚方に百済王神社があるが百済滅亡後、日本に残留した百済王族・善光(禅広)は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、その曾孫である百済王敬福は陸奥守に任ぜられ、749年陸奥国小田郡で黄金900両を発見して朝廷に献じた。功によって敬福は従三位宮内卿・河内守に任じられ、百済王氏の居館を難波から河内に移した。当地には氏寺として百済寺、氏神として百済王神社が造営された。その子の南典が死去した時、朝廷は百済王の祀廟を建立させたものである。

 話を戻す。上の歌は倭姫王の作と伝えられているが、九州王朝説ではこの歌は違う解釈となる。天智天皇がいまにも死にそうな時に枕元で命は永遠であるとは歌わないだろうという。天の原とは壱岐島の北端にある地名である。那の津(博多の古名)から出港し朝鮮半島に向かう途中、必ず壱岐島の北端をとおり、対馬から朝鮮半島方面または中国方面に向かうことになる。または日本に帰化するときはその逆を航海する。壱岐の先端から「ふりさけ見れば」天足らしたり、即ち長垂山が見えることだ。ニニギノミコトの上陸した聖地は永遠であると歌っているのである。

白村江の」戦い

図1 白村江への道 途中壱岐島がありその北端に天の原がある。

 当初の歌に戻る。明州における別離の宴に際し、仲麻呂は日本出発の際、上の航路を通ったのを思い出したのであろう。倭姫王と伝えられる歌を知っていたのであろう。天の原を通った際、ふりさけ見たものは春日なる三笠の山といわれる太宰府の東方、春日の地にある、宝満山(通称三笠山)だった。この航路は昔から何千何万の人々が通ったことであろうか。各々の人々が深い感慨をもって通ったことであろう。百済から敵の迫害を逃れ、故国を捨てて異郷の地に来た人々の不安と長い航海を終える安心。白村江に向かった2万、3万の防人が、家族を故郷をしのび、おそらく最後の光景でなるであろう、故国の最後の姿を目に焼き付けたことであろう。そしてほとんど白村江の海の藻屑と消えた。仲麻呂はこれらの人々と同じ思いを、偲びそして自分の今後の身の上を思ったのであろう。自分は懐かしい故郷を再度見ることができるであろうか。

宝満山


 図2 九州福岡太宰府の東、春日市にある宝満山

 このように解釈すれば、この歌はまったく違った意味を持つことになる。何よりも仲麻呂の万感の思いがこもっている。だいたい、奈良の春日山は標高297m、春日山原始林の花山が498m、背景にさらに高円山が標高432mあり、三笠の山は高円山の山影に沈み月が昇るのはみることが出来ない。むしろ高円山にいでし月というべき光景である。何よりも海の上に月が出たはずなのに、海など奈良にはあるはずがないのである。い能劼戮燭瓦箸題詞と本歌を同時に読むと、とんでもない間違いを起こすのを、気をつけなければならない。過去伝えられる本歌にたいし、後世伝聞に従って異なる人が注釈を書くと、歌そのものの真意が消え去ってしまう。これは万葉集が先に述べた経緯をたどったための過ちで、仲麻呂の歌も古今集であるが、本来万葉集に載るべき時代の歌であり、紀貫之がこのような注釈を書いたものだから、後世すっかりあやまって伝えられた。
 九州王朝説は上に限らず、壮大な体系をもっており、必ずしも全部信用できないし、過去の教育、教科書とかなり異なるため、にわかに信じがたい。大体話しが部分的で、では全体の歴史体系がどのようになっているのか、となると、もうひとつ説得力がない。

しかしすべて創作であるかといえば、納得できることも多いのである。


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かぐや姫伝説


奈良県北葛城郡広陵町三吉に讃岐神社がある。ここは竹取伝説発祥の地である。三吉を(さんき)というが昔は大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷といい、三吉に替わったものとおもわれる。さらに讃岐神社の讃岐はかつて忌部氏が讃岐から移り住んできてこの近辺に住み着いたため、この名前がある。この近辺は真美が丘丘陵の北寄りにあり、馬見古墳群の一角にあたり、巣山古墳や新木山御陵参考地の大型古墳や大小さまざまの古墳が連なっている。近年竹取公園となり整備されて近隣の住民の憩いの場となっているが、かっては細い地道が一本あるだけで、巣山古墳が鬱蒼とした雑木林や竹やぶの中に神々しい姿をあらわしていた。むしろこの方が古墳の趣きに富んでいたと思はれる。讃岐神社の現本殿は桧皮葺(現在鉄板葺)三間社でその前方の切妻造り本瓦葺の拝殿には掲額が多く中でも三十六歌仙偏額六面(別保管)は元禄16年6月(1688)海北友賢筆の張り絵を付した貴重な歌仙絵である。

 竹取物語の内容を追ってみよう。
(1)今は昔、竹を取り様々な用途に使い暮らしていた竹取の翁(おきな)とその妻の嫗(おうな)がいた。翁の名は讃岐造といった。ある日、翁が竹林に出掛けていくと、光り輝いている竹があった。不思議に思って近寄ってみると、中から三寸ほどの可愛らしい女の子が出て来たので、自分たちの子供として育てる事にした。その後、竹の中に金を見付ける日が続き、翁の夫婦は豊かになっていった。翁が見つけた子供はどんどん大きくなり、三ヶ月ほどで年頃の娘になった。この世のものとは思えない程美しくなった娘に、人を呼んで名前を付ける事になった。呼ばれてきた人は「なよ竹のかぐや姫」と名付けた。この時、男女を問わず人を集めて、三日に渡り祝宴をした。

(2)世間の男達は、高貴な人も下層の人も皆何とかしてかぐや姫と結婚したいと思った。その姿を覗き見ようと竹取の翁の家の周りをうろつく公達は後を絶たず、彼らは竹取の翁の家の周りで過ごしていたが、その内に熱意の無い者は来なくなっていった。最後に残ったのは好色といわれる五人の公達で、彼らは諦めず夜昼となく通ってきた。五人の公達は、石作皇子、車持皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂といった。
 彼らが諦めそうにないのを見て、翁がかぐや姫に「翁も七十となり今日とも明日とも知れない。この世の男女は結婚するもので、お前も彼らの中から選ばないか」というと、かぐや姫は「なぜ結婚などしなければならないの」と嫌がるが、「『私の言う物を持って来る事が出来た人と結婚したいと思います』と彼らに伝えてください」と言った。夜になると例の五人が集まってきて、翁は公達を集めてかぐや姫の意思を伝えた。
 その意思とは石作皇子には仏の御石の鉢、車持皇子には蓬莱の玉の枝、右大臣阿倍御主人には火鼠の裘(かわごろも)、大納言大伴御行には龍の首の珠、中納言石上麻呂には燕の産んだ子安貝を持って来させるというものだった。どれも話にしか聞かない珍しい宝ばかりで、手に入れるのは困難だった。
 石作皇子は只の鉢を持っていってばれ、車持皇子は偽物をわざわざ作ったが職人がやってきてばれ、阿倍はそれは燃えない物とされていたのに燃えて別物、大伴は嵐に遭って諦め、石上は大炊寮の大八洲という名の大釜が据えてある小屋の屋根に上って取ろうとして腰を打ち、断命。結局誰一人として成功しなかった。

(3)そんな様が帝(みかど)に伝わり、姫に会いたがった。喜ぶ翁の取りなしにも関わらず彼女はあくまで拒否を貫くが、不意をついて訪ねてきた帝に姿を見られてしまう。しかし、一瞬のうちに姿を消して地上の人間でない所を見せ、結局帝も諦めさせた。しかし、帝と和歌の交換はするようになった。
 帝と和歌を遣り取りするようになって三年の月日が経った頃、かぐや姫は月を見て物思いに耽るようになった。八月の満月が近付くにつれ、かぐや姫は激しく泣くようになり、翁が問うと「自分はこの国の人ではなく月の都の人であり、十五日に帰らねばならぬ」という。それを帝が知り、翁の意を受けて、勇ましい軍勢を送る事となった。
 そして当日、子の刻頃、空から天人が降りて来たが、軍勢も翁も嫗も戦意を喪失し抵抗出来ないまま、かぐや姫は月へ帰っていく。別れの時、かぐや姫は帝に不死の薬と天の羽衣、帝を慕う心を綴った文を贈った。しかし帝は「かぐや姫の居ないこの世で不老不死を得ても意味が無い」と、それを駿河国の日本で一番高い山で焼くように命じた。それからその山は「不死の山」(後の富士山)と呼ばれ、また、その山からは常に煙が上がるようになった。

 この作品には、かぐや姫が竹の中から生まれたという竹中生誕説話(異常出生説話)、かぐやが3ヶ月で大きくなったという急成長説話、かぐや姫の神異によって竹取の翁が富み栄えたという致富長者説話、複数の求婚者へ難題を課していずれも失敗する求婚難題説話、帝の求婚を拒否する帝求婚説話、かぐや姫が月へ戻るという昇天説話(羽衣説話)、最後に富士山の地名由来を説き明かす地名起源説話など、非常に多様な要素が含まれているにも関わらず、高い完成度を有していることから物語、または古代小説の最初期作品として評価されている。

かぐや姫伝説

幼子を見つける竹取の翁(土佐広通、土佐広澄・画)

竹取物語に似た日本国外の民間伝承としては、例えば中華人民共和国四川省のアバ・チベット族に伝わる「斑竹姑娘」という物語があり、その内容は、竹の中から生まれた少女が、領主の息子たちから求婚を受けたが難題をつけて退け、かねてより想いを寄せていた男性と結ばれるという話だが、中でも求婚の部分は宝物の数、内容、男性側のやりとりや結末などが非常に酷似しているため、伊藤清司は『かぐや姫の誕生―古代説話の起源』(講談社、1973年)で、原説話が日本とアバ・チベット族に別個に伝播翻案され「竹取物語」と「斑竹姑娘」になったと推測した。

 かぐや姫・老夫婦・帝などは架空の人物だが、実在の人物が登場していることも本作品の特徴である。5人の公達のうち、阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂は実在の人物である。また、車持皇子のモデルは藤原不比等、石作皇子のモデルは多治比嶋だっただろうと推定されている。この5人はいずれも壬申の乱の功臣で天武天皇・持統天皇に仕えた人物であることから、奈良時代初期が物語の舞台に設定されたとされている。
主人公のかぐや姫も、垂仁天皇妃である迦具夜比売(かぐやひめ、大筒木垂根王の女)との関係や、赫夜姫という漢字が「とよひめ」と読めることからから豊受大神との関係について論じられるなど、様々な説がある。

 物語中の4人の貴公子まではその実在の公卿4人を連想されるものの、5人のうち最も卑劣な人物として描かれる車持皇子は、最後の1人である藤原不比等がまるで似ていないことにも触れている。だが、これは反対であるがゆえに不比等本人ではないかと推測する見方もでき、表向きには言えないがゆえに、車持皇子を「卑怯である」と書く事によって陰に藤原氏への悪口を含ませ、藤原氏を批判しようとする作者の意図がその文章の背後に見えるとする意見もある。

歴史によれば藤原氏は8世紀、権力の掌握を目的に多くの政敵に血の粛清を加えて「藤原氏だけが栄える世」を構築し、藤原氏批判の書を焼き捨てる等の政策を繰り返したが、その中で表立っての藤原氏批判などが出来ようはずもなく、同時代に成立したと思われる『竹取物語』と言う物語の中に様々な工夫を凝らして藤原氏に対する批判が込められていたとしても不思議なことではない。
最近の研究では作者は紀貫之である可能性が高く、文才があり時代的にも合い、藤原氏に恨みを持つ要因を持っているゆえに有力視されている。紀氏は応天門の変(貞観8年、866年)により平安時代初期に一躍頭角を現したが藤原氏の謀略により失脚し、以後政界から遠ざかり文人の道へと進んだ経緯があり、それがゆえに藤原氏に対して恨みを持っていた可能性は否定できない。
作中にかぐや姫からもたらされた不老不死の薬のくだりがあるが、帝が「かぐや姫がいないこの世で永遠の命が必要であるか」と薬を富士山の火口で焼く一幕について、皇室も藤原氏に利用される存在でしかないという帝の嘆きとは取らず、天人がかぐや姫を迎えに来る際、「穢き(きたなき)所」と地上を評する一文があることから、藤原氏により支配されてしまった世を嘆いている紀貫之の言葉と見る向きもある。

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日本神話の源流

 日本人の来た道では縄文、弥生時代を通じて日本人が現在にいたる民族を形成してきた軌跡をたどった。その過程で大陸の華北、華中、華南、南洋の島々から無数の民族が日本に入ってきた。日本は東に太平洋を控え、受け入れた人々はこれ以上移動のしようがない地理的特徴をもっている。したがって受け入れた人々は蓄積する一方で流出することのない運命にある。このことが日本文化の形成に大きな影響を及ぼしてきた。この項で話す神話の世界もまた同じで、北の民族や南の民族が各々文字のない時代から口承伝達され、大事に言い伝えられた物語を日本書紀、古事記、風土記の形に集大成されて我々に伝えられてきたものである。662年、倭国、百済の連合軍が新羅、唐の連合軍に白村江で大敗し、従来の倭国としての東支那海連合国家的、海洋国家的な形態から日本列島内の島国国家として独立せざるを得ない状態に追い込まれた。日本書紀や古事記は天武天皇が従来の部族国家から、律令国家に編成しなおし、国家としての体制を固めるために、体制固めと同時に民族の伝承を再編成し、日本としてのアイデンティティを確立するために編集したものである。したがって、神話を検討することは、日本の原点を探求することのなる。
 
 以下の話は比較神話学の吉田敦彦『日本神話の源流』『日本神話のなりたち』を参考にして日本人の起源に迫りたい。
比較神話学というのは、諸民族の神話を比較して、その発生・機能・伝播などを研究する学問であり、その第一歩は似通った神話を世界各地から採集することから始まる。それら採集された神話がどれほど似ているのか、どういう基本構成をもって似ているとするのか、海幸彦・山幸彦の話(失われた釣り針神話)を例に調べてみよう。

  

失われた釣り針の神話

     

図1 失われた釣り針の神話


  南洋の島々に点在している神話が日本神話ともこれだけ似ているということは、大もとの神話がどこかに在ったことを強く示唆している。
   
かって日本神話の学問的研究が始まったころ、その源流が南洋の島々にあると信じられていた。事実、日本神話と話の基本構成を同じくするものが、南洋の島々から多数採集された。その様子を以下にまとめてみた。

南洋の島々に散在する
   図2 南洋の島々の神話


上の地図は古事記に出てくる神話と同根の神話が採集された地点を示したものである。一目瞭然、太平洋の珊瑚礁の小島にまで日本神話に通ずる神話が残されていることがわかる。こういう神話学の分野と、柳田国男の“海上の道”など民俗学と、“港川人”などの人類学とが重なり合い結びついて、日本人の起源は南方にあるという常識が成立し、今もって多くの日本人が、そのように信じているのである。
 ハイヌウェレ神話というものがある。

ハイヌウェレ神話のあらすじ
    図3 ハイヌウェレ神話のあらまし


こういう話である。これは上の表、古事記の中の神話のГ離好汽離とオオゲツヒメの話に細部までよく似ていることが明らかであろう。日本神話だけではない。これらと殆どそっくりと言ってよいほどよく似た、いわゆる農作物起源神話は、インドネシアからメラネシア、ポリネシアにかけて太平洋を蓋い尽くし、且つ南アメリカから北アメリカの一部にまでまたがる、広大な地域に見出されるのである。
 イェンゼンは、このハイヌウェレについての説話の構成要素を“ハイヌウェレ神話素”としてとらえ、芋などの作物を原始的な方法で栽培してきた、熱帯地方の原住民、イエンゼン言うところの「古栽培民」の文化を母胎にして生まれたものだ、とした。その理由は、「古栽培民」の間にある、我々から見ると一見“奇異で不可解ともいえる習俗”のほとんど全てが、この「神話素」に照らしてみると、意味がよく分かるようになるから、という。
 吉田敦彦は次のように記述している。
---あるところでは人間を、別のところでは猪や豚などの動物を犠牲にして、その死体を切り刻み、一部を食べ、他は畑に撒いたり埋めたり、血を果樹の幹に塗ったりする、古栽培民の文化に特徴的な凄惨な殺害の儀礼は、イエンゼンが指摘したとおり明らかに、神話の語るハイヌウェレ的神格の殺害の事件を繰り返す意味を持つと思われる。---

 神話といわれるものの中に、汚らわしく且つ曲々しい話が多く、現代では理解しにくいものが多い。しかし、おそらく、死とか病とか飢餓が、“生”と隣り合わせに在った原始の時代、排泄(生の原点)とかセックス(再生、豊穣)を美化せずに直視し、自然現象という荒ぶる神に恐れおののきながら生きていた、従って荒ぶる神を鎮めるためには凄惨な儀式も厭わなかった、神話とはそういう時代の人々が“言い伝え”たものなのであろう、というのである。

(土偶とハイヌウェレ神話素 )

縄文のビーナス

図4 縄文のビーナス


 吉田敦彦は縄文中期以後、この列島で盛んに作られた土偶の形態や扱われ方などが、ハイヌウェレ神話素に結びつくと指摘する。
1)まず土偶はすべてが女性像で、生殖器を強調したり、妊娠した姿であったり、赤子を抱いていたり、母神像であった可能性が強い。
2)しかも殆ど全ての土偶が壊された状態で出土している。すなわち“殺され”“断片に切り刻まれた”状態で出土するのである。
3)且つ、その破片を甕に入れたり、住居内に埋めたり、檀の上に安置したりして、丁重に葬られたと見られることがある。また同じ場所で出た破片を集めても、完形に復元できることは滅多にない。すなわち“一つ一つ、別の場所に分けて埋められていた”(あるいは撒き散らされていた)のである。
 このように吉田は土偶とハイヌウェレ神話素とがピッタリと一致しているというのである。
 同様のことは縄文農耕論で有名な藤森栄一や精神世界の考古学的研究に尽くした水野正好らも主張している。すなわち、土偶を破壊することによって豊穣女神的な地母神を殺し、その死体から作物などを生じさせる儀礼を実施していた、いわゆる“死と再生”の観念を儀礼的に再現したものといえる、と。    
幸い縄文時代のこの列島で、ヒトを儀礼の犠牲にした痕跡は認められていない。出土した縄文時代の人骨から生贄にされたような傷跡はない。これは偏に土偶の存在のお陰かも知れない。
 しかし、この列島でも成年式や成女式などに、通過儀礼(子供がいったん死んで大人として生まれかわる)として、抜歯などの過酷な身体的苦痛をあたえることは盛行していたのである。
 
 このハイヌウェレ型の神話は『記紀』の伝承だけではなく、東北・北陸・山陰をはじめ日本全国に伝わる瓜子織姫の昔話や、山姥(やまんば)を主人公とする恐ろしい昔話や伝説として、現代でもこの列島の奥底に浸透しており、そういう神話を持った民族集団が流入し、神話の基層の部分を形成したということは確かであろう。

 三官伝説というものがある。中国江蘇省の林欄(りんらん)の『金田鶏〔きんでんけい〕』(金の蛙)に収録された江蘇省の雲台山の地方伝承。三蔵法師の両親の素性に関する伝説で、その筋書きは『西遊記』を種本としているが、『西遊記』には見えない独自の要素も多く、そうした独自の要素に関して、伊邪那岐神・伊邪那美神の神話展開との共通性が指摘されている。

三官伝説 記紀神話
(1) 海に囲まれた島に夫婦 (1) 海に囲まれた島に夫婦
(2) 夫婦別離 (※『西遊記』と同) (2) 生まれた子を流す
(3) 生まれた子を流す (※『西遊記』と同) (3) 夫婦別離
(4) 夫は意志に反して水中に入る (※『西遊記』と同) (4) 夫は自分の意志により水中に入る
(5) 夫はそこで新しい妻を娶り、三子を得る (5) 夫はそこで単性生殖により三子を得る
(6) 三子は三つの宇宙領域の代表者となる (6) 三子は三つの宇宙領域の代表者となる
(7) そのうちの長子は、割り当てられた領域に不満 (7) そのうちの末子は、割り当てられた領域に不満


大林はハイヌウェレ型の神話と土偶の二つの話の共通性に加え更に重要な指摘をする。
 すなわち両方の内容の至るところに、水界との密接な関係が見られるというのである。江蘇省、浙江省という長江の両岸の地域から、イザナキ、イザナミ神話を携えて来た人々が、漁労民であった可能性が想定できると主張している。すなわち、
1)まず夫婦が最初に暮したのも、海に囲まれた島(オノゴロ島)においてであった。
2)二人の間に生まれた子(ヒルコ)を水上に流した。
3)夫は水中に入ること(イザナキの禊ぎ)を契機として三子を得る。
4)分治される三界のなかには水界(海原)が入っている。
5)三官伝説の場合、夫婦が離別するのも水上であり、日本の場合、分治領域に不満なスサノウは海原を割り当てられた神であった。
これほど水界を中心として話が展開するのは、日本でも浙江でも海人あるいは内陸の水人が担い手だったのではないか、と指摘しているのである。
 これは江南の稲作文化をもたらした人たちが「呉・越の民」とよばれ、水稲農耕を営むと共に、漁撈を盛んに営む人々であった、としていたことと一致する。

中国インドシナアッサム

図5 中国、インドシナ、アッサムの神話

そのほか日本神話の主要な部分と共通した話は次のような地域からそれぞれ採集されている。
なかでもヤマタノオロチ退治の神話は、実は東は日本から西はスカンジナヴィアや西アフリカにまで及ぶ広大な地域に分布する、ペルセウスとアンドロメダ型と呼ばれる神話のタイプである。
 だが 大林太良は、広大なこの分布圏の中でも日本の神話はやはり、中国東南部から直接にか、朝鮮半島の南部を経由して、鉄器文化と結びついて伝播したものであろうと推定している。それは上図で示したように、浙江省の民間伝承にヤマタノオロチ神話とよく似た話があるからである。しかも妖怪の蛇がもっている魔法の武器が鋼の剣だったことになっており、これはヤマタノオロチが尾の中にクサナギの剣を隠し持っていたことと、明らかに符合する。
以上の大林太良の指摘、それから上図の神話の分布がイネと稲作文化の伝播の図と酷似していることなどから、日本の神話の基層が長江下流域からの、江南の水田稲作農耕文化を列島に持ち込んだ集団が、高床倉庫や鉄器技術などと共に持ち込んだものだと考えられる。
 そして同様に南部中国を起源とする伝説などが太平洋の島々にも伝播し、あたかも日本神話が南洋の島々に源流があったかのような、印象を我々に与えていたものと考える。
     

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アイヌと琉球民族の成り立ちについて


 日本人の来た道で日本人は大きく三種類に分類せれることを書いた。そしてアイヌ及び西南諸島の種族の成り立ちも示そうと思ったのであるが、紙数が不足してきて別項を設けることにした。

 8100前5200前4300前3300前2900前1800前1250前
東北2,00019,20046,70043,80039,50033,400288,600
関東9,70042,80095,40051,6007,70099,000943,300
北陸4004,20024,600

15,700

5,10020,700491,800
中部3,00025,30071,90022,0006,00084,200289,700
東海2,2005,00013,2007,6006,60055,300298,700
東日本17,30096,500251,800140,70064,900292,6002,312,100
構成比86.191.596.487.885.649.242.8
西日本2,8009,0009,50019,60010,900302,3003,087,700
構成比13.98.53.612.214.450.857.2
全国20,100105,500261,300160,30075,800594,9005,399,800

図1 縄文人口

図1を見てみよう。縄文時代の人口分布図である。縄文文化とは東北文化といってもよい。三内丸山遺跡、亀ヶ岡文化、山梨
の釈迦堂遺跡、などである。特徴を列記してみよう。
(1)縄文時代は9割まで関東東北に人口が集中していた。
(2)縄文晩期に人口が半減した。これは地球が寒冷化して東北地方の落葉樹の堅果類が激減し食料不足となった。
(3)弥生期に入って東西人口がほぼ拮抗してきた。西から人口が増えた。全体の人口も10倍に増加した。
(4)土師器(古墳、飛鳥、奈良)時代、更に人口が10倍にふえた。これらは水田稲作による食料計画生産の成果である。
図2は日本の二層化の実態である。基本的に落葉樹地帯と広葉樹地帯である。これが当時の生活の根底を形成することは、前にしるした。西から浸透してきた稲作文化は一時若狭湾から伊勢湾ラインで停滞したのは、この生活文化の変更にすぐさま適応できない人々の集団だったからである。しかし稲作文化があらゆる面で狩猟採集生活より優れていることは明らかである。一時停滞した東部への浸透はまたしても速度を加速した。この時、関東東北の人々は三通りの選択手段をもった。
(1) 一つは、当時の最新技術であった水田稲作農耕技術を導入するという選択である。この水田稲作文化には、統治者が人民の生産物を把握しやすく、搾取の容易性から、一種の統治思想と階級社会を包含していたから、その覚悟も必要であったに違いない。したがって、個々人や集落単位によって選択の可否はかなり分かれたようである。すなわち、東日本地区では西日本地区と違って、稲作文化は面的広がりをみせず、点として分布することになった。(図2の赤い点の分布参照)

遠賀川式土器

図2.日本の二層化文化


(2)二つ目は、豊かな狩猟採集民という伝統的な生活スタイルを変えることは拒否するが、水田稲作文化と地域的に共存していく道を選択した人もいたと推測される。水田稲作文化が低地を好んだのに対し、この二つ目の選択をした人は山地などで、狩猟・採集などに従事したことであろう。たとえば、マタギと呼ばれる専門狩猟集団も、こうして発生したのかもしれない。
(3)三つ目は、従来からの伝統的生活スタイルを固守することは勿論、新しい文化スタイルやそれを先導する新しい集団との共存をも拒否した人びとである。彼らは稲作農耕に適しない、冷涼な地域、すなわち東北や北海道に次第に後退していった。 おそらく、この人々は蝦夷といはれるようになったのであろう。アイヌの先祖である。

日本人Gm遺伝子

図3.DM遺伝子の出現頻度

 アイヌ民族が東日本縄文人の末裔だというには、勿論、根拠がなければならない。ひとつは、(図3)松本秀雄が調べたアイヌ民族のGm遺伝子頻度は、赤で示した、非常に低い頻度の南方型のafb1b3遺伝子と、非常に高い頻度の北方型のag遺伝子が特徴である。これに近い数値を示すのが佐渡の人々のGm遺伝子である。
 西日本地区から東日本地区へ、遠賀川式土器系の水田稲作文化が流入したとき、本土の東日本地区までは影響が及んでも、離島までは及ばなかった可能性が強い。したがって、離島の人びとには東日本縄文人の血液型が、縄文時代のまま残っている可能性がある。
 秋田県の飛島のGm遺伝子頻度は、すでに本土日本人と大きな差異はない。しかし、新潟県の佐渡の人びとのGm遺伝子では、アイヌ民族のGm遺伝子頻度との繋がりを示唆する数値を示す、すなわち、極めて低いafb1b3遺伝子の頻度を示すのである。アイヌ民族の源流が東日本縄文人にあった、という微かな証ではないだろうか。なお、マタギは、アイヌのように新しい文化や集団に対して拒否するのではなく、既に説明したように共存を図っていた。したがって、Gm遺伝子の頻度は現在では、本土日本人と同じ数値になっている。

HLA遺伝子セット

図4.HLA遺伝子の頻度

 HLA遺伝子の頻度にも、その痕跡が残されている。(図4)次の表は徳永勝士らのグループが調べたデータである。
この表は日本列島を中心とする集団で見出された、HLA遺伝子セットを掲げたものである。
 まずNo.1〜4の遺伝子セットを持つのは、遠賀川式弥生人が東進し、東日本縄文人とも遺伝子の交流をした人びとで、現在、日本人として最も多数派である。
 No.5はアイヌ人や沖縄人が全く関与しない遺伝子セットであり、列島在来系の人とは混交しなかった純粋の渡来人と考えられる。
 No.6〜9は西日本縄文人で、渡来人とも長い歴史の間には通婚し、在地に留まった人びとであろう。
 No.10は混血しなかった純粋な西日本縄文人系であろう。そして、
 No.11〜12こそ、アイヌ民族が東日本縄文人の末裔であることを証明する遺伝子セットと考える。なぜなら、この遺伝子セットは、西日本縄文人が少なくとも関与した沖縄人の痕跡も、渡来人の痕跡も、全く認められない現代日本人で、しかも、アイヌとのみ遺伝子的繋がりがある人びとだからである。こういう人は、東日本縄文人以外、考えられない。

 次に西南諸島の民族の成り立ちについて考えたい。今までの議論から以下に論点をしぼる。 
(1)琉球民族がどのように形成されたか。アイヌとの近縁性は事実か。
(2)農学の佐藤洋一郎がいうように、熱帯ジャポニカは「海上の道」を伝って渡来したのか。
(3)神話学が説く「古栽培民(芋などを主とする原始的な農耕民)」の渡来ルートは?。
(4)日本語の語彙の多くがオーストロネシア語由来と言うが、オーストロネシア語を使う民族集団の大規模な渡来があったのか。

 さらに西南諸島は三つの部分に大別され、各々特徴のある歴史を辿った。
(A)北琉球グループには、九州島の南から大隅諸島(種子島、屋久島、口永良部島、馬毛島)、トカラ列島(ロ之島、中之島、諏訪之瀬島、悪石島、宝島)が入る。縄文・弥生時代を通じて九州本土の影響を受けたと考えられる「島嶼文化」が営まれた。
(B)中琉球グループには、奄美諸島(喜界島、奄美大島、加計呂麻島、徳之島、沖永良部島、与論島)や沖縄諸島(伊平屋島、伊是名島、伊江島、沖縄本島、慶良間島、久米島など)が入る。縄文・弥生時代に九州本土からの文化を取り入れながらも独自の「南島文化」を形成させた。さらにこの文化圏は、奄美諸島の北部と沖縄諸島の南部に二分できる(国分1972)。そしてトカラ海峡より南の島々は、黒潮本流の外側に位置し、サンゴ礁が発達しており、イノーを中心にした豊富な海産資源を利用した「サンゴ礁文化」が営まれた。
(C)南琉球グループには、宮古諸島(宮古島、伊良部島、多良間島など)や八重山諸島(石垣島、西表島、波照間島、与那国島など)が入る。 縄文・弥生文化の影響が及ばず、むしろ中国大陸や台湾島そして黒潮に乗って流れてくる東南アジア地域との関連が多く認められた。また沖縄本島の南には宮古凹地と呼ばれる広大な無島嶼海域が存在し、南部圏と北部圏の島々は相互に望見できない遠距離空間で、近世期に「琉球王国」が成立するまでは全く別々の文化圏であった。

(1)の問いについて
日本列島の南端と北端に居住する沖縄の人々とアイヌの人々が、形態的に似通っているということは、明治のお雇い外国人医師、東京医学校のベルツも認めていた。この「アイヌ沖縄同系論」は、遺伝子からはどのように考えられるのか。
 人類進化学の斎藤成也は、尾本恵市との共同研究成果として、次のグラフを提示する。(図5)

遺伝距離のデータ
     
図5遺伝距離データ


 この簡素に纏められた近縁図から、アイヌ人が他の集団から離れているが、沖縄人と結びついて一つのグループを形成していることが分かる。斉藤成也はこれを次のように説明している。
−−アイヌ人が独特な遺伝的特徴を濃く残しているのに対して、遠い過去には共通性の高かった沖縄人が、弥生時代以降の九州からの移住によって、本土人と遺伝的にずっと近くなった、ということを示唆している。さらに本土人の位置そのものが、韓国人を代表とするアジアの人類集団からの影響を強く受けていることを示している。−−と。
 さらに斎藤はアイヌ沖縄同系論の立場に立って、日本列島の集団が、かなり複雑な時間的発展をしたと、(図6)のような展開を考えている。

日本の人類集団の時間的発展

図6.人類集団の時間的発展


  一方、ミトコンドリアDNAの分析からアイヌ沖縄異系論を支持するのは、宝来聡である。宝来は日本の3集団(本土日本人、アイヌ人、琉球人)と韓国人、中国人の合計293人のmtDNA482塩基(Dループ領域といわれる)の配列を決定し、分析した。
 その結果、293人から207種類のmtDNA配列のタイプが観察された。このうちの189タイプは、それぞれの集団に固有のものであった。つまりタイプの大部分、90%以上が一つの集団でのみ観察され、他の集団ではみられないという結果になった
(これはmtDNAが、遺伝子の概念からいうと、極めて早い速度で変化し、したがって多様性を持つものだということを示している。)
 残りの18タイプだけが集団間で共通してみられるもので、このうち14タイプは2集団間で共通であり、4タイプは3集団にまたがって共通に見られた。これを図示したのが次の(図7)である。

東アジアの2集団のmtDNA配列タイプの共有関係

図7.mtDNA配列タイプの共有関係

西南諸島の島々

図8.南西諸島の島々

(2)の海上の道について
 (図8)は琉球列島の地図であるが列島の西側は低い大陸棚があり一万年前の寒冷期には図のように台湾と地続きであったと思われる。この間に台湾や華南からの民族を受け入れている可能性があるが、(図3)のGm遺伝子からみると台湾高砂族とはかけはなれた遺伝子になっている。この信じられないような、断崖絶壁とでもいうような遺伝子頻度の格差の存在を説明するには、上述の考古学的知見から、10世紀ごろまでインドネシア系の言語を使う南方系の集団がいたが、グスク構築期に沖縄本島などから、強力な豪族が南下し、先住民を駆逐した、と説明するほか説明のしようがない。

ジャコガイ製貝斧の伝播

図9. ジャコウガイ製貝斧の伝播

 弥生、古墳時代を通じて、中部地域の沖縄諸島は貴重な貝輪の原料となる、ゴホウラやイモガイなどの産出地であり、供給地であった。沖縄では先史時代以来、貝交易が連綿と続いて、これが沖縄の古代史の大きな特徴となっている。それは(図9)から明らかなように弥生時代、古墳時代を通じて南海産の貝輪が日本列島を中心にいわば必需品であり、一部は朝鮮南部の王族に届けられるなど、根強い需要が持続したからである。
弥生時代の北部九州の出土状況を見ると、鏡や武器が副葬され、貴金属や玉類で着飾った人物は、政治的権力者であり、貝輪を嵌めて埋葬されていた少数の人たちは、儀礼にかかわる祭司者、宗教者であったのではないかと考えられている。貝の交易は、“分業体制”で行われていたと言う。
 弥生時代、需要者は勿論、北部九州の祭祀者層であったが、交易運搬に当たったのは、西北九州弥生人であったという。西北九州人が海上輸送能力に優れていたのか、言語面などで北部九州人より意思疎通がうまくいく歴史的背景があったのか、何らかの理由があってのことであろう。西北九州人は夏の台風シーズンを避け、北風の吹く(すなわち順風の中を)秋から冬に沖縄島にやって来た。そして、暖かい島で冬を過ごし南風とともに黒潮に乗って西北九州に帰っていった。なんとも優雅な交易である。
 九州や琉球列島の弥生時代の遺跡から、以上のような事が想像できると言う。たとえば、沖縄諸島、奄美諸島、トカラ列島に点々と残された箱式石棺墓は、西北九州沿岸部の弥生人が好んで使った棺であり、貝の運搬の途中で落命したような仲間をみんなで葬ったものだろうという。西北九州弥生人が冬の間、沖縄諸島に留まったり、そこに墓を造ったり、また琉球人と共同作業も考えられるから、当然、遺伝子の交流があったと考えて間違いないだろう。

貝の道模式図

図10 貝の道


 その後、この貝の道は次第に合理化され、西北九州を経由しない、有明海・佐賀平野経由のルートが開発される(図10黄色のルート)。そうなると交易に携わる人も変化し、西北九州人から肥後、薩摩の人々が中心になり、種子島人や奄美諸島人の役割も増大する。当然、南九州人と奄美・沖縄諸島人との遺伝子交流も頻繁になったに違いない。

(3)(4)の問いについては明確な痕跡はない。上で説明したGm遺伝子の状況から、かっては民族移動をうけいれたが、血の断絶があり、その痕跡を残していないと解釈したい。

日本人の成立モデル詳細図

 最後に日本の成立モデルの詳細図をしめす。(図11)

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古代言語から日本人のルーツを探る(前編)


比較言語学という学問がある。イギリス人、サー・ウィリアム・ジョーンズがサンスクリット語がギリシア語やラテン語と共通の源から発しているのではないか、という驚くべき事実を発見した。ジョーンズは18世紀後半イギリスが東インド会社を拠点にインドを植民地化をすすめていたが、この会社の経営者としてインドに赴任していた。1786年のこの発見が比較言語学の始まりである。比較言語学はその後、インド・ヨーロッパ語族の研究で多大の成果を挙げてきた。そして、複数の言語の系統が同系であることを証明するには、「厳密な音韻対応の法則」の成立することが絶対要件だとされた。(図1)は音韻対応の例である。

音韻対応の例

図1.音韻対応の例

この比較言語学は印欧語族に限らず、西はインド洋のマダガスカル島から、東は南太平洋のイースター島に至る広大な地域に分布するオーストロネシア語族についても、その同系性を証明する成果を挙げている。
 この比較言語学の方法を取り入れ、日本語の起源を探ろうとする動きは、明治時代末ごろ以降、白鳥倉吉、新村出、金田一京助ら碩学によって、朝鮮語やアルタイ語との系統が論ぜられ、松本信広らによって南方諸語との系統も論じられた。戦後においても、多くの言語学者たちによって激しい論争が繰り返されたが、いまだ日本語の系統を決める決定的事実は得られていない。

 アメリカの言語学者モリス・スワデシュは、言語学に新しく「基礎語彙」という概念を確立した。文化的な語彙が他言語から借用される可能性が高いのに対し、この基礎語彙は、それぞれの言語独自の発展を見せ、借用関係については強い免疫性を持つという。スワデシュは経験的に基礎語彙と思われるものを、まず英語について選んだ。そして、それをリスト化し、選ばれた英語の基礎語彙と同じ意味を持つ、フランス語、ドイツ語、その他の言語を基礎語意表の中に記入していった。その結果は極めてドラマチックなものだったという。すなわち、英語は話し言葉をフランス語やラテン語から、書き言葉をラテン語から大量に借用している。そのため語彙全体では英語の語彙の50%が、フランス語の語彙と一致する。それに対し基礎語彙では、次表(図2)にみるようにフランス語からの借用語は6%に過ぎない。これに対し、祖語からの残存率は27%もある。

借用語残存

図2.借用語残存語


 英語とフランス語とは、祖語から分かれて、5000年程度は経つと考えられるから、5000年来の残存率(27%)が、2000年来の借用語(6%)の5倍近くを占める結果になった。すなわち、基礎語彙が、借用語に左右されずに、二言語間の関係を調べることに有効である、という確証を得たのである。スワデシュらは更に、基礎語彙を用いて、言語が1000年単位でどう変化するか、すなわち、どれだけ年代に耐えて残存するか、「千年当りの語の残存率」として算出している。これからみると、言語が違っても千年あたりの残存率は、ほぼ0.8すなわち80%前後の値を示していることがわかる。
 スワデシュはこういう成果を基に、基礎語彙表をベースに計量的方法で、同じ祖語から分かれたことが、あらかじめ分かっている二つの言語が、いつ分裂したかを調べる「言語年代学」を確立した。

 スワデシュが明確にした「基礎語彙」という概念を使い、二つの言語の一致の度合いが、偶然で起こるかどうかを調べ、言語の系統関係を明らかにしようというのが、「語彙統計学」である。以下語彙統計学を使った安本美典の起源論を紹介していく。語彙統計学では、まず比較対照する語彙を100語ないし200語の基礎語彙に限定する(図3)。どんな言語にも見られる、基礎的な語彙が選定されている。

基礎語彙100語

図3.基礎語彙100語表

このリストは比較する全言語について同一である。したがって、恣意的解釈の入り込む余地はない。ただし、安本の基礎語彙表はスワデシュのそれと200語中、15前後の語彙が入れ替わっている。これはスワデシュが印欧語族中心に基礎語彙を選んだのに対し、安本が日本とその周辺の言語を比較しようとしたとき、やむおえないことだった。安本美典が比較対象とした言語と「上古日本語」との“近さ”について安本が提示しているデータを見てみよう。(図5)

上代日本語との近さ

図5.上代日本語との近さ


 四角で囲まれた言語が「上古日本語」に関連がありそうな言語であり、また緑色が濃い方が、より近しい言語ということになる。このデータから以下のことがいえそうである。
1)現代の東京方言と上古日本語の一致数は200語のうち155個という数値から、1250年前の基礎語彙の残存率を計算すると77.5%になり、日本語もスワデシュがあげた世界の言語の残存率とほぼ同じであることが確認される。
2)朝鮮語との関連は当然として、アイヌ語との系統関係が見出されていない。これは西日本と東日本の民族集団が違っていたとする二層構造推論を、証明しているのかも知れない。
3)アメリカインディアンのクラマス語が、僅かではあるが日本語と関連がありそうだということは、はるか昔、アメリカ大陸に渡った集団と日本列島に流入した集団とが、同じ基層集団から移動した可能性があることを想像させる。
4)台湾の先住民、高砂族のアタヤル語(インドネシア系言語)が偶然以上の関連を示すのは注目される。台湾の先住民と南西諸島を含む日本人との関係は、“Gm遺伝子の頻度”の検討で完全に絶たれていたはずである。それが、神話の話とこの言語とから、もう一度洗いなおすことが求められそうである。
5)カンボジア語やインドネシア語との強い関連は、どのようにして起こったのか。カンボジアやインドネシアの民族がかっては中国江南地方にいたのであろうか。あるいは、スンダーランド消滅の際、海上の道を伝ってこの列島に言語に影響するほどの規模で渡来したのであろうか。
6)ネパール語やベンガル語が偶然以上の関連を示すのは、日本語の形成に関与した言語が、ネパール地方やベンガル地方にも影響を与え、あたかも遠く隔たったネパール語やベンガル語が日本語と関連するような印象を与えるのではないか。

 安本は上表以外にも、基礎語彙表をベースにして、統計学的手法や確率論を駆使して、日本語と各言語との関連を調べ、日本語の形成プロセスを次のように纏めた。安本の説明によれば、
1)計量言語学の成果によれば、日本語、朝鮮語、アイヌ語の三つは、語彙において、たがいに、確率的に偶然では起きない一致を示す。文法的にも、音韻でみても近いものを持っている。
図5ではアイヌ語と上古日本語の関連が認められないが、より詳しい検定 では認められるという。従って、現代の日本語の中には、日本語、朝鮮語、アイヌ語の三つの共通の基語から流れ出ている部分があるように考えられる。
2)この共通基語的なものを「古極東アジア語」と名づける。これはまた、日本海をとりかこむ「環日本海語」とも言える。(図6はその説明に安本が提示したもの)    

日本語の起源形成のプロセス

図6.日本語起源の形成プロセス


  およそ1万年から2万年前、古極東アジア語が使われた地域は、日本海を内海として ほとんど地つづきの状態であった。”日本湖”も冬季は氷結して渡りやすい所が多かったと考えられる。したがって、この古極東アジア語はある程度の統一性をもっていた可能性が大きい。
3)その後、温暖化が進み日本列島が大陸から分離されるにつれ、古日本語(日本基語)、古朝鮮語、古アイヌ語は次第に方言化し、更には異なる言語となっていったと考えられる。すなわち、三つの言語の中のいずれかから、いずれかが派生したという関係ではなさそうである。
4)日本語の語彙の形成には、「南方語」が強く関与している。このうち、ビルマ系ボド語群と結びつく語彙は、弥生時代はじめ頃、稲作文化と共に中国の江南地方からもたらされた。とくに(図7)にみるように、身体語は、かなりはっきりと日本語と結びつく。これは植物関係の語とも共通している。すなわち、鼻-花、目-芽、歯-葉、耳-実などである。

身体語の一致度の比較

図7.身体語の一致度の比較


 他にも植物関係の語は、穂、根、木などのように単音節的である。二音節語の多い日本語の他の単語とは、やや異質の層をなしている。(上古日本語とビルマ語との身体語についての一致度は、英語とフランス語との一致度をはるかに超えている。(図7は安本美典より引用))
5)台湾のアタヤル語と結びつく語彙は、更に古い時代に日本に流入した。アタヤル語などのインドネシア系の言語を持つ集団は、図6にも示したように、南九州から四国などに居住していたのであろう。
6)カンボジア語と結びつくモン・クメール語系の語彙がこの列島に流入したのは、更に古く6,7000年前の縄文期のころとみられる。
7)以上を総括して現代日本語の成立を考えれば、古日本語(日本基語)の系統を引く言語に、いま説明した稲作の渡来などと共に、長江下流域からのビルマ系言語などの影響をうけ、倭人語(日本祖語)が成立する。そして、倭人語が日本列島を言語的に統一していく過程で、古くから列島に存在していたインドネシア系言語などの語彙を取り入れ、歴史時代に入っては、中国語の大きな影響をうけながら、現代日本語を形成するようになった。

以上、安本美典の語彙統計学を駆使した日本語形成論を紹介してきたが、以上を総合して以下にまとめられるのではないか。
1)まず、北部九州から南朝鮮に分布した古日本語(日本基語)が倭人語(日本祖語)に発展し、上古日本語から現代日本語に繋がった。
2)そして、日本語の成立を、系統論(分裂論)ではなく、図8のような成立論(流入論)で捉えられる。

系討論と成立論

図8.系統論と成立論


3)また、1万年〜2万年前の「古極東アジア語」というような概念を提示されたことにも注目さえる。

主語目的語動詞語順の言語の分

図9.「主語・目的語・動詞」の語順の言語の分布


さらに大胆に解釈すれば、5万年〜2万年まえの東北アジアには大言語圏があった(図9スカイブルーの地域)。その言語は[主語-目的語-述語]の語順をもっっていた。その後、2万年〜1万年ごろになると、華北文化センター辺りには[主語-述語-目的語]の語順を持った言語、すなわち「漢語」が勢力を広げてきた。その結果、極東地域(ピンクの地域)に「周圏論」的に、かっての大言語が残こることになった。それが「古極東アジア語」である。
4)しかもその事実を証明するかのように、アジア大陸の言語分布は中国語やその影響を受けた言語を、囲むように、日本語と同じ語順を持つ言語(図10で緑色系で示した言語)が分布するのである。

モンゴロイドの移動の歴史

図10.モンゴロイドの移動の歴史

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古代言語から日本人のルーツを探る(後編)

 安本美典が指摘した日本語の語彙とインドネシア系言語の語彙が、偶然とは言えない関連をもっている、ということをまったく別の言語学的方法で主張しているのが、崎山理(さきやまおさむ)である。
 日本語がアルタイ語系であると唱えたのは、アメリカのR.ミラー(1967年)であるが、最近の研究で、アルタイ諸語の中でも日本語との類似性が非常に強く、直接のルーツと考えられるようになったのが、ツングース語である。
 崎山はツングース語と日本語は、語順ばかりでなく助詞、助動詞など文法面で共通点が非常に多いという。しかし、問題もある。日本語には、ツングース語と全く関係のない、語彙や接辞法が豊富にあるということだ。
 たとえば、日本語の接頭辞は、ツングース語にはまったくみられない。接頭辞は、常に他の語の前に付いて用いられる語構成要素で、「お寺」「ま昼」「か細い」「い抱く」などのオ、マ、カ、イがそれにあたる。このように、日本語は、ツングース語的な文法を持っていながら、ツングース語では説明できない要素も非常に多い。その理由を従来、日本語が孤立語だからと、単純に説明してきた。しかし、崎山は言語学者として、孤立語という問題回避のやり方はいけないと説く。崎山は日本語が周辺の他の言葉と大きく異なっているのは、孤立語だからではなく、日本語の成立が非常に古いからだという。そして次の図11を提示する。

図11現代ツングース語と現代オーストロネシア語の分布


図11現代ツングース語と現代オーストロネシア諸語の分布       


 崎山はこの図で、日本語の置かれた地理的環境を常識的に見ることが必要だと説く。
すなわち、日本語は北端でツングース語を話す民族と接しており、ある程度の類似点が連鎖的にあるのは当然だという。
 また南端で接しているのはオーストロネシア語を話す民族であり、崎山の専門分野でもある。(安本美典が指摘するインドネシア系言語もこの語派に属する。)
 崎山はツングース語に欠けていた、語彙や接頭辞が、オーストロネシア語では日本語と非常に共通点が多いという。こうしたことから、「日本語はオーストロネシア語とツングース語の混合言語」ではないかという結論に到達する。すなわち、縄文時代に、日本列島ではすでに原ツングース語を話す人がいたとして、その後、渡来したオーストロネシアンとお互いに混じり合うなかで、日本語の原型が形成された、という。

 もちろん、そのように結論付けるには根拠が必要である。崎山理のその方法は極めて言語学者的である。
 言語のルーツを探る研究には言葉の「再構」が欠かせない。言葉の「再構」というのは、研究対象の言語の大元になっている古い語形を復元することをいう。原オーストロネシア語では、多くの研究者の努力で、既に約1万語が再構されているという。
 この再構の問題に深く入ると、専門的になり過ぎるので、崎山が示した下の表を見てみよう。

図12.語彙の比較

図12.語彙の比較


 日本語の祖型(縄文語)と原オーストロネシア語、原ツングース語の語彙を日本語と比較し、原日本語として「再構」されたものとの比較表である。
 こういう検討から上代日本語の語彙の約8割は、オーストロネシア語由来と考えてよいと崎山は言い切る。8割というと、もうこれは“殆ど”と同義語である。
 また、先にも例を示したが、上代日本語の「マ」「タ」「カ」という接頭辞は「マ白し」「タ走る」「カ弱し」などと使われるが、この用法のルーツもオーストロネシア語にあったとみられる。
 
 このように、文法については、語順、助詞、助動詞は原ツングース語由来、それに対し語彙、接頭辞、連結詞はそのルーツの殆どを原オーストロネシア語に負っていることになる。

 ではいつごろ日本語は成立したのであろうか。崎山は、オーストロネシアンの移動の歴史から考えて、今から5000年前ごろ・縄文中期以降にこの混合言語-日本語が成立したと考える。
 当時の日本列島では、これまで何度も触れてきたように、東日本に人口が集中していた。そして言語的にはツングース語を話していた。アイヌ系の人も北海道から東北地方に住んでいて、文化的交流もあったと思われるが、アイヌ語とツングース語は系統が異なる。
 崎山によれば、東日本にはアイヌ語を使う人々とツングース語を使う人々の二つの民族集団が共存していたことになる。ツングース語を使う集団の南部に移住してきたオーストロネシアンは、平和裏に住み分け、物々交換からはじまって、やがて通婚する者もあらわれ、その混血集団の村単位の集落も出来る。ここで第1段階として言葉のピジン化が起こる。ピジン化とは異言語混交による混成語である。
 オーストロネシアンの移住は、その後、幾波も続き、古墳時代まで続いてきたと考えられる。こうした中で、主語−目的語−動詞といった基本的な語順ではツングース語が残り、語彙や接頭辞ではオーストロネシア語が用いられるようになった。
 弥生時代から古墳時代にかけて、大陸から中国の文化を携えた人たちがやってきたが、このとき、語彙の一部を借用することは起こったが、言葉の系統にもはや影響することはなった。
 以上が崎山理が説明する、日本語の成立過程である。
 
  日本語成立論の総括

 旧石器時代、当時のホモサピエンスがどの程度文法的に完成された言語を使っていたのかわからない。
 しかし、既に高度な剥離技法などを使う石器が発明され、やがて人類史上始めて、化学的変化を伴う「土器」という製品を生み出した人々が、言語とは呼べないレベルの言葉しか使っていなかったとは、到底考えられない。
 なぜなら、高度な石器や土器の製作技術やノウハウを、多くの人びとに広め、次世代に伝えていくためには、所謂“見様見真似”だけでは困難であり、かなりのレベルの言語的説明や、やり取り(質疑応答)をしなければならなかったと考えられるからである。
 すなわち、言語もそのレベルに達していたと考えるのが、自然であろう。
1)華北文化センターからナイフ形石器文化を伴って、プリミティブな原始ツングース系言語が朝鮮半島や日本列島(津軽海峡まで)に展開した。20000〜30000年前のことである。

図13原始ツングース系言語

 図13原始ツングース系言語

   
2) 12500〜13000年前ごろ、荒屋型彫器を伴う、クサビ形細石器文化が、極東方面に怒涛のように押し寄せた。彼らは原始アイヌ系言語を使っていたらしい。彼らは冷涼な気候を好み、日本列島ではあまり西日本地域と混交することはなかったのに対し、北部朝鮮では、ツングース系朝鮮語と混合したようである。安本美典の分析では、アイヌ語と日本語より、アイヌ語と朝鮮語の方が近い関係にある。  

図14原始ツングース言語2

図14  原始ツングース系言語


崎山は、アイヌ語とツングース語とは系統が異なるというが、文法的、音韻的特徴に大差はない。(華北とバイカルの両文化センターは、もともと親子関係にあったから言語的にも大差はなかったと思われる。)
3)6000年前、縄文前期のころ、同じツングース系の言語であった、古日本語と古朝鮮語は方言のレベルから別の言語に分裂したと、言語年代学から推測される。古日本語には、東アジアにおける位置的関係から、照葉樹林文化(雑穀)や古栽培民の文化(芋)、熱帯ジャポニカを含む文化などを持つ、様々な民族や集団が断続的に流入し、多くの南方系言語の語彙をもたらした。     

図15古栽培民熱帯ジャポニカ

図15.日本を取り巻く諸言語


 古日本語(日本基語)は、かなり早い時代に完成していたと考える。少なくとも3000年前には、すなわち新年代観でいっても、水田稲作農耕技術の到来以前に、日本基語は混合言語として既に成立していたと考える。
 なぜなら、1万年以上に及ぶ縄文文化が崩壊し、全く新しい、農耕技術や社会制度をもたらした弥生渡来人の故郷が、上代日本語から全く推測できないという、異常としか言いようのない現象は、日本基語がよほど完成され、語彙も当時としてはそれほど借用しなくても済むほどに十分であったから、渡来人の言語を農耕技術関連語として以外必要としなかった、という理由しか説明が付かない。農耕技術関連語をセットとして持ち込んだ、渡来人の出自集団(おそらく長江下流域の民族集団)は、現在においては既に消滅してしまったらしい。このころは、既に中国語から政治や文化に関する言葉を、借用する段階に入っていたと考えるのが常識であろう。
4)弥生時代、水田稲作農耕技術をもたらした渡来人は、予想以上に高度な日本基語を習得し、いわばその北部九州方言「倭人語」をもって勢力を拡大し、西日本一帯に遠賀川式文化圏を確立する。これにより倭人語は「日本祖語」といえる標準的存在となった。

図16日本基語

図16. 日本基語  


 中部・関東地域でも農耕文化を受け入れた集団は、日本祖語を受け入れる。一方、旧東日本地区で、あくまで狩猟採集文化に拘った集団は、東北地方に後退し、独自の文化・東日本縄文文化を継承していく。
5)邪馬台連合王国からヤマト王権が成立する時代、南部九州にも新しい文化を拒否して、南西諸島にスピンアウトした集団がいた。彼らが使っていた方言がより独立色を強め、琉球語(琉球方言)となった。

図17上代日本語

  図17.上代日本語


 一方、日本祖語は中国語から、文字という記録媒体を手に入れ、文化や思想語を大量に日本語の中に取り入れ奈良時代に「上代(上古)日本語」が成立した。

図18日本比較対象言語

図18.日本語比較対象言語

図18.は日本語の特徴に対し、比較対象言語の近似の状況を示したものである。

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吉野懐古--古代天皇と吉野--

 奈良に住む者にとって、南の雲の彼方の吉野に強烈な憧れをもつ。春ともなれば山桜に埋め尽くされた千本口から蔵王堂にかけての花吹雪は、日本のどの桜より美しい。
その起源は今から約1300年前にさかのぼる。その当時は、山々には神が宿るとされ、吉野は神仙の住む理想郷として認識されていた。のちに修験道の開祖と呼ばれる役小角(役行者)は、山上ヶ岳に深く分け入り、一千日の難行苦行の果てに憤怒の形相もおそろしい蔵王権現を感得し、その尊像こそ濁世の民衆を救うものだとして桜の木に刻み、これを山上ヶ岳と吉野山に祀ったとされている。その後、役行者の神秘的な伝承と修験道が盛行するにつれて、本尊を刻んだ「桜」こそ「御神木」としてふさわしいとされ、またそれと同時に蔵王権現を本尊とする金峯山寺への参詣もさかんになり、御神木の献木という行為によって植え続けられた。

 時代はくだり西行法師が吉野の桜を詠んだ。西行の時代に吉野の桜が着目されるようになる。

   吉野山こずえの花を見し日より 心は身にもそはずなりけり
   花を見し昔の心あらためて 吉野の里に住まんとぞ思う
   吉野山奥おもわれぞしりぬべき 花より深く入りならいつつ

 また更に時代は下り、松尾芭蕉が俳句を詠んだ。

   露とくとく試みに浮世すずがばや

 そのほか幾百幾千の歌人俳人が吉野をおとずれ、幾多の貴人が桜を愛でた。その歴史が吉野を現実以上に美しく、また神秘的な神仙境のイメージを作り上げたのである。
 しかし、飛鳥の頃は桜より、吉野川の滔滔とした川の流れ、渓谷美こそ神の住む、神仙郷と愛でられた。天武天皇の壬申の乱の故地として、持統天皇の吉野離宮、聖武天皇、宇多天皇の離宮としての宮滝遺跡が聖地として長く記憶にとどまり、積み重なった歴史が吉野を作り上げた。

 この吉野が最初に文献に載るのが、「古事記」、「日本書紀」のおなじみ神武東遷の話である。おそらく六世紀頃つくられたと思われる。史実ではないとしても古くから伝承された話であろう。神武伝承の主舞台は、熊野、吉野、宇陀、奈良盆地である。「古事記」によって吉野における神武伝承をみると吉野に住む三人の国つ神が見え、そのうちの二人は生尾、すなわち尻尾を持つ人として描かれている。

吉野離宮跡

宮滝遺跡跡


 神武天皇の一行は「吉野川の河尻」に至った。五条市域に想定できる。そこで筌(うえ)を伏せて魚を取る人に出会う。阿陀の鵜養(あだのうかい)の祖である。「贄持(にえもつ)の子」という国つ神であった。そこから吉野川沿いに遡っていくと、尾のある「井氷鹿(いひか)」という名の国つ神が底の光る井戸から出現した。吉野首(おびと)の祖である。井氷鹿の名は井光(いひか、いひかり)に通じる。井氷鹿が出現した場所は、吉野町飯貝付近であろう。飯貝の地名はイヒカが訛ったものと推定でき、また飯貝から吉野山に上る道があって、桜本坊近くに井光神社が鎮座しているのである。従って吉野首は吉野町上市や対岸の飯貝を本拠とした吉野の有力氏族だったと推定できる。吉野首はのち吉野連の姓を与えられた。
 ついで神武の一行が山に入ると、巌を押し分けて尾のある人が出現した。国つ神で名を「石押分(いしおしわけ)の子」といい吉野の国巣(くず)の祖である。国巣と称された人々が住んだ地域は、吉野町国巣、窪垣内(くぼかいと)新子(あたらし)の一帯に想定できる。そこから山を踏み穿ち、宇陀に入った。
 井氷鹿と石押分の子はともに国つ神で、尾を持っていたという。しかし尾を持つ人はいない。山仕事をしたり狩猟の際に、またはこの地帯で産出した水銀の採取する際、獣皮を腰に纏って汚れや腰、臀部の汗を防ぐ姿を「生尾」と表現したのであろう。吉野にはあきらかに奈良盆地とは違う山の文化や風俗が色濃く存在していた。狩猟や漁業の縄文から稲作の弥生に時代が移っても、土地柄稲作になじまず、山での狩猟採集や川での漁業に固執していた姿を彷彿させる。

次に応神天皇の吉野訪問が記述されている。応神19年10月天皇は吉野宮に行幸された。その時、国樔人(くずびと)が現れて冷醴(れいしゅ、一夜酒)を献じ、歌い終わった後で、口を打って仰ぎ笑ったという。国樔人とは先の国巣のことと思われる。つずいて国樔のことを「京より東南、山を隔てて、吉野河の上(ほとり)に居り、峯嶮しく谷深くして、道路狭くさがし」と記しており、宮滝に近い国巣にまちがいない。
 次に雄略天皇も吉野宮行幸が雄略2年と4年の二度しるされている。雄略4年の段では吉野宮に行幸し、河上の小野で猟をした。雄略が自ら獣を射ようとして待ち構えていたところ、虻が臂(ただむき、ひじ)に喰い付いた。ところが蜻蛉(あきつ)が飛んできて虻を喰ったので、雄略は「倭の 峰郡(おむら)の嶽に 猪鹿(しし)伏すと 誰かこのことを 大前に申す」と歌い出す。そこでこの場所を蜻蛉野と呼ぶようになったという。雄略の歌謡にみえる「峰郡(おむら)の嶽」は、東吉野村、小(おむら)に鎮座する、丹生川上神社上社の背後にある小牟漏岳(おむろだけ)である。今も鳥獣の宝庫である。東吉野村小の高見川沿いの平地を「蜻蛉野」称したことがわかる。
 
 以上当時の吉野は「良き野」であり「野」は原野ではない。人々が暮らす集落に近い山野で、常に人の手が加えられ、山の幸、野の幸、川の幸に恵まれた所である。この意味でおおよそ、吉野の範囲は竜門岳の山麓で吉野町宮滝付近から吉野川支流の高見川流域の国巣のあたりと考えてよい。「日本書紀」が記述された当時の吉野はこのような所であり、天武、持統両朝の吉野宮を念頭に、応神、雄略天皇の記事に反映したものであろう。勿論史実ではない。

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吉野懐古--吉野宮を発掘する--

 水煙を立てる淵、蒼い水面と奇岩、周囲の緑深い山容、それらを見事の調和した美しい吉野町宮滝の地は、風光明媚な吉野川上流域の中でもひときわ異彩をはなっている。この美しい環境の中に、古く縄文時代から古代人の生活がいとなまれていた。その後数千年の歴史が、この約12ヘクタールほどの吉野川の河岸段丘の、約5ヘクタールの範囲に遺跡として、残されている。弥生時代の集落跡、壬申の乱の蜂起の地となり、その後持統天皇が足繁く通った吉野宮、聖武天皇が好んで行幸された吉野離宮など、日本古代史を考える上で避けて通ることのできない問題を解く重要な鍵が、この地下にねむっているのである。
 宮滝遺跡の発掘の歴史は古い。高見村中黒の人である木村一郎氏は明治初期から宮滝の遺物を集めていた。木村氏はやがて東京にでた。当時著名な喜田貞吉博士に宮滝の吉野離宮説を話していたようである。やがて山本源次郎氏、中岡清一氏、岸熊吉氏にひきつがれ、昭和5年末永雅雄氏の発掘調査が始まった。末永雅雄氏は当時京都大学考古学教室に席をおき、考古学史上燦然と輝く、石舞台古墳(昭和8年)や唐子鍵遺跡(昭和12年)の発掘をてがけておられた。この発掘は8年間に及び「宮滝の遺跡」という大部の報告書を発行した。その後時間をおき、昭和50年当地に幼稚園建設にともなう、事前発掘がおこなわれ、翌年から「宮滝遺跡範囲確認調査」が開始され国家補助金が交付された。その後昭和62年第38次の調査まで積み重ね、いまや遺跡の全体像がおぼろながら見えてきたのである。(宮滝遺跡検出遺構図)

宮滝遺跡略図

図1.宮滝遺跡検出遺構図

吉野宮復元模型

図2.宮滝宮模型図

 

  宮滝の名わいつから始まったか分からないが、柿本人麻呂の長歌に「絶ゆることなく この山の いや高からし 水激(みなそそ)く 滝の宮処(みやこ)は 見れど飽かぬかも」の中の「滝の宮処」から来たとの説もある。この旧跡は大きく4時期に分かれるようである。
\凸澄ε敬霤傾弔竜般邉
 斉明天皇は斉明2年(656)吉野宮を作っている。近年話題になった明日香京の石造物は斉明天皇が大掛かりな工事を行なったものであるが、これとよく似た建造物を宮滝に建立したものである。このとき宮滝の敷地を大規模造成を行なった跡が発見されている。この3年後の斉明5年(659)吉野宮に行幸してトヨノアカリ(大宴会)を開いたことが記録に残されている。トヨノアカリはもともと稲作に関わる儀式であり、豊作祈願を行なったのであろう。天武天皇(大海人皇子)は天智10年(671)病床の天智天皇に皇太子を返上し、近江の都をはなれ飛鳥を経て一路吉野宮に隠遁した。翌年壬申の乱に挙兵するまで吉野宮に留まっている。また壬申の乱に勝利した6年後、天武8年に皇后、皇子を伴って吉野宮に行幸し、いわゆる「吉野盟」を行なった。この居留地が斉明の吉野宮であった。
∋統天皇の吉野宮
 持統天皇は在位9年間で31回、即位前後の3回を加えて実に34回も行幸している。持統7年と持統9年には年間5回も訪ねている。しかも他の年も特定の月にかたよりことなく、滞在日数も3日から20日までばらばらである。これは、単に避暑や天武の思いに耽るだけでなく、吉野の水の神に五穀豊穣を祈願する重要な祭祀を行なう目的であったと思われる。ここからは、吉野の霊峰青根ヶ峰がはるかに見える。青根ヶ峰は分水嶺でもあり、東に音無川、北に喜佐谷川(象の小川)西に秋野川、南に黒滝川へと流れだす。当時の吉野水分神社は現在と違い青根ヶ峰から象谷を下ったところにあった。注目されるのは吉野川の川沿いで青根ヶ峰が望見できるのは、斎明,持統の宮だけなのである。「日本書紀」の吉野行幸の前後には、しばしば竜田への行幸の記事がのっている。奈良と大阪の境近くにある紅葉で名高い竜田には竜田神社があり今も鎮座するが、この神社は有名な風の神を祀っている。持統天皇は吉野の水の神、竜田の風の神をおそらくセットでまつり、五穀豊穣を祈ったのであろう。
聖武天皇の芳野宮と芳野監
 持統天皇の後をついだ文武天皇は2回吉野行幸を記録しているが、持統の吉野宮と考えてよい。その後吉野への行幸記事はしばらく絶えるが、平城遷都後、元正天皇が芳野郡に初めて大領、少領各一人と主政二人、主帳一人の五人をおいている。10年後、養老7年(723)元明天皇が芳野宮へ行幸している。翌神亀元年(721)皇位についた聖武天皇が行幸している。また天平4年には監に雨乞い祈願をおこなわせている。芳野監とは離宮を管理する役所とおもわれ、当時離宮をおいていたとおもわれる。宮滝遺跡検出遺構の左下に聖武の離宮跡が記されている。この間60メートルであるが、斎明,持統の宮からは見えた青根ヶ峰はここからは見えない。変わって三角形の甘南備型の美しい山、象の中山が吉野川の対岸にみえるのである。これは吉野行幸の目的が祈願目的から遊覧目的に変わって行ったことをあらわしている。
け多上皇の宮滝行幸の行宮
 遺跡の中央台地に180メートル四方の敷地跡があったようであり、そこを宇多上皇の行宮と考えているようである。大峰山の開山について記した「金峯山草創記」には昌泰3年(900)宇多上皇は宮滝行幸の2年後に大峰山に入峰したことが記されている。この文献の成立が中世以降であることから内容に重要視されていなかったが、大峰山寺本堂地下の発掘で護摩跡から大量の土器のほか宇多上皇当時の寛平大宝やその前後の古銭がみつかった。これを機に藤原道長の登山の100年前から大峰入山が皇族、貴紳の間に山上詣でが広まったことが証明された。

吉野地図

図3.吉野全図

 さて飛鳥から吉野への道は4ルートあったようである。
)綟宗憤鬟峠)越え
壷坂峠越え
車坂越え
ぐ恩尭襲曚
このうちい聾什濆馥169号線の道で比較的新しい道である。古代は´↓が主なルートであったようである。´△呂い困譴眛襲曚┐任なりきつい道であったとおもわれ、は大きく右に迂回するが歩きやすい平坦な道であった。時間をかけて歩くにはこの道が一般的であったとおもわれる。JR和歌山線吉野口駅は明治以降吉野への入り口であった。みなこの駅で下車し徒歩で吉野にむかった。近鉄吉野線が開通してから六田駅、最終的には吉野まで行けるようになった。
 さて持統天皇は,離襦璽箸鮹ったとおもわれる。,蓮嵜世瞭察廚任△襦H鳥から式内社が点在し、ミソギを行なう場所がそこここに存在する。飛鳥川の上流には飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(明日香村稲淵)と加夜奈留美命神社(明日香村栢森)が鎮座しさらに妹峠を越えて吉野川近くに妹山の南麓に大名持神社が鎮座する。この神社の前の吉野川の淵を「潮生淵(しおうぶち)」といいこの場所でミソギを行なう神聖な場所とされていた。持統天皇は吉野行幸の途中、護国豊穣の神事に先立って神社を訪問しミソギを行なったものとおもわれる。
一方△瞭擦蓮嵎の道」である。この道筋には子嶋寺(高市郡高取町上子島の観音院)や壷坂寺(高取町壷坂)があり、壷坂峠を越えて越部川沿いを下ると「越部村の岡堂」があり、大淀町奥越部から東に折れると比蘇寺(吉野寺、大淀町比曾)に達した。仏教が盛んになるにしたがいこれらのルートが開拓され、寺院が建立されたのであろう。

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吉野懐古--吉野と神仙思想--

 皆さん、吉野といえば何をイメージされるであろうか?
 世界遺産としての大峰山であろうか、桜の吉野山であろうか、または宮滝の山紫水明の河川美であろうか、南北朝の戦記であろうか、天誅組の蜂起であろうか、山伏姿の修行僧であろうか、おそらく、これらのすべてを含んだ歴史と自然が一体となったイメージが渾然となって記憶されていると思われる。そして、各自それぞれの吉野感をお持ちであろう。たとえば、日光といえば華厳の滝か中禅寺湖か東照宮か、あるいはもっと広義の日光か。東京といえば、大阪といえば、各々イメージするものが違うであろう。今回はさまざまな歴史の蓄積と神仙郷としての吉野感をとりあげたい。
 吉野は縄文時代、弥生時代も当然経験し、住居跡も古墳も存在する。しかしこの頃はどこにでもある同時代の遺跡と何ら変わらない。脚光をあびるのは斉明天皇が吉野宮を建設したころからであろう。今年発掘された明日香宮が建設されたのは斉明天皇の時代で、石を使った広大な庭園や,後に「狂心の渠」(たぶれごころのみぞ)といわれる運河を、のべ3万人を動員して造っている。斉明天皇はこの運河を利用して,200艘の船で石上山(いそのかみやま:天理市石上神宮付近)の石を宮の東の山に運んで石垣を造った。(「日本書紀」の斉明2年(656年)の条には「宮の東の山に石を累ねて垣とす」とある。)この石垣の造営にはのべ7万人が動員された。宮や庭園の建設には多くの石が用いられているが,石には特別な意味があったのかもしれない。石のもつ永遠性に不老長寿を重ねることができるだろう。おそらくこの頃、神仙思想が中国から日本にきた。かつて飛鳥は不思議な石の建造物や彫刻が何のために作られたのか謎であった時代があた。これらはこの時代の神仙思想の創作物であることが分かったのである。

女人結界

大峰山女人結界


 『史記』によると、三神山とは蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)であり、風波が荒く近づきにくい所である。そこには仙人が住み、不死の薬がある。そこの物はみな白く、宮殿は黄金や銀でつくられている。燕の昭王や斉の威王、宣王や秦(しん)の始皇帝や漢の武帝は、とくにそれに心をひかれたらしい。始皇帝は、徐福らの方士に童男童女数千人を伴わせて蓬莱山へ不死の薬を求めに行かせた。秦代(BC221〜BC206)ころからは、修行をすれば人間でも神仙になれるという思想が生まれたため、それ以降は、様々な神仙術が生み出されることとなった。

大峰山蔵王堂

大峰山本堂

 斉明天皇が吉野に宮殿を造ったのは吉野に神仙郷を実現したかったのであろう。吉野は聖なる地−神仙境とされ,吉野近くの宇陀から東吉野にかけては水銀の産地であり,吉野でも水銀朱が採れた。水銀朱を加熱すれば水銀ができる。水銀朱は道教でいう不老長寿の薬とされ,聖なる水−水銀朱の混ざった水を飲むことで若さが保たれると考えられていた。朱の赤色は中国では皇帝の色。日本では古墳時代より身分の高い人物が古墳などの内装に使われている色でもある。

 天武天皇が大海人皇子のとき、大津京から吉野にのがれ、やがて壬申の乱で勝利し天武朝をひらいたのは、前回吉野宮を発掘するで記したとうりである。その後天武は持統皇后、草壁、大津、高市など、六皇子を吉野宮に集め、「吉野の盟」を誓わせたことにより、ここが皇室の神聖の地となった。すなわち、神仙郷プラス聖地となったのである。そして聖武天皇他おおくの天皇行幸によりそれが決定的になっていった。

 壬申の乱で敗れた大友皇子の子に葛野王(669〜705)がいた。持統天皇が草壁皇子を後継にしようとしたとき弓削皇子が反対するのを葛野王が一喝し、皇統が決まったいきさつがあるが、葛野王は「懐風藻」に神仙郷の漢詩を残している。
 葛野王(669〜705)「五言。竜門山に遊ぶ 一首」
  駕を命せて山水に遊び 長く忘る冠冕(かんべん)の情
  安(いずく)にか王喬(おうきょう)が道を得て 鶴(たず)を控(ひ)きて蓬瀛(ほうえい)に入らむ
ここで竜門山は吉野の北方で、この付近は神仙郷とされていた。当時竜門寺や比曾寺があり、隆盛をほこっていた。竜門寺には久米仙人が空を遊泳していた伝説がある。久米仙人は架空の人物であるが万葉集に石川郎女に求婚した久米禅師であるとされている。役小角(えんのおずぬ)もこの頃実在した人物で修験道の開祖、山伏の祖とされている。大和葛城山で修行を行なった(奥田の蓮取り行事参照)。

 養老二年(718)養老令が成立した。施行されたのは天平宝字元年(757)で、その僧尼令第十三条に、国家から度牒(度線)を得た僧尼(官僧尼)が禅行修業を志して、山居・服餌を希望する場合の手続きについて規定している。
 およそ、僧尼、禅行修道ありて、意(こころ)に寂清ならむを楽(めが)ひ、俗に交らずして、山居を求めて服餌せむと欲はば三綱連署せよ。在京は、僧綱、玄蕃に経(ふ)れよ。實を勧(かんが)へて並に録して官に申して、判(ことわ)りて下せ。山居の隷(つ)けらむ所の国郡、毎(つね)に在る山を知れ。別に他所に向ふることを得じ。

 山居とは、山林に入って心静かに修行をすること。服餌とは雑穀を食べることを絶ち、仙薬(神仙になるための薬)を服用することである。この僧尼令が準拠した中国・唐の「永徽道僧格」でも同文だったことがほぼ確実視されている。問題は道僧格が道教・女道士(女冠)と仏教の僧尼を対象としたものであったことであるが、山居・服餌は道教の道士・女道士に対する規定であった。これを日本の僧尼令は唐の「永徽道僧格」をそのまま踏襲してしまった。結果として僧尼令は道教的要素が入り込んでしまったのである。東大寺大仏の建立に貢献して良弁も太上大臣道教も皆この修行を行なった。この修行の場に吉野が選ばれた。
 

山上ヶ岳岩壁

山上ヶ岳岩壁

  日本に仏教が伝わったのは538年である。このときの戒律は不完全なもので、出家は納税を免除されていたため、税のがれのため出家して得度を受けていない僧(私度僧)が多く、出家といえど修行もせず堕落した僧が多かった。大仏建立のおり、良弁が聖武天皇に私度僧を僧侶になれる道を作ることを約束させて、人夫としてこの私度僧を大量に活用した。良弁の人望は私度僧の大量動員ができる人望があったことが大きかった。やがて鑑真を中国より日本に招き、東大寺に戒壇院をつくり、僧侶に戒牒をあたえることが出来るようになった。

 さて吉野といえば大峰山修験道である。1番の熊野本宮神社から75番の吉野川柳の渡しまで大峰75靡(なびき)がある。なぜか熊野が始点で吉野が終点である。靡は修験道と呼ばれる修験の霊地、行所があった。これを踏破することを奥駆けといい、江戸時代では殆ど吉野から熊野に向かって逆峯といわれるコースをとっていた。これを75日かけて修行しながら踏破するのを奥駆けといったようである。38番深仙宿と66番小篠宿は有名で宿泊設備などもあり、50〜60棟の堂宇の跡が発掘された。ここは役行者の修行の場でもあった。また蔵王堂が山下と山上にあり、山上蔵王堂は大峰山の頂上にあり、修験道の本山となっている。近年発掘された山上蔵王堂の発掘物には二体の黄金仏などがあり、記録には藤原道長(1007)、藤原頼道(1049)、藤原師道(1088)、白川上皇(1092)などがここに訪れている。このうちの誰かが奉納したのであろう。藤原道長は国宝の経筒を金峯神社に奉納しているが金峯山とは山下蔵王堂と山上蔵王堂の間の山を言っていたようで時代が下るに従い奥のほうに移動したようである。

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吉野懐古--吉野と万葉集--


 万葉集には吉野の歌も大変多い。万葉集に歌われた歌が時代とともにどのように変遷したかを見てみたい。万葉人が吉野にどのような思いを持っていたかが理解できよう。

太上天皇、吉野宮に幸(いでま)せる時に、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が作る歌

 大和には 鳴きてか来らむ 呼子鳥 象(きさ)の中山 呼びそ越ゆなる(1-70)

 「ヤマト」は明日香と藤原京のあった地域をいい、吉野は入らない。「ヤマト」で鳴いていた呼子鳥が象の中山(吉野の宮滝の正面の山)にきて鳴いている。吉野は異郷の地である。そして川のイメージであり、雪のイメージである。

河を詠(よ)む
 音に聞き 目にはいまだ見ぬ 吉野川 六田(むつた)の淀を 今日見つるかも (7-1105)

 六田の淀はヤマトから吉野の入り口まで旅して来たところの、吉野山へ行くためにわたる、船着場であった。宮滝はこの船着場を渡らずに川沿いを上流に遡ったところにある。よく聞く六田の渡しを今日ついに見ることができたと感激した歌である。それほど吉野は京の人々にとってあこがれの土地であった。

土理宣令(とりのせんりょう)の歌一首
 み吉野の 滝の白波 知らねども 語りし継げば いにしへ思ほゆ (3-313)

 土理宣令は聖武天皇に仕えた官僚の一人で帰化系の人物である。彼は吉野には行っていない。しかし、吉野のことは大変よく知っている。「いにしへ思ほゆ」とは天武天皇の持統と六皇子の「吉野の盟」をさす。この話は現在の皇統の原点として、当時記憶され聖地となっているのである。「吉野の盟」とは壬申の乱に勝利し天武天皇の御世になった。以後久しく兄弟互いに力をあわせて権勢をもりたてることを誓わせた盟約で六皇子とは草壁、高市、大津、河嶋、忍壁、芝基である。

宮滝.

宮滝の渓谷美

天皇の御製歌
 み吉野の 耳我の嶺(みみがのみね)に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を (1-25)

 上の一首は天武天皇の御製である。「耳我の嶺」は青根ヶ峯である。吉野を代表する水分山である。あの山道を絶え間なく物思いに耽りながら歩いてきた。その天武天皇の思いとは何であろうか。絶対絶命の近江からの脱出、挙兵、敗走、勝利という思いが走馬灯のように蘇る、あの壬申の乱であったのだろう。

天皇、吉野宮に幸せる時の御製歌
 よき人の よしとよく見て よしと言いし 吉野よく見よ よき人よく見(1-27)

これも天武天皇の御製である。この歌がつくられたのは五月五日で、明けて六日に「六皇子の盟」がおこなわれた。この吉野を心してよく見ておきなさい、と六皇子に忠誠を誓わせるのである。

 万葉歌人の歌を見よう。まず柿本人麻呂の吉野賛歌の第一作品である。

 やすみしし 我が大君の きこしめす 天(あめ)の下に 国はしも 多(さは)にあれども 山川の 清き河内(かふち)と 御心(みこころ)を 吉野の国の 花散(ぢ)らふ 秋津の野辺(のへ)に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並(な)めて 朝川渡り 舟競(ふなきほ)ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高からし 水激(みなそそ)く 滝の宮処(みやこ)は 見れど飽かぬかも(1-36)

反歌

  見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑(とこなめ)の 絶ゆることなく またかへり見む(1-37)

 長歌の世界では柿本で始まり柿本で終わるといわれた。一代にして長歌の頂点に達した。後の時代の歌人の長歌は皆、人麻呂の歌風を越えていない。人麻呂は持統、文武天皇の時代に最盛を迎えた。持統天皇の宮廷歌人として、天皇の行幸に随伴した。そして吉野賛歌を製作した。たくさんクニがある中でも、山も川も美しい吉野に離宮が営まれたので、宮廷に仕える人びとは船を並べて、川を渡っている。その川の水が絶えないように、この山が高いように、永遠に高くそびえさせた吉野の滝の離宮は、いくら見てもみあきないことだ。

次に第二作品である。ここでは吉野の山の神も、川の神も天皇に奉仕をする...と歌っている。

 やすみしし 我が大君 神(かむ)ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉(もみち)かざせり ゆきそふ 川の神も 大御食(おほみけ)に 仕(つか)へまつると 上(かみ)つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依りて仕(つか)ふる 神の御代かも(1-38)

反歌

 山川も 依りて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも(1-39)

 山の神は春の花と秋の紅葉をみせ、川の神は川の幸である魚を献じて、天皇を喜ばせる、と人麻呂は表現している。ここでは天皇は人ではなく、自然神の上に立つ神として歌われている。この神は人麻呂の詩の中の神である。鵜川は鵜を放って魚を追わせ下流の一箇所に集めて採る漁法である。一方小網は網漁の一種。鮎は今も昔も変わらぬ吉野川の幸であった。

 人麻呂の後継者として長歌を歌ったのに、笠朝臣金村と車持千年、山部赤人がいる。ともに聖武天皇の時代の人物であり、著名な万葉歌人である。偉大な人物の後継者は、完成された型からいかに脱却し新天地を切り開くか、懊悩し煩悶するのである。人麻呂の作った吉野賛歌の型を、後継者がいかに意識していたかを示す歌がある。山部赤人の吉野を見てみよう。聖武天皇の吉野行幸に随伴した時の歌である。

やすみしし わご大君の 高知らす 吉野の宮は たたなずく 青垣隠り 川並の 清き河内ぞ 春へには 花さきををり 秋へには 霧立ち渡る その山は いたますますに この川の 絶ゆることなく ももしきの 大宮人は 常に通はむ
反歌二首
 み吉野の 象山の際の 木末には ここだも騒く 鳥の声かも
 ぬばたまの 夜のふけゆけば 久木生ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く(6-923,925)

 反歌二首は近代以降名歌の誇り高い歌である。徹底的に「個」とか「私」を殺して公に徹した人麻呂と違い、そこに自らの思いを歌いこみ、心情や私情を忍び込ませようとした。赤人にとって吉野は聖地であったがその歴史は過去のものとなっていた。長歌で人麻呂の吉野賛歌を引き継ぎながら、反歌で私情を述べるという形が生み出されている。

 大伴旅人は60歳を過ぎて太宰府に赴任した役人であり、歌人である。大伴家持の父親である。故郷大和から遠く離れた任地の九州にいて、当地で妻を失い、すでに自分の死をも意識していたのである。彼は太宰府で奈良の歌を歌う歌会をもようしたとき五首の歌を歌った。そのうちの二首までが吉野を詠んでいる。二首目瀬は流れの速いところ、淵は水の流れが遅く、滞っているところである。すなはち、いま少し命が滞ってほしいと歌っているのである。旅人にとって吉野は大和を含んでいたのであろう。夢のわだは今特定できないが宮滝の淵の一つだったのであろう。

帥大伴卿の歌五種
 我が命も 常にあらぬか 昔見し 象の小川を 行きて見むため(3-332)
 我が行きは 久にはあらじ 夢のわだ 瀬にはならずて 淵にもありこそ(3-335)

吉野の桜

吉野の桜

西行庵

西行庵


 この当時吉野の桜はあらわれない。桜を著名にしたのは西行であるといわれている。旅に生き花に生きた西行は吉野に限らず花の歌を多くのこした。

 吉野山 去年のしおりの 道かえて まだ見ぬかたの 花を尋ねん

 願わくば 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ

 西行は吉野ではないが、花のもとにて、春亡くなったようである。

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後南朝関連系図

後南朝関連系図

96代 
後醍醐天皇
 
 
97代   大塔宮  
後村上天皇 護良親王 
  
  
98代 99代 
長慶天皇 後亀山天皇
 
 
小倉宮 
恒敦王 
   
 
小倉宮 
聖承 

後南朝関連系図 1

後南朝関連系図 南朝哀史系図

吉野懐古--後南朝哀史--


 「玉骨は縦い南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望ん」(「太平記」)

  玉骨=(ぎょっこつ=貴人や美人の骨)
  縦い=たとい
  南山=(なんざん、吉野)
  魂魄=死者のたましい。
  北闕=(ほっけつ)闕は宮門の意味。京都)
 すさまじい辞世の言を残して、右手に剣を、左手に法華経典を持して、北天を睨む姿で吉野に埋もれた第96代後醍醐天皇の言葉が、これ以降の南朝の運命を決することになった。

南朝哀史系図

(南朝系図)

 後醍醐天皇は、当時大覚寺統の後宇多天皇の第2皇子として正応元年(1288)に誕生した。文保2年(1318)に花園天皇の譲位を受けて31歳という壮齢にて即位した。正中元年(1324年)、後醍醐の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、六波羅探題が後醍醐の側近日野資朝らを処分する「正中の変」が起こる。この変では、幕府は天皇にはなんの処分もしなかった。天皇はその後も密かに倒幕を志すと共に皇位継承については持明院統との軋轢を身に受けていた。
 元弘元年(1331年)、再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを「元弘の変」と呼ぶ。幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、持明院統の皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させた。捕虜となった後醍醐天皇は、「承久の乱」の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に遷った(流された)。その後隠岐を脱出し帰京した後醍醐天皇は、自らの退位と光厳天皇の即位及び在位を否定し、光厳朝で行われた人事を全て無効にするとともに幕府・摂関を廃していわゆる「建武の新政」を開始する。また、持明院統のみならず大覚寺統の嫡流である邦良親王の遺児たちをも皇位継承から外し、本来傍流であったはずの自分の皇子恒良親王を皇太子に立て、自らの子孫により皇統を独占する意思を明確にした。建武2年(1335年)、「中先代の乱」の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えるなど新政から離反する。後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破るが、九州にのがれた足利尊氏が軍備を整え再度上京する。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが後醍醐天皇はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れる。
 足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、建武式目を制定して幕府を開設する。後醍醐天皇は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する「南北朝時代」が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を陸奥国へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年)、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御した。享年52(満50歳)。以上が「太平記」の語るあらすじで、吉川英二作新書太平記の八巻の大作である。しかしこれは、南朝悲劇のほんの始まりにすぎなかった。

 第97代の皇位についた後村上天皇は元弘3年/正慶2年(1348年)に足利方の高師直に吉野を襲撃されると、大和賀名生(奈良県五條市)へ移る。「観応の擾乱」が起こると、足利直義、尊氏が交互に申し出た降伏を受け入れる。尊氏が南朝に降伏し「正平一統」が成立すると、北朝方の三種の神器(後醍醐は偽器と主張していた)を接収し、尊氏に対して直義追討の綸旨を与える。尊氏が直義の養子足利直冬討伐のために西国向かうと、その隙をついて同6年/観応2年(1351年)に足利義詮を追い京都を奪回するが、尊氏の帰京と共に京を追われる。
 正平7年/観応3年(1352年)閏2月19日、山城国の男山(京都府八幡市)に入り、七条大宮の戦いで楠木正儀が足利義詮を破り再び京都を奪回する。同10年/文和4年(1355年)、再び南朝に帰順した足利直冬を立てて京の奪回を目指すが、尊氏・義詮の軍に敗れて頓挫する。
 正平16年/康安元年(1361年)12月8日には、足利幕府の政争に敗れて失脚した幕府執事細川清氏の帰服を受け、清氏や楠木正儀らとともに京へ攻め込み、一時的に京を奪回するが、すぐに義詮軍の反撃に遭い、12月26日には撤退している。その後も京都奪回を目指すが、南朝の力は既に弱体化しており、足利義満将軍就任後の同23年/応安元年(1368年)3月11日に御座所にしていた住吉大社宮司の津守氏の住之江殿(大阪市住吉区)にて崩御した。

 第98代長慶天皇は、じつはよく記録に残っていない。皇居も吉野近辺を転々とし、定かではない。即位の事実は疑問視されており、江戸時代ころから議論がされていた。大正15年(1926年)10月には詔書が出され、正式に98代天皇として皇統に加えられ、陵墓も指定された。東北までに至る各地に長慶天皇潜幸伝説が残っており、南朝伝説の一角をになっている。
 長慶天皇は1383年、弟99代後亀山天皇に皇位を譲ったが崩御は1394年といわれている。上皇となっても常に強硬派に属し、京都に反発した。後亀山天皇は時に和平派に組し、京都との和平を模索した。楠木正成の子正行(まさつら)の弟正儀(まさよし)がこの頃の南軍の将で、後亀山天皇の意を汲んで、京都との折衝にあたったり、はては南軍強硬派と争った。
 1392年、和平がなって、南朝君臣は神器を奉じて吉野を出立し、京都大覚寺に到着。閏10月5日に三種の神器のみが大覚寺から北朝後小松天皇の土御門内裏に移された。和平の条件は南朝、北朝の皇位交互擁立であった。ここに南北朝時代は終わり、皇統は北朝の一統に帰することとなった。後亀山は後年、両朝合一を決断した理由について、永年の争いを止め、民間の憂いを除くためだったと述懐している。

 ここまでが南北朝時代であるが、これは後南朝のはじまりであった。

 第100代後小松天皇は後円融上皇による院政が行われた。朝廷内部にまで政治的影響力を及ぼし多くの公家を主従関係の下に置いた室町幕府3代将軍足利義満と上皇の関係は険悪であり、両者は対立する。明徳4年(1393年)に後円融上皇が崩御すると、義満はさらに朝廷への影響を強め、事実上の上皇として、後世「義満の院政」などと呼ばれる権力を振るい、後小松はその下でまったくの傀儡に甘んじた。

1408年、足利義満死す。上野宮(後亀山天皇の弟説成(ときなり)親王とされる)川上村で挙兵し吉水院により鎮圧さる。

1410年、後亀山天皇生活に困窮し京を出奔し再び吉野に入る。

1412年、後小松天皇は皇子の実仁親王(称光天皇)に譲位し、院政を開始した。これは明徳3年(1392年)の南北朝合一の際の条件である両統迭立に反しており、その後南朝勢力はしばしば反発して武装蜂起する。
称光天皇は病弱でたびたび重態に陥り、皇子の誕生もなく、また後小松の次男小川宮も早世したため後継者問題が生じる。

1414年、伊勢の北畠満雅が約束違反に異をとなえ独自の勢力を持つ伊賀、宇陀の沢、秋山らが挙兵しするが上野宮の斡旋で和平、後亀山院は再び京都に帰る。

1428年、いよいよ称光天皇が危篤となると、6代将軍足利義教の仲介で貞成の子息彦仁を猶子とし、後花園天皇として即位させた。後花園天皇即位とともに小倉宮(後亀山の皇孫恒敦(つねあつ)宮(良泰親王)の子聖承とされる)が出奔、北畠満雅をたよる。北畠満雅再度挙兵し討死する。小倉宮京にもどる

1437年、足利義教に対し大覚寺義昭が越智氏をたより南朝の後胤円満寺円胤を奉じ、吉野天川で挙兵 円胤は説成(ときなり)親王の子と伝える。越智氏敗走、円胤吉野山にのがれる、義昭島津をたより薩摩へ

1441年、嘉吉の乱(足利義教、赤松満祐に殺害さる)

1443年、禁闕(きんけつ)の変 小倉宮蜂起のうわさ。尊秀なる人物が金蔵主、通蔵主(南方人主を称す)を擁し禁裏に乱入し、神器の剣璽を奪取するという大事件が発生する。金蔵主は敗走、通蔵主は捕らえられ殺害される。
 金蔵主、通蔵主は後亀山院皇子とも説成(ときなり)親王の子護聖院宮世明王の子ともいわれる

1447年、南方宮、奥吉野の紀伊北山で挙兵す。紀伊湯浅城にて討取られる。(円満寺円胤ともいわれる)

1457年、自天王、南方宮金峯山寺を攻め吉野大衆を破る。
吉野の河上郷と北山郷にそれぞれ南方宮兄弟がおり行方不明の神璽を有していた。宮兄弟は後亀山の孫、尊義王と称した小倉宮空因の子とされ、これが金蔵主であるという。
尊義王の御座所が三乃公(川上村神乃谷)にあり、更に「隠平(奥乃宮)」大台ケ原の北、本沢川の源流部 「八幡平(口の宮)」に移る。 兄弟は神璽を奪回して主家再興をはかろうとする赤松の遺臣に殺害された。この惨事はいちはやく川上郷に伝えられ、郷土たちは、自天王の首と神璽を手に逃走する赤松の郎等を迎え撃つ。塩谷村(北塩谷)の名うての射手・大西助五郎は、郎等の頭であった中村貞友を見事射止めたと伝承されている。郷士たちは皇子の首と神璽を取り返し、首は金剛寺に手厚く葬られたと伝えられている。しかし1458年、赤松の残党に神璽を奪われ、これによって赤松家はお家再興の悲願を達成した。

自天王金剛寺

自天王の首を祀る金剛寺

朝拝式

自天王を偲ぶ朝拝式

 このように後醍醐天皇から始まった南朝の血は絶え、南北朝の動乱は終焉を迎えたが、川上郷土たちの雄志は代々語り継がれ、毎年2月5日には、自天王を偲び、新年拝賀の儀式として朝拝式が、五百有余年絶えることなく今日まで続いている。  
 その一ノ宮(北山宮尊秀王)の自天王は、上北山村小橡の滝川寺(小瀬寺・竜泉寺)を御座所とした。墓が滝川寺にある。
 二ノ宮(河野宮忠義王)が伯母峯を隔てた川上村神乃谷を御座所とした。墓は金剛寺(川上村)にある。
1490年、「南帝崩御33回忌」が上北山村小橡の一結衆が大乗教を勧進する。現在も12月2日に陵前祭を執り行う。
川上村では自天王の遺品(兜、鎧袖、胴丸鎧、太刀、長刀)を御魂代として礼拝し、後南朝の朝賀の儀を引継ぐという「お朝拝」が今も毎2月5日に行なわれている。

他にも伝説が多数ある。これらは吉野の土に埋もれた伝説である。後南朝以下の歴史や人物の系統などは歴史的には実証性が乏しく必ずしも正しくない。しかし、現在にいたるまで言い伝えられているのである。

谷崎潤一郎が自天王の小説を書きたくて吉野に調査に入った経由が吉野葛の小説に残されている。しかし、結局小説にはならず吉野葛となった経緯が書かれている。(吉野のイタリア料理店と吉野葛)

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吉野懐古--芳野懐古に思う--


 昭和52年の頃、私は漢詩を吟じていた頃があった。一年間であったが北川哲水先生の流れを汲む流派で哲水流と言っていたと思う。週に一度二時間ばかりで哲水先生のお弟子さんに教えて貰った。約50週であったから一週一吟で50吟ほど手ほどきしてもらったことになる。当時仕事が忙しく週一回の時間をとるのもままならず、結局一年で止めたことになる。しかしこの一年はたいそう、楽しかったのを覚えている。今回本箱の隅からこのときの教科書がでてきた。丁寧にこの漢詩のページに練習した月日を書き込んでいたので、52年の年も正確に記述できるのである。
 さて吉野懐古という題であるが、当時の吟詠の中に「吉野懐古」という詩が3つほどあったのを覚えていて、吉野懐古という言葉はいつも脳裏から離れない印象的な言葉であった。まほろば紀行を書き始めて当然吉野についても書きたいと思っており、題名だけは早くから発想があったのであるが、内容についてなかなかまとまらず、あらためて吉野の歴史を勉強したのであった。このシリーズ、当文章もいれて6作になるが、かって「天誅組の変」をしるしたので、これも吉野懐古に含まれることになる。再度編集しなおす機会があれば7部作とすることになろう。

 吉野懐古は4詩以上あるが以下3譜を芳野三絶という。この三曲とも練習しており、日付けも記述していた。

)野懐古 藤井竹外(52.7.8)
  (芳野懐古 藤井竹外)

吉野懐古藤井竹外

藤井 竹外(ふじい ちくがい、文化4年(1807年)- 慶応2年(1866年))は、幕末の漢詩人で摂津高槻藩の武士の家に生まれる。頼山陽に師事し、七言絶句を得意とすることから「絶句竹外」と称される。梁川星巌、広瀬淡窓らとも親交があった。晩年は京都に隠居し、詩酒に耽る生活を送る。

∨野懐古 河野鉄兜(52.12.2)
 山禽叫断夜寥寥 無限春風恨未銷(とける)
 露臥延元陵下月 満身花影夢南朝
  山禽(さんきん)叫断(きゅうだん)夜寥寥(よるびょうびょう)
  限り無きの春風恨み未だ銷(しょう)ぜず
  露臥(ろが)す延元陵下の月
  満身の花影南朝を夢む
 
河野鉄兜 1825 年 ( 文政 8 年 ) ― 1867 年 ( 慶応 3 年 )
河野鉄兜は郷土の生んだ勤王の詩人。揖東郡網干垣内に生れる。幼時、河合寸翁の仁寿山校に学び、長じて江戸に遊学。
各地の碩学を訪ねその行脚は中国、四国、九州地方に及ぶ、詩法を梁川星巌に問い、九州を訪れた時は咸宜園を訪ね淡窓旭荘に教えを乞う。特に、頼三樹三郎との交友は厚かった。


K野懐古 梁川星巌(52.11.25)
 今来古往事茫々 石馬無聲杯土荒
 春入櫻花満山白 南朝天子御魂香

  今来古往(こんらいこおう)事茫々(ことぼうぼう) 
  石馬(せきば)聲無し杯土(はいど)荒る
  春は櫻花に入いって満山(まんざん)白し
  南朝の天子御魂(ぎょこん)香(かんば)し

梁川星巌

梁川 星巌

梁川 星巌(やながわ せいがん、寛政元年6月18日(1789年7月10日) - 安政5年9月2日(1858年10月8日))は、江戸時代後期の漢詩人である。美濃国安八郡曽根村(現在の岐阜県大垣市曽根町)の郷士の子に生まれる。文化5年(1808年)に山本北山の弟子となり、同3年(1820年)に女流漢詩人・紅蘭と結婚。紅蘭とともに全国を周遊し、江戸に戻ると玉池吟社を結成した。梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内らと交流があったため、安政の大獄の捕縛対象者となったが、その直前(大量逮捕開始の3日前といわれる)にコレラにより死亡。星巖の死に様は、詩人であることに因んで、「死に(詩に)上手」と評された。
出身地・岐阜県大垣市曽根には梁川星巌記念館があり、近くの曽根城公園に妻・紅蘭との銅像がある。かつて学問の街といわれた大垣であるが、現在の大垣の代表的文人とされている。

´↓6Δ鳳筝砧佑歌いこまれている。当然後醍醐天皇陵である。いずれも幕末に生を受け、当時の風潮である国学の流れをくむ勤皇の志しが強く、そろって南朝に思いをはせたのであろう。


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転害門とナラノヤエザクラ

 ナラノヤエザクラは伊勢大輔の詠んだ和歌により名高い。


いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂ひぬるかな


このナラノヤエザクラは奈良にはえている八重桜という意味ではない。れっきとした学術用語である。花を良く見ると勿論八重桜でもなければ、ソメイヨシノでもない。オクヤマザクラ(カスミザクラ)の変種で、4月下旬から5月上旬に開花する八重桜である。他の桜に比べて開花が遅く、八重桜の中では小ぶりな花をつけるのが特徴である。上の和歌にあるように、奈良時代から桜があったようで、この歌はナラノヤエザクラを歌ったものとわれている。

 さらに江戸時代初期、1678年に出版された『奈良名所八重桜』は奈良の八重桜について記述している。天平時代、聖武天皇は三笠山(いまの若草山)奥の谷間で美しい八重桜を見つけ、その八重桜の話を光明皇后にしたところ、光明皇后は一枝でも構わないから見てみたいと大変興味を持った。聖武天皇の臣下たちは気をきかせ、その八重桜を宮中に移植した。以来、春ごとにその桜を宮中の庭で楽しみ続けられたという。


 いがいにこの花のことは奈良でも知られていないが、奈良県の県花になっており、天然記念物である。先日テレビを見ていたら、奈良女子教育大学の生徒がナラノヤエザクラの花びらを醗酵させて日本酒を作っていたが、出演者の試飲によると大層うまいとのことであった。機会があれば飲んでみたいものである。


 実はナラノヤエザクラを知ったのは去年のことである。ブログを書いている関係でHPの表紙にと、生えているところを調べて奈良に写真を撮りにいったのであるが早すぎて撮りそこない、すこし時間をおいてまた撮りに行ったら散ってしまっていた。今年こそと思い連休明けに奈良に出て行った。この花の咲いているのは奈良県庁前、東大寺転害門の付近、知足院と奈良公園の中で、知っていないとついつい見逃してしまうほど、ポピュラーな花ではない。いわゆる桜のように咲き乱れて春爛漫というものではなく、一本ずつ、間隔をもってひっそりと咲いているのである。
写真のナラノヤエザクラは転害門の内側、奈良市立鼓阪小学校(つざか)の門の外側に数本さいていた。この学校は奈良の最初の小学校で歴史が古いのであるが何と言っても転害門の偉容に圧倒される。転害門の真西に一本の道があり、これが平城京に通じる一条通りである。転害門は数ある東大寺の遺構の中でも、創建当初の姿を伝える唯一の遺構であるという。

東大寺内には手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)が鎮座する。これは天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請された。八幡宮からの分社では第一号である。この神社への御旅所として神輿が転害門より出発した。

転害門とナラノヤエザクラ

転害門の西側

ナラノヤエザクラ

転害門裏のナラノヤエザクラ

ナラノヤエザクラ


 東大寺は数々の戦乱や災害の中でも、二回の大きな戦乱に見舞われた。特に第一回は治承四年(1180)十二月二十八日のことである。ことのおこりは、後白河法皇の皇子の以仁王が、源頼政とはかって、平家討伐の兵を挙げようとしたことにある。しかし、計画は早くも平家にかぎつけられたため、以仁王は園城寺(三井寺)へ逃れられたが、平家の軍は、源氏に味方する延暦寺園城寺に焼打をかけた。
 以仁王は南都へのがれようとする途中でつかまって殺されてしまった。
 かねてから、以仁王に味方していた、東大寺、興福寺の衆徒達は、その報を聞くと、平家の無道をなじって騒ぎたてた。怒った平清盛は、その子重衡に命じて、大軍をひきいて南都に攻め入らせ、東大寺、興福寺の諸方に火を放って、またたく間に堂宇のほとんどを焼きつくした。この時、廬舎那仏の御頭は後に落ち、左右の御手も折れて前に横たわるという見るも無残なお姿になってしまわれた。
 東大寺復興の活動は早くからおこなわれ、重源によって再興された。平家の無謀な行為に対する非難の声に応えて、源頼朝の大いなる援助を受け、やがて落慶法要をおこなうこととなる。これに参加すべく頼朝は鎌倉を発ち、東大寺に到着する。このことを、早くから聞き知っていた平家の残党悪七兵衛景清は春日大社の神人に変装して物陰に隠れ、頼朝殺害を画すが、警備厳しく家来の者に追われ、転害門に隠れた。そしてその後いずこかに立ち去ったという。そこでこの門を「景清門」とも呼ばれるようになった。この件は能曲「大仏供養」にあり、また景清は能の世界でも堂々と主役を張っており、伝世阿弥作「景清」では鎌倉からはるばる日向に彼を訪ねてきた娘に源平合戦の事を語る、いはゆる亡霊となってあらわれる。
 第二回目は松永久秀と、三好三人衆の争暴である。松永勢は、多聞城に拠り、三好勢は大仏殿に陣を張ったので、その激しい攻略は、東大寺を戦場として行なわれた。そのため、それまでにも、文殊堂、授戒堂、戒壇院、千手堂その他の建物が焼け落ちていたが、十月十日の夜、多聞城を出た松永勢が、三好勢の本陣大仏殿に焼き打ちをかけた。虚をつかれた三好勢の防戦はおよばず、火は廻廊をひとなめにして、大仏殿に燃え移り、ものすごい火柱を立てて、大音響と共に炎上してしまった。
 このように、度重なる争乱を耐えてきた転害門の歴史は、東大寺の大仏殿や南大門の華々しい存在とは裏腹に地味な存在であるが、重みがある。貴重な国宝である。出入門は特に争乱の時、敵味方入り乱れる出入り口となるために、火災炎上しやすい。特に奈良の中心に存在し1300年の星霜を生き抜いた存在感に感無量である。
 

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縄文時代の食物事情

 今回は縄文時代に遡って食料事情を考えてみたい。まほろば、奈良を遠く離れて、青森県三内丸山遺跡をとりあげる。これは縄文時代の総合的な生態を理解する典型的な遺跡だからである。三内丸山遺跡は江戸時代の初め、山崎立朴の『永禄日記(館野越本)』(元和9、1623)に記載され、江戸時代後期には有名な紀行家菅江真澄が現地を訪れ、『すみかの山』(寛政11、1799)に、縄文時代中期の土器や土偶の精巧なスケッチと考察を記している。昭和になって慶応大学などによる学術調査がはじまり、平成4年、野球場建設に先立つ事前調査で大型縄文遺跡を確認、直径約1メートルのクリの巨木を使った縄文時代中期の大型掘立柱建物跡の発見をきっかけに、青森教育委員会による本格的保存活動がはじまる。第1〜第26次調査(平成15年度末まで)を経て、2000年遺跡の国宝ともいう特別史跡に指定された。

三内丸山塔

大型掘立柱建物跡 (三内丸山を象徴する建物)


 ここで遺跡の概略を押さえておこう。
  遺跡総面積 38ha
  場所 八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20メートル
  年代 5500年から4000年前 縄文中期
  平均人口500人 100家族
  
 縄文農耕について押さえておこう。ここで採集と栽培を明確に区分する必要がある。採集は自然に生育した生物を食料目的で採集することであり、栽培はそれを計画的に生育させ収穫する。ここで計画的とは農耕地を決定し、野生の植物のうち、クルミ、クリなら大きいもの、身の多いものなど、ヒエなら群生度の高いものなど、取り扱いのしやすいものを選別して植え替え、収穫量を予想しながら、貯蔵もふくめて必要量を産出し面積を決定しなければならない。また植物の生育に数年を要するのが普通であるから年間、長期計画を要する。そのことが定住を促がし、栽培地の固定を促がし、土地所有概念が強く育成されてきた。
 以上のことから水田稲作が始まる前の日本の栽培には四つの段階があるという。
(1)野生採集段階 クリ、トチ、シイ、ドングリ、クルミ等ナッツ類とクズ、ワラビ、テンナンショウといった根菜類
これらは水さらしによりアクや毒を取り除き、デンプン類を抽出
(2)半栽培段階 クリ、ヤムイモ、ヒガンバナなど。(1)のうち食べやすいもの、掘り易いものを選んで施肥したり、身の大きいものを選んで持ち帰り植え替える。
(3)根菜植物栽培段階 サトイモ、ナガイモ、コンニャクの栽培。焼畑農業の始まり。
(4)ミレット栽培段階 ヒエ、シコクビエ、アワ、キビ、オカボなど栽培。畑作農家の始まり。

 従来多くの(数千から数万)縄文遺跡が発見され個別、単発には調査されたが、縄文人の生活や文化など生きた考古学検討がされてこなかった。特に食物については、腐食し、痕跡が残らないため、石器や遺物で推測するしかなかったし、DNAなど最新技術が1970年以降の発展で且つ、その後の地道な研究積み重ねで、やっと明らかになりつつある。おりしもその研究の最たる材料が三内丸山遺跡であったといえるのである。


 三内丸山遺跡より出現した遺跡は次の通りである。
○大型掘立柱建物跡
地面に穴を掘り、柱を建てて造った建物跡。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔が4.2メートル、中に直径約1メートルのクリの木柱が入っていた。地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐らないで残っていた。6本柱で長方形の大型高床建物と考えられる。
○盛土
竪穴住居や大きな柱穴などを掘った時の残土、排土や灰、焼けた土、土器・石器などの生活廃棄物をすて、それが何度も繰り返されることによって周囲より高くなり、最終的には小山のようになった。土砂が水平に堆積しているので、整地されていたと考えられる。中から大量の土器・石器の他に、土偶やヒスイ、小型土器などまつりに関係する遺物が多く出土している。
○谷
谷はゴミ捨て場として使われていた。水分が多く空気から遮られていたので、土器・石器の他に、通常では残らない木製品や漆器、動物や魚の骨、うろこ、植物の種子、木の実、寄生虫卵などが良好な状態で残っていた。
○竪穴住居跡
縄文時代の住居は地面を掘り込んで床を造った。中央には炉があり、住居の平面形や柱の配置、炉の位置や構造は時代によって変化が見られる。
○大型竪穴住居跡
長さが10メートル以上のものを大型住居跡と呼び、三内丸山遺跡では最大のもので長さ約32メートル、幅約10メートルのものが見つかっている。集落の中央付近から見つかることが多く、集会所、共同作業所、共同住宅などの説がある。
○掘立柱建物跡
地面に柱穴を掘り、柱を建てて屋根を支えたものと考えられる。集落の中央、南盛り土西側などから密集して見つかった。
○埋設土器
子どもは亡くなると、丸い穴を開けたり、口や底を打ち欠いた土器の中に入れられ、住居の近くに埋葬された。土器の中から握り拳大の丸い石が出土する場合が多く、当時の習慣に関係するものと考えられる。
○土坑墓
大人は、地面に掘られた円形や楕円形の穴に埋葬された。大人の墓は集落東側の道路に沿って、両側に2列に配置されていた。
○道路跡
集落の中心から幅約12メートル、長さ420メートルにわたって、海に向かって延びている。道路は地面を少し掘り下げて、浅い溝のようになっているものや、さらに土を貼って「舗装」されているものもある。最近の調査で、南北にのびる道路も見つかっている。
○粘土採掘坑
土器を作る時の粘土を採掘した穴である。粒の細かい、粘土に近い火山灰を利用して土器を作っていたようである。
○貯蔵穴
集落の外側、台地の縁近くにまとまって造られていた。入り口がせまく底が広い、断面がフラスコ状のものが多く、クリなどの木の実、食料がたくわえられたものと考えられる。中には深さが2メートル近くもある大型のものもある。

 縄文人の主食になった三つの栽培植物の特徴について調べておこう。これらは野生食物であるが、栽培食物としても的確な食物であり、三内丸山時代には野生から栽培に変更された時期ではなかろうか。
○クルミ
 クルミは長野、北関東、東北で主に生育し秋に収穫する。これは縄文遺跡の近辺に生育していた。1HA当たり60〜70本生育し、低温で殻付きのまま保存する。
○クリ
 クリは日当たりのよい傾斜地に生育し、クルミとほぼ同じ地域に生育する。収量は1HA当たり1.5tで3〜4年で結実する。栄養価高く、保存によい。(カキ、リンゴ、ナシ)などの果実より5分の1の労力で収穫できる。
クルミ、クリ共に栽培すれば野性の採集より5分の1の面積で同量確保できる。
○ヒエ
 ヒエは強健で耐寒性に富み、栄養価が高い。10a当たり175kg±30kg(モミ)1時間当たり177kg±62kgの収穫があげられるデータがある。クリ、クルミに較べて栄養価がたかく、蛋白質に富むため、かえって動物性蛋白が補いにくい。逆にクリ、クルミは蛋白質が少ないため、動物性蛋白質を別途補わなければならない。したがって、クリ、クルミを主食にするほうが栄養バランスが優れているともいえるのである。
 以上主食について次の仮定をたててどのくらいの耕地面積が必要か計算した。
年間500人の主食をまかなうのに、第一主食と第二主食の割合を5:2として第一主食(クリ、クルミ)第二主食(ヒエ)ですべて栽培とすれば50haの面積で間に合うが、共に野生であれば152haである。どちらかが野生でどちらかが栽培であれば、この間の面積が必要である。第一主食(ヒエ)、第二主食(クリ、クルミ)で計算してもほぼ同等の面積が必要であった。いずれにしても半径1kmの範囲内で生活できるのである。

縄文カレンダー

縄文カレンダー(縄文人の年間作業と男女の分担)

 その他動物食では年間イノシシだけでは5000頭、ウサギなら60000匹を獲得しなければならないが、これほどの頭数は不可能であった。魚貝類では常時捕獲できるものとして貝類、タイ、タコなど、季節性のあるものとしてサケ、マス、ニシン、イワシなどが捕獲できた。季節性の魚類は、その捕獲方法や保存方法など高度な技術を保有していたものとおもわれる。
以上からヒエ、クリ、クルミを主食とし、動物性蛋白を補うため魚介類を捕獲し、山菜などを食していたものとおもわれる。また、以上の食生活のため、発掘された遺跡群の各々の役割が想像できる。

 以上から縄文生活で見えてきたものとして、三内丸山遺跡の最大500人という人口は、従来の30人前後のバンド集団という説では説明できないさまざまな問題を提起する。
/料の確保の問題
30人前後のバンド集団では十分広い土地があれば日本のような資源の豊富な温帯では植物食を中心として必要な植物を集め、狩猟や漁労を補足的におこなうことである程度定住さえ可能である。しかし500人となると食料の確保が先決となる。食料を植物による場合は、その食料施設を独立させる必要があり、そこから獲得されるエネルギーは対応する労働力を上まわる必要から、施設をできるだけ近くに作り、単位面積当たりの収量を多くしようとする。その最も効果的な方法が栽培だったのである。栽培は採集に比べ5〜6分の1面積ですむからである。
∀働力の集中と構成の問題。貯蔵、分配の問題。
三内丸山では労働力の集中については巨大な構造物、特に直径1mのクリの巨木を6本、尺度を使って建てた建築物にその片鱗を見ることができる。貯蔵についても数多くの貯蔵穴とともに、集落の中枢部に並ぶ掘建柱の建築群を倉庫と見れば解決できそうだ。分配については考古学的には説明できないが集団が大きくなり計画的な貯蔵がおこなわれるのは、平均分配から再分配の経済に移行しつつあったことが想像できるのである。
社会の階層の問題。
再分配経済が発達してくるとリーダの力が大きくなり、社会階層ができてくるのは、歴史的に常識である。三内丸山にも村長なり部族長がいたであろう。大型竪穴住居などはその集会など全体の重要事項について相談の場となったと思われる。

 以上三内丸山遺跡から見えてくるものを列挙したが、これは三内丸山遺跡固有のものであろう。このような大きな遺跡が縄文時代にそうたくさんあったとは思われない。しかし5000年から4500年前にこのような集落だあったことは、従来の縄文のイメージを一新させるものである。

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縄文クッキーと縄文ハンバーグ

 縄文クッキーという名前は縄文前期の山形県押出遺跡から出土したクッキー状の食品炭化物の通称である。ネーミングの良さからか、子供たちの課外授業の人気アイテムらしい。山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館ホームページに写真が掲載されているが、その説明では、国指定重要文化財らしい。食品関連の重要文化財というのは珍しい存在である。それによれば「この立体的な装飾を施した縄文クッキーを残存脂肪酸分析法で分析すると、クリ・クルミの粉に、シカ・イノシシ・野鳥の肉、イノシシの骨髄と血液、野鳥の卵を混ぜ、食塩で調味し、野生酵母を加えて発酵させていたことがわかった。これには、木の実を主体にした「クッキー型」と動物を主体にした「ハンバーグ型」のものとがあったが、どちらも栄養価は100g当り、400〜500Kcal。成人男子のカロリー摂取量が、1800Kcal/1日だとすると、25〜30gの縄文クッキーを1日12〜16個食べればよいことになる。さらにその栄養成分を街で買った普通のクッキーと比較したところ、縄文クッキーのほうが、タンパク質、ミネラル、ビタミンが豊富で、栄養学的には完全食に近く、保存食としてもなかなかのものだった。脂肪酸分析によって明らかになったのは、思いのほか豊かな縄文の食生活だったのである。」

クッキー縄文

縄文クッキーの炭化物

 ここでいう残存脂肪酸分析法とは1980年にはいって発達した技術で、動植物を構成する有機質は微量ながら比較的安定した状態で残ることがわかっていた。中でも、脂質は長年月を経過しても変化せずに、もとの化学組成をそのまま保持し続けることが試行的研究から判ってきた。すべての動植物を構成する脂肪酸およびステロールの組成は、種によってすべて異なる。この化学組成の違いを基準にして、これらと考古学資料に遺存する脂質の化学組成を照合することで、脂質の持主を特定しようとするものである。

 これまで考古学は自然科学と提携して、古代の人々が環境にどう適用してきたかを解明するものであるが、考古遺物としての動植物の遺体や動植物を材料とした製品がそのままの形で遺存するしているのはごく稀なことに過ぎず、残っていないことが圧倒的に多い。また遺存している遺物についても具体的にそれをどう使ったか、発見された石器が何を切り、土器でなにを煮たかを知ることは殆ど不可能とされ、わずかにそれを予想するに留まっていた。したがって、従来、考古資料の調査・研究のための自然科学的手法はもっぱら鉄、銅、鉛などの重金属を主体とした無機質を対象にして行なわれており、動植物を構成する有機質の研究は絶望視されていた。有機質は環境変化に対して不安定で、特に長期間地下に埋蔵されると圧力、水分などの物理的作用を受けて、崩壊するのみならず、土中に棲む微生物によっても分解してゆく。したがって、有機物の化学組成が千年・万年を越えて残存することは常識的には考えられないことであった。これにたいして残存脂肪酸分析法は有機物に対しても、考古資料の実態を特定する手段を提供するものである。

 実際は上の縄文クッキーについては、はたしてそのようなものが存在したのか?標本としての炭化物が上のような組成で本当に構成されているのか?煮る焼くなど調理をほどこして化学組成の変化したものの、元の材料が本当に特定できるのか。その根拠はなにか?といった疑問が提示されている。このあたりは専門家の議論についてゆけないので、別室できちんと結論をだしてもらいたいのであるが、いずれにしろ、単品の物質の解析については相当威力があるようである。

 現に前回の縄文時代の食料事情で三内丸山遺跡をとりあげたが、ここで出た貯蔵穴やゴミ捨て場の谷から、クルミやクリやヒエなど当時の食料などを知る数々の標本が出現し、当技術で当時の主食副食を特定できた。また全国40箇所にのぼる遺跡で食料の化石が発見され、この分野での智識が蓄積されつつある。以下に事例を示す。

(石器)日本最古の遺跡のひとつ、宮城県馬場壇A遺跡(14万年前)から出土した石器は、日本最古のものである。この石器にはオオツノジカ、イノシシなどの動物油のほかにナウマンゾウの油が残っていた。15万年前、日本に最初に住み着いた旧石器人は野生の肉を切り刻む、「狩猟人」であったことがわかる。石器の用途を知ることによって、日本人がいつから日本列島に来たかが推測できる。

(炉の石、石焼料理用石)東京多摩769遺跡(12,000年前)にみえるタール状の光沢のある炭化物から、動物性食品の調理痕跡を示すステロールと脂肪酸が見つかった。煮こぼれや焼肉の跡のある焼き石は、古代人の調理内容を解く鍵である。

(土器、陶器)縄文から近代までの陶器からなかに何が入っていたかを調べた。縄文ではシカ、イノシシの動物の肉、魚、貝、木の実の煮物の標本、中世では貝の剥き身または貝殻ごとの煮物、味噌、たまり醤油、近世では泡盛(沖縄)などが分かっている。

(骨角器)動物の骨や角で作った骨角器は漁労や縫い針に使われた道具である。元の形がわからないほど加工していても何の骨か角かが確定できる。将来は銛(すき)でどんな魚、海獣、動物を突き刺したかが確定できる。

(糞石、便所堆積物)縄文人の摂った食物は、縄文人の落し物として、消化しなかった大便の化石に残っている。里浜貝塚人(宮城県松島、6000年前)は植物食と動物食をほぼ半々ずつ摂っていた。主なものは、トチ、クリ、クルミなど木の実と、ニホンジカ、イノシシ、タヌキ、イヌ、ニホンザル、アザラシ、クジラ、魚貝類、海草、野鳥などであった。食事メニューは13種類以上ありバラエティーに富んでいた。一日の摂取量を計算し、現代人の理想とする一日の食品栄養成分と比較したのが下図である。古代人のエネルギーは2390kcalとほぼ理想地に近く、蛋白質、糖類、脂質とも満足すべき値である。食塩は9gと縄文夫人のサジ加減も立派。縄文人の食の特徴は、カルシウム、リン、鉄等のミネラル、ビタミンA、B1、B2が豊富なことである。

縄文クッキー

里浜貝塚縄文人と現代人の一日分の摂取食品の栄養成分比較

(貯蔵穴)豊かな食生活を一年中楽しむためには、採集した食料を貯える必要がある。各地の遺跡からは、普通の住居のほかにフラスコ状の穴がみつかる。穴底の土には植物性の脂質が残っている。食料貯蔵のための穴倉である。山形県吹浦遺跡の穴倉は径、深さとも2M、米1.8t入る。温、湿度を調べたら、夏は15℃前後、湿度90%以上、冬は木の葉の蓋をしておくと、温度2℃、湿度82〜93%となる。食料を一冬持ち越すのに十分な貯蔵穴であることが分かる。木の葉にはワックスやステロール、木の皮のタンニンは天然の抗菌物質である。礫は石英緑閃岩などの薬石を使用している。その遠赤効果と抗菌作用により、貯蔵食料の鮮度保持をはかっている。貯蔵穴にも古代人の智恵が生かされている。

貯蔵穴


    貯蔵穴

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土偶は語る

 縄文時代の文化を考えるとき、普通は考古学的にその時代の遺跡と遺物をもとに推理する。その遺物のなかには、三内丸山遺跡の項で示した遺物が含まれるが、更に、ストーンサークルや土器、土偶なども含まれる。今回はそのうちの土偶について考えたい。土偶は当時の精神文化を最も表現していると思われるからである。
土偶は土をこねて非実用的な何らかの形(多くの物は女性像と考えられている)を形成し、焼き上げたもので、時代の移り変わりに従い形の流行などもあったようであるが、どれをとってみても見る物の興味をそそるものばかりで非常に美しい物がたくさん出土している。出土の状況はたいてい壊され、捨てられた物が多く、完全な形の土偶はほんのわずかしかない。これはいったい何故なのか?土偶はどのような目的に使われていたのか?誰にもわからないので、みんなで勝手に想像している。

中期の土偶

中期の土偶1

「日本最大の八頭身美人土偶」

<><><>中期の土偶2

後期の土偶1

後期の土偶1

ハート形の顔をした土偶

<><><>後期の土偶2

国宝土偶

国宝土偶3点

左:国宝 縄文のビーナス
長野県棚畑遺跡出土
縄文時代中期(前3000〜前2000)
長野・茅野市教育委員会蔵

中央:国宝 合掌土偶
青森県八戸市風張1遺跡出土
縄文時代後期(前2000〜前1000)
青森・八戸市蔵

右:国宝 中空土偶
北海道函館市著保内野遺跡出土
縄文時代後期(前2000〜前1000)
北海道・函館市教育委員会蔵

土偶の発見状態を分類すると以下五つに分類できる。
’ぐ嫋態 土器、石器など一般の遺物に混じり、破片の状態で出土する。
∨簀七疎屐‐さな穴の中に、逆さまや仰向けにして埋められた物。
G実形態 土器の中に入れられて、土器と共に埋められた状態で発見される物。
な餔老疎屐\く掘りくぼめた小さな穴に横たえ、河原石などで囲み、時にはその上に蓋石を覆う。
グ唾峽疎屐―撒鑚内に丹塗り(にぬり)の自然石や石皿の上に土偶を仰向けに置き、或いは、遺構はなくても明らかに安置した状態で発見されるもの。

 最近の梅原猛さんの著書「葬られた王朝」に土偶について興味深い説が述べられている。梅原さん曰く、土偶の特徴は、
1.土偶はすべて成年の女性であり、妊娠している。
2.土偶はすべて異様な顔をしている。
3.土偶には必ず胸のところから腹のところまで裂かれた縦一文字の傷がある。
4.土偶は多く破壊されている。
5.土偶はていねいに埋葬されたものがある。

全ての土偶に上のことが言えるのかどうか、自分にはわからないが、しかし、土偶は女性の妊娠にかかわることであることが容易に想像できる。子供ができるということは今も昔も人生の一大事であることにはまちがいない。特に縄文時代は出産智識がとぼしく、すべてが神頼みであった。女性が妊娠するとお守りのために人形を作ったようである。そしておおかたの人は無事出産すると、その人形をこわしてゴミ捨て場に捨てたのである。これが,冒蠹するようである。しかし、当時の出産は3割が異常出産であった。死産や妊婦の死亡は特別礼をつくさなければならなかったようである。
 梅原氏は哲学、歴史、仏教などに造詣が深いが、特に縄文時代の精神文化を深く研究されたようである。それによると、日本人のあの世観は、あの世とこの世は、あまり変わらないが一つだけ大きな違いがある。それは万事あの世とこの世はすべてあべこべであるということ。この世の夏はあの世の冬、この世の冬はあの世の夏、この世の昼はあの世の夜、この世の不完全なものはあの世では完全であるというのである。葬式のときに故人の茶碗などを割るという風習は今でも聞いたことがある。これは、この世で不完全にしておけば、あの世で完全なものとなるのである。↓きイ浪燭蕕の違いはあるものの、正常に出産できなかった、不幸な運命を背負った母親が、子供のためにとった行動であろう。
 アイヌは古い縄文文化を残していることは以前に紹介した。(76. アイヌと西南諸島の民族の成り立ち)アイヌの研究をした梅原氏はアイヌの女性から聞いたこととして以下のことを紹介している。
「まあふつうの大人が死ねば型どおり葬られますが、子供が死んだときは特に大変でした。アイヌの社会では子供を孕むと、その子供は必ずあの世に行った祖先の霊が帰ってきたものだと信じられています。その子が幼くしてして死ぬと、遠いあの世から帰ってきた祖先にこの世の幸せを十分あじ合わせずにすぐにあの世に帰すのは申し訳ないと考え、子供の死体を甕にいれて、人のよく通る入口に埋められるのです。それはその子を生んだ夫婦がセックスに励んで次の子として生まれ変わってくるようにという願いからなのです。」
「しかし子供が死んだときよりもっと大変なのは妊婦が死んだときでした。せっかく祖先の霊が帰ってきて妊婦の腹にやどったのに、妊婦が死んでしまったのではその子は妊婦の腹に閉じ込められて、あの世に行けない祖先の霊が、祟りをなすと信じていたのです。ですから一旦妊婦を普通どおりに葬って埋められたあと、翌日霊力のある女性がその女性の墓を掘り返し、妊婦の腹を切り裂き、その胎児を女性に抱かせて葬ります」

gif裸婦

裸婦(腹を切り裂いた形をしている)

縄文のビーナス

縄文のビーナス(国宝)

晩期遮光器土偶

晩期遮光器土偶


  何とも不思議な話であるが、現在の死の概念は地獄や浄土など仏教が日本に移入されたあと確立されたもので、それ以前の生死感は殆ど伝わっていない。弥生の稲作、古墳時代の青銅器、鉄器文化、飛鳥奈良時代の神仙思想、奈良平安の仏教文化など、あまりにも外来文化に影響されすぎた結果、日本古来の伝統文化は殆ど崩壊してしまったのである。外来文化があまりにも新鮮で魅力的なものであったため、皆そちらのほうに興味が移り、古来文化は忘れ去られてしまったのである。しかし仔細に現在の風習、習慣を見ればその名残は少なからず残っているのである。自然を畏敬し神に祈る心、祟りを恐れる心などである。


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混一疆理歴代国都之図

混一疆理歴代国都之図

 下の図を見ていただきたい。これは混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)といい、世界最古の世界地図である。この地図は、明の建文4(1402)年、李氏朝鮮で作成されたものである。地図の下段に記される由来によると、朝鮮使として明に派遣された金士衡という官僚が、1399年に2種類の地図を国へ持ち帰った。それは李沢民の『声教広被図』と、仏僧である清濬の『混一疆理図』で、それらを合わせ、さらに朝鮮と日本を描き加えたものである。

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混一疆理歴代国都之図

現存するものはわずか2つであり、いずれも日本にある。
現在龍谷大学が所有するもの(同大学大宮図書館所蔵。以後「龍谷大学図」と表記)は、20世紀初頭から近代的学問の手法での研究対象になっている。大きさは163cm×158cmで、絹布の上に描かれている。龍谷大学本は朝鮮半島で作られた写本と見られるが、いつごろ日本にもたらされたかは分かっていない。大谷光瑞が買い求めたという説と、16世紀末の文禄・慶長の役の際に獲得したものを豊臣秀吉が西本願寺に与えたという説がある。

 もう一つは1988年に長崎県島原市の本光寺で発見されたもの(以後「本光寺図」)である。これは龍谷大学図よりもかなり大きい280cm×220cmである。本光寺図は江戸時代の日本で複写されたものと見られる。

 龍谷大学図と本光寺図には、地図の下段に権近による奥付がある。『陽村先生文集』(陽村は権近の別名)にも同様の記録がある。権近によると、疆理図作成の際に4つの地図を参考にしている。

○李沢民による声教広被図(世界地図)
○清浚による混一疆理図
○無名の朝鮮半島地図
○無名の日本地図。行基図と考えられている。

建文4年(1402年)、韓国政府の金士衡、李茂、李薈は上2種の中国地図を組み合わせて新しい地図を作った。李沢民の地図は満洲南部に流れる遼河の少し先までしか描かれていなかったので、朝鮮半島全部と日本も加えた地図にした。これが疆理図である。以下、その成立の過程を解説する。

(モンゴルでの地図製作)
 疆理図の成立はモンゴル帝国の歴史と深い関わりがある。モンゴル帝国は、西のイスラム世界と中国世界を繋いだ。モンゴル帝国は世界の地理と記録文化を統一することで、世界征服の事実を知らしめた。これにより、イスラムの先進科学と中国の伝統文化が融合することになった。ただし、モンゴル帝国が中国に流通させたのは流通版地図であくまで「民間用」であった。モンゴル帝国はこの地図に描かれているよりもずっと詳細な情報を集めていたものと思われる。
 モンゴル帝国では中国及び朝鮮半島に地図が流通する以前に以下のような原地図が存在したが、いずれも現存しない。
(1)1285年、モンゴル帝国は大元大一統志(zh)という地理解説書を作成した。ただし地図部分は失われている。
(2)1286年、ペルシア人の天文学者ジャマールッディーン(札馬剌丁)はモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)クビライに対して、帝国領土の地図を集めて世界地図を作ることを提案し、天下地理総図を完成した。この図も、現代には伝わっていない。
(3)1297年、道教の道士朱思本は九域志と呼ばれる地理解説書を完成した。彼はこの仕事を継続し、1320年に興地図と呼ばれる地図を作成した。この地図も、現存していない。
(4)経世大典(1329-1333)に収められたイスラムの船乗りから『Rāh-nāmah』(道路図)を入手した地図は、モンゴル人がイスラム教徒から正確なアジア内部の地理情報を得ていたことを証明している。

(声教広被図)
 声教広被図は世界地図である。中国だけでなく、アフリカやヨーロッパも含まれていた。羅洪先の地図や大明混一図の内容から、声教広被図の方が後に李氏朝鮮で作られた疆理図よりも17世紀インドの地理を正確に表現していたものと考えられている。作者李沢民についてはほとんど何も伝わっていない。地図上の地名からの類推で、声教広被図は1319年ごろに作られたものであり、1329〜1338年頃に修正が加えられたものと思われる。

(『混一疆理図』)
 道士の清浚(1328 - 1392)が作った『混一疆理図』もまた失われている。だが、明代の書籍収集家葉盛(1420 - 1474)の撰である水東日記に収められている『広輪疆理図』が混一疆理図の修正版と見られている。葉盛は厳節の奥付がなされた地図(1452)の記録も残している。厳節によると、広輪疆理図は1360年に作られたとのことである。もっとも、現存しているものには厳節によるものと思われる改変が加えられており、明代の地名が散見される。オリジナルであれば、元代の地名が記されているはずである。

(朝鮮半島の地理)
権近は、朝鮮半島の地理に関しては、李沢民の地図が不正確であると考えた。彼が手に入れた李沢民の地図の南半分には詳しい記述がなかったのである。清浚の地図は高麗の記述に関しては李沢民の地図よりいくらかましであった。
それでも権近はこれを正しい朝鮮半島の姿とは考えず、詳しいことは明らかでないが、李薈による八道図を多分に参考にしたものと考えられている。ただし、現存する最も古い高麗地図は1470年代のものであり、参考にした情報がどのようなものであったのかは不明確である。
なお、権近の注釈によれば、朝鮮半島が大きく描かれているのは、見やすくするためにわざとしたことであるとのことである。

(日本地図)
中国の2つの地図には、日本は東西に亘る3つの島として描かれている。これは、徐福の伝説に基づくところが大きいためと思われる。前漢時代に編纂された史記によると、徐福は海中に三つの山でできた島があるとの話を残しており、中国人は長い間それが日本の事だと信じていた。龍谷大学図に描かれている日本は、これまでの中国の地図のものより正確な形をしているが、向きが90度回転している。この事実は学者達の興味を引き、邪馬台国の位置を巡る論争の根拠にもなった。

(内容)
 さて内容をみてみよう。以下の点が注目される。
(1)地中海が内海となっている。
(2)アフリカが描かれている。喜望峰は1488年 - ポルトガル人バルトロメウ・ディアスが到達し、「嵐の岬」(Cabo Tormentoso)と命名したが、後にポルトガル王ジョアン2世が「希望の岬」(Cabo da Boa Esperança)と名付けたものであるが、この地図には既にアフリカが海に囲まれた形として表現されている。これは、イスラム人はそれ以前に喜望峰が存在することを既に知っていたことを示している。
(3)朝鮮半島が必要以上に大きく表現されている。これは(朝鮮半島の地理)で説明したとおりである。

行基図80062.jpg

行基図(『拾芥抄』写本。明暦2年(1656年)村上勘兵衛刊行。2枚の画像を合成)
左上に「大日本国図は行基菩薩の図する所也」より始まる説明が記されている

(4)日本については多少説明を要する。図でみるようにこの地図は文字の形から実際の南を西向きに表現している。東を南に表現している。それをそのままこの地図に表現したと思われる。当時の韓国人が方向を90°勘違いしていたかどうかは定かでないが、室町時代以後に行基図が朝鮮半島や中国、遠くヨーロッパまでも伝わって、日本地図を描く時の材料にされたといわれている(『海東諸国記』・『日本一鑑』など)。行基図は実際に行基が作ったかどうかは定かではない。しかし、東大寺の建設以前に全国を行脚し、橋や溜池など公共事業の先駆をなした事業に地図らしきものを必要としたことは納得できる。しかし最も古い行基図は延暦24年作成と伝えられているものであるが、原図は既に亡く、現在伝わるものは江戸時代の有職故実研究家、藤貞幹(1732年−1797年)の写しのものであり、かつ延暦24年の実情と不一致の加筆が見られる(これが藤貞幹によるものか、それ以前からのものなのかは不詳)。図の行基図は『拾芥抄』写本で明暦2年(1656年)村上勘兵衛刊行で2枚の画像を合成している。この原本は山城中心で、行基製作なら大和中心になるのが普通である。

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聖林寺の十一面観音

今年の冬のある日、かねてから一度見物したいと思っていた聖林寺の十一面観音をお参りした。聖林寺は桜井から談山神社に向かう山の中腹で、冬の寒い日であったが、天気がよくはるか北の方向に、美しい三輪山の山稜、それに箸墓など古代大和の古墳が散在する盆地の東半分が絵巻物のように展がる。京都に較べて奈良は観光客が少ないが、それでも南都明日香は更に少ない。まして談山神社の途中の聖林寺には観光シーズンでもそれほど多くはない。

 聖林寺前住職倉本弘玄師の説明により聖林寺の歴史をたどると、
 「享保のころ、秋篠寺から妙楽寺に入った談山の座主、大僧正・子暁は当時遍照院と呼ばれていたこの寺に空号になっていた聖林寺を当てたという。ところが、元の聖林寺については、その存在さえ何時まで遡るのか分かっていなかった。近年(昭和六十二年)元興寺文化財研究所の調査で山添村の寺院から鎌倉初頭(一二〇五年)の写経が見つかり、それによってこの寺が意外に古いことが確かめられた。奈良時代と言わずとも聖林寺は鎌倉の初めには存在していたのである。聖林寺の有り様を示す古い遺物や資料は残念ながら何一つ残っていない。山寺の多くがそうであるように、誰が何年に建立したということでなく、信仰の場としていつのまにか寺院の姿を整えて妙楽寺の支院になったのであろう。その間、幾度も火災に遭ったに違いない。そもそも多武峯の妙楽寺自体の歴史にも謎が多いが、その山内にありながら○○院という院号でなく寺号で呼ばれた昔のこの寺の有り様が気になるのである。」

 ついで三輪山大神神社と聖林寺とのつなだりについて、次のように述べている。
 「江戸の中頃、三輪の平等寺の長老玄心和尚が聖林寺に隠棲した。この頃から明治の神仏分離令によって神宮寺が滅びるまで、聖林寺と三輪の神宮寺の交流が繁く、天台寺院である妙楽寺の山内にありながら、聖林寺は真言宗の律院(戒律の厳しい寺)として特異な性格を帯びることになるのである。」

 (長老玄心和尚の平等寺は、三輪山大神神社の神宮寺の一つで平安の初め慶円上人によって創建され、中世から大御輪寺に代わって三輪明神の実権を握った)

聖林寺子安地蔵

本尊子安地蔵

 聖林寺の本尊である地蔵菩薩については次のように記している。
 「享保の頃、この寺の僧文春は女人泰産を願って一念発起、大石仏造像の願をかけて諸国行脚の旅に発つ。寺伝では、和尚自身の姉が幾度も出産で難儀をしたと伝えているが、江戸時代にはお産で苦しむ婦人がこの界隈にも多かったのであろう。現在の本尊、子安延命地蔵尊はこのようにして和尚の四年七ヶ月に及ぶ托鉢による浄財で造像された。造像にあたって地蔵菩薩が文春和尚の夢枕に立ち自ら仏師を指定したという。爾来、安産と子授けのお地蔵さまとして人々に親しまれてきた。聖林寺の子授けの祈祷は大要を真言密教の法則に拠っているが、又この寺独自のものがあり、霊験あらたかである。」


 聖林寺の十一面観音は数奇な運命をたどった。十一面観音はもともと大御輪寺の秘仏であった。そのために天平仏でありながらきよらかな姿を現在に伝えている。この十一面観音の後背が奈良国立博物館に展示されており、脇侍の地蔵菩薩は法隆寺に引き取られ国宝となっている。このいきさつを次のように述べている。

聖林寺11面観音

聖林寺十一面観音

「十一面観音は、よく知られているように、かつては三輪山・大御輪寺の本尊であった。大御輪寺は奈良時代の中頃、大神々社の最も古い神宮寺として設けられ、十一面観音はその本尊として祀られてきたという。明治になると神仏分離・廃仏毀釈の嵐が吹き荒れるが、既に幕末はその前触れがあったのであろう。十一面観音はじめの三体の仏像は慶応四年五月十六日、大八車で三輪からこの地に避難された。果たして、廃仏の波は三輪の神宮寺を呑んで、凡ての仏教関係の物は破壊し尽くされた。本尊の観音様がどのようにして、何のために祀られてきたか、今となっては知る由もない。観音さまに関した書類凡てが灰燼に帰したからである。当時聖林寺の住持は大心和尚であった。和尚は三輪流の十一面観音法(この観音さまの拝み方)の伝授を受けた唯一の人であり、観音さまは三輪流神道の正嫡が住む寺に移られたのである。」

 更にフェノロサによりその姿を開示した経緯をのべている。フェノロサは法隆寺の秘仏救世観音を開示したことでも有名である。

 「聖林寺に移った観音さまは明治二十年、アメリカの哲学者フェノロサによって秘仏の禁が解かれ、人々の前にその美しい姿を初めて現した。この時、フェノロサの驚き尋常でなく、門前から大和盆地を指して、この界隈にどれ程の素封家がいるか知らないが、この仏さま一体にとうてい及ぶものでないと述べたと伝えられている。今に残る本堂脇の厨子は、その際フェノロサらが寄進したものであり、文化財保護施設の魅とも言うべき工夫がなされている。
 明治三十年、旧国宝制度ができると共に国宝に指定された。さらに、昭和二十年六月、新国宝制度が発足すると第一回の国宝に選ばれた。この時指定された国宝仏はわずかに廿四を数えるに過ぎない。美術的な解説はいろんな書物に述べられているが、まことに、これ程美しく、その尊厳な姿に胸を打たれて、自然に手を合わせられる仏像は少ない。」

 かって和辻哲郎も奈良国立博物館に訪れ十一面観音に感動したいきさつを『古寺巡礼』に記している。古来多くの人々に多くの感動を与えた仏像であり国宝中の国宝である。

古美術界の泰斗丸尾彰三郎先生

   紫の三輪の山並み夕ざれて

    身まま欲りして この丘に立つ

 
郷土の哲学者・保田與重朗

   けふもまた かくて昔となりならむ

    わが山河よ しずみけるかも

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奈良豆比古神社の翁舞

 奈良坂(旧奈良街道)を北上すると奈良豆比古神社がある。この神社は志貴皇子がその息子春日王のために建立したのが始まりといわれている。志貴皇子は(志貴皇子の憂鬱)で紹介したように天智天皇の第七皇子であるが、世は天武天皇の時代になり、不遇をかこっていたが、称徳天皇で皇統が途絶え、実子白壁王が第49代光仁天皇となる。春日王は第二子となるが生まれつき病弱で、病気療養のために別荘をたてたのが始まりといわれている。春日大社との関係が深く、古くは奈良坂春日社と呼んでいたようで、石燈籠にも春日社と刻まれているものもあり境内の樹齢千三百年の樟の巨木は県の天然記念物に指定されてる。この神社は二十年毎に御造替が途切れることなく行われているという事で常に新しいお姿をあらわしている。本殿は一間社春日造が三殿相並んでいて、中央が産土の神・平城津彦神(奈良豆比古神)、右側に志貴皇子、左側に春日王(志貴皇子の第二皇子で矢田原太子と号し、土俗矢幡神という)。

奈良豆彦神社

 奈良豆比古神社本殿

 この奈良豆比古神社には芸能の神様でもある。春日王の子孫は春原氏を名乗る。毎年十月八日宵宮に行なわれる翁舞は県の無形文化財に指定され『歌舞音曲の神』として芸人達の崇敬を集めている様である。翁舞は歴史がふるく猿楽の源流とも言われている。

 南北朝時代には多くの猿楽の座(劇団)があり、中でも大和を本拠地とし、物まねや会話の面白さが持ち味で、鬼の演技を得意とする大和猿楽と、近江を本拠とし、優美な幽玄の芸風が売りの近江猿楽の二大勢力があった。とはいえ北条高時の田楽好きはとみに有名で、当初は歌舞や曲芸主体の田楽のほうがポピュラーであった。このような田楽全盛期に大和猿楽・結城座(結崎の面塚と観阿弥の能**参照)の太夫として座を統括していた観阿弥が現れ当時の「小歌がかり」の猿楽能の謡に、当時大流行していた「曲舞(くせまい)」のリズムを取り入れるという音曲革命を行なった。彼の作曲した「白鬚の曲舞」が大ヒットし、この頃から猿楽能は田楽と肩をならべるほどになった。醍醐寺での興行を機に、観阿弥は京都への進出を果たし京極の佐々木道誉や足利義満の側近海老名の南阿弥ら有力者に引き立てられ、文化人との交流を通じて、上流階級に好まれる作能を要求された。観阿弥は永和元年(1375)当時12歳の世阿弥を伴い京都今熊野で猿楽能を興行したが、これを見学した将軍足利義満は、以後、観世親子に絶大な支援を行なうようになる。世阿弥は30代後半には観世座の太夫を継ぎ、ますます将軍家に引き立てられた。
 この世阿弥に、なかなか子に恵まれず、弟四郎の子元重(音阿弥)を養子にしたが、その数年後元雅・元能と相次いで実子が誕生する。この頃から世阿弥は能を「次世代へ引継いでいかなければならないもの」と意識するようになり応永7年に第一次の完成をみた「風姿花伝」を皮切りに、実に21種類の伝書をのこしている。彼が書いた伝書は、役者としての実体験に裏打ちされた実践的かつ具体的な内容が多く、現代人が読んでも納得できる普遍性を持つ。
 脚本家としても卓越した才能を持っていた世阿弥は将軍義持とその周囲の人々のお眼鏡にかなう能を作るために、大和猿楽がお家芸としていた物まね中心の能から方向転換し、美しさ主体の歌舞能を志向するようになる。キーワードは「幽玄」で「平家物語」や「伊勢物語」など当時の知識人の馴染みの深い古典に題材を求め、旅人の夢の中に超現実的存在の主人公が現れて、過去を回想して舞をまったり、自身の最期の有様を再現して見せたりする「夢幻能」の形式を完成させた。
 世阿弥の息子元雅は、能に「心理ドラマ」とでもいうべき新境地を打ちたて、娘婿の金春禅竹は世阿弥の確立した夢幻能の世界をさらに深めてゆく一方、人間ドラマの中に歌舞能の世界を展開させる新風の作品を生み出した。

 この世阿弥の「風姿花伝」の中に猿楽の起源について言及している。それは風姿花伝第四 神儀の巻で
 嵜蹴據⊃逝紊了呂泙蠅箸い弔僉天照大神、天の岩戸に籠り給いし時、天下常闇になりしに、八百万の神達、天香具山に集り、大神の御心をとらんとて、神楽を奏し、細男(さいなう)を始め給ふ。中にも、天の鈿女(うずめ)の尊、進みいで給ひて、榊の枝に幣を付けて、声を上げ、火処焼き、踏み轟かし、神憑りすと、歌ひ舞ひ奏で給ふ。その御声ひそかに聞えければ、大神、岩戸を少し開き給ふ。国土また明白たり。神達の御面白かりけり。その時の御遊び、申楽の始めと、云々。くはしくは口伝にあるべし」と古事記おなじみの物語がでてくる。
△気蕕謀啓海任留邀擇了呂泙蠅半里靴董⊆甓爐祇園精舎を建てたときの祝いの席で宴席しているときに、邪魔するものがあり、舎利弗の知恵で六十六番の物まねをして追い払ういきさつを記している。
さらに日本の猿楽の起源として秦河勝と上宮太子の物語を記している。
な唇堕の猿楽の起源として村上天皇と秦氏安の項が記されている。「......その後、六十六番までは一日に勤めがたしとて、その中を選びて、稲経(いなつみ)の翁、代経(よなつみ)の翁、父の助(じょう)、これ三つを定む。今の世の式三番、これなり。すなはち、法・報・応の三身の如来をかたどり奉る所なり。式三番の口伝、別紙にあるべし。」
ヅ代の猿楽の起源として興福寺薪猿楽に言及している。

翁の舞

翁の舞い

翁面

 翁の面

 ここにいう式三番の猿楽の古式が奈良豆比古神社の翁舞である。世阿弥時代の能楽と違い、「翁舞」は確かに洗練されているとは言い難いものがあるが、古式に則り幽玄さを感じさせる。奈良豆比古神社は、延喜式神名帳にその名が見られる由緒ある古社である。毎年10月8日、町内の翁講・翁舞保存会の人々によりに「翁舞」が神社に奉納されるが、詞は口伝、舞や演じ方も直伝の形で伝承されている。この舞は、能の原型となった申楽(猿楽)にある式三番の形態を有していて、国の重要無形民俗文化財に指定されている貴重なものである。

観世左近の勤める「翁」は現在、もっとも一般的に上演される式三番は以下のような形態をとっている。

1.序段

 (1)座着き:笛の前奏によって役者が舞台に登場する。
 (2)総序の呪歌:一座の大夫が、式三番全体に対する祝言の呪歌を謡う。
2.翁の段
 (1)千歳之舞:翁の露払役として若者が舞う。
 (2).翁の呪歌:翁が祝言の呪歌を謡う。
 (3).翁之舞:翁が祝言の舞を舞う。
3.三番叟の段
 (1).揉之段:露払役の舞を三番叟自身が舞う。
 (2).三番叟の呪歌:三番叟が千歳との問答形式で祝言の呪歌を謡う。
 (3).鈴之舞:三番叟が祝言の舞を舞う。

また、奈良豆比古神社には古い能・狂言面が二十面ほど伝承されていて、それらの多くは室町時代製作とされているが、中でも、能面の「ベシミ」は室町初期の応永二十年(1413)の銘を持つ古面である。これらの面は、平素は奈良国立博物館に保管されているが、「翁舞」の日に限り、神社境内にある資料館にて拝観することができることになっている。
 

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「井筒」ー世阿弥の「夢幻能」


 奈良県天理市櫟本(いちのもと)に在原神社がある。ここは在原業平の生誕地とされている。在原業平は容姿秀麗で女性遍歴も多彩であったと云われ、本人を主人公とした「伊勢物語」では、昔業平と契った井筒の女(実は、紀有常の娘)が現れて、業平との在りし日の交情を物語るのが第23段で

 筒井筒 井筒に掛けし 磨(まろ)が丈(たけ) 生(お)ひにけらしな 相見ざるまに

とあり、謡曲「井筒」でも詠われた「井筒」が「在原神社」の境内に残っている。井筒とは、井戸の地上部分を石や木などで囲った物のことで、本来は円筒形であるが方形のもある。世阿弥は能を完成させた達人であるが、伊勢物語や平家物語に題材を求め、秀作を多く世に送った。世阿弥の能は定型があり、これを十分理解しておく必要がある。

在原神社本殿

在原神社の本殿

井筒の井戸.

在原神社にある井筒の井戸

(1)ある土地を訪れた旅の僧(ワキ)に、見知らぬ者(前シテ)が言葉をかける。
(2)その者は、その地にまつわる昔物語を他人事のように語り始めるが、遠い昔の出来事をあたかも見てきたかのように詳しく語ることを不審に思った旅僧が尋ねると、自分こそ今語った物語の主人公誰それであることを名乗って姿を消す。
(3)腑に落ちない僧は、里人(アイ)からこの地についての物語を詳しく聞き、先ほど会った人物は間違いなく誰それの霊なので、弔らってやってはどうかと勧められる。
(4)僧が弔らいながら待っていると、先ほどの人物(後シテ)が在りし日の姿で再び現れ、昔語りをし、懐旧の舞を舞うなどしてみせた後、何処ともなく姿を消す。気がつけばすべて僧の夢の中の出来事であった。

登場人物は以下のとおり。
前シテ: 里の女(化身)
後シテ: 井筒の女(霊)
ワキ: 旅の僧
アイ: 里の男

 正面先に井筒の作リ物。薄(すすき)の穂が植えてある。

(1)の部分)
{名のり笛}とともに旅僧が登場する。
{ワキ} これは諸国一見の僧にて候。・・・・・・
{ワキ} さてはこの在原寺は、古、業平、紀有常の息女、夫婦住み給ひし石上(いそのかみ)なるべし。風吹けば沖つ白波竜田山と詠じけんもこの所にての事なるべし。
{ワキ} 昔語りの跡訪へば、その業平の友とせし、紀の有常の常なき世、妹背をかけて弔はん。妹背をかけて弔はん。(合掌)

(2)の部分)
後シテ、僧の祈りにつられ登場

{シテ} さなきだにもののさびしく秋の夜の、人目稀なる古寺の、庭の松風更け過ぎて、月もかたぶく軒端の草、忘れて過ぎし古を、忍ぶ顔にていつまでか、待つことなくてながらへん、げに何事も思い出の人には残る世の中かな。
{シテ} ただいつとなく一筋に、頼む仏の御手の糸、導き給え法の声
・・・・・・
{ワキ} われこの寺にやすらいし、心を澄まし折節、いとなまめける女性、庭の板井を掬びあげ花水とし、これなる塚に回向の気色見え給ふは、いかなる人とましますぞ
{シテ} これはこのあたりに住むものなり。この寺の本願在原の業平は、世に名をとめし人なり。さればその跡のしるしもこれなる塚の陰やらん、わらわもくはしくは知らず候らへども、花水を手向け御跡を弔ひ参らせ候。
{ワキ} げにげに業平の御事は、世に名をとめし人なり、さりながら、今ははるかに遠き世の昔語りの跡なるを、しかも女性の御身として、かやうに弔給う事、その在原の業平に、いかなる故ある御身やらん
・・・・・・と始まり、しだいに詳しく、昔語りを始まる。
{シテ} その頃は紀の有常が娘と契り、妹背の心浅からざりしに
{地謡}また河内の国高安の里に、知る人ありて二道に、忍びて通い給いしに、
{シテ} 風吹けば沖と白波竜田山
{地謡} 夜半には君が独り行くらむと、おぼつかなきの夜の道、行方を思う心遂げて、よその契り、はかれがれなり。
{シテ} げに情知るうたかたの
{地謡} あはれを述べし理なり
・・・・・・
(3)の部分)
「井筒の女」の姿は消え、櫟本(天理市の地)の者が現れる。男は事情があり在原寺に日参し今日が満願であるという。そして僧は{アイ}に話かける。不思議な女に会ったがどんな事情があったのかと。そして次のくだりを話す。
昔この地に在原業平がいた。子供のころから紀の有常の娘と幼馴染であったこと。井戸の周りに立ち寄り、井戸の中の影を互いにうつして眺めていたこと。ある日業平が歌を詠んでおくった。
 筒井筒 井筒に掛けし 磨(まろ)が丈(たけ) 生(お)ひにけらしな 相見ざるまに
娘の返歌は
 比べ来し 振分け髪も 肩過ぎぬ 君ならずして 誰か上ぐべき
そしてめでたく二人は結婚したこと。また、久しからずして業平は河内の高安にとある女と契りをむすばれて、時々高安通いをされていること。しかし娘は少しも妬むことをせず、いつもより機嫌よく見送っていた。業平は娘に疑いをかけ、ある日高安かよいのふりをして物陰にかくれ、娘のようすを覗っていた。娘は香をたき、花を供えて数珠を指先に繰りながら、縁先に出て、高安の方を見やって、歌を一首うたった。
 風吹けば 沖つ白波 竜田山 夜半には君が 独りゆくらむ
業平は娘が他の男には少しも関心がなく、ひたすら業平を思っていることに自分を恥じ、以降は高安通いを止めたという。
そして里の男は確かに紀の有常の娘であろうから、ねんごろに弔っていただきたいといって姿を消す。

井筒の井戸

井筒の井戸の前で舞う「シテ」

(4)の部分
{ワキ} 更けゆくや、在原寺の夜の月、在原寺の夜の月、昔を返す衣手に、夢待ち添えて仮枕、苔の筵に臥しにけり、苔の筵に臥しにけり。
  (その晩、僧が床につくと、夢の中に先の女が現れる。 夢の中で彼女は、夫・業平の形見の衣装を着ていた。当時は形見を身に着ける事で、その人と一体になれると信じられていたのだ。そして在りし日の業平をまねて静かに舞(序の舞)を舞う。)
{シテ} あだなりと名にこそ立てれ桜花、年に稀なる人を待ちけり。かように詠みしもわれなれば、人待つ女とも言われしなり。われ筒井筒の昔より、真弓槻弓年を経て、今は亡き世に業平の、形見の直衣身に触れて、恥ずかしや、昔男に移り舞、
{地謡} 雪を廻らす、花の舞
   和歌ヲ謡イ、舞ヲ舞う
{シテ} ココニ来て、昔ぞ返す在原の
{地謡} 寺井に澄める、月ぞさやけき、月ぞさやけき。
{シテ} 月やあらぬ、春や昔と詠めしも、いつの頃ぞや。
{地謡} 筒井筒、井筒にかけし
{シテ} まろが丈
{地謡} 生ひにけらしな
{シテ} 生ひにけるぞや
{地謡} さながら見みえし、昔男の、冠直衣は、女とも見えず、男なりけり、業平の面影
{シテ} 見ればなつかしや
{地謡} われながらなつかしや。亡婦魄霊の姿は、しぼめる花の、色なうて匂い、残りて在原の、寺の音もほのぼのと、明くれば古寺の松風や芭蕉葉の、夢も破れて覚めにけり。夢は破れ明けにけり。

( ・・・  「月は昔の月だろうか。春は昔の春だろうか…、そう詠んであなたを待ち続けたのはいつの事だったでしょうか…」彼女はそうつぶやく。

「筒井筒…」彼女は思い出の詩をくちずさむ。 「…井筒にかけしまろがたけ、生(お)いにけらしな…」そう詠んで彼女は、自分がいつの間にか老(お)いてしまった事に気づかされる。

彼女の足は、自然に思い出の井筒へと向かう。そして業平の直衣を身に着けたその姿で、子供の頃業平としたように、自分の姿を水面にうつす。そこに映るのは、女の姿とは思えない、男そのもの、業平の面影だった。

「なんて懐かしい…」そう呟いて、彼女は泣きくずれる。 そして萎む花が匂いだけを残すかのように彼女は消え、夜明けの鐘とともに僧は目覚めるのだった。 ・・・)

 世阿弥を師と仰いだ娘婿金春禅竹は自分の著書に「井筒」は世阿弥の最高傑作としている。

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その後の世阿弥

  観阿弥、世阿弥については(結崎の面塚と観阿弥の能)(奈良豆比古神社)(井筒)で紹介した。今回はその後の世阿弥について書く。観阿弥は、幼少の頃から世阿弥の才能を見出し、英才教育をほどこす。それは猿楽に限らず、連歌や蹴鞠など当時の貴族階級の遊戯を覚えこました。更に世阿弥は天性の美少年であり、三代将軍足利義満の側近二条良基に引き合わせ、良基は世阿弥に「藤若」の名を与えた。藤は藤原の一文字で大変な名誉であった。これが縁で1375年観阿弥が京都今熊野で催した猿楽(申楽)能に12歳の世阿弥が出演したとき、室町将軍足利義満の目にとまった。以後、義満は観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになり、義満在世の間はその絶頂期を迎えることになる。

 1384年観阿弥が52歳で死亡すると世阿弥が22歳で観世太夫の跡を継ぐ。そしてこれ以降、観世家は将軍家の相続争いに翻弄されていくことになる。1394年足利義満に次男義嗣が出生すると同時に長男義持に4代将軍を譲る。義嗣は、嫡男以外は出家させる慣例に従って梶井門跡に入室したが、義満は応永15年(1408年)に家の定めを破って義嗣を還俗させた。義嗣は義満に溺愛され、北山第に住むことになった。機をみて皇室より姫君を迎え、義嗣を天皇に、という野望をもっていたという。その為もあり、4代将軍となった義持は、なお健在な義満に実権を握られた傀儡であり、父子は険悪な間柄であった。しかし1408年義満は死んだ。自分を冷遇していた父への不満もあって、父の政策をことごとく否定して自分のカラーを強烈に打ち出してゆく。金閣寺を残して北山第をとりこわしたり、世阿弥も絶賛する田楽新座の増阿弥の芸を好み、増阿弥を贔屓した。義満時代同様、将軍家の御用役者の地位にあったとはいえ、世阿弥にとっては相当な脅威であり、時代の変化にいかに対応すべきかという大きな問題に直面することになる。当時の世阿弥の伝書には、義持の好んだ禅僧との交流を通じて身につけたとおぼしき語句が多様され、かねてからのテーマであった「幽玄」についての論も一層深まりを見せることになった。
 1420年成立の伝書「至花道」で世阿弥は書いている。「昔(義満の時代)は上流階級の人々はよい点だけを注目して褒めてくださって、欠点を指摘し批評することはなさらなかった。今は益々鑑賞眼が高くなられて、少しの欠点でも指摘されるので、花を摘んだような優雅な曲でなくては、貴人のお眼鏡にかなうことはない」と義持とその周辺の人々の批評眼の鋭さに言及している。彼らを満足させる作品を作ることが、世阿弥にとっての最大の課題であり、これに応えるべく生み出されたのが、「複式夢幻能」である。「井筒」がその典型例である。夢を媒体に過去と現在が交差し、重層的な物語世界が繰り広げられる。このようにして能は義持時代に洗練の度合いを高めていった。世阿弥と義持の共同作業の結果、現在の能の方向性が定まったといってもよい。

薪能

薪能

 応永35年(1428)に義持が没すると、義持の弟・青蓮院門跡義円が跡を継ぎ、6代将軍義教が誕生する。将軍になる前から世阿弥の甥恩阿弥を贔屓していた義教は、後小松院の御所で行なわれる予定だった世阿弥の演能を中止させたり、醍醐寺清滝宮の楽頭職(独占的な演能の権利保持者)を世阿弥から音阿弥に交替させたりと、かなり強引な世阿弥はずしを行なった。将軍の弾圧を受けた座の将来を悲観してか、次男の元雅は、永享二年(1430)、父世阿弥の芸談を「甲楽談義」にまとめて出家し、嫡男の元雅は永享四年、巡業先の伊勢の安濃の津で客死してしまう。元雅の追悼文「夢跡一紙」には、大切な後継者を失った老父世阿弥の悲しみが切々と綴られている。

 永享六年五月、義教の怒りに触れた世阿弥は七十を越えた老齢の身で佐渡に配流される。この原因はよくわからない。佐渡での世阿弥と京に残された妻寿椿(じゅちん)を経済的に援助したのは、世阿弥を師と仰ぐ娘婿の金春太夫氏信(禅竹)であった。佐渡から金春太夫に宛てた書状の中で、世阿弥はこまやかな娘婿の心使いに感謝の念を表している。その後の世阿弥の消息は不明であるが、佐渡で編まれた小謡曲舞集「金島書」(永享八年二月(1436)の奥書)が伝存したことを考えると、赦免されて帰洛した可能性がかなり高い。晩年の世阿弥には華やかなりし往時の面影はないが、能を高度な舞台芸術として確立させた彼の功績は、その後六百年以上の時を経てもなお、色あせることはない。

 「風姿花伝」は前にも説明したとうり長男元雅が観世太夫を継ぎ、能の心を受け継ぐことを期待して書いたものである。全七編より成り、最初の三つが応永7年(1400年)に、残りがその後20年くらいかけて執筆・改訂されたと考えられている。「幽玄」「物真似」「花」といった芸の神髄を語る表現はここにその典拠がある。しかし、この心は「花」である。観客に感動を与える力を「花」として表現している。しかし元雅に先立たれ「風姿花伝」はその主を失った。「秘すれば花」の言葉と共に長く存在を秘された。

風姿花伝

「風姿花伝」の冒頭部


 最期に世阿弥が元雅に書いた追悼文「夢跡一紙」を紹介する。

   根に帰り 古巣を急ぐ 花鳥の 同じ道にや 春もゆくらん

 思うにこの歌は花を愛で鳥を羨む風雅な心を詠んだものに見えるであろうが、自分の場合は親子の別れの情をどうすることもできないので、心のない花や鳥を羨み、その色や声に心を震わせるのだが、それも考えようでこの歌も風雅な歌と同じ心とも言えよう。 

 さて去る永亨四年八月一日(1432)嫡男善春(元雅)は伊勢の安濃津というところで客死してしまった。老少不定の習いで今さら驚くことではないのだが、あまりにも思いも掛けなかったことだけに老いの悲しみに身を細り、寂しい涙に袖も腐るかと思われるほどである。それにしても善春は自分の子ではあるが群を抜いた能の達人であってた。昔亡父観阿弥がこの道で家名を挙げて以来、わたしもすべての心を注いでその道を相続しもう七十才を越えようとしているが、善春は祖父の観阿弥をも超えるかと思せれるばかりの才能の持ち主と見えたのに、「秘伝は伝えるべき人に伝えなければその人は去ってしまい、伝えるべきでない人に伝えれば道は絶えてしまう」と「論語」の教えるとおり、能の秘伝・奥義のすべてを書き記して伝えたのに、今は唯一炊の夢となってしまい、持ち主がなく役に立たない、焼き捨てる他はないものになってしまった。今は残しておいても誰の役に立つと言うのだろうか。紀友則が「君ならて誰にか見せん梅の花」と詠んだ気持ちはこの上もなくよくわかるのである。

 しかしながらいよいよ能の正道の破滅の時が到来していると言うのに、残り甲斐のない老いた命ばかりが残って、このような情けない状況を目の前にしなければならないのは悲しみ耐えない。ああ悲しいかな。孔子は自分の子に死なれて悲しみの火を胸に焚き、白居易は子供先立たれて枕許に残った薬を見て嘆いたと言う。善春の幻が浮かび上がって、無常な親子の縁の別れの悲しみに、つまらない言葉を書き付けるのもまことに胸に溢れる思いのなせるわざであろう。

     思いきや 身は埋もれ木の 残る世に 盛りの花の 跡を見んとは

  永亨二々年九月日                  至翁書

          いくほどと 思わざりせば 老いの身の 涙の果てを いかで知らまし

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オオヤマト古墳群

図1.オオヤマト古墳群一覧

オオヤマト古墳一覧

図2.オオヤマト古墳群地図

オオヤマト古墳群

大和(やまと)について--ヤマトの範囲--


 大和と一言でいうが大和とはどの範囲をいうのか?この問題を考える。
 古代中国では、いはゆる日本人の住む地域を「倭」と称し、日本人を倭人と呼んだ。ごぞんじ、魏志倭人伝の一節である。この「倭」を日本ではヤマトと読んだ。たとえば倭建命(古事記)の倭である。日本では七世紀後半ころから、公式には「倭」を「日本」に改め、たとえば日本の歴史を書いた書物「日本書紀」といった。それなのに一方、「日本」をヤマトとも読んだ。「日本書紀」の神代巻第四段本文にみえる「大日本」の語の訓注に「日本、此を耶麻騰と云ふ」というので明らかである。日本にしても倭にしても、ヤマトという語は日本人の住む地域全体、つまり日本列島の大部分を意味する。
 しかし、日本国を構成する国々のなかに大和がある。今の奈良盆地を中心とするが、八世紀以降は吉野・熊野の山地をふくみ、ほぼ奈良県全域に相当する地域であるいうまでもない。「万葉集」巻一の舒明天皇の歌に
 「天皇、香具山の登りて国を望むの時、御製(つくりませ)る歌」 
     やまとには 群山(むらやま)あれど
     とりよろふ 天の香具山
     登り立ち 国見をすれば
     (下略)
とあるが冒頭の「やまとには」のやまとは奈良盆地を中心とする大和の意味である。
 この大和のなかに、さらに小さなヤマトと呼ぶ地域があったことを示す歌が「古事記」に見える。仁徳天皇の皇后磐之比売命の作とされるものであるが
     つぎねふや 山代川を
     宮のぼり わがのぼれば
     あおによし 那良を過ぎ
     をだて 大和をすぎ
     わが見がほし国は 葛城高宮
     吾家のあたり
とある。仁徳の宮のある難波から淀川をさかのぼり、今の木津のあたりで上陸し、那良山を越えて奈良を過ぎヤマトをすぎて行くと、私の見たい葛城高宮のわが家のあたりが見える、という意味であろう。奈良の南にヤマトと呼ぶ地域があったことがわかる。同じく「古事記」に倭建命の作とされる歌
     やまとは 国のまほろば
     たたなずく 青垣
     山ごもれる やまとしうるはし
 この歌にみえる「国」は日本全体を意味する国ではなく、大和一国あるいはその中心の奈良盆地一帯のことでヤマトはその中の最もよいところ(まほろば)であるというのだから、奈良盆地の一部である。

大和神社ちゃんちゃん祭

(ちゃんちゃん祭--お旅所中山古墳から大和神社に神輿が練り歩く)


 ではそのようなヤマトと呼ばれる地は奈良盆地のどこにあるのか、ということが問題となるが、和名抄を見ると、大和国城下郡に大和郷が存在する。城下郡はもと城上郡と一体となって磯城郡を構成し、大宝令成立のしばらくあとに磯城郡の山よりの部分を上郡、平地部を下郡として二群に分かれたと考えられる。大和郷は城下郡のうちで城上郡に近いところ、現在大和神社のある天理市新泉町付近と推定される。おそらくこのあたりを中心に、城上、城下、山部郡の一部及び十市郡の四郡にわたる地域が律令制の国郡成立以前のヤマトの地であろう。
 おそらく、もと奈良盆地の東南部にヤマトの地域があった。それが最も古いヤマトで、ひろがって奈良盆地東南部の大部分をヤマトと呼び、つぎに奈良盆地を中心とする地域がヤマトとよばれ、最期に古代国家の支配下の入った日本列島の大部分がヤマトと称されるようななったと思われる。大和魂、ヤマト心など日本全体のことである。

古いヤマトがこの地域であることを示す資料がほかにもある。その一つは倭国造の存在である。「日本書紀」神武の条に
  「珍彦を以って倭国造とし(中略)復た剣根という者を以って葛城国造と為す。」
とある。勿論この記事は事実ではないが、国造が存在した六〜七世紀のころ、奈良盆地には倭国造と葛城国造が同時に存在したことをしめしている。とすると葛城国造の領域の葛城は奈良盆地の西南部だから倭国造の領域であるヤマトは奈良盆地の東部にあることになる。東部でも北部は春日氏・和邇氏がいたし、奈良盆地南部中央部は曽我氏がいたことでもあり、倭国造は東南部ということになる。さらに、正倉院文書にもそれを証明する文書が残されている。
 次に「倭」が「大倭」にさらに「大和」と書かれるようになったいきさつを調べる。「古事記」、「日本書紀」を見ると、「古事記」が古い表記を「日本書紀」は新しい表記を用いている。例をあげると

    「古事記」「日本書紀」
三川 2 0 三川の字は古事記で2回 日本書紀で0回
参河 0 2   参河の字は古事記で0回 日本書紀で2回出現以下同じ
-----
淡海 6 1
近淡海 3 0
近江 0 52
-----
三野 4 0
美濃 1 19
-----
科野 5 1
信濃 0 9
-----
針間 7 0
播磨 0 20
-----
木 6 0
紀 2 3
紀伊 0 22
-----
粟 2 1
阿波 0 4
-----
倭    4 45
大倭 1 6

以上古い表記が「倭」であることがこれでも判る。藤原京出土木簡で国名表記に「倭」が使われた例として二例ある。
イ.倭国所布評 (所布はのちの添上・添下郡)702年大宝律令以前の木簡
ロ.倭国葛下郡 大宝律令以後の木簡
これより大宝律令発令以後もしばらく古事記的古い表記が使用されていたことが判る。この流れの中で倭国も大倭国に移行する。
 やがて和銅初年(708)前後国名を二字に改め、字画の多い字を使用するようになる。「続日本紀」の和銅六年に風土記撰集のことが見えるがその文中に「畿内七道の諸国郡郷の名は好字を著けよ」とある。この流れの中で倭国も「大倭国」となり759年あたりから「大和国」となったのである。

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大和(やまと)について--オオヤマト古墳群--

 筆者はよくこのヤマト地区に行く。日々生活の中でこの方面に行く機会が多いのである。例えば、名阪国道を天理東インターで降りて石上神宮を通り、天理大学親里ホッケー場の前から、国道169号線を南に下りてゆくのである。このあたりから左手、倭建命の「たたなずく青垣」の一帯である。普通このあたり気にしなければ青々とした山麓一帯に見えるが、注意してみれば、天理から桜井の手前までおよそ10KMほど古墳の宝庫なのである。この一帯をオオヤマト古墳群という。図1を見てみよう。北から40個の古墳が並んでいる。勿論これ以外に小古墳もあり、無数の群集墳もある。
この古墳群を大きく三区分にわけられる。北から大和古墳群、柳本古墳群、纒向古墳群である。この古墳群の詳細は図2に示す。
 平成15年県道天理環状線の建設工事に先立って、ヒエ塚古墳とノムギ古墳の発掘調査がおこなわれた。ヒエ塚古墳とノムギ古墳は図2の最北端でマカバ古墳をふくめて大和古墳群のうち萱生(かよう)支群に属する。
その結果以下の事実が判明した。調査資料から抜粋するが、調査後まもなくのこともあり確定的なことが言えず、わかりにくいのであるが、思い切って断定的に説明する。
(1)ノムギ古墳は前方後方墳であること。
(2)ノムギ古墳は幅10m程度の周濠が、ヒエ塚古墳は30mの周濠が存在したが二つの周濠の境界など不明である。
(3)ヒエ塚古墳の築造時期は円筒埴輪や鰭付円筒埴輪がまとまって出土したことや庄内土器から古墳時代前期後半である。すなはち200年前半である。
(4)ノムギ古墳の周濠は6世紀後半までに何度も改変された形跡がある。祭祀に伴うものかも知れない。

 大和古墳群の最大の古墳は西殿塚古墳である。この古墳は衾田陵(手白香皇女陵)で紹介した。この古墳群を大和古墳群と呼ぶのは、古墳群の西辺に大和神社が鎮座することによる。群中には、前方後円墳12基、前方後方墳5基、円墳7基の存在が知られている。これらの古墳は、丘陵上の一群を中山支群、扇状地上の一群を萱生(かよう)支群とに分けることができる。したがって「中山古墳群」「萱生古墳群」の呼称もしばしば用いられる。大和古墳群では古墳間の規模にあまり差がなく、主墳と陪墳という関係ではない。南にある柳本古墳群は主墳と陪墳の傾向が強く、纏向古墳群は主墳と陪墳の関係で構成されている。なお、陪墳といっても強制の殉死をするわけではない。

櫛山古墳2

櫛山古墳

櫛山古墳とその形状


柳本古墳群のうち巨大な二つの前方後円墳が山の辺の道の中でも圧巻の古墳群。全長242mと大型の崇神天皇陵(行燈山古墳)、約300mの景行天皇陵(渋谷向山古墳)を中心に、13基の前方後円墳と1基の双方中円墳からなっている。ことに巨大な二つの前方後円墳は山の辺の道の中でも圧巻である。いずれも堀をめぐらせており、崇神陵は高い土堤の上に並んだ松の木が水面に映って美しい。ここから遠望する大和三山のおもむきも独特のものがある。そして柳本古墳群を一躍有名にしたのが、98年初めに33枚も三角縁神獣鏡が出土した黒塚古墳である。被葬者が卑弥呼では、という話題でもちきりになった夢をかきたてる古墳群の一つといえる。

箸墓古墳

箸墓

  纒向古墳群は箸墓古墳を盟主とするが、箸墓古墳の近辺に纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳、纒向石塚古墳、東田大塚古墳がある。以前は箸墓古墳が最古の古墳と云われていたが、近年の研究により箸墓古墳に先立つ原初古墳であることがわかった。箸墓古墳をのぞく5基の前方後円形の墳墓は「纒向型前方後円墳」と呼ばれることがあり、帆立貝のような形状をもっており、以下のような共通の特徴を有している。
(1)後円部に比べ前方部が著しく小さく低平である。
(2)墳丘全長・後円部直径・前方部の長さの比は、正しく3:2:1を原則としている。
(3)後円部は、扁球・倒卵か不正円形で正円形でない。
(4)周濠を持つ古墳は、前方部が狭い。
いっぽう箸墓古墳は、後円部が5段築成によるものであり、前方部の前面幅は撥(ばち)状を呈し、規模も他の5基の約3倍に相当する278メートルであり、そこには隔絶性が明らかに存在し、しばしば「初期ヤマト王権最初の王墓」と評される。

 このほか地図からははみでるが桜井の東及び南に桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳があり、いずれも200Mを越える巨大古墳である。そしてこの全体をオオヤマト古墳群というのである。
 王墓と推定される巨大古墳は、古墳時代前期後半には奈良盆地の西北部へ移動している。佐紀盾列古墳群と呼ばれる古墳群がそれである。


  この古墳群が着目されるのは、以下のことがあるからである。
(1)大きな古墳が密集している。日本の大古墳100選のうち9個がこの中に含まれる。
  ―唾向山古墳(9位) 300M
  箸墓古墳(11位)  280M
  9堙山古墳(16位) 242m
  ぅ瓮好蟷蓋妬(18位) 230M
  ダ湘堕邑妬(19位) 220M
  桜井茶臼山古墳(31位)207M
  Ф山古墳(63位) 148M
  波多子塚古墳(76位) 144M
  東殿塚古墳(94位) 137M
(2)前期古墳でも更に原初古墳が多くふくまれている。古墳の原初からその成り立ちが研究できる。古墳は古来死人の埋葬儀式であるから、人類が発生して以来、いろんな埋葬方法がとられてきた。その中でも上記巨大古墳が示すように王権の発生過程をこの古墳に見ることができるのである。
(3)さらにそれに関連して、中国魏志倭人伝に記載された耶麻台国の卑弥呼の存在を思わせる箸墓が、考古学者に限らず一般人までが興味をそそいでいる。
(4)開発の足あとが聞こえる中、まだ原初の風景をそなえている。

 以上について順次説明をくわえたい。

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大和について--倭国大乱


 オオヤマト古墳の時代は日本における王権の確立時代である。そしてその物的証拠を埋蔵する、かけがえのない歴史遺産である。そのことについて述べたい。
 まず王権の定義を確認しておきたい。
「王の臣僚として結集した特権集団が、王への従属者群の支配を分掌し、王を頂点とした種族の序列的統合の中心であろうとする。その意思を祭祀・軍事・外交によって強行的に貫く。そのような権力の組織体、といえる。
弥生時代の後期後半、紀元後二世紀代ころには、倭人種類のなかに、いくつもの地域的な政治権力があったと思われる。ヤマト王権の時代にも地域政権が存続するが、中心化が推し進められることによって、地域政権は否定される方向に向かう。完全に否定されたのが五世紀末から六世紀始めである。いいかえれば、この時期に王権は完成し、同時に国家機構の初期的な建設が始まる。」(山尾幸久)
 すなわち、王権は最初から一つだったわけではない。農耕時代だった弥生時代に、ため池や水路や水田の開拓に少数の家族単位の人数では間に合わなくなり、自然発生的に小規模族長の固まりができ、その小規模族長単位が中規模族長単位に、そして大規模族長単位に収斂していく。その仮定で話し合いがあったり争いがあったりした。また、小規模族長単位の集落の田畑や、水利設備を防衛する必要も生じてきた。そのうちに大規模族長単位が確立するころ、それまで共同作業であった作業に分業が芽生えてきて、族長を中心に祭祀・軍事・外交等を専門に従事するために、属民に年貢を徴収するようになる。それが紀元前後の日本の状況であったろう。それ以降この固まりが当時の日本(倭)の中に、数個の単位にまで収斂してきた。それが九州王朝、出雲王朝、吉備王朝、大和王朝、尾張王朝などであった。

 そして中国の書に「倭国大乱」の時代を迎える。この倭国大乱を中国の歴史の中から理解する必要がある。
 後漢が滅びたのが、180年で以降400年中国は分裂の時代をむかえるが、有名な三国志の始まりが220年、この間40年が大変重要な時代となる。すなわち、倭は三国志の魏の支配下にはいるが、その40年間の間、燕という公孫氏の影響を受けることになる。公孫氏(こうそんし)とは、三国時代の中国において栄えた氏族で、2世紀後半、後漢の地方官だった公孫度が黄巾の乱の混乱に乗じて遼東地方に半独立政権を樹立した。民族・風習とも、まったくの漢民族であるが、その領土は朝鮮半島中西部の帯方郡を境に南は韓と接し、東北は高句麗、 西北は烏丸・鮮卑、西南は漢・魏の幽州と接するなど、異国・異民族との関わりが深かった。公孫氏の勢力圏である遼東以北の地はいわば中華圏の北端にあり、漢・魏など時の中華王朝からは絶域とみなされ、それが公孫氏の勢力圏を半独立的な地方政権としての地位を確立する上で大きな意味を持った。公孫康の時代以後、韓や倭は帯方郡に帰属したとされる。
公孫康の後継にはその弟である公孫恭が即位したが、228年に先代で兄の公孫康の子・公孫淵が謀叛し、叔父から位を奪いとった。 当時、時代は後漢が半ば崩壊し魏・呉・蜀の三国に分立し互いに覇を競っていたが、公孫淵は三国一強盛にして自領とも密接につながる魏に臣従を装いながら、一方では呉と同盟工作を行うなど密かに独立を謀っていた。 236年、魏の皇帝曹叡から上洛を求められた際、公孫淵はついに魏に反旗を翻して、燕王を称した。翌年には年号を紹漢と定め、本格的に支配体制を確立。近隣部族に玉璽を与えるなどして魏を刺激し、いよいよ争乱は決定的となった。
 ここで燕の中心地山東半島の渤海周辺は蜃気楼の名所で神仙思想の本場であった。「新撰姓氏録」には帰化人常世連(とこよのむらじ)は燕から来て「赤染」となるとしるしているが、この時代に倭に大きな影響を与えている。
すなわち鬼道と神仙思想を導入している。神仙思想とは
‖廠Δ悗虜得犬鮓任信じている宗教である。あの世とは不老不死のユートピアである。女性太陽神を王とする穏やかな暮らしが待っている。
◆崚靴凌澄廚公平に賞罰をくだす。
朱・剣・鏡を使う昇天儀礼で、魂は天に昇り永遠の仙人の世界に再生する。
このような神仙思想が影響し「鬼道」と呼ばれる祭神も祭主も神職もすべてが女性ばかりという信仰が成立する。
この延長線に240年頃初めて中国の皇帝から「倭国」の「倭王」とみとめられたのが邪馬台国であり、ここに偉大な王と認められ、死後、巨大な前方後方墳が建設された。以降基準化された。そのことは少し後にする。

 次に朝鮮半島を少し展望しておく。中国の動乱は朝鮮半島をも動乱に巻き込まれる。燕の勢力は北の高句麗を刺激し、大量の民族移動をもたらす。朝鮮半島の前身楽浪郡の成立 は前漢の武帝が前108年に朝鮮半島西部にあった衛氏朝鮮を滅ぼし、その地に楽浪郡を設置したのが始まりである。後漢末期の混乱期になると、遼東地方で台頭した公孫氏が楽浪郡にも勢力を伸ばし、支配下に収めた。3世紀初頭には郡南部の荒地を分離して再開発し、帯方郡を設置している。

古代朝鮮拡大

古代朝鮮

三国時代には魏が238年に楽浪・帯方郡を収復し、265年魏に代わった晋が引き続き支配したが、八王の乱以後は衰退の一途を辿り、313年には高句麗に滅ぼされ、後に高句麗は楽浪の地に遷都した。楽浪・帯方の土着漢人達は高句麗・百済の支配下に入り、これらの王国に中華文明を伝える役割を果たした。すなわちこの大動乱は民族の移動を余儀なくされ、大量の難民を発生させ、一部倭にも移住民が來倭した。なお、倭女王卑弥呼も帯方郡を通じて中国王朝と通交している。
以後三韓時代に入る。(馬韓、辰韓、弁韓である)
馬韓 - 西部に位置し、五十数カ国に分かれていた。言語は辰韓や弁韓とは異なっていた。のちの百済で現在の京畿道・忠清北道・忠清南道・全羅北道・全羅南道に相当する。
辰韓 - 馬韓の東方に位置し、12カ国に分かれていた。言語は馬韓と異なり、弁韓と類同していた。のちの新羅、現在の慶尚北道・慶尚南道のうち、ほぼ洛東江より東・北の地域である。
弁韓(弁辰) - 12カ国に分かれていた。言語は馬韓と異なり、辰韓と類同していた。のちの任那、現在の慶尚北道・慶尚南道のうち、ほぼ洛東江より西・南の地域である。ただし、全羅南道を含むとする説もある。

  これらの動乱は、倭国も影響をうけた。中国の史書「後漢書」の倭伝に、桓霊の間(147〜188)に倭国大乱があったと記されている。また「梁書」漢の霊帝の光和中(178〜183)に倭国大乱があったと記されている。これは卑弥呼直前の時代である。この倭国大乱の内容は実はあまり判っていない。王権をめぐる最終戦争であろうか。この時代高地性集落の最盛期である。

 明日香文化博物館の白石太一郎氏は次のような仮説を立てている。鉄をめぐる、権益争いである。当初鉄は伽耶で産し九州北部の伊都国や奴国が独占的に北九州に運搬していた。これに対しヤマト政権王国がこの利権に割り込んできたというのである。ヤマト政権の泣き所は関門海峡の通行権であり、従来から北九州に押さえられていたようである。ここにヤマト政権とナコク王権の最終戦争が起こる。そしてやがてヤマト政権の手におちる。この過程は必ずしもスムースに事がはこばなかったが最期卑弥呼の擁立により王権が確立する。しかし、狗奴国(オワリ政権)に攻め殺される。これが248年である。
 

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大和について----邪馬台国大和説


 前回は倭国大乱について記した。倭国大乱の結果最終的に王権が確立した。その物的証拠群がオオヤマト古墳群に見ることができる。その前にもう少し邪馬台国大和説についてのべたい。もともと倭人とは本拠を呉越方面の揚子江沿岸地方におく人々であった。彼らは水田稲作の本拠であった。その痕跡を「河姆渡(かぼと)遺跡」に見ることができる。彼らは稲作作業に船を使う。巧妙な操船技術を保有していたらしい。豊富な食料生産が出来る地方は近隣民族の侵略を受けやすい。紀元前500年頃、呉太伯(呉太伯伝説)を始祖とする呉は、天敵越との争乱に明け暮れ、彼ら呉、越の人民はいつ故郷を追われるかわからない運命にあった。彼らは常に、得意の操船技術でもって、いつでも海上に逃れることができた。そして海上にのがれた人々は東支那海を北上し、山東半島から朝鮮半島西南部地方、そして九州西岸に現れた。東支那海を中心として沿岸を交易する人々を本来倭人といわれた。勿論当時の安全確保のため、しばしば海賊行為もしたであろう。倭人はこの沿岸周辺に住みついていたのである。国境のないこの時代、国などというものはなく、自由に海上を往来し、住みやすいところに住んでいたのである。そして行く先々で水田稲作を開拓した。
 いつかこの人々のうち、中国皇帝に謁見する機会があったのであろう。倭人とは中国でも使用されていたのであろう。名前がないのは不都合だから倭人といい、倭人の住む地方を倭国といったのであろう。中国史書にも何回も倭人の記事がでてくる。間違いやすいのはこれらがすべて当時の日本を代表していたように思われやすいことである。やがて中国も訪問者が国を代表するものしか、受け入れないようになった。この最初の証拠が金印(漢倭那国王)の発見で北部九州の地方国家であった。そして魏志倭人伝にある卑弥呼の存在である。卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。正始8年(248年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。この邪馬台国が九州か大和かが大論争になる。

 卑弥呼はおそらく248年の前後に死んだ。「卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人」この大いにチョウは箸墓であろうか。

 考古学見地からこれを検証しよう。
出現期古墳の古い順にならべると
 箸墓古墳(260年、280M)
 西殿塚古墳(280年、220M)
 桜井茶臼山古墳(300年、207M)
 メスリ山古墳(310年、230M)
 行燈山古墳(320年、242m)
 渋谷向山古墳(330年、300M)
となる。従来箸墓はもう少し新しいとみられていたが、最近は260年頃とされている。そうすると記録にある248年頃の卑弥呼の死とすると、10年位製作時間を要すれば、ぴったり一致する。箸墓については、その近辺に石塚古墳、勝山古墳、ホケノ山古墳があり、箸墓より数年から数10年古く、まさに出現期古墳を形成している。埋葬者は卑弥呼の近親者であろうか。学者はこれらを古墳とは呼んでいないようである。さらに纒向遺跡がすぐ近くにあり、当時の宮廷跡を形成していた。
 次に鉄資源問題を考えよう。前回この問題を取り上げたが、北九州以外に水田稲作が進展してくると、水田作業に使用する農工具の原料の鉄が北九州に独占されているのが耐えられなくなる。当然武器使用も増えてくる。当時は鉄の塊を朝鮮半島にもとめていた。したがって、鉄の利権をめぐって、北九州と大和連合の紛争が行なわれたもようである。その結果大和連合が勝利したらしい。これは、従来中国鏡や鉄製品は圧倒的に北九州で発見されたのが、卑弥呼時代は画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡などの発掘は大和など近畿にうつり、鉄製品も近畿をはじめとする地方に移っている。これは王権が九州から本州方面に移ったことをしめしているのではないか。卑弥呼の時代にはこの勢力関係は完全に大和側に移っていたようである。
 さらに三角縁神獣鏡について述べよう。柳本古墳群の中に黒塚古墳がある。箸墓とほぼ同時代か多少新しい古墳であるが1997年三角縁神獣鏡33枚と画文帯神獣鏡1面が発掘された。現在黒塚展示場が作られ、発見時の状況を再現している。それまで三角縁神獣鏡は大和での発見は少なかったのが、邪馬台国大和説の弱点だった。しかし黒塚で大量に発見され、未発掘の他の古墳が大量にあることを考えるとまだいくつ発見されるか分からない。また三角縁神獣鏡は魏皇帝から譲り受けた「銅鏡100枚」に含まれているかということである。三角縁神獣鏡を真ん中から断面形状をしらべると内区が薄く外区が厚くなっているのであるが時代が進むごとに徐々に外区がうすくなる。これによって五段階に時代区分できる。第一区分は中国鏡画文帯神獣鏡と同じ文様をしている。棺内には被葬者の頭のところに画文帯神獣鏡と両側に刀1・剣1をおき、棺外に東壁側15面、西壁側17面の三角縁神獣鏡を内側に向けて木棺と壁のわずかな間に立てられていた。

黒塚古墳近辺

崇神天皇陵と景行天皇陵の近くに黒塚古墳がある。

画文帯神獣鏡

画文帯神獣鏡

古墳墳墓.

黒塚古墳の埋葬施設

三角縁神獣鏡のレプリカ

32面の三角縁神獣鏡のレプリカ

 現在大量に発見され、しかも「銅鏡100枚」ははるかにオーバーした。黒塚古墳でもすべて棺外に置かれているところを見ると、それほど貴重な鏡ではなかったようである。しかしこの一部に三角縁神獣鏡の銘文中に紀年が記された四面の鏡がある。島根県雲南市神原神社古墳出土の「景初三年」鏡、群馬県高崎市蟹沢古墳、兵庫県豊岡市森尾古墳、山口県周南市竹島御家老屋敷古墳の三古墳から出土した同型の「正始元年」鏡三面である。これらの鏡四面は、すべて文様の神像と獣形像が同じ方向に並ぶ同向式である。この年代はまさに卑弥呼の時代に一致する。
 もっとも、三角縁神獣鏡については、専門家の意見が一致しない。邪馬台国九州説、大和説に各々都合のよい意見やああいえばこう言う的な意見が多く、素人には少し複雑すぎる。よってこの問題にはふれない。
 最期にオオヤマト古墳群の分布について言及しよう。桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳は他の古墳群とは、すこし独立しており除外する。
  大和古墳群(萱生期墳群 ●西殿塚、東殿塚、中山大塚、下池山)
  柳本古墳群(●行燈山、●渋谷向山、黒塚、天神山、櫛山)
  箸中(纒向)古墳群(●箸墓、石塚、勝山、ホケノ山)
この各々に盟主古墳があり●であらわす。これは盟主が各々異なっていたと思われる。一つの大和王権の盟主が時代ごとに変わっていったことをあらわしている。これは王権の争奪があったのか、禅定であったのか分からない。

  

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大和について--開発と保存」

奈良県天理市から桜井市にかけての南北4km・東西1.5kmの範囲の地域には数多くの古墳(約50基)が南北に分布しており、当該地域の古代史の解明のみならず、日本列島における古代国家の形成過程を研究する上できわめて重要な古墳群として、オオヤマト古墳群と総称されています。ところが現在、奈良県によって古墳群の一部を貫くバイパス道路(県道天理環状線)の建設計画が進められており、ノムギ古墳・ヒエ塚古墳・マバカ古墳(いずれも天理市)が破壊の危機に直面しています。

 道路計画は、ヒエ塚古墳とノムギ古墳の間を南北に貫き、マバカ古墳の前方部西をかすめるもので、墳丘そのものを破壊するものではないとされていますが、これには古墳についての認識上の重大な誤りがあるといわざるをえません。古墳とは、墳丘のみならず、周溝、周堤、土橋、葺石、墳丘内外に置かれた埴輪・供献土器等の遺構・遺物が一体となって墓域を構成していたものです。地表で観察される現状の墳丘はその一部にすぎず、墳丘裾や周溝等が埋没していることが少なくありません。実際、奈良県が昨年(2002年)県道予定地内で行った発掘調査では、マバカ古墳で周溝状の遺構が検出され、出土土器の年代から同古墳が全国最古級の前方後円墳である可能性が判明しました。またノムギ古墳は、以前は前方後円墳とされていましたが、近年の調査で、前方後方墳であることが判明しています。この他の事例も含めて道路建設予定地内やその周辺では、古墳の墳形や年代観、古墳群の構成などの基本的理解に見直しを迫る重要な発見が相次いでおり、周辺地域を含めた総合的な学術調査と保存のための施策が必要と考えます。道路建設による「記録保存」という名の破壊、周辺環境や景観の破壊は避けるべきです。現行の道路計画案は古墳群に対する破壊行為といわざるをえません。

 そもそも、ノムギ古墳・ヒエ塚古墳・マバカ古墳がいかなる史跡指定も受けていないという事実に私たちは重大な疑問を感じます。オオヤマト古墳群の中で国の史跡に指定されているのは櫛山古墳・黒塚古墳などごく一部です。柳本行灯山古墳(宮内庁は崇神天皇陵に比定)、有名な箸墓古墳など4基の巨大前方後円墳は「陵墓」に指定されていますが、国や地方自治体の史跡に指定されているわけではありません。現状の保存措置は、一部の古墳を史跡指定するのみで、古墳群全体の面的な保存、周囲の歴史的環境(いわゆる「山辺の道」)と一体となった歴史的景観の保存といった観点からは不十分といわざるをえません。

 私たち歴史学研究会は、「陵墓」問題(宮内庁によって「陵墓」・「陵墓参考地」に指定されている古墳や遺跡の保存・公開要求運動)に関わってきた歴史学や考古学の学会、奈良県内外で文化財保存に取り組んでいる団体などと共に「オオヤマト古墳群シンポジウム実行委員会」に参加し、シンポジウム「オオヤマトの古墳群と地域を考える」(2002年5月18日)の開催などに協力してきました。オオヤマト古墳群に古墳時代前期の前方後円墳が多数含まれること、倭王権すなわち古代日本の国家形成過程の解明に欠かせないものであることは学界共通の理解です。考古学的な年代観、被葬者・造営主体の文献資料との対応関係等の研究を深める上でも、古墳群全体を一体のものとして保存するための施策が必要であると考えます。古墳群地域の世界遺産登録をめざすべきだとする地元の市民・研究者の声にも耳を傾けるべきだと考えます。

 私たちは、来年度にも予定されている道路の着工に反対し、計画の撤回とオオヤマト古墳群全体の一体的な保存を強く求めます。

2003年5月16日

歴史学研究会委員会

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 以上は歴史学研究会委員会の2003年5月16日でのオオヤマト古墳群の保存に関し、当時計画されていた天理環状バイパスへの反対抗議運動のメッセイジである。計画及び趣旨は文章に書き尽くされているので、繰り返さない。2010年現在でどのようになったかを報告したい。現在の写真を見ていただきたい。

ノムギ古墳

現在のノムギ古墳

マカバ古墳

現在のヒエツカ古墳

開発状況

工事中の天理環状バイパス道路

 この抗議活動で何か変わったのか、見ただけではわからない。しかし、殆ど計画通り実施されたようである。道路をもう一度確認しておくと、天理東インターを下りて石上神社の前を通り天理本宮から来た道と交差し、南に下ると、親里ホッケー場の前を通る。ここから一直線に南に、オオヤマト古墳群の中に入り、ノムギ古墳・ヒエ塚古墳の間を通り、マバカ古墳の脇から169号線に合流する(別図参照)。現在完成し供用されており、便利になったのであるが、かけがえのない歴史遺産をひとつ失った感がいがめない。
歴史学研究会委員会は当計画が公表される1992年ころから、事あるたびに抗議をし、シンポジュウム等を通じて広く世論を喚起してきたようであるが、一度計画した公共事業はいかんとも変更がきかず道路の完成をみたのである。

 そもそもこの一帯は古代王権の発祥の地として大変貴重であることはいうまでもない。奈良県の遺跡の殆どは古墳時代から平安時代に移るまでの古代史は日本の古代史であるから、飛鳥、藤原、奈良の古京やこの時代を共にした数々の遺跡は他にまして重要である。特に書物のないこの時代を知る唯一の手がかりは、一級資料である、現物の調査研究しか手段がないのである。その意味で破壊された遺跡は二度と復元できない。失う損失に較べたら、地下に眠っていても存在し、後世もっと賢い世代に遺産を残すべきであろう。
 古墳に限って話をすれば、現在の天皇陵は江戸時代の終わりに治定された。陵墓参考地である。このおかげで、代表的な古墳の乱開発を防げた。ともすれば陵墓参考地を悪者にし、自由な研究を妨げているかのごとき、にせ歴史家の意見を聞くが、江戸期にいたる、武防備に放置され、乱盗掘を許したことはご承知のとおりである。心ある盗掘者が記録を残したものだけが、現在の学問となっている。開発と保存の問題はむずかしいが、人間がもう少し賢くならなければならないのであろう。

 それにしても箸墓だけでも賢い管理された調査研究を行なってほしいものである。

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葛城氏と巨大建物と渡来人


 歴史教室に橿原考古学研究所の千賀久先生をお迎えして講演をお願いした。題は葛城氏と渡来人であった。この講演に沿って記述する。

葛城古道2

葛城古道


 葛城古道の地図をみていただきたい。奈良盆地南西地方でここは葛城氏の奥津城で、南北に国道24号線、東西に国道309号線が走り、この交差点に室という地がある。この地に室宮山古墳がある。このあたりは古代から交通が発達しており、24号を南下し風の森峠を越え、五条から橋本、和歌山に通ずる幹道であり、さらに309号は東に吉野、西に行けば葛城山、金剛山の間の水越峠を越えて河内長野に通じる、古代からある、幹線であった。当然この地を押さえる豪族は必然的に強大な力を持つ。この室宮山古墳は、墳丘長238メートル、後円部径105メートル、高さ25メートル、前方部幅110メートル、高さ22メートルであり、墳丘は三段築成で周濠を巡らしている巨大古墳である。後円部頂上には二重の方形埴輪列があり、ここに楯、靭、草摺(くさずり)などの形象埴輪を外向きに並べ、その外側には倉庫や母屋などの家型埴輪四軒が一列に置かれている。今回の話はこの家型埴輪が主人公である。大正10年に国の史跡に指定されている。この副葬品・出土品は古くから橿原考古学研究所付属博物館に展示され、多くの見学者に公開していた。

大型建物

室宮山古墳で発見された大型建物の埴輪

大型建物模型

大型建物の模型図


 この室宮山古墳古くは武内宿禰の墓といわれていたが、最近では葛城襲津彦の墓で大体おさまっている。葛城襲津彦の父親が武内宿禰といはれているが武内宿禰は4代の天皇に仕え200歳とも300歳ともいわれた長寿の人物でおそらく、長く葛城氏が天皇に仕えたその代表として言い伝えられた人物とされ、実在性の薄い人物とされている。

それにくらべ、葛城襲津彦は日本書紀に記載されているだけではなく、朝鮮の史書「百済記」にもそれらしき人物が記載され、朝鮮で活躍したらしいのである。そして帰国時に渡来人を大勢連れてきて、桑原(くわはら)・佐糜(さび)・高宮(たかみや)・忍海(おしぬみ)の四つの邑に住まわせたとある。これらはいずれも地名が存在している。

 室宮山古墳を西の方向、水越峠の方面に辿ると、長柄に到る。ここに長柄神社があり古代の遺跡もある。長柄の地名は長江(ながえ)が長柄(ながえ)になり音読して「ながら」となった。長江は葛城山の長く且つゆるやかな尾根をいう。葛城襲津彦はこの長柄のあたりで住んでいたらしい。長柄は葛城古道の中心で24号と並行して山麓線が走り、この道にまとわりつくように、葛城古道が南北に通っている。

 平成17年2月26日、極楽寺ヒビキ遺跡と二光寺廃寺の現地説明会があった。当日は近鉄忍海駅からバスで長柄を通って山麓線を南下し、金剛山の中腹、極楽寺まで運んでくれた。忍海(おしうみ)は前掲の渡来人を住まわせた場所のひとつである。このあたり、南郷遺跡をはじめ葛城に因む遺跡の多いところである。極楽寺ヒビキ遺跡は発掘時完全に火災で焼け落ちていた。察するに「日本書紀」には当時の葛城の王者円大臣が眉輪王と共に雄略天皇により攻撃され焼き殺されたとある。この顛末は記述しない。しかしこの焼け跡は発掘結果つぎのことが公表された。

ヒビキ遺跡から室宮山古墳大

極楽寺ひびき古墳より葛城地方を望む、中央山裾が宮山古墳

建物1 濠に囲まれた区画内西側で検出した大型の四面庇(ひさし)付き掘立柱建物です。建物(身舎部分)が2間X2間(8.5mX8.0m)で四面に5間X5間(12.5mX13.5m)の庇がついている。さらに西と南の二面に6間分(14.5mX15.5m)の孫庇がつき縁を巡らせていたようである。平面形は正方形で、床面積は役225屐柱痕跡はすべてに焼土が混じることから、火災にあったと考えられる。

建物2 調査地の北東隅で検出した掘立柱建物で梁間2間(4.5m)、桁行は4間(7.0m)ある。この建物は塀の区画より外側に建てられている。
塀1、2 建物の西から南にL字に折れ曲がる塀である。
塀3、4 調査地の東端に検出した塀である。大型建物の正面に位置することから、目隠し的な塀と考えられる。
濠 建物や塀等が存在する範囲は濠で囲まれている。
渡り堤 濠で区画された内部に出入りするための陸橋状の遺構である。

そしてこう結論つけている。
 今回の調査では石葺きの護岸をもつ濠で囲まれた大型掘立柱建物などを検出した。出土土器に供膳具である高杯が多いことから、日常の生活の場とは考えられない。区画内の建物に建て替えがないことも、その性格を表している。濠内からの出土遺物が少なく日頃から清潔に保つよう維持管理されていたことが想定できる。これらのことから、この大型建物を含めた区画は祭儀や政務を行なった公的な性格を持った施設であると思われる。
 この大型建物を持つ区画の構造は単独で成り立つのではなく、区画外堤の西側高台にも関連施設が存在すると思われる。調査地北側の谷筋には水辺の祭祀を行なった南郷大東遺跡や大型掘立柱建物のある南郷安田遺跡などが確認されており、面的な広がりの中で理解する必要がある。濠に囲まれた区画が作られた時期は5世紀前半である。

大和盆地南部では最大の前方後円墳である室宮山古墳(墳長238m)が築造された時期に重なり、密接な関連があると思われる。葛城地域の有力豪族の姿が、より具体的に復元できるようになった。

 千賀久先生はここまで説明して、次のように結論した。「この大型建物の遺構をみて、かねて博物館に陳列している巨大建物埴輪が実はここに実際に建っていたことを直感しました。写真のとおり、ここ極楽寺ひびき遺跡から見た葛城地区は一望のもとです。おそらく、大王は死後の墳墓をこの地から見える室の地を指定したのにちがいありません。大王はこの建物から葛城地域を高見し政務をとったのです。大王は朝鮮から大勢の帰化人をつれてきました。そしてその帰化人は四つの邑だけでなく、このひびき地域にも住みました。そしてこの大型建物を毎日見ていたに違いないのです。彼ら帰化人は当時の近代技術を保有していました。古墳築造技術、冶金技術、馬具製造技術、そして埴輪製造技術等です。彼らの住居址はそれら製造の現場跡も発見されているのです。その大王は葛城襲津彦なのです。それは偉大な大王でした。大王の命令一下すべてが実行されました。その死後、大王の部下たちは遺言にしたがい、室宮山古墳をつくりました。そして大王が縁の建物を埴輪にして古墳の大王に添えたのです。」


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まほろば紀行100回を迎えて

 いよいろ念願のまほろば100回をむかえた。まほろば紀行を書き始めて1年10ヶ月ほど経つ。100回もつずくとは思っていなかった。今振り返って、過去の文章をみると、まほろばの名称をほぼ当初の思いどおり貫いている。奈良に住む者として奈良のよさ、奈良の美しさ、そして奈良の歴史を自分の知る限り、また知らぬことを調べて書きつずってきた。そして過去100回の記事をランキングしてみた。最初20回ほどは日付が不揃いなのは、題名が先にあって、あとから内容を追加したのであるが、以降は一作ずつ追加したものである。そのため13.巨勢路だけは記事が書けていない。いずれ現地を訪れてと思っているうちに時間がすぎた。巨勢氏は巨大氏族で史書にもよく出るのであるが、何故か主役を演じることが少なく、話題も乏しい。巨勢寺廃寺のあとだけがわびしい。    
 「巨勢山(こせやま)の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野を」
この万葉短歌だけが廃寺の隅に椿が咲いており、今でも妙に気になっているのである。

記事番号 まほろば記事頻度作成年月
76 アイヌと琉球民族の成り立ちについて2842010年5月
61 柿本人麻呂泣血哀慟歌(きゅうけつあいか)1882009年12月
86 縄文時代の食物事情1772010年6月
83 吉野懐古--後南朝哀史--1752010年5月
89 聖林寺の十一面観音1442010年6月
66 十津川村と新十津川村1322009年12月
77 古代言語から日本人のルーツを探る(前編)1162010年5月
43 蘇我氏の出自1072009年8月
60 天誅組の変1072009年12月
87 縄文クッキーと縄文ハンバーグ1052010年6月
74 かぐや姫伝説972010年1月
63 桓武天皇と怨霊902009年12月
20 五條市近内町の藤岡家住宅882009年11月
88 土偶は語る782010年7月
58 衾田陵(ふすまだりょう:手白香皇女陵墓)742009年12月
59  日本弥生の原景732009年11月
84 吉野懐古--芳野懐古に思う--722010年5月
24 大和三山の歌692009年3月
37 仏教伝来と豊浦寺672009年3月
68  日本人の来た道 -総括編-662010年1月

  ランキングを見ていただきたい。これは最近統計をとったのであるが、5月、6月、7月の三ヶ月統計である。過去の記事は大体忘れ去られ、最近の記事が多く見られる傾向になるものであるが、まほろば紀行の場合はそうはなっていない。古くからの作品が結構上位にランクされているのである。1位「76.アイヌと琉球民族の成り立ちについて」は日本民族は現日本人のほかにアイヌと琉球民族の三種類が存在することを、遺伝的に、考古学的に記述したものである。多くの関心があるようだ。2位「柿本人麻呂泣血哀慟歌(きゅうけつあいどうか)」はある本にヒントをえて、多数ある人麻呂万葉短歌、長歌のうち、山の辺の穴師での歌が多いのを着目して、始めの心浮き立つ歌から徐々に不安げな歌意に変わり、ついには衾路の死出の葬送へと変化してゆく、人麻呂の心の変化を推測したフィクションである。宮廷歌人の人麻呂は貴族、皇族など人に成り代わって歌を作るのが本職で、どれが自分の人生の心境か、どれが依頼者のある歌か判らないのであるが、人麻呂にもこのような人生があってしかるべきであろうと、かってに想像して作ったものである。自分にとっても忘れられない一文である。
四位「83.吉野懐古--後南朝哀史--」は一連の吉野シリーズである。奈良に住む者はなぜか吉野にあこがれる。吉野は昔から敗者の逃亡場所であった。日本人の敗者擁護の心理であろうか。壬申の乱の天武天皇、源平時代の源義経、南北朝の後醍醐天皇、幕末動乱の天誅組等等。しかも山岳宗教のメッカであり、桜の名所とくれば、いやが上にも興味の的になる。

 自分の特に思いいれのある作品は「人類と環境」のシリーズと「日本人の来た道」のシリーズである。前者はダイヤモンド作「銃・病原菌・鉄」の大作の要約版であるが、各種族による文明の格差は種族の優劣の差ではなく、単に種族が育った地球環境の差であると、一貫して主張する論法に感銘したものである。この理論は全く目新しく、今まで遭遇したことのない論法であった。さらに数百万年の歴史単位で世界的規模で扱っている。

後者は現在の日本人の成り立ちを体系たてて説明するもので、いろんな情報がつまっている。現在の考古学は単に遺跡を発掘することだけではない。考古学、遺伝子学、免疫学、人類学、神話学、言語学、動物学、農学、民俗学を総動員して必要なテーマごとにその専門性を発揮してもらわねばならない。
その様な多岐にわたる学問を酷使し日本人のルーツを探求した。縄文時代、弥生時代、古墳時代の人口変化をみると、縄文時代末期はまさに地球規模の寒冷化による人類絶滅まで人口減少した。さしもの三内丸山遺跡の消滅は象徴的である。縄文時代9割方人口の集中していた関東、東北地方は、人口が激減し、中部、近畿など比較的温暖な地方に移動するか、自然減少していった。弥生時代には水田稲作のおかげで、食料生産性が劇的に向上し、人口は約10倍に増加する。さらに古墳時代になると稲作に対し鉄器農具の導入により、さらに生産性を増し、更に10倍の増加をみる。これは南北アジアからの渡来人の來倭が大きく貢献したことを見てきた。
 すなわち、日本人は石器時代から延々と同じ民族ではなかった。縄文人は石器人を駆逐し、弥生人は縄文人を駆逐してきた。弥生前期の日本人は大量の渡来人の渡来を受けどんどん混血し、3代5代が経過すると自然と現地人に溶け込み、数十代経過して現在の人種が確立していった。この混血の過程でアイヌ人や西南諸島の人種が出来上がっているのである。

 日本人を考える場合、オセアニアや、中国、アメリカなどの大陸と較べて、大変な違いがある。それは日本人は大陸人などの人種のるつぼであることだ。吹き溜まりであることだ。それに較べて、上記大陸は人種の更地文化であり、混血の割合より、人類の総入れ替えであった。前住民の総抹殺の歴史である。大陸では侵略を受けたら他の地区に逃げることができた。日本は海に遮られ逃げることができない。このことが日本人の受容的な文化が出来上がったのであろう。
この日本人の特徴が、たとえば文化の面で常に受容し、日本化する努力をしたのである。例えば神道の世界に仏教を受容し、仏教も真言、浄土宗、真宗、禅、日蓮宗、はては、天理教から新興宗教まで、おまけにキリスト教まで共存し、仲良くしている。大方の世界の国々の宗教問題が常に社会不安を起こし、人種ごとに憎しみ会っている。中東、イラン、イラク、コソボ、はては中国などその例は枚挙をいとはない。日本は子供のときはお宮さんで七五三を祝い、結婚したら神前結婚をし、死んだら仏教で葬式をする。
それが何の違和感も持たないのである。漢字を受容し、都合の悪いところは、カナやひらがなを創造し、日本文化を作り上げた。これらはいずれも世界文化の中で稀有なことである。これらも「人類と環境」で理解した、自然環境のなす「わざ」であろう。

 まほろば紀行を書く動機は自分の病気の結果である。おかげで旅行も控え、家に閉じこもる生活になってしまった。そのため今まで多少興味をもっていた、歴史を少し掘り下げようと思った。そして何らかの成果物を頭の中に詰め込んでおくだけでなく、広く公開できるようにしたのがこのまほろば紀行である。自分に孫が5人いるが、自分たちの祖父が書いたものをおそらく何10年後かに目にするであろう。そのとき祖父の考えていたこと、興味をもっていたことに、何らかの共感を覚え、歴史の面白さ、歴史から学ぶことが少しでもあってほしいものである。

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木簡と万葉集

タイプ番号発見場所地区大きさ文面第二面
A前期難波宮跡大阪約二尺はるくさのはじめのとし 
A石神遺跡奈良約二尺なにはつのさくやこのはな 
A平城宮跡奈良約二尺ふいこ冊りいま役春ぶとさこやこのはなこやこのはなふよこ□りいまははるべと
A紫香楽宮跡滋賀約二尺なにはつに・・・くやこのは・・・ゆこもあさかや・・・るやま
A馬場南遺跡京都約二尺あきはぎのしたはもみち 
A平城宮跡奈良約二尺半目も見ずあるほれ木(?)が言を繁みかも宮の内離れなに
A西河原宮の内遺跡滋賀約二尺半なにはつにさ 
A辻井遺跡兵庫約二尺・・・はつにさくやこの・・・ふゆこもりい 
A東木津遺跡富山約二尺はるべとさくやこのは□ 
B観音寺遺跡徳島一尺〜一尺半なにはつにさくやこのはな 
B飛鳥池遺跡奈良不明とくとさだめてわらくおもへば
B藤原京跡奈良一尺強なにはつにさくやこのはなふよこもりいまははるべとさくや・・・はな 
B藤原京跡奈良一尺半たたなずく 
B平城宮跡奈良約一尺玉に有れば手にまきもちて 
B平城宮跡奈良約半尺強あまるともうをみかかた 
B秋田城跡秋田約一尺強春なればいまし・・・勤めよ妹はやく・・・とりあはし・・・

木簡から見えてきた「万葉集」

 万葉集を木簡の世界から見ると違った景色がみえてくる。次の二つの歌をまず紹介する。
   (A)安積山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに(巻16-3807)
   (B)難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
この二つの歌は紀貫之が「古今集仮名序」にて次ぎのように記している。

「難波津の歌は帝の御初めなり

  おほさざきの帝の 難波津にて皇子ときこえける時
  東宮をたがひに譲りて 位につきたまはで 三年になりにければ
  王仁といふ人のいぶかり思ひて よみてたてまつりける歌なり
  この花は梅の花を言ふなるべし

安積山の言葉は采女のたはぶれよりよみて

  葛城王を陸奥へつかはしたりけるに
  国の司 事おろそかなりとて まうけなどしたりけれど
  すさまじかりければ 采女なりける女の かはらけとりてよめるなり
  これにぞおほきみの心とけにける

この二歌は歌の父母のやうにてぞ手習ふ人のはじめにもしける。」

とある。すなはちこの二つの歌は歌の父母として昔から歌の手習いとして利用されたというのである。この意味は最近まで理解できなかった。それが2008年を期して突如明るみになったのである。

 2008年は木簡と万葉集を関連つける元年であった。この年3つの木簡が発見された。(1)5/22、図1のせ膵甞攀楡廚ら発見された木簡は(A)「あさかやまの歌」がかかれていた。この発見が万葉集の木簡の最初の発見であった。このことは関係者の興奮をまきおこした。(2)この興奮がしずまらぬ10/7、やはりのちに「万葉集」に収められることになる歌の一部分が刻まれている木簡が奈良の石神遺跡ですでに出土されていることがスクープされた。この木簡は図1の△撚燭茲蠅發海量擺覆蓮嵋葉集」の成立よりはるかに遡る7世紀後半の木簡であったことだ。そして(3)この直後10/22に京都木津川市の馬場南遺跡から木簡イ僚佚擇発表された。
 このようにこの年の三点の木簡は各々別個の場所から発見されたことから、木簡と「万葉集」が結びつく画期となる年となったのである。

タイプ番号発見場所地区大きさ文面第二面
A前期難波宮跡大阪約二尺はるくさのはじめのとし 
A(2)石神遺跡奈良約二尺なにはつのさくやこのはな 
A平城宮跡奈良約二尺ふいこ冊りいま役春ぶとさこやこのはなこやこのはなふよこ□りいまははるべと
A(1)紫香楽宮跡滋賀約二尺なにはつに・・・くやこのは・・・ゆこもあさかや・・・るやま
A(3)馬場南遺跡京都約二尺あきはぎのしたはもみち 
A平城宮跡奈良約二尺半目も見ずあるほれ木(?)が言を繁みかも宮の内離れなに
A西河原宮の内遺跡滋賀約二尺半なにはつにさ 
A辻井遺跡兵庫約二尺・・・はつにさくやこの・・・ふゆこもりい 
A東木津遺跡富山約二尺はるべとさくやこのは□ 
B観音寺遺跡徳島一尺〜一尺半なにはつにさくやこのはな 
B飛鳥池遺跡奈良不明とくとさだめてわらくおもへば
B藤原京跡奈良一尺強なにはつにさくやこのはなふよこもりいまははるべとさくや・・・はな 
B藤原京跡奈良一尺半たたなずく 
B平城宮跡奈良約一尺玉に有れば手にまきもちて 
B平城宮跡奈良約半尺強あまるともうをみかかた 
B秋田城跡秋田約一尺強春なればいまし・・・勤めよ妹はやく・・・とりあはし・・・

 まず歌木簡から説明しよう。歌木簡は長さ2尺以上(およそ60cm)の長大な材の片面に万葉仮名で一行で歌を書くタイプの典型的なもの(Aタイプ)と、これより短かったり、二行書きになっていたり、裏面に続いて書かれていたりなど、これに合わないもの(Bタイプ)がある。図でみるとタイプの欄にこれをあらわす。上の三つの木簡は完全な形状ではなかったが、(1)、(3)は共にAタイプの典型的な例であった。(2)は歌一首全体を書くつもりがないことがはっきりしている。
 現在十六点の木簡が全国で出土されている。この一覧が図1である。この歌木簡は何を意味しているのであろうか。おそらく儀式、歌宴などに歌木簡を持参し、そこで歌を詠み上げたのでなかろうか。その特大の大きさから、単なる練習やメモではなくフォーマルな度合いの高い場で使用されたのであろう。
 
 歌木簡16点のうち八点までが「なにはつの歌」を書いている(↓きЛ┃)。その出土地は↓きの政治的中心地にとどまらず、Ъ賀兵庫富山徳島など地方におよんでいる。また時期的にはの九世紀後半からの十世紀前半にまでおよんでいる。さらに八点のうち六点まで(↓きЛ┃)が典型的なAタイプの歌木簡で、二尺以上の材の片面に万葉仮名で一行に「なにはつの歌」を書く風習が、日本各地で長く続いたことは、もはや動かしがたい。公的な儀式の場で「なにはつの歌」を書いた歌木簡を持って朗詠したのであろう。

 つぎに、残りの八点について注目したい。イ亘葉集10-2205と同じ歌の一部である。は「たたなつく」と書きはじめている。万葉集には「たたなつく」で始まる歌はあるが同じものとは断言できない。は「玉に有れば手にまきもちて」と書き始めている木簡については、この語句をもつ歌は万葉集にはあるが、書き始めではないので同じ歌とはいえない。

 ´Ν阿肪輒椶靴茲Α2里琉貮瑤隼廚錣譴襪、これらはいずれも「万葉集」には見えない。つまり、これらの木簡は「万葉集」収録歌以外にも7〜8世紀にさまざまな歌が存在したことがわかる。「万葉集」にはトップクラスの歌を収めたとは限らないが、優秀な歌だったのであろう。木簡によって見えてきたことは「万葉集」だけが7〜8世紀の歌の世界の全てではないということである。

 最期に再びい了膵甞攀楡徃見の木簡にふれよう。この埋没時期は同じ他の木簡から744年(天平16年)末から745年始めということが判っている。この意味するところは重大である。
第一、「万葉集」15巻本は745年から数年の間に成立したとされている。この木簡はそれより先行するから「あさかやまの歌」は万葉集15巻本から書き写したものではない。万葉集成立以前に、こうした木簡に書かれるほど、この歌はすでに民間に流布していたことになる。ひるがえって15巻本の編集が、民間に流布している歌を取り入れたことを示している。「万葉集」の成立を考えうる始めての外的徴証である。
第二、「なにはつの歌」と「あさかやまの歌」がセットの関係にあることは、はるか後代の「古今和歌集」の「仮名序」に至って初めて見える。しかし、い量擺覆呂修離札奪抜愀犬「仮名序」に先立つ150年前にすでに存在していたことを、あますことなく実証した。

 地下に埋設された木簡は万葉集との関係がまさにその片鱗が見えてきたところである。今後多くの発見が期待される。その時さらに今まで知らなかった歌の世界が開かれてゆくであろう。

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先代旧事本紀にみる物部氏

 「先代旧事本紀」という書物が存在する。これは江戸時代以前までは「古事記」「日本書紀」よりも珍重された、古典である。序文に推古天皇の命により聖徳太子と蘇我馬子が編纂したものとある。しかし実際は9世紀にできたものらしく、江戸時代になると偽書というレッテルをはられてしまった。これは聖徳太子の編纂というのが明らかに嘘でそれだけで偽書になったわけであるが、江戸時代から明治時代には尊王精神が高揚され、この中にある、神武天皇以前に饒速日尊(にぎはやひのみこと)が存在し、皇位を禅譲したことが不敬であるとの理由が大きかったと思われる。しかも内容が「古事記」「日本書紀」「古語拾遺」からの抜書きが多く、内容に信頼性が乏しかったとの判断であった。しかしそれらにない独自の伝承や神名が見られ、また、物部氏の祖神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)に関する独自の記述が特に多く、現存しない現在存在しない物部文献からの引用ではないかと考える意見もある。編纂者の有力な候補として、国学者御巫清直(みかんなぎきよなお 1812-92)は明法博士の興原敏久(おきはらのみにく。元の名は物部興久)を挙げている。この人物は物部系の人物であり、彼の活躍の時期は『先代旧事本紀』の成立期と重なっている。編纂者については、興原敏久(物部敏久)の他に、石上神宮の神官説がある。いずれにしろ「古事記」「日本書紀」に記された物部氏の立場に不満を持ち、物部氏を擁護する意図があったものと思われる。
 内容は10巻からなり以下のとおりである。

第1巻「神代本紀」「神代系紀」「陰陽本紀」:天地開闢、イザナギ神話。
第2巻「神祇本紀」:ウケイ神話、スサノオ追放。
第3巻「天神本紀」:ニギハヤヒ神話、出雲の国譲り。
第4巻「地祇本紀(一云、地神本紀)」:出雲神話。
第5巻「天孫本紀(一云、皇孫本紀)」:物部氏、尾張氏の系譜。
第6巻「皇孫本紀(一云、天孫本紀)」:日向三代、神武東征。
第7巻「天皇本紀」:神武天皇から神功皇后まで。
第8巻「神皇本紀」:応神天皇から武烈天皇まで。
第9巻「帝皇本紀」:継体天皇から推古天皇まで。
第10巻「国造本紀」:国造家135氏の祖先伝承。

第3巻「天神本紀」は『先代旧事本紀』の中で、天孫本紀、国造本紀と並んで重要視されるのが、饒速日尊の降臨伝承を記す、天神本紀である。天照太神と高皇産霊尊の子孫である饒速日命に天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を授けた。そして天の磐船に乗り、河内国の川上の哮峰(いかるがのみね)に天降った。さらに、大倭(やまと)国の鳥見(とみ)の白庭山へ遷った、とある。いわゆる、天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られ、“虚空(そら)見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。

磐船神社ご神体

磐船神社のご神体(背後の巨大な岩)

イワクラ

ご神体の磐(天の磐船の舳先といわれている)


このとき三十二人の武将、五人の随行者、五集団の供、二十五の軍団、船長・梶取など六人の名前も見え、『日本書紀』神武即位前紀にある「むかし天神の子・饒速日命が天磐船に乗って天降った」という記述を具体的なものにしてる。
 この場所は現在大阪府枚方市から奈良県生駒市を結ぶ国道168号線に沿って天野川が流れ、その途中に磐船神社があり神社の周辺を巨岩が水流を遮るように、水しぶきをあげている。この岩場は昔から修験者の巣窟で、修験の場であった。近く生駒の北端に哮が峯も存在し奈良県にはいると生駒市白庭台という新興住宅地がある。これらはいずれも、饒速日命ゆかりの地名とされているが、異論もある。

 第5巻「天孫本紀」は饒速日尊が大和に移ってから、鳥見の豪族長髓彦の妹・御炊屋姫を妃として宇麻志麻治尊を誕生させる。さらに天道日女を妃にし、天香語山命が誕生したという。宇麻志麻治尊が物部の始祖となり、天香語山命は尾張氏の祖となった。このあたり日本書紀と同じ、神武天皇への禅譲の記事がある。特に尾張氏については情報が少なく、ここに記されている家計図は貴重である。尾張氏は継体天皇の即位の影の主役や壬申の乱の天武方の功績があるが詳しいことは判っていない。

 第10巻「国造本紀」も貴重である。神武天皇から元明天皇に至る各天皇ごとの設置国造の数と国造名を列記している。記紀には掲載されていない国造も多く、後世大いに参考にしている。
 国造とはヤマト王権の行政区分の一つである国の長と言う意味で、この国がしめす範囲は、律令国が整備される前の行政区分であるためはっきりと判明していない。 元来、その地域の豪族が支配していた領域がそのまま国として扱われていたと考えられている。また国造の定員も1人とは限らず、一つの国に複数の国造がいる場合もあったようである。ヤマト王権への忠誠度が高い県主とは違い、元々、国主(くにぬし)と言われていた有力な地方の豪族がヤマト王権に服したときに、そのまま国造に任命され、臣・連・君・公・直などの姓が贈られ、かなりの自主性の下にその地方の支配を任されていた。そのため軍事権、裁判権を持つなどその職権の範囲はかなり広かった。

神武 18 18 ** 国造数(新設)第3位
開化 1 19 **
崇神 12 31 *** 国造数増加第4位
景行 8 39 ****
成務 63 102 ********** ヤマトタケルによる急成長著しい・増加国造数第1位
仲哀 1 103 **********
神功 2 105 ***********
応神 20 125 ************* 国造増加数第2位
仁徳 6 131 *************
允恭 1 132 *************
反正 1 133 *************
雄略 3 136 **************
継体 1 137 ***************
? 3 140 *****************
孝徳 1 141 ******************
元明 3 144 *********************

国造分布


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木簡から「日本書紀」を読み直す

「日本書紀」天武六年(677)6月是月条に次のごとく見える。
東漢直(やまとのあやのあたい)等に詔(みことのり)して曰はく、「汝等が党族、本より七つの不可(あしきこと)を犯せり。是を以て小懇田(おはりた)の御世より、近江の朝に至るまでに、常に汝等を謀るを以って事とす。今朕が世に当たりて、汝等の不可(あ)しき状を将責(せ)めて、犯の隋(まま)に罰すべし。然れども頓(ひたぶ)るに漢直の氏を絶(たや)さまく欲せず。故、大きなる恩を降して原(ゆるし)したまふ。今より以後、若し犯す者有らば、必ず赦さざる例に入れむ」とのたまふ。

 天武天皇は東漢直らに勅して「お前ら一族はこれまで七つの悪事を犯してきた。そのため推古天皇のご時世から 、天智天皇のご時世にいたるまで、いつもお前らを操るのが例であった。今、朕の世にあって、お前らの悪事を 糾弾し、罪状によって処罰すべきである。されども、急いで漢直の氏を断絶したくない。そこで、大恩をもって 罪を赦すことにする。ただし、今後もし罪を犯す者があれば、決して赦免の例には入れない」と仰せられた。

 従来この詔は天武天皇が東漢直らに対して七つの悪事を糾弾したのち、最終的に赦免するとの勅である。その悪事とは592年、蘇我馬子の命をうけて東漢直駒が崇峻天皇を殺害した事件であったことは間違いない。また645年の乙巳の変で入鹿が暗殺された際、蘇我蝦夷の側にたって中大兄軍と一戦を交えんとしていることも指していると思われる。蘇我本宗家が滅んでから約30年経った677年、天武天皇即位のきっかけになった壬申の乱に東漢直が天武方について戦功をたてたことや、都を近江から飛鳥に戻すにあたって、飛鳥に本拠を持つ東漢直の協力が必要だったことが指摘されている。これらすべて納得出来ることとしていた。しかし、なぜ677年なのか。一つの背景として前年に「新城」建設計画とその断念が考えられる。「新城」とは具体的には藤原京をさす。飛鳥から藤原京への遷都を計画していたのであるが、結局断念した。それにともなって飛鳥の重要性がまし、土着の東漢氏の協力が不可欠になったのであろう。と考えられ大方の納得を得ていた。

発掘現場と飛鳥寺

飛鳥池遺跡の地図

 1997年飛鳥京はかねて飛鳥ミュージアム建設計画に先立ち事前調査として12000屬糧掘調査を行なった。そこには金、銀、銅、鉄、硝子、漆製品を製造したとされる工房が広がっていた。硝子や、銅などの炉跡は数百基を超え、大量に生産していたことがうかがえる。谷底はこれらの工房から捨てられた廃棄物層が厚さ1メートル以上も堆積していた。その中には、瑪瑙、琥珀、水晶、硝子、珊瑚、鼈甲、金、銀製品の完成品、失敗品、破片、原料などが大量に見つかった。
ガラス玉は、坩堝や鋳型から、当時の制作方法も解明した。鉛や石英を原料として、それを坩堝で溶かし、コバルトを混ぜると紺色に、鉄を入れると黄色に着色できる。小玉は、色ガラスを細かく砕き、たこやき器の様な鋳型で再び溶かし、表面張力の力を使って丸く仕上げている。坩堝や鋳型が大量に発見されたことから、工房では百万個単位で生産を行っていたと推測できる。

飛鳥池2


 この時同時に富本銭も発掘され、和同開珎を四半世紀先立つ、日本最古の通貨と認定され歴史教科書を書き替えたことも記憶に新しい。
 それと同時に飛鳥池工房跡遺跡からはなんと、約8000点もの木簡が出土した。この量は、過去20年間に藤原宮跡で発掘した総量とほぼ同じであり、1箇所からの出土としては、奈良市、長屋王木簡に次ぐ。そして、天武・持統朝の木簡がまとまって出土したのはこれが初めてだという。意味が通るものは、この約8000点のうち、約100点にすぎない。中には、「天皇」と書かれている木簡もあったという。漢字の読み方が書かれている8世紀初頭「字書木簡」も初めて見つかった。日本書紀には天武期に字書が作られた記事はないので、この木簡が最古と言える。また、出土木簡の中には薬草や、漢方薬の名が書かれた木簡も出土している。

 飛鳥池木簡の特徴は以下のとおりである。
(1)金属製品等の原料に関わる木簡が多い。
(2)金属製品の木製雛形に墨書したものが多い。これは製品の形状等仕様であろう。
(3)製品の供給先を記したらしい木簡が多数あった。
(4)工人に関する記載をもつ木簡が見られた。
木簡が工房と密接に関係することは一目瞭然である。これらを分析して次の諸点が判明した。
(A)この工房は大きく二期に分かれるが木簡は後期に属するものが多かった。その本格的な操業時期は678年頃から始まり694年の藤原遷都頃の終焉とみられる。
(B)廃棄された木簡は、生産に従事した各種工房で特に鉄工房が中心である。
(C)この工房は天皇、皇族、貴族、寺院などの需要に応えたものであった。また富本銭は国家的要請に応えたものであった。
(D)工房の工人達は6世紀後半〜7世紀前半頃、飛鳥寺が蘇我氏の氏寺的性格の強かった時代に、蘇我氏、東漢氏の支配下にあった工人の系譜を引いている。さらに古くを遡ると、5世紀後半ころ外交分野に活躍し、大王家の外戚として権力を誇った葛城氏の配下にあった渡来系工人へと至る。
 これらからこの工房は、天皇家直轄工房といえる。
 飛鳥京跡は
I期が飛鳥岡本宮(630〜636年)
II期が飛鳥板蓋宮(643〜645、655年)
III期が後飛鳥岡本宮(656〜660年)、飛鳥浄御原宮(672〜694年)
の跡であり、特に飛鳥浄御原宮は天武、持統天皇の宮廷跡である。

 さて、工人についての木簡で11人の工人の名前を記し、官太夫(各工房の責任者)に上申し指示をうけている木簡があった。内容は口述するので書いておらず不明であるが、その一人に「阿佐ツ麻人□留黒井」なる名が記されていた。これは「朝妻」の工人で大和国葛城地域の人である。
 それに関連して飛鳥寺の仏塔に刻まれた銘文が着目される。そこには、百済から渡来した鏤盤師(ろばんし)、瓦師など最新技術の提供を受け、山東漢大費直を総大将として、責任者「意奴弥首(おぬみのおびと、忍海)」、「阿佐都麻首(あさつまおびと、朝妻)」、「鞍部首(くらおびと)」、「山西首(かわちおびと)」の名がみえる。蘇我本宗家の色彩の強い飛鳥寺の建立に忍海、朝妻の名がでるのは、(葛城氏と大型建物と渡来人)で記した葛城氏の旧領で、雄略天皇に滅ぼされた葛城氏の技術集団が東漢氏に吸収され蘇我氏のもとにあったことをしめしている。
 これが乙巳の変を経て今、天武天皇の勅を受ける事態になった。頭書の勅はこれらの経過をとおして、飛鳥池工房の大整備が始まり、この工房の円滑な経営にどうしても蘇我氏の残した東漢氏の技術が必要不可欠であったことが推測できる。よって先の勅を出さざるを得なかったのである。それが677年まさに工房の稼動直前の時期であったのだ。

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木簡学会編「木簡から古代がみえる」
市大樹氏 木簡から「日本書紀」を読み直すの要約

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木簡は語る--荷札が語る古代の税制


 木簡の代表的な使用例として荷札としての使用がある。荷札はA地点からB地点に商品を運送するときに添付する送り状である。この荷札には通常荷物の中身、荷物の送り主の名、住所が書かれている。ただし、この時代の荷札は受取人は書かれていない。大体はじめから決まっていたものと思われる。荷札は全国各地から100キロ、500キロと旅をしてくるうえ、内容についても大小さまざまで荷物の特徴、荷物の大きさ、形状にあわせて、荷札の形状もまた工夫されている。逆に荷札の様子をみればその中身も見当がつく場合があるようである。
 古代に送られた商品は大抵は税の貢納として送受されたもので、この荷札を分析することは、古代の税制が明らかになることで、日本古代国家の本質にせまる、重要な事実を伝えてくれることである。ここで荷札をめぐって、二つの分析を紹介する。

 まず、文字に書かれた内容の分析から始める。

 はじめに書いたように、荷札には基本的には荷物の中身のほかに、荷物を送った送り主、---つまり税物の貢納者---の名前、住所が書きこまれている。だから主に奈良時代では住所として記載された地点からは、どのような品々を産出していたかが知ることができるはずであり、またどういう人物がいたのかも、知ることが出来るはずである。はずというのは、どういうことか。確かにワカメの名産地として贄(にえ、天皇用の高級食材)の荷札木簡に登場する地域は、たとえば徳島県の鳴門など、今に至るまで変わらぬワカメの名産地である。しかし、いつもそううまくゆかないのである。荷札にかかれた地名をたどると、とんでもない山奥になる場合がある。

(若狭国塩木簡)
        
遺跡名平城宮
発掘次数20所在地奈良県奈良市佐紀町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
地区名6AAOGH34遺構番号SK2101    
本文・□〔遠ヵ〕敷郡/丹生里人夫膳臣→/御調塩三斗‖・○九月十日
寸法(ミリ)(115),26,4型式番号19形状下欠(折れ)
樹種 木取り 内容分類荷札
出典平城宮2-1949(城2-4下(12))木簡番号1949
和暦9月10日西暦,9,10
国郡郷里若狭国遠敷郡丹生郷
人名膳臣→
        


 日本海に面する若狭地方(福井県西部)は、今日でも豊かな海の幸で知られる。奈良時代、若狭国はその豊かな海の幸を天皇に捧げる「御食国(みけつくに)」であった。高級食材の供給地であった。一方塩の生産も盛んであった。平城京で出土する塩の荷札で最も多いのは、若狭の塩荷札である。
 日本では、塩は海岸沿いで作られる。ところが、若狭国塩荷札に書かれている地名を地図で探すと、海岸から遠く離れた内陸部に行き着くことがある。つまり、塩荷札に書かれた土地は少しも塩の名産地ではないのである。そこで荷主である荷札の名前の持主は実際塩の生産者であるのか、はなはだあやしくなってくる。
 なぜこのようなことが起こるのか。中央政府は、たとえば若狭国にたいして、国としては塩の産地であるから国全体で塩何トンを納める様要求してくる。勿論塩をつくるのに海の水と海岸があればよいのではない。塩を作るための土器生産や薪の供給も必要である。作業者も必要である。すなわち、山地の人々は分業または物々交換により、最終的に塩の形となっていればよいわけであった。こうして荷札の名前は代表者の名前であった。このことは国や郡の役所が媒介していたのであるし、また重要な役割を果たしていたことがわかるのである。
 若狭国の塩荷札を分析すると、若狭の塩は「備蓄用」特別加工品であったことが分る。古代、塩は保存のきかない消失しやすいものとされていた。空気中の水分を吸収して自然に解けてしまう。そのため、長期保存用として特別加工しなければならない。若狭国は挙国体制で大型の土器を利用して大規模な備蓄用塩生産を行なっていた。塩の備蓄は米の備蓄と並び、富の備蓄の中核であり、若狭国は国家備蓄の一翼をになっていたのである。

 このような挙国体制は若狭国に限ったことではなかったようだ。房総半島南部の安房国ではやはり海産物の貢納国として知られている。奈良時代、ここの名産はアワビであった。安房国のアワビ荷札に見える地名を確認すると山間部になってしまう。山間部の人が海岸まで出かけてアワビをとったかもしれないが、国を挙げて分業や交換をしながらアワビを生産していたのであろう。

(カツオ木簡)

        
遺跡名平城宮
発掘次数32ホ所在地奈良県奈良市佐紀町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
地区名6AAICJ60遺構番号SD4100    
本文・伊豆国交易麁堅魚壱拾斤/太‖○盛十連四節・○神護景雲三年十月
寸法(ミリ)294,23,3型式番号11形状 
樹種木取り板目内容分類荷札
出典平城宮4-4661(城4-19下(396))木簡番号4661
和暦神護景雲3年10月西暦769,10,
国郡郷里伊豆国
人名 
        

カツオ木簡


 黒潮が寄せる伊豆国(伊豆半島及び東京都島嶼部)も同様であったようだ。伊豆国のカツオ荷札に書かれた地名を探すと、これも山間部になることが多い。伊豆国全体でカツオ貢納国とされ、国を挙げてカツオ生産に従事していたことが判る。
 全国すべての国々がこうした体制を敷いていたのかどうか、判らないが、数カ国の特例というわけではなかったようだ。古代国家は各地の名産品を、ただかき集めていたわけではない。地域ごとの特性を考慮しつつ、効率よく大量に貢納させるために、分業や交換を手配するなど、生産体制の整備に助力したことが想像できる。

次に木簡の使われ方についての分析である。

 律令国家である古代国家は納税とし「個別人身支配」という方式が使われていたようである。これば中央政府が国ごとに納入物と量を指示したようである。国は郷ごとに配分し郷は個人別に配分したようである。すなわち最終的に個人に割り付け、その台帳を管理していた。納税期には政府は国に、国は郡に指示をだし、納税物を所定の集荷場に集荷した。そこで納税物をチェックするため、あらかじめ商品、量、納税者を記入していた木簡を用意して、指示とうりの納入物があるか確認し、その荷札に必要あれば追記して荷札を括りつけた後梱包し、運送にかかったのである。

(米木簡)

遺跡名平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
発掘次数200所在地奈良県奈良市二条大路南一丁目
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
地区名6AFIUO43遺構番号SD5100    
本文・□□□〔山房解ヵ〕○□□□〔申返抄ヵ〕/米一斗八升‖〈〉・解○天平八年七月四日延福
寸法(ミリ)253,(15),4型式番号81形状 
樹種 木取り 内容分類文書
出典城31-11上(81)木簡番号0
和暦天平8年7月4日西暦736,7,4
国郡郷里(大和国添上郡)金鐘山房
人名延福
        


 当時の納税は殆どが米であったから、米にあわせたシステムを採用していたのであろうが、上に示した物品はどのようにしていたのであろうか。ここでカツオ木簡をとりあげてみよう。郡に割り当てられたカツオは個人別支配をするために、代表者を指名したようである。この代表者が木簡の氏名であった。代表者は漁民に捕獲量を割り当て、それを集荷したのち集荷場で、あらかじめ用意されていた木簡とつき合わされた。当初はカツオの重量が指示されているのであるが、集められたカツオは疋数で重量を合わさざるをえない。そこで疋数が追記されている。すなわち始めはカツオ何匹と指示できないから、重量指示をだし、集荷場で指示された重量にあわせて疋数に書き替えているのである。これが海岸とは程遠い納入者の理由である。
 このように、塩木簡、アワビ木簡、ワカメ木簡等々地方特産物は商品にあわせて、「個別人身支配」を守るため、いろいろ工夫をしたのであろう。この状況が個々の木簡に現れているのである。

 ここで木簡の重要な位置つけがわかる。中央政府が国に、国が郡に、郡が個人に指示を出す指示書こそ木簡だったのである。そして貢納物をとどこおりなく納税させるために、考えだされた当時の納税システムだったのである。

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木簡から古代がみえる
荷札が語る古代の税制 馬場基 から抜粋

参考にさせていただいた木簡及び木簡写真は奈良文化財研究所が発行する「木簡データベース」を参照させていただきました。

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木簡は語る--胡桃館木簡

  915年(延喜15年)、十和田火山は大噴火を起こした。このとき毛馬内火砕流が周囲20kmを焼払った。この噴火は過去2000年間、日本国内で起きた最大規模の噴火であったといわれる。この噴火の火山灰は東北地方一帯を広く覆い、甚大な被害をもたらしたと推定される。十和田火山の噴出物は通常偏西風に乗り十和田湖の東側に流れるが、この年の噴火では十和田湖の西側に流れている。これは夏のこの地方の気象現象であるやませが原因であると考えられている。東の三本木原は昔の十和田火山の噴出物でできているが、やませのため西に流れた噴出物は米代川流域を覆い尽くし、大災害をもたらした。この時の記録は現在残されていない。しかしそのことを人々はこの地方独特の三湖伝説として残したと考えられている。三湖伝説は説明しない。
 この米代川の中流域に鷹ノ巣があり、この洪水の際、ここの胡桃館建物が、洪水の底に沈んだ。41年11月には文部省文化財保護委員会が視察、42年7月(1967)から3年にわたって発掘調査が行われる。建物の上半分は洪水により吹き飛ばされているものの、下半分は建物が立ったまま土砂に埋没している状態で残されていた。昭和42〜44年の3か年にわたる発掘調査で、4棟の建物をはじめとする当時の建造物群が、現地表下3mほどに埋没した状態で発見された。昭和55年(1980)12月には、出土した338点の建築遺材及び26点の考古遺物が「胡桃館遺跡建築遺材及び出土遺物」として県有形文化財(考古資料)の指定を受けている。この時この遺跡から一枚の木簡を発見された。発見当時は内容がわからず、他の遺物と共に大切に保管された。

建物模型

胡桃館遺跡の模型

 1100年前の建物遺跡がなぜ今まで残ったのか。普通、建物の柱や板などの木材は地中に埋まっていると腐ってしまう。理由は十和田火山の噴火にある。鷹巣には火山灰はあまり降らなかったようだが、米代川を大量の土石流(シラス洪水)が流れ、流域の村々を飲み込んでしまった。火山灰を含んだ土に埋もれたことで腐らずに残ったようだ。そこは「蝦夷(えみし)」と呼ばれる、天皇の支配が及んでいない土地だった。そのような地域に、胡桃館のような高度な建築技術での建物がみつかったり、遺跡からは「寺」と読める文字を書いた土器や、お経を読んだという記録の落書きがみつかっている。ということは、この地域を治めるような蝦夷の人物が住んでいたのではないか。お寺であったのかも知れない。

 2004年胡桃館遺跡から出土した木筒について、37年ぶりに奈良文化財研究所があらためて調査した。当時にくらべて木簡の解読に用いる機器が進歩したことがある。墨は赤外線を吸収する性質をもつため、木簡の解読には、赤外線テレビカメラ装置や、赤外線デジタル撮影が有効なのだ。もう一つの、より根本的な理由は、比較検討するための類例が格段に増えたことである。木簡が出土した1960年代末の段階では、全国出土の古代木簡は、21000点余りで、胡桃館木簡のような特異な形状のものはほとんど知られていなかった。現在、全国出土木簡の総数は32万点以上、古代木簡だけでも23万点を超えている。出土数が増えるにつれ、文書や荷札に限られない、豊かな木簡利用の実態が明らかにされた。胡桃館遺跡から出土した木簡解読は、数十年に及ぶ調査研究の蓄積に支えられているのである。

胡桃館木簡表

胡桃館木簡(表)

胡桃館木簡(表)データベース

        
遺跡名胡桃館遺跡
発掘次数1所在地秋田県北秋田市鷹巣町(旧北秋田郡鷹巣町)綴子字胡桃館・坊沢字上野
調査主体秋田県教育委員会・鷹巣町教育委員会
地区名 遺構番号C建物    
本文・○□○□○出○□〔相ヵ〕○□〔給ヵ〕○出○物○名○帳\○◇○米一升\○◇○□ 玉作□□〔日ヵ〕米五升五合○玉作□〔麻ヵ〕主\○□\○□□□□米一升\○〈〉□ □□米一升五合和尓部永□米一升○□□□〔丈部今ヵ〕□\□〔米ヵ〕一升建部弘主米一升公□〔子ヵ〕□□米五合一〜升〜伴万呂米一升\○□□□〔得ヵ〕吉米一升土師□ 呂米一升○□〈〉\○〈〉米二升\○◇○〈〉○◇・【○◇○◇\○大□□□〔万大ヵ〕□□□□□□□\○□〔大ヵ〕○□○□□〔大ヵ〕□○□○□\□□□〔松五十ヵ〕○須□□○□○□□\○◇○◇】
寸法(ミリ)224,226,11型式番号65形状方板状の木札。四周削り。本文表面「玉作□〔麻ヵ〕主」の「□〔麻ヵ〕」は「鹿」などの可能性あり。「和尓部永□」の「□」は「集」の可能性あり。
樹種 木取り 内容分類*
出典木研28-199頁-1(1)木簡番号0
和暦 西暦 
国郡郷里 
人名玉作□(日)・玉作(麻)主・和尓部永□・(丈部今)□・建部弘主・公(子)□□・伴万呂・ □□(得)吉・土師□呂

 木簡の概要を見よう。一辺約22僂里曚楡喫形の板材で、四隅に孔がある。この孔は釘孔のようで、木簡が建物のどこかに打ちつけられていたと推測される。胡桃館木簡には、表裏両面に文字が書かれている。表面には、一行に13文字以上、少なくとも6行以上の文字が残っており、裏面には表とは上下逆さに3行分、文字が記されている。ただ、裏面の文字は墨が薄れてしまい、現状ではほとんど読み取ることができない。表面1行目は、「月料給出物名張」と読めそうだ。「張」は「帳」の意味で用いられるから、この木簡は、ある月に支給した物の名を記した帳簿と考えられる。2行目の下部には「玉作麻呂/米一升」の文字もみえる。他に「玉作」「建マ(部)」と読める可能性のある人名、「米三合」「五合」などの品目と数量がみえ、表面には、人名+「米」+支給した米の量を列記しているようである。

 いま一つ胡桃館遺跡には着目すべき事件があった。元慶の乱(がんぎょうのらん)といい、元慶年間の初頭、干ばつにより全国的に飢饉に襲われ、各地で不動倉が開かれ、賑給が実施された。直接記録に残ってはいないが、東北地方も例外ではなかったと考えられている。それに秋田城司による年来の苛政が重なり、夷俘の不満は頂点に達した。元慶2年(878年)3月、夷俘が蜂起して秋田城を急襲、秋田城司介良岑近は防戦しかねて逃亡した。夷俘は周辺に火を放ち、出羽守藤原興世も逃亡してしまう。

 胡桃舘遺跡から発掘されていた木簡「月料給出物名張」によると、この木簡には「玉造麻呂」などの名前が記されており、それぞれに「米三合」などの数量が書かれていた。玉造は元慶の乱の時に、政府側についた蝦夷の名字であるため、この915年十和田火山の噴火によって埋没した遺跡との関係があるのではないかと指摘された。同じ頃の出羽国に、「玉作宇奈麻呂」や「玉作正月麻呂」という人物が活動していたことは、文献資料から知られている。「玉作」姓の人が、木簡という、古代の生の史料からも確認されたことで、今後、新たな事実が浮かび上がる可能性を秘めている。まだすべての文字が解読できた訳ではなく、詳しい内容は今後の調査にまたねばならない。

 当時の出羽国では秋田郡が最北の郡で、秋田県北部は朝廷の直轄支配領域ではなかった。それにもかかわらず、反乱軍は国司の苛政を訴えたのである。朝廷の直轄領域外の住民に対する苛政とはどのようなものだったのだろうか。直轄領域外の住民から重税を取り立てたということである筈(はず)がない。苛政の実態は、蝦夷に対して不公正な交易を強要したことであった。
 菅原道真(みちざね)の詩に「哭(こく)奥州(おうしゅう)藤(とう)使君(しくん)」(「菅家(かんけ)後集(こうしゅう)」)という作品がある。901(延喜元)年に亡くなった陸奥守・藤原滋実(しげざね)の死を悼んだものだが、滋実の下僚には財貨にいやしい者が多く、彼らは蝦夷との交易によって金、皮衣、鷹、馬などを入手し、それらを都に持ち帰って贈物とし、さらに有利な官を得ようとしていること、蝦夷との交易はうまく行けば利益が莫大であるが、交易におけるトラブルがもとで変乱となることがあること、などが述べられている。ちなみに、藤原滋実の父の興(おき)世(よ)は、元慶の乱の時の出羽守で、滋実も乱の時には父にしたがって出羽国におり、事件の収拾に一役買っている。

 交易品目には、アシカ(海獣)の皮、独かん(どくかん)(山犬のような動物)の皮、砂金、昆布などもあった。秋田城や胆沢城の重要な任務には、交易によってこれらの北方の産物を入手することがあり、後に安倍氏や清原氏が力を得ることができた理由の一つに、交易を掌握し、その利益を独占したことがあげられるだろう。

 胡桃館木簡は、鷹巣の古代史を今に伝える生き証人であり、学術的にも極めて高い価値を持つ、貴重な文化財といえる。今回解読できた木簡が、周辺に今なお埋没していると推測される遺跡とともに、町の「宝」として長く保存されるべきである。

  木簡シリーズは四回目を迎えた。木簡の個別テーマは今回で最期にし、第五回目は木簡の総合的課題を記して終りにする。

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木簡学会編 木簡から古代がみえる
胡桃館木簡 37年目の復活 を参考にした。
木簡は奈良文化財研究所の木簡データベースを利用させていただいた。 


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木簡を語る


 木簡シリーズ最終回である。今回は木簡の総論的内容となる。
 木簡が最初に発見されたのは戦前のことである。三重県多度町の柚井遺跡で一点と秋田県払田柵で二点がである。そして日本で最初ともいえる本格的発見は平城京跡の大膳職推定値での40点が泥水の中から発見された。それ以降大量発見が相次いだ。長屋王家跡地から11万点、1966年には藤原京跡から2100点、飛鳥池遺跡から300点などである。そして現在37万点の木簡を保管管理されている。木簡は当時は使用済みの「ごみ」としてゴミ箱や井戸に捨てられたものである。木片は普通腐食してしまうが、それがたまたま地中条件(例えば地下水中)で腐らずに現在まで残されたものである。
 木簡は古代の文字情報である。文字情報は例えば仏像の後背や露盤の製作者または政策由来の記事や、古墳に埋設された鉄剣に刻まれた文字、鏡に記された文字と同じように、貴重なものである。これらは当然文字により後世に伝え、何らかの意図を以って残された記録であるのに比べ、木簡は当時ゴミとして捨てられたように、何の作為も施さない記録であることにその有用性がある。まして記紀や続日本紀など六国史は、作者または発案者の意図が強く働き、数百年前の出来事(または、架空の事件)を製作者有利に記述する場合があるのである。それに較べて木簡は、作為されない記録であるがゆえに真実の姿がそこに表現されている。しかし36万点のうち解読可能な木簡は100分の1にもみたず、かつ、解読は難航をきわめ、それ以上に保管の困難さは我々の想像をはりかに超えている。
 今まで4回にわたって、木簡の代表的な事例を紹介したが、さらに日本史を変える事例や、いままで伝わってこなかった事実が最近になって明らかにされてきた。2、3例をあげる。

 世に郡評論争という論争がかつてあった。これは従来『日本書紀』の大化2(646)年正月条に記されている大化改新詔の用語が唯一絶対の事実とされていた。改新の詔(かいしんのみことのり)の第2条に

 「初めて京師を定め、畿内、国司、郡司、、、、を定め国郡の境界を設定すること」


とさだめている。
 井上光貞は、『日本書紀』の大化2(646)年正月条に記されている大化改新詔の用語が、大化当時のものではなく、後世の大宝律令(702)によって大幅に修飾されていることを、地方行政単位のコオリ(郡)と、その役人の官職名の表記(郡司の大領・少領)を手がかりに論じたのだった。
『日本書紀』では、地方行政組織である「クニ−コオリ−サト」を「国−郡−里」と記しているが、特に「郡」については、『日本書紀』以外の金石文などでは、すべて「評」となっており、その役人も「大領・少領」ではなく、「評督・助督」という表記である。「郡」「大領・少領」などは、大宝令で初めて使用された用語であるから、大化改新詔は、大宝令によって大幅に修飾されている、と論じた。
 さらに藤原京跡出土木簡で、地方行政区画の名称である「評」が「郡」に変更、701年の大化の改新の施行により全国一斉に実施されたことが明らかになった。近年藤原宮址から
 「己亥年十月上挟国阿波評松里」
をはじめとする国評里を表記した木簡(もっかん)が多数出土し、己亥年は699年で大宝令施行直前であることから、7世紀後半の地方行政区画は評であって、大宝令施行によって郡に移行したと考えられている。すなわち646年が702年に大幅後退したわけである。

 長屋王の木簡も歴史を書き換えた。1980年代の終りに平城宮跡のすぐ東南の隣接地にデパート建設が計画され、それに先立ち発掘調査が行なわれた。すると奈良時代前半に四町(250m平方)にわたる大邸宅があったことがわかった。そしてこの地から11万点にものぼる木簡が発見されたのである。
まず、この地が長屋親王地であることが判明した。貴族でも普通何処に住んでいたかを特定することはできない。

長屋親王木簡

 「長屋親王宮鮑大贄十編」と書かれた木簡

それは

 「長屋親王宮鮑大贄十編」

を含む、8点の木簡により証明された。すぐそばに法華寺があるように、以降藤原不比等、光明皇后さらに恵美押勝と彼の押した淳仁天皇らの歴史を刻むことになる。特に光明皇后は長屋王を殺害に追い込む張本人である藤原四兄弟の姉弟ながらその当人の跡地に住むという事実をあきらかにしたのである。長屋王は当時長屋親王といはれていたようだ。天武天皇の長男高市皇子の子である長屋王は皇位継承の有力者であったが、藤原四兄弟の画策により服毒自殺した。
 これらは当時の皇位継承に関わる重大歴史事実であるが、それとは別にこれら木簡は貴族の生活の色々な事実を明らかにしてくれる。
(1)邸内に持ち運ばれた荷札木簡により、当時の食事がどのようであったかが、推測できた。これは奈良遷都1300年祭での食事の展示の参考としたようだ。
(2)広大な敷地であるから大勢の使用人がいたようである。その使用人に対する作業命令にあたる、作業指示や物品の支給状況がやはり木簡により明らかになった。
(3)長屋王には数人の后がいた。
 妃:吉備内親王 - 草壁皇子と元明天皇の娘
 妃:藤原長娥子 - 藤原不比等の娘
 妃:智努女王
 妃:安倍大刀自 - 阿倍広庭の娘
 妃:石川夫人
これら妃にたいする(2)の内の支給物品が存在する。ということは、妻妾同居であったことをあらわしている。

 木簡は日本だけの存在ではなく、朝鮮半島や中国にも存在した。詳細は記さないが、中国では漢以前は書物としての間牘(かんとく)というようである。材料が木片ではなく竹であった。竹に文字を書き、それを束ねて本としていたのである。我々の知る孔子、孟子などの古典はこのようなものだったようだ。また、早くから紙が開発されていたので日本のような木簡は少ないようである。

木簡の保管と活用について、現在は奈良文化財研究所が一括して保管管理している。その数は37万点といわれている。解読が完了し保管状態になればそのデータベースがつくられる。そのデータは現在インターネットで自由に検索できるようになっている。これは木簡に関心ある者にとって大変有用なものである。この木管は語るで掲載させていただいた木簡データと写真は、このデータベスを利用させていただいたものである。

 最期に高速道路ストップの話。

京奈和道は京都、奈良、和歌山を結ぶ有料道路である。現在虫食い状態に供用されているが、奈良を通過する道路が大問題となっている。この部分(奈良市歌姫町、郡山間)を大和北道路区間というがユネスコの世界遺産でもある平城宮跡の地下を通過する計画案であったが、地下水によって保存されている木簡に深刻な影響が出ることが懸念され、平城宮跡直下をトンネルで建設する案は白紙となった。2005年9月初旬、国土交通省はルートを平城宮跡の約1km東側にずらすという最終案を固めた。勿論ここだけではなく、奈良の街中は寺院も多く、木簡に与える影響は予測できない。
 木簡の代表的な使用例は平城京時代に集中しているから、埋蔵木簡の量は予測できない。勿論環境問題も大きな阻害要因になっている。どのようなルートを取ろうと、奈良市街を通過するのは容易なことではない。

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斉明天皇ーー真弓の丘

 2010年9月11日、斉明天皇の埋葬されているといはれる牽牛子塚古墳(けんごしつか)の発掘が大きく新聞各紙に報じられた。当日現地説明会があったが、今回は見学できなかった。新聞報道によれば
(1)陵は八角形古墳であった。
(2)古墳内は二部屋に分かれていて、二人を埋葬したようである。
(3)石室は70tの大岩を刳り抜いたものであった。

(1)についてはこの時代八角形墳は王陵の墓といわれ、斉明天皇直系一族だけがこの形を採用したものとおもわれている。天智天皇(山科陵(やましなのみささぎ:京都市東山区山科御陵上))八角形墳であった。したがって、牽牛子塚古墳が八角形墳であることは、当然当時の天皇、皇子を思わせる。
八角形墳の古墳は

 段ノ塚古墳(現・舒明天皇陵):奈良県桜井市
 御廟野古墳(現・天智天皇陵):京都市
 野口王墓古墳(現・天武・持統合葬陵):奈良県高市郡明日香村・7世紀後半(上八角下方墳)
 中尾山古墳(文武天皇陵の可能性高い):奈良県明日香村・8世紀初頭
 束明神古墳(草壁皇子の真弓山稜の蓋然性が高く、八角墳の可能性がある。奈良県高市郡高取町)
 岩屋山古墳(斉明陵の可能性。方形墳の上に八角形の墳丘を営んでいた可能性が強い。
 牽牛子塚古墳(斉明陵の可能性)奈良県明日香村越、2010年9月斉明稜の可能性強まるとの報道

(2)について、過去の調査では、石室が二つの空間に仕切られていたことが判明している。斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬したと記された日本書紀の記述と合致するほか、漆と布を交互に塗り固めて作る最高級の棺「夾紵棺(きょうちょかん)」の破片や間人皇女と同年代の女性とみられる歯などが出土していた。

(3)について、この石は二上山から運び出されたとされている。石槨は東西5メートル、南北3.5メートル、高さ2.5メートル、重さ約70トンの1個の巨石だと判明した。どちらで刳り抜いたか判らないが、既にこの頃は、このような技術が、確立されていたようである。この石の運搬は500〜600人の工人が修羅とよばれる、運搬そりにより引っ張ったものとおもわれる。沿道の人々への一大セレモニーであった。

 斉明天皇については生前、大土木工事で知られている。当時の宮廷である、飛鳥岡本宮に石上山から巨石を運び出すのに、運河を築き船を浮かべて運んだとされ、飛鳥京苑が現在に残る。
日本書紀の「斉明天皇2年(656)是歳条」には、有名な田身嶺の周垣と両槻宮および「狂心の渠」と石の垣のことは、以下のように記されている。

時に、事を興すことを好ゐたまひ、すなわち水工をして渠(みぞ)を穿(ほ)らしめ、
香具山の西より石上山に至る。
舟二百隻を以(も)ちて、石上山の石を載(つ)みて、流れの順に宮の東の山に控引(ひ)き、
石をかさねて垣(かきね)とす。時の人謗(そし)りて曰く、
「狂心の渠。損費(そこないついや)すこと、功夫(こうふ)三万余。造垣(かきねづくり)功夫七万余。
宮材(みやのき)爛(ただ)れたり。山椒(やまのすゑ)埋(うず)もれたり」といふ。
また謗りて曰く、「石の山丘を作り、作る随(まにま)に自ずから破(こわ)れなむ。」といふ。

また吉野清滝に吉野宮を建設したことでも知られている。

復元図面

牽牛子塚古墳の復元図

 八角形墳についても古くからいわれていたが、今回はじめて墳丘のすその発掘で幅約1メートル、深さ約20センチの溝の中に凝灰岩の切り石(長辺約40〜60センチ、短辺約30〜40センチ、厚さ約30センチ)を敷き並べているのが見つかった。石敷きは9メートルの1辺と、135度の角度でつながる左右2辺の一部が確認され、墳丘を八角形に囲んでいることが分かった。八角形の対辺の長さは22メートルで、石敷きの外側の小石が敷かれた部分を含めると対辺32メートル以上。石敷きからの高さは4.5メートル以上とみられ、墳丘斜面にも凝灰岩の切り石を並べた跡があった。

飛鳥西部地図

飛鳥真弓が丘付近の地図

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳外観

牽牛子塚古墳内部

牽牛子塚古墳内部石室(一個の大石を刳り抜いた石室)

 斉明天皇の陵墓については、古くから三つの陵墓が存在した。
(1)岩屋山古墳
(2)牽牛子塚古墳
(3)越智崗上陵(斉明天皇陵)

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岩屋山古墳内部

(自然石をつみかさねた従来の石室と異なり、

見事な切石を積み重ねている。

終末期古墳の特徴)

斉明天皇陵2

越智崗上陵(現斉明天皇陵)

 いずれも真弓ヶ丘丘陵に存在する。地図を見ていただきたい。近鉄飛鳥駅を降りると、東にむかうと、明日香村中心部である。今回の古墳は西に向かう。一帯は真弓丘といわれ、飛鳥人の葬送の地である。駅のすぐ傍に岩屋山古墳があり、ここも斉明天皇または、吉備姫王の陵墓といわれている。更ににしに15分ほど行くと牽牛子塚古墳である。さらに西南方向に30分ほどで越智崗上陵である。筆者はこの脇をよく通るのであるが、カーナビにいつも斉明天皇陵と表示されているので、よく記憶している。実際には道の傍から山になっていて、ずいぶん歩かなければならない。何と言っても宮内庁指定の陵墓であるから、手入れも行き届いている。新聞によると今回の発掘で墓誌などが発見されない限り天皇陵を変更するつもりはないとのことである。これは継体天皇陵や衾田陵(衾田陵(手白香皇女陵墓))のこともあり、いつものことである。

 真弓ヶ丘には上記三つの古墳以外にマルコ山古墳、鑵子塚古墳、世楽鑵子塚古墳、カンジョ塚古墳などがある。いずれも特徴がある古墳である。

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皇統を守り抜いた女帝--飯豊青天皇

 第16代仁徳天皇の子に履中天皇、反正天皇、允恭天皇がおり17,18.19代天皇になった。そして20代、21代、22代天皇は允恭天皇の系列からでた。しかし、履中天皇にも皇子がおり磐坂市辺押磐皇子といった。日本書紀によれば、21代雄略天皇は、自分が皇位に就くために、多くの天皇候補皇子を殺した。その中に市辺押磐皇子がいた。雄略は市辺を近江の蚊屋野(かやの、現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か)に誘い出し、偽って皇子を射殺した。危機を察知したその息子億計(オケ、兄仁賢天皇)・弘計(オケ,弟、顕宗天皇)兄弟は播磨にのがれ、行方不明となった。それが清寧天皇の代になって、姿を現したのだ。清寧天皇の後継天皇として指名をし、24代顕宗天皇、25代仁賢天皇である。日本書紀にはこの系図を図-1のようにしるされている。ここに飯豊皇女が記されているが、皇女は後世数々の説を投げかけた話題の皇女である。また10を超える名前があるが飯豊青天皇または飯豊皇女でとおすことにする。

図1飯豊皇女系統図

飯豊皇女


 日本書紀によれば出生は允恭天皇29年(440年)とされているが確証がない。清寧天皇が清寧5年(484)に薨去すると皇位につき執政期間は短くわずか10箇月余りで、清寧天皇5年(484年)11月に薨去したとある。(実際は「崩」と表記し、天皇扱いにしている)。陵墓は葛城埴口丘陵(かずらきのはにくちのおかのみささぎ、『延喜式』には埴口墓)である。同陵は奈良県葛城市北花内の北花内大塚古墳(前方後円墳・全長90m)に比定される。ただし『日本書紀』は「陵」と表記し、天皇扱いし、「墓」ではないことは注目される。記紀では天皇として認められていないが、後世の史書である『扶桑略記』に「飯豊天皇廿四代女帝」、『本朝皇胤紹運録』に「飯豊天皇 忍海部女王是也」と記される上、偽書といわれる『先代旧事本紀大成経』にも「清貞天皇(せいていてんのう)」の諡号まである。

 さて飯豊皇女の皇位継承のいきさつは、古事記と日本書紀では異なる。「古事記」では、清寧天皇の亡きあと請われて位につき、その後、仁賢・顕宋兄弟を発見する。「日本書紀」では清寧天皇在位の間に次の天皇となる仁賢・顕宋兄弟を発見されているが、この兄弟が次の位を譲りあい大王(天皇)位の空白が生じそうになる。そこで仕方なく飯豊が位につく、という話になっている。
 また飯豊の出自については、二通りの解釈がある。ひとつは第17代履中天皇と葛城氏出身の黒媛の間に生まれた娘とする考え方で、もう一つは、同じく履中天皇の息子である市辺押羽皇子(いちべおしはわけのみこ)と葛城蟻臣の女・はえ媛の間に生まれた娘で、後の仁賢・顕宋天皇となる兄弟の姉とするものでである。すなわち市辺押羽皇子の妹あるいは皇女の違いである。

 話はかわるが、岡田英弘氏によれば日本書紀の構造は歴代天皇家は五王朝からなるという見解を示している。これはあくまでも日本書紀の構造であり歴史事実とは異なる。
 第一王家  1.神武天皇〜13.成務天皇
 第二王家 14.仲哀天皇〜23.清寧天皇
 第三王家 24.顕宗天皇〜26.武烈天皇
 第四王家 27.継体天皇〜34.推古天皇
 第五王家 35.舒明天皇〜40.持統天皇
ここで第一王家は天皇家の伝統「万世一系」を貫いた王家である。すべてが判でおしたように父から子への皇位の禅譲である。第二王家の仲哀天皇は倭建命(やまとたける)の皇子で初めて「万世一系」からはずれる。またこの天皇と神功皇后、応神天皇の物語は王家が異なることは明らかである。仁徳の子以下兄弟、親戚の皇子は互いに皇位を争い殺戮をくりかえす。そして第三王家が話題の顕宗、仁賢天皇である。この父磐坂市辺押磐皇子からその兄弟は播磨出身の王朝であるというのである。すくなくとも清寧天皇の後継ではない。そして継体天皇は応神天皇の五世の孫とういうのが正式な記述で、これも信ずるに足らないのである。

 前三回の皇極、持統、元明、元正の女帝について思い出していただきたい。皇極天皇はおそらく過去の皇統で最初の女性天皇をさがしたはずである。この時飯豊天皇に出会った。皇極が女性にもかかわらず天皇になるのは周りの反対を恐れたであろう。なによりも先例がほしい。自分は舒明天皇の娘である。飯豊天皇もできれば天皇の娘であってほしい。女性天皇は天皇の皇女でなければならない。本来飯豊は市辺押磐皇子の娘と聞いているのだが、それでは満足でない。どうしても前例がほしい。そこで飯豊を履中天皇の娘とした。
 皇極天皇の時代、日本書紀はまだ出来ていない。過去の皇統は記憶に頼っていたであろう。あるいは、何かそれまでの皇記が存在したのかもしれない。この頃文字が中国から輸入されて間がない。日本書紀で各豪族の言い伝えを集めたのはまだ先の話である。しかし、飯豊天皇の話は伝聞で知っていたのであろう。日本書紀記述の担当者は、皇極天皇の正当性を担保するために、飯豊を磐坂市辺押磐皇子の娘ではなく履中天皇の娘として記述した。
 第43代元明天皇も正当性に苦労した。当時天武の六男舎人親王や十男新田部皇子が健在であり、文武天皇の死後、いくら天皇の母であったとしても皇后ではなかった元明が天皇になる資格がなかった。藤原不比等は文武の子七歳の首皇子(聖武天皇)を将来天皇にするために、あえて強引に元明を天皇に据えた。元明は続日本紀の範疇であるが、この正当性を得るために、飯豊を本来の磐坂市辺押磐皇子の娘とし天皇の娘ではなく、皇后でもない女性をつくりあげた。元明の前例にしたのである。
 次に元正天皇である。元明天皇は首皇子(聖武天皇)に15歳になった時点で持統天皇にならって孫に譲位したかったのであるが、母光明皇后が藤原氏の出で、出自がよくない。周辺の皇族、貴族の反対が当然予想される。そこで氷高皇女(元正天皇)に譲位して、聖武天皇を一歩皇位に近つけるという手を打った。ここで皇后ではなく、皇太子妃でもなく天皇の母でもない、単に天皇の同母姉というだけの女帝をつくりあげたのである。まさに空前絶後である。首皇子はこの元正天皇の養子になった。ここでも飯豊皇女が利用された。飯豊は履中天皇の子から磐坂市辺押磐皇子の娘に格下げし、しかももともと仁賢・顕宋兄弟の妹だったものを姉にされ、まさに元正天皇と同じ血統に擬せられた。

飯豊皇女陵

図2、陵墓の形状

飯豊皇女陵

図3 陵墓葛城埴口丘陵(かずらきのはにくちのおかのみささぎ

 このようにして飯豊皇女はもともとは仁賢・顕宋兄弟の妹だったものを、その叔母にされ、さらに姉にされたのである。後世飯豊天皇を、謎の多い女性として、歴史家の諸説があり、まことに複雑で理解をしにくくしているが、それは後世、日本書紀を編纂するにあたり、上のように当時の女帝の正当性を担保するために都合よくとりあつかわれたのである。真相など判りはしない。日本書紀は720年完成である。飯豊の時代は484年である。この間約250年、記録もなく記憶にたよる時に、しかも王朝も異なる時代の先祖の血統など覚えていたとしても、自分たちの王統の正当性のために変更することなど何の躊躇もなかったであろう。問題は自分たち現代史の正当性をいかに確保するかである。皇極から元明、元正に至る、まさに血で血を洗う権力争いの中、いかに自分たちが皇統を維持する正当性があるかが第一義であったのである。

 日本書紀に不思議な記事が載る。「飯豊皇女、於角刺宮、与夫初交、謂人曰、一知女道、又安可異、終不願交於男」とある。何故、変哲もない記事を日本書紀という正式な歴史書にいれたのか。直訳すると飯豊皇女が角刺宮に居たとき、「夫と初めて交わりたまう」であり、後の方は「男と交わることを願わじ」である。飯豊皇女の夫は誰だったか記していない。しかし勘ぐれば、この夫、清寧天皇ではなかったか。清寧天皇も后妃は書かれていないし子もいない。であればこの記事は大変重要なこととなる。清寧天皇に嫁した飯豊皇女はセックスに興味をうしない、あげくに清寧天皇は薨去する。結果、後継者がいないため飯豊皇女が皇位についた。かねて皇女の兄であった二兄弟の行方はおそらく皇女は知っていたのであろう。書紀では二人の発見を劇的にながながと記述しているが、この経緯は信じがたい。ともかく二人を呼び寄せて、皇位継承をおこなった。後世女帝天皇が生まれたとき、都合よく妹が叔母になったり、姉になって記述されたというのが、常識的な解釈であるが、当然なんの確証もない。

 現在近鉄御所線の忍海駅の近くに角刺神社があり、ここで飯豊青天皇が皇居としたと伝えられる神社であり、そこから遠くない場所に葛城埴口丘陵といわれる陵墓が存在する。

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皇統を守り抜いた女帝--斉明天皇


 「日本書紀」の制作は舎人親王を総裁として、 養老4年(720年)5月には『日本書紀』を奏上している。しかし、『日本書紀』の制作のスポンサーは、天武天皇と持統天皇である。『古事記』と異なり、『日本書紀』にはその成立の経緯が書かれていない。しかし、後に成立した『続日本紀』の記述により成立の経緯を知ることができる。『続日本紀』の養老四年(AD720年)五月癸酉条には、「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」とある。その意味は「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて日本紀の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」ということである。(ここに、『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについて注意)。この天皇の命とは天武天皇で『日本書紀』の天武天皇10年(681)3月丙戌(ひのえのいぬ)(17日)条に「天皇……詔川嶋(かわしま)皇子・忍壁(おさかべ)皇子等(十人略)、令記定帝紀(ていき)及上古諸事」とみえ、天武天皇が川嶋皇子以下に命じて歴史書編纂事業を開始したことが知られるが、一方、『古事記』序文にも天武天皇が舎人稗田阿礼(ひえだのあれ)に命じて「帝皇日継(ていおうのひつぎ)」(帝紀)と「先代旧辞(せんだいくじ)」を誦(よ)み習わせたということがみえる。記紀の2書にみえる編纂事業を同じものとみるか別と考えるかで説が分かれるし、別とすれば両者の前後関係も問題となるが、史料の不足もあっていまだ決定的な説は現れない。
 それはともかくスポンサーが、何故制作を命じたか、ということが重要である。これについて考える。
681年といえば3月19日(天武天皇10年2月25日) - 飛鳥浄御原令を制定、草壁皇子が立太子したのと、4月9日(天武天皇10年3月16日) - 川島皇子・忍壁皇子らに歴史書の編纂を命令したと記されている。なぜ草壁皇子が立太子したかは、ここに至るまでの鸕野讚良(うののさらら、のちの持統天皇)の努力は大変なものであった。すなはちこれ以降の文武天皇、聖武天皇という天武系男子の天皇を作り上げるのに腐心したのであるが、そもそも「日本書紀」を作るにあたって、先祖の皇位正当性を後ずけで作り上げなければならなかった。
それは以下の点である。
(1)舒明天皇の正当性
(2)天智天皇の正当性
(3)天武天皇(自分自身)の正当性
(4)持統天皇の孫41代文部天皇の正当化
(5)42代元明天皇は自分自身の正当性
(6)元明天皇は43代元正天皇を正当化
(7)42代元明天皇と43代元正天皇は聖武天皇を正当化

天皇一覧.

図1、天皇一覧

 まず(1)の問題から。天武と持統の時代はこの二人にとっての現代史とは自分の先祖、特に父と母の問題である。舒明天皇は天智、天武の実父である。何故父の舒明が天皇になったかは、万民の納得するところでなければならない。当然のことながら舒明には好敵手がおり、諸般の事情により実力または幸運により皇位についたのであるが、これを歴史書に表現するためには、相当の困難を要する。系図(図2)を見てみよう。

斉明天皇系図

斉明天皇系図

29代欽明天皇、30代敏達天皇と続いた皇位は、曲折あって33代推古天皇となり、628年薨去する。推古は死の間際、田村皇子と、聖徳大使の子、山背大兄王を別々に呼び遺言をした。その顛末を日本書紀に記されているが、いずれを後継者とするか非常にあいまいなものであった、という。結果、蘇我蝦夷は群臣にはかって、その意見が田村皇子と山背大兄皇子に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが34代舒明天皇である。これには蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとした言う説と他の有力豪族との摩擦を避けるために、蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したと言う説がある。また近年では、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系(田村皇子)と庶子である用明天皇の直系(山背大兄皇子)による皇位継承争いであり豪族達も両派に割れたために、蝦夷はその状況に対応した現実的な判断をしただけであるとする見方もある。
ここで着目すべきは、直系と庶子の関係である。権力争いであることと直系男子であることを考えれば、後世のためには直系であることがわかりやすい。
(2)の問題にうつる。天智天皇の正当性をどう説明するか。先帝舒明天皇の息子とはいえ中大兄皇子はまだ16歳、皇位を継ぐには若すぎる。しかしすったもんだの末やっと手に入れた皇位の座を、むざむざ他家に渡すわけにはいかない。そこで皇子が成人するまで自分が皇位につく以外ない。そこで宝皇女自身が即位する。642年正月、35代皇極天皇である。
 更に母35代皇極天皇(宝皇女(37代斉明天皇))自身の正当性は問題である。父は茅渟王、母は吉備姫王で、天皇でも皇后でもない。このような者が天皇とはとんでもないことである。ただの、敏達天皇の曾孫である。天皇の曾孫など、吐いて捨てるほどいるのになぜ天皇か。まして女帝である。先例をみると推古天皇と神功皇后、飯豊天皇である。ただこれも怪しく(講を変えて説明する)日本(当時はまだ日本と言っていない)最初の女帝かもしれない。無理をかさねて皇位を他家に移るのを守った。
 舒明天皇の葬式が終わった643年、蘇我入鹿は古人大兄皇子を天皇にすべく山背大兄皇子を斑鳩に兵をおくり、死に追いやり聖徳太子の家系をことごとく葬り去るという事件が起こる。蘇我入鹿は皇位を舒明系から蘇我系の古人大兄皇子に奪い取り、実権を握る計画である。
 さらに予期せぬことが起こった。643年蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足に皇居で殺害された、いわゆる大化の改新の始まりである。この責任を取って皇極天皇は皇位を退き、実弟の孝徳天皇に譲位した。孝徳天皇は同年の大化元年(646)に都を難波宮に移す。しかし、白雉4年(653)に皇太子の中大兄皇子が、都を倭京に戻す事を求めた。しかし、孝徳天皇はこれを聞き入れなかったため、中大兄を初めとする皇族達やほとんどの臣下達が倭京に戻ってしまった。孝徳天皇の皇后の間人皇女でさえ兄、中大兄皇子に従い、戻ってしまった。失意の中、孝徳天皇は白雉5年(654)に崩御した。このため、655年宝皇女が再び飛鳥板葺宮で斉明天皇として重祚し、この時初めて皇太子をおき、中大兄皇子の皇位を確保するのである。658年には故孝徳天皇の子有間皇子を陰謀により殺害された。
661年おりからの白村江の戦に北九州に遠征中、朝倉宮で崩御した。その後中大兄は天皇の遺骸を大和に移し、陵墓を築いた。その陵墓が今回の牽牛子塚古墳か岩屋山古墳か橿原市の小谷古墳か、はてさて宮内庁指定の車木ケンノウ古墳か見解が分かれるところである。
 波乱に満ちた生涯であったが、夫舒明天皇や息子中大兄皇子のために、三人の皇子を殺害した。山背大兄皇子、古人大兄皇子、有間皇子である。

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皇統を守り抜いた女帝--持統天皇


 さて(3)天武天皇(自分自身)の正当性のテーマである。
 663年8月に白村江の戦いで大敗を喫した後、飛鳥に引き上げ、667年4月に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、翌668年2月、漸く天皇に即位した。同年には、同母弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。しかし、671年1月に第一皇子の大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣としたのち、671年11月天智の本心を察した大海人皇子が皇太弟を辞退し、代わりに大友皇子を皇太子とした。天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかったと日本書紀は伝える。しかし、天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱において大海人皇子が大友皇子に勝利して即位した。以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。

 天智天皇にも天武天皇にも皇位継承について不自然な事態を専門家は指摘するが、特に天武天皇については天智の息子大友皇子を壬申の乱で殺害した、この正当性は何かということである。過去から現在まで、壬申の乱の基本史料は「日本書紀」であるが、皇太子になったとも、即位したとも記していない。やや時代がくだる「懐風藻」や「万葉集」は、大友皇子を「皇太子」と記すが、天皇とはしていない。平安時代の複数の史書には、大友皇子の即位を記しているものがある。672年冬の天智天皇崩御から壬申の乱による敗死までその治世は約半年と短く、践祚に関連する儀式を行うことは出来なかった。そのため、歴代天皇としては数えられておらず、明治3年(1870年)に至って弘文天皇の諡号を贈られて天皇として認められた。また、地位についても倭姫王(天智天皇の皇后)を立てて皇太子として称制していたとの説もある。もし即位していれば天皇殺しの汚名をきることになり、「日本書紀」はこの事態をさけたのであろう。大友皇子の母親伊賀宅子娘を卑母とことさら強調し、山背大兄や有間皇子と同等の事件とみせかけた。そして、ことさら実力強大な者が皇位に就くべきを主張した。このあたりの書きまわしを持統天皇は日本書紀作成にあたって強く指示したのであろう。

 さて、持統天皇について、これがやがて自分の問題となってきた。686年天武天皇が崩御すると草壁皇子(662〜689)は皇太子であったが、すぐ皇位に就けることはしなかった。おそらく皇太子にした経緯が、母の鵜野讃良(うののさらら)皇后の身分の高さと、既に彼女の姉の大田皇女が死去している事から、大津皇子を押さえ、皇太子になったものと思われる。しかも686年天武が死去する(686年10月1日)と、大津皇子を同年10月25日には謀反の罪を着せられ死を賜る。25日後のことである。大津皇子のことは何回も記しているが、あまりにも哀れである。「懐風藻」によると、「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す」(体格や容姿が逞しく、寛大。幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。このため、大津皇子の人柄を慕う、多くの人々の信望を集めた)とある。

天智天武系図

 「日本書紀」は大津皇子を、立ち居振る舞いと言葉使いが優れ、天武天皇に愛され、才学あり、詩賦の興りは大津より始まる、と記され、草壁皇子に対しては何の賛辞も記さない。草壁皇子の血統を擁護する政権下で書かれた「日本書紀」の扱いがこうなので、諸学者のうちに2人の能力差を疑う者はいない。
 この事件があまりにもなまなましく、さすがの鵜野讚良皇后も、すぐさま草壁を皇位に就けることができず、自分が41代持統天皇を名のることになった。しかし草壁は689年死亡する。28歳である。ここで自分の後継は誰にするか思い悩んだであろう。このとき、草壁の息子(後の42代文武天皇)は683年生まれまだ7歳である。本来であれば天皇の孫であるから「皇子」ではなく「王」の呼称が用いられるはずだが、祖母である持統天皇の後見もあってか、立太子以前から皇子の扱いを受けていたと思われる。同年伯父にあたる高市皇子も薨じたため、697年3月立太子、697年8月祖母・持統天皇から譲位されて天皇位に就いた。15歳である。持統は皇太后として政治には関与しつずけた。703年1月持統は崩御した。

 「日本書紀」は持統天皇をもって終わっている。42代文武天皇も43代元明天皇も記されていない。天皇の子ではない文武天皇の即位をもって、新しい時代であることの認識を「日本書紀」は示しているのである。

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皇統を守り抜いた女帝--考謙天皇

 聖武天皇には阿倍内親王、基王、安積親王、井上内親王、不破内親王がいたが基王は若くして亡くなり、次男安積親王(母は県犬養広刀自)を皇太子とするつもりであったが、光明皇后の強い希望により阿倍内親王が皇太子となった。744年安積親王は急死する。そして749年聖武天皇が譲位すると孝謙天皇が即位した。この頃の実力者は藤原仲麻呂で光明皇太后の家政機関を紫微中台(しびちゅうだい)と名を変え藤原仲麻呂を長官とした。紫微中台は光明皇太后の命令(令旨)を施行・兵権を発動する機能を持ち、仲麻呂の権力拡大とともに国家の実質的な最高権力機関・軍事機関へと変貌した。仲麻呂は孝謙天皇に接近し、孝謙天皇も仲麻呂を重用した。当然光明皇太后は孝謙天皇の後見として依然勢力を発揮することとなった。
 756年、聖武上皇が崩御する。上皇の遺言により道祖王(新田部皇子の子、天武は祖父)が立太子されたが、翌757年道祖王が孝謙天皇の不興を受けて廃され、代わって仲麻呂が推す大炊王(のち淳仁天皇、父は舎人親王)が立太子される。

 一方聖武天皇時代権勢をにぎっていたのは左大臣橘諸兄であるが、すでに当時はその子橘奈良麻呂の時代になっており、藤原氏の台頭に危機感を抱いた奈良麻呂は、藤原仲麻呂とするどい対立状態となってきた。何度かの伏線の後、奈良麻呂の陰謀が発覚し、藤原永手らの拷問を受け事件が公になった。橘奈良麻呂らが兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺し、皇太子(大炊王)を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣藤原豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王(父、新田部皇子)、道祖王(父、新田部皇子)、安宿王(父、長屋皇子)、黄文王(父、長屋皇子)の中から天皇を推戴するというものであった。この陰謀に乗じて藤原仲麻呂は奈良麻呂一味を一掃することに成功した。
 758年大炊王が即位し(淳仁天皇)、仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝の名を与えられる。そして、760年(天平宝字4年)には太師(太政大臣)にまで登りつめ栄耀栄華を極めた。藤原仲麻呂は子弟や縁戚を次々に昇進させ要職に就けて勢力を扶植していったが、760年に光明皇后が死去したことで、その権勢はかげりを見せはじめる。さらに、孝謙太上天皇が自分の病気を祈祷によって癒した道鏡を信任しはじめたことで、藤原仲麻呂は、淳仁天皇を通じて孝謙上皇に道鏡への寵愛を諌めさせたが、これがかえって孝謙上皇を激怒させた。762年、孝謙上皇は出家して尼になるとともに「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言する。孝謙上皇の道鏡への信任はしだいに深まり、逆に淳仁天皇と藤原仲麻呂を抑圧するようになった。763年には道鏡を少僧都に任じている。
 764年藤原仲麻呂は蜂起し孝謙上皇と道鏡に対峙した。淳仁天皇はおそらく孝謙上皇に捕獲されていたと思われる。少なくとも仲麻呂とは同道しなかった。孝謙上皇はいままで不遇を囲っていた吉備真備を召して従三位に叙し藤原仲麻呂誅伐を命じた。吉備真備はすでに70歳になっていた。吉備真備は若くして遣唐使となり、学問、軍学に長じていた。当時の阿倍皇太子(孝謙上皇)とは絶大な信任を得ていたが藤原仲麻呂のために不遇であった。吉備真備は藤原仲麻呂を琵琶湖にやぶり、藤原仲麻呂の勢力は政界から一掃され、淳仁天皇は廃位され淡路国に流された。代わって孝謙上皇が重祚する(称徳天皇)。以後、称徳天皇と道鏡を中心とした独裁政権が形成されることになった。

   考謙天皇80120.jpg

考謙天皇、称徳天皇時代の人物

天皇は在位期間、人物は権勢時代を表示、争乱は始めと終り期間

 さてこの頃の実力者の光明皇太后をはじめ、孝謙天皇や藤原仲麻呂は中国に傾倒していた。この頃になると情報や知識も豊富に平城京にもたらされてきた。紫微中台をはじめ、太保(右大臣)、太師(太政大臣)等、官職の名はすべて唐風に改めた。特に、皇帝制度に関心を示したようである。中国皇帝は徳をもって天下を治める。徳がなくなると天下は他の者に移る。帝国が変わることを易姓革命というが、とにかく皇帝の徳による政冶、徳治政治が思想の根本である。中国の歴史は一般的に次代の後継帝国がつくる。従って先代からの後継の正当性を記述しなければならない。必要以上に先代の皇帝を悪く記述する傾向がある。ここにわが国との決定的な違いがある。少なくとも歴史を記述するようになってから、わが国は帝国が交替したことがない。紀伝体の歴史書は「日本書紀」がはじめてである。
 光明皇太后は藤原不比等の娘で皇女ではない。孝謙天皇は皇統を継ぐべく皇太子になり、この時点で結婚をあきらめた。したがって、今までの女性天皇のように自分の実子を天皇位につけるという執念はない。藤原仲麻呂は徳があるかどうかは知らないが、野望がある。自分が天皇になってなにが悪いかと思ったのかもしれない。皇統の危機である。このことがその後の歴史を彩った。

 おりしも中国唐では政変が起こっていた。安史の乱(755年から763年)という。755年唐は玄宗皇帝の時代であったが、安禄山が反乱を起した。安禄山は唐軍の大半をまかされており、さらに太平になれた唐軍の兵士は軟弱化しており、たちまち副都洛陽を占領し大燕聖武皇帝を名乗った。有名な楊貴妃は玄宗皇帝を惑わしたとの罪により殺害され、玄宗は退位した。
長安を奪った安禄山は、間もなく病に倒れて失明し、次第に凶暴化した。そのため後継息子の安慶緒とその家来により殺害され、安慶緒もその凡庸のため、安禄山の部下史思明が権力を握り759年大燕皇帝を名乗った。しかし、史思明も安禄山同様、息子の史朝義との不和から、761年に史朝義に殺害されてしまう。この頃から、反乱勢力は内部分裂を起こして弱体化し、好機と見た唐王朝は再び攻勢をかけ、反乱軍を各地で撃破する。情勢の立て直しを図る史朝義は洛陽を捨て、范陽に逃れんとするが、763年、唐の軍に敗れ、史朝義はその生涯を閉じると共に唐が復活した。
 この情報は日本では758年、渤海から帰国した小野田守が日本の朝廷に対して、反乱の発生と長安の陥落、渤海が唐から援軍要請を受けたこと、等を報告した。

 安史の乱はまさに孝謙上皇から淳仁天皇の時代であり、傾倒していた唐のこの状態をみて、孝謙上皇は藤原仲麻呂の傀儡にすぎない淳仁天皇に対し、大いに不満をもっていた。と同時に後継息子のいない状態で次の皇位をどうするか、思い悩んだであろう。彼女は自分の病を治した道鏡に全幅の信頼をよせた。道鏡は巷でいわれている巨根の持主かどうか知らないが、能力ある人物であったことはまちがいない。当時祈祷による病気平癒もまた政冶であった。道鏡への悪評は天智天皇系に代わった後世のよくある世評である。孝謙上皇から称徳天皇に重祚してから、称徳天皇は次期天皇位を易姓革命を考えていた可能性がある。そしてその相手が道鏡であったかも知れない。

 その後769年に、道鏡は大宰府の主神(かんづかさ)が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡の託宣を報じた。これを確かめるべく、和気清麻呂が勅使として宇佐八幡に送られたが、この託宣は虚偽であると復命した。これに怒った道鏡は清麻呂を因幡員外介として左遷し、さらに称徳天皇は清麻呂を除名し大隅国へ配流した。いわゆる宇佐八幡宮神託事件である。

 そして770年に称徳天皇が病死すると、道鏡は葬礼の後も僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守ったが、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没した。そして藤原永手らの画策により、光仁天皇の誕生となり、皇位は天武天皇系から天智天皇の系統に移るのである。

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      等禰神社
      談山神社
      笠山荒神社
宇陀    墨坂神社
      八咫烏神社
      龍穴神社
      宇太水分神社
      阿紀神社
      門僕神社
      御杖神社
橿原    橿原神宮
      畝火山口神社
      耳成山口神社
明日香  飛鳥座神社
河合町  廣瀬神社
高田市  石園座多久虫玉神社
葛城    葛木座火雷神社
御所市  鴨都波神社
      一言主神社
      高天彦神社
      高鴨神社
五条   御霊神社
      御霊神社
吉野町  吉野神宮
      吉水神社
      吉野水分神社
      金峯神社
      浄見原神社
東吉野  丹生川上神社上社
      丹生川上神社中社
丹生川上神社下社
天河村 天河神社
野迫川村 荒神社
下北山村 池神社
十津川村 玉置神社

奈良の寺院

奈良市般若寺
東大寺
興福寺
称名寺
伝香寺
元興寺
福地院
十輪院
誕生寺
高林寺
徳融寺
新薬師寺
白ごう寺
弘仁寺
正歴寺
円照寺
不退寺
興福院
法華寺
海竜王寺
西大寺
秋篠寺
喜光寺
霊山寺
大安寺
帯解寺
薬師寺
唐招提寺
円成寺
芳徳寺
生駒宝山寺
長弓寺
竹林寺
千光寺
朝護孫子寺
斑鳩法隆寺
中宮寺
法輪寺
法起寺
吉田寺
郡山永慶寺
春岳院
金剛山寺
東明寺
松尾寺
慈光院
額安寺
磯城富貴寺
秦楽寺
桜井長岳寺
長谷寺
聖林寺
安倍文殊院
宇陀佛隆寺
戒長寺
室生寺
大野寺
青蓮寺
大蔵寺
大願寺
橿原久米寺
おふさ観音
称念寺
明日香岡寺
飛鳥寺
橘寺
壷坂寺
子嶋寺
葛城達磨寺
大福寺
百済寺
専立寺
不動院
当麻寺
石光寺
九品寺
御所船宿寺
吉祥草寺
五条栄山寺
金剛寺
大善寺
吉野金峯山寺
如意林寺
竹林院
本善寺
願行寺
鳳閣寺
金剛寺
龍泉寺
大峯山寺

奈良の古墳(1)

奈良陵墓聖武陵光明陵
元明陵
元正陵
宇和奈辺陵墓参考地
小奈辺陵墓参考地
磐乃媛命陵
垂仁陵
日葉酢媛命陵
成務陵
神功陵
黄金塚陵墓参孝地
古墳鶯塚古墳
佐紀盾列古墳群
塩塚古墳
猫塚古墳
瓢箪山古墳
杉山古墳
石のカラト古墳
太安萬呂墓
富雄丸山古墳
三陵墓西、東古墳
小治田安萬呂墓
生駒古墳美努岡萬墓
長屋王墓
三里古墳
西宮古墳
烏土塚古墳
斑鳩古墳藤ノ木古墳
仏塚古墳
郡山古墳小泉大塚古墳
島の山古墳
天理陵墓衾田陵
桜井陵墓崇神陵
景行陵
大市墓
舒明陵
天理古墳東大寺山古墳
別所大塚古墳
ウワナリ古墳
西山古墳
東乗鞍古墳
下池山古墳
中山大塚古墳
桜井古墳竜王山古墳群
櫛山古墳
天神山古墳
黒塚古墳
珠城山古墳
巻向古墳群
ホケノ山古墳
芽原大塚古墳
艸墓古墳
文殊院西、東古墳
谷首古墳
コロコロ山古墳
メスリ山古墳
茶臼山古墳
花山塚古墳
天王山古墳

(続あり)

奈良の史跡(1)

奈良史跡平城京跡
平城京左京山上ニ坊宮跡庭園
旧大乗院庭園
志賀直哉旧居
頭塔
北山十八間戸
滝寺摩崖仏
柳生陣屋跡
旧柳生藩家老屋敷
生長元年柳生徳政碑
毛原廃寺
滝坂道
自然奈良公園
猿沢池
吉城園
依水園
若草山
柳生花しょうぶ園
月ヶ瀬梅林
大和青垣国定公園
神野山自然公園
生駒斑鳩自然金剛生駒紀泉国定公園
県立竜田公園
三室山
大和郡山、磯城史跡郡山城
大納言塚
筒井順慶五輪塔覆堂
面塚
自然県立矢田自然公園
天理桜井史跡内山永久寺
金屋の石仏
吉備池廃寺
山田寺跡
栗原寺跡
山の辺の道
自然三輪山
宇陀史跡駒帰廃寺(伝安楽寺)跡
宇陀松山城跡
森野旧薬園
自然室生赤目青山国定公園
滝谷花しょうぶ園

(続あり)

奈良の花

吉野吉野山桜
大野寺宇陀糸しだれ桜
氷室神社奈良しだれ桜
長谷寺桜井
談山神社桜井
郡山城郡山
山之辺の道桜井
万葉の森桜井
雪柳海竜王寺奈良
薔薇松尾寺郡山
おふさ観音橿原
霊山寺奈良
牡丹長谷寺桜井
当麻寺葛城
石光寺葛城
金剛寺五条
春日大社奈良
石楠花室生寺宇陀
岡寺明日香
かきつばた依水園奈良
桜草高鴨神社御所
つつじ葛城山御所
船宿寺御所
長岳寺桜井
紫陽花矢田寺郡山
久米寺橿原
唐招提寺奈良
白ごう寺奈良
新薬師寺奈良
元興寺奈良
唐招提寺奈良
般若寺奈良
彼岸花明日香村明日香
葛城古道御所
コスモス般若寺奈良
金剛寺五条
紅葉奈良公園奈良
正暦寺奈良
談山神社桜井
竜田川斑鳩
曽爾高原宇陀
山茶花平常宮跡奈良
新薬師寺奈良
月ヶ瀬梅林
賀名生梅林五条
広橋梅林吉野
福寿草正暦寺奈良
椿巨勢山御所
東大寺開山堂奈良糊こぼし
白ごう寺奈良五色椿
伝香寺奈良散り椿
馬酔木奈良公園奈良

奈良の工芸

奈良筆坂名井清川
曇徴
奈良墨松井道珍
一刀彫奈良人形岡野松寿森川杜園
団扇奈良団扇岩井善助
鹿角細工
赤膚焼奥田木白
茶筅武者小路千家紫竹
裏千家白竹
奈良晒清須美源四郎
古楽面
奈良漆器
吉野和紙
三宝神具
坪杓子
曲げ物

奈良の特産品

奈良漬
清酒正暦寺南都諸白
大和茶大和高原
金魚大和郡山
茶粥
素麺三輪
柿の葉寿司
吉野葛
割箸下市
陀羅尼助洞川

奈良の祭芸能(1)

奈良鎮花祭春日大社水谷神社4月5日
奈良祭文音頭田原地区
奈良太鼓踊り大柳生8月17日
奈良翁舞奈良豆比古神社3人の翁10月18日
奈良お水取り、お松明二月堂11人の練行僧2/20から3/14
奈良薪御能春日大社、興福寺5/11,5/12
奈良うちわまき唐招提寺ハート形のうちわ5月19日
奈良題目立八柱神社語り物が舞台化10月12日
奈良おん祭春日若宮大和随一の大祭12/15.18
奈良万灯篭春日大社3000灯の石灯篭8/14.15
奈良燈花会奈良公園ろうそくでライトアップ8/6.15
奈良若草山焼若草山境界争い1月成人前日
奈良ささ酒祭大安寺癌封じ1月23日
奈良鬼追い式興福寺6匹の鬼2月3日
奈良節分柴燈護摩会元興寺2月3日
奈良花会式薬師寺10種の造花3/30.4/5
奈良雛会式法華寺4/1.7
奈良おたいまつ新薬師寺11本の松明4月8日
奈良大茶盛り西大寺大茶碗で廻し飲み4/第2日
奈良黄金ちまき会式弘仁寺かしわの葉のちまき6月13日
奈良三枝祭、ゆり祭率川神社笹ゆり6月17日
奈良大仏様お身ぬぐい東大寺8月7日
奈良大文字送り火高円山8月15日
奈良ウネ女祭ウネ女神社猿沢池中秋の名月
奈良鹿の角きり鹿苑危険防止10月
奈良お身拭い薬師寺12月29日

(続あり)

奈良の文学

作家著作
志賀直哉奈良名画の残欠18回の引越し奈良に14年
堀辰雄浄瑠璃寺の春大和路、信濃寺
正岡子規寒山落木
高浜虚子斑鳩物語
会津八一鹿鳴集10基以上の歌碑
井上靖天平の甍漆胡樽
森鴎外
折口信夫死者の書中将姫、藤原豊成、誕生寺、高林寺、徳融寺、青蓮寺
谷崎潤一郎二月堂の夕吉野葛
川村たかし新十津川物語
坪内逍遥役の行者
五木寛之風の王国

奈良の町並み

名前
奈良町都市景観形成地区
橿原市今井町伝統的建造物保存地区
宇陀市松山地区伝統的建造物群保存地区
五条の町並み
城下町(大和郡山、高取)
環濠集落200前後
門前町の初瀬郷と三輪郷

奈良の遺跡

遺跡
馬見二の谷遺跡旧石器時代
ドン鶴峰第一地点遺跡サヌカイト
大川遺跡大川式縄文
橿原遺跡橿原式縄文後期晩期
宮滝遺跡縄文弥生古代複合天武持統聖武、吉野離宮
唐古鍵遺跡大型掘建て柱
巻向遺跡
上の宮遺跡聖得太子の上宮
南郷遺跡群葛城氏活動拠点

奈良の古墳(2)

宇陀古墳文禰麻呂墓
谷脇古墳
橿原陵墓神武陵
宣化陵
身狭桃花鳥坂墓
畝傍陵墓参考地
明日香陵墓欽明陵
天武持統陵
古墳新沢千塚古墳
沼山古墳
菖蒲池古墳
植山古墳
石舞台古墳
高松塚古墳
中尾山古墳
キトラ古墳
マルコ山古墳
真弓鑵子塚古墳
牽牛子塚古墳
岩屋山古墳
都塚古墳
高取古墳束明神古墳
宮塚古墳
市尾墓山古墳
乾城古墳
葛城陵墓大塚陵墓参考地
三吉陵墓参考地
磐園陵墓参考地
古墳ナガレ山古墳
佐味田宝塚古墳
乙女山古墳
大塚山古墳群
牧野古墳
巣山古墳
平野塚穴山古墳
狐井城山古墳
鳥谷口古墳
首子古墳群
平林古墳
ニ塚古墳
屋敷山古墳
笛吹神社古墳
御所古墳新宮山古墳
水泥古墳
宮山古墳
巨勢山古墳群
五条古墳近内古墳群
猫塚古墳
南阿田大塚山古墳
吉野古墳岡峰古墳




奈良の史跡(2)

橿原明日香史跡藤原宮跡
本薬師寺跡
岩船
豊浦寺跡
水落遺跡
入鹿の首塚
飛鳥池遺跡
大官大寺跡
紀寺跡
酒船石・酒船石遺跡
飛鳥京遺跡
猿石
鬼の俎・雪隠
檜隈寺跡
川原寺跡
亀石
定林寺跡
坂田寺跡
高取城跡
自然大和三山
甘樫丘
葛城史跡尼寺廃寺跡
當麻寺中の坊庭園
ニ光寺廃寺
巨勢寺跡
自然屯鶴峰
馬見丘陵公園
ニ上山
金剛山
葛城山
五条、吉野史跡天誅組本陣跡
賀名生皇居跡
柳の渡し跡
比曾寺跡
西行庵
鷲家の伊勢街道道標
自然貨名生梅林
広橋梅林
吉野熊野国立公園
吉野山
大峰山脈
大台が原
瀞八丁
吉野川津風呂自然公園
高野龍神国定公園
高見山

奈良の祭芸能

明日香おんだ祭飛鳥座神社天狗とお多福2月第一日
斑鳩追なえ法隆寺鬼追い式(黒、青、赤)2月3日
斑鳩砂かけ祭広瀬神社田作り行事2月11日
斑鳩風鎮大祭竜田大社五穀豊穣7/第1日
生駒火取行事征馬大社
宇陀曽爾の獅子舞門僕神社体育の日
橿原ホーランヤ橿原東坊城
橿原久米れんそ久米寺久米寺練供養(25菩薩)5月3日
葛城練供養会式当麻寺25菩薩来迎会5月14日
五条篠原踊り五条天神社狼退治、38,48曲
五条惣谷狂言五条市惣谷狂言
御所ススキ提灯葛城、御所
御所茅原のトンド吉祥草寺茅原、役行者生誕、37本の青竹、雄雌一対の大松明
桜井ちゃんちゃん祭大和神社お渡り、お旅所4月1日
桜井三枝祭狭井神社4月18日
桜井だだおし長谷寺鬼3匹本堂3周2月14日
桜井釜の口れんぞ長岳寺弘法大師大法会4月21日
桜井けまり祭談山神社11月3日
桜井いのこの暴れ祭桜井市高田ねむの木の農具11/第1日
天理でんでん祭石上神社6月30日
吉野蛙跳び行事金峯山寺高田の奥田の蓮7月7日
吉野十津川の大踊り小原、武蔵、西川8/13.14.15
吉野節分会金峯山寺鬼火の祭典(3匹の鬼、鬼も内2月3日
吉野花供懺法会金峯山寺花供会式4/10.12
吉野大峯山戸開式大峯山寺5月3日
吉野   戸閉式9月23日

奈良の天然記念物

天然記念物
春日山原始林奈良市春日野町イチイガシコジイアカガシ
知足院ナラノヤエザクラ奈良市雑司町八重桜
春日神社境内ナギ樹林奈良市春日野町ナギ林
奈良の鹿奈良市1200頭
ルーミスシジミ棲息地奈良市春日野町シジミチョウ科の蝶の葉に生息
吐山スズラン群落奈良市都祁吐山スズラン自生の南限
与喜山暖帯林桜井市初瀬長谷寺東北部360haのイチイガシ照葉樹林
向淵スズラン群落宇陀市室生区向淵吐山スズラン群落と同時指定
室生山暖地性シダ群落宇陀市室生区室生室生寺奥の院東暖地性シダの北限
八つ房杉宇陀市菟田野桜実神社大小6株全周囲13.5米20米高
カザグルマ自生地宇陀市大宇陀区
屏風岩、兜岩、及び鎧岩宇陀郡曽爾村青蓮寺川奥香落渓谷の大断崖
二見の大ムク五条市二見ムクの奇樹全周囲15.8米21米高
妹山樹叢吉野郡吉野町ツルマンリョウ、ルリミノキ
丹生川上中社のツルマンリョウ自生地吉野郡東吉野村ツルマンリョウ丹生川上中社
オオヤマレンゲ自生地吉野郡天川村
三ノ公川トガサワラ原始林吉野郡川上村
仏経嶽原始林吉野郡天川村八経ガ岳
シシンラン群落吉野郡上北山村

日本の国宝(建造物)(1)

奈良市建造物国宝東大寺南大門一棟東大寺
奈良市建造物国宝東大寺法華堂東大寺
奈良市建造物国宝東大寺鐘楼東大寺
奈良市建造物国宝東大寺金堂(大仏殿)東大寺
奈良市建造物国宝東大寺開山堂東大寺
奈良市建造物国宝東大寺転害門東大寺
奈良市建造物国宝東大寺本坊経庫東大寺
奈良市建造物国宝春日大社本殿4棟春日大社
奈良市建造物国宝興福寺北円堂興福寺
奈良市建造物国宝興福寺三重塔興福寺
奈良市建造物国宝興福寺五重塔興福寺
奈良市建造物国宝興福寺東金堂興福寺
奈良市建造物国宝新薬師寺本堂新薬師寺
奈良市建造物国宝薬師寺東塔薬師寺
奈良市建造物国宝薬師寺東院堂薬師寺
奈良市建造物国宝唐招提寺金堂唐招提寺
奈良市建造物国宝唐招提寺講堂唐招提寺
奈良市建造物国宝唐招提寺鼓楼唐招提寺
奈良市建造物国宝唐招提寺宝蔵唐招提寺
奈良市建造物国宝唐招提寺経蔵唐招提寺
奈良市建造物国宝秋篠寺本堂秋篠寺
奈良市建造物国宝霊山寺本堂霊山寺
奈良市建造物国宝海竜王子五重小塔海竜王子
奈良市建造物国宝元興寺極楽坊本堂元興寺(中院町)
奈良市建造物国宝元興寺極楽坊五重小塔元興寺(中院町)
奈良市建造物国宝元興寺極楽坊禅室元興寺(中院町)
奈良市建造物国宝般若寺楼門般若寺
奈良市建造物国宝十輪寺本堂十輪寺
奈良市建造物国宝園城寺春日堂白山堂園城寺
奈良市建造物国宝正倉院正倉宮内庁

(続あり)

特別史跡

市町村分類内容管理
奈良市特別史跡国ほか
奈良市特別史跡奈良市
奈良市特別史跡
奈良市特別天然記念物
橿原市重要伝統的建造物群保存地区橿原市
橿原市特別史跡橿原市
橿原市特別史跡文部科学省ほか
桜井市特別史跡文殊院
桜井市特別史跡桜井市
明日香村特別史跡明日香村
明日香村特別史跡明日香村
明日香村特別史跡明日香村
広陵町特別史跡広陵町

奈良の国宝(工芸品)

市町村国宝寺社
奈良市絵画国宝絹本著色倶楽曼荼羅図東大寺
奈良市絵画国宝絹本著色華厳五十五所絵巻東大寺
奈良市工芸品国宝金銅八角燈籠(大仏殿前)東大寺
奈良市工芸品国宝花鳥彩絵油色箱東大寺
奈良市工芸品国宝葡萄唐草文染韋東大寺
奈良市工芸品国宝梵鐘東大寺
奈良市工芸品国宝東大寺文書東大寺
奈良市考古資料国宝東大寺金堂鎮壇具東大寺
奈良市工芸品国宝籠手春日大社
奈良市工芸品国宝赤糸威鎧 兜、大袖付」(梅鶯金物)春日大社
奈良市工芸品国宝赤糸威鎧 兜、大袖付」(竹虎雀金物)春日大社
奈良市工芸品国宝黒韋威矢筈札胴丸(くろかわおどしやはずざねどうまる)春日大社
奈良市工芸品国宝本宮御料古神宝類春日大社
奈良市工芸品国宝若宮御料古神宝類春日大社
奈良市工芸品国宝沃懸地(いかけじ)獅子文毛抜形太刀春日大社
奈良市工芸品国宝金地螺鈿毛抜形太刀春日大社
奈良市工芸品国宝沃懸地酢漿紋兵庫鎖太刀春日大社
奈良市工芸品国宝沃懸地酢漿平文(いかけじかたばみひょうもん)兵庫鎖太刀春日大社
奈良市工芸品国宝金装花押散兵庫鎖太刀春日大社
奈良市工芸品国宝菱作打刀春日大社
奈良市工芸品国宝金銅燈籠興福寺
奈良市工芸品国宝華原磐興福寺
奈良市工芸品国宝梵鐘興福寺
奈良市書跡国宝日本霊異記上巻興福寺
奈良市考古資料国宝興福寺金銅鎮壇具興福寺
奈良市絵画国宝麻生着色吉祥天像薬師寺
奈良市絵画国宝絹本著色慈恩大師座像薬師寺
奈良市考古資料国宝仏足石薬師寺
奈良市考古資料国宝仏足跡歌碑薬師寺
奈良市工芸品国宝舎利容器唐招提寺
奈良市工芸品国宝唐鞍手向山八幡宮
奈良市工芸品国宝金銅透彫舎利塔西大寺
奈良市工芸品国宝舎利瓶/鉄宝塔西大寺
奈良市工芸品国宝金銅宝塔等一括西大寺
奈良市書跡国宝金光明最勝王経西大寺
奈良市書跡国宝大ヒ慮遮那成仏神変加持経西大寺
奈良市絵画国宝国立博物館
奈良市絵画国宝国立博物館
奈良市絵画国宝国立博物館
奈良市工芸品国宝国立博物館
奈良市工芸品国宝国立博物館
奈良市工芸品国宝国立博物館
奈良市書跡国宝紫紙金字金光明最勝王経 国立博物館
奈良市書跡国宝日本書紀巻十残巻国立博物館
奈良市書跡国宝金剛般若経開題残巻国立博物館

(続あり)

WORK

奈良市建造物国宝東大寺南大門一棟東大寺
奈良市建造物国宝東大寺法華堂東大寺
奈良市建造物国宝東大寺鐘楼東大寺
奈良市建造物国宝東大寺金堂(大仏殿)東大寺
奈良市建造物国宝東大寺開山堂東大寺
奈良市建造物国宝東大寺転害門東大寺
奈良市建造物国宝東大寺本坊経庫東大寺
奈良市建造物国宝春日大社本殿4棟春日大社
奈良市建造物国宝興福寺北円堂興福寺
奈良市建造物国宝興福寺三重塔興福寺
奈良市建造物国宝興福寺五重塔興福寺
奈良市建造物国宝興福寺東金堂興福寺
奈良市建造物国宝新薬師寺本堂新薬師寺
奈良市建造物国宝薬師寺東塔薬師寺
奈良市建造物国宝薬師寺東院堂薬師寺
奈良市建造物国宝唐招提寺金堂唐招提寺
奈良市建造物国宝唐招提寺講堂唐招提寺
奈良市建造物国宝唐招提寺鼓楼唐招提寺
奈良市建造物国宝唐招提寺宝蔵唐招提寺
奈良市建造物国宝唐招提寺経蔵唐招提寺
奈良市建造物国宝秋篠寺本堂秋篠寺
奈良市建造物国宝霊山寺本堂霊山寺
奈良市建造物国宝海竜王子五重小塔海竜王子
奈良市建造物国宝元興寺極楽坊本堂元興寺(中院町)
奈良市建造物国宝元興寺極楽坊五重小塔元興寺(中院町)
奈良市建造物国宝元興寺極楽坊禅室元興寺(中院町)
奈良市建造物国宝般若寺楼門般若寺
奈良市建造物国宝十輪寺本堂十輪寺
奈良市建造物国宝園城寺春日堂白山堂園城寺
奈良市建造物国宝正倉院正倉宮内庁

奈良の国宝(建造物)(2)

生駒市長弓寺長弓寺本堂建造物国宝
斑鳩町法隆寺南大門建造物国宝
法隆寺中門建造物国宝
法隆寺金堂建造物国宝
法隆寺五重塔建造物国宝
法隆寺大講堂建造物国宝
法隆寺回廊建造物国宝
法隆寺経蔵建造物国宝
法隆寺鐘楼建造物国宝
法隆寺西円堂建造物国宝
法隆寺東大門建造物国宝
法隆寺東院夢殿建造物国宝
法隆寺東院伝法堂建造物国宝
法隆寺東院鐘楼建造物国宝
法隆寺三経院及び西室建造物国宝
法隆寺聖霊院建造物国宝
法隆寺聖霊院建造物国宝
法隆寺聖霊院建造物国宝
法隆寺東室建造物国宝
法隆寺綱封蔵建造物国宝
法隆寺食堂建造物国宝
斑鳩町法起寺三重塔建造物国宝
天理石上神社拝殿建造物国宝
石上神社摂社出雲建雄神社拝殿建造物国宝
宇陀室生寺金堂建造物国宝
室生寺五重塔建造物国宝
室生寺本堂建造物国宝
宇太水分神社本殿建造物国宝
桜井長谷寺本堂建造物国宝
吉野金峯山寺本堂建造物国宝
金峯山寺二王門建造物国宝
葛城当麻寺本堂建造物国宝
当麻寺東塔建造物国宝
当麻寺西塔建造物国宝

(前に戻る)

皇統を守り抜いた女帝--飯豊皇女--

 第16代仁徳天皇の子に履中天皇、反正天皇、允恭天皇がおり17,18.19代天皇になった。そして20代、21代、22代天皇は允恭天皇の系列からでた。しかし、履中天皇にも皇子がおり磐坂市辺押磐皇子といった。日本書紀によれば、21代雄略天皇は、自分が皇位に就くために、多くの天皇候補皇子を殺した。その中に市辺押磐皇子がいた。雄略は市辺を近江の蚊屋野(かやの、現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か)に誘い出し、偽って皇子を射殺した。危機を察知したその息子億計(オケ)・弘計(オケ)兄弟は播磨にのがれ、行方不明となった。それが清寧天皇の代になって、姿を現したのだ。清寧天皇の後継天皇として指名をし、24代顕宗天皇、25代仁賢天皇である。日本書紀にはこの系図を図-1のようにしるされている。ここに飯豊皇女が記されているが、皇女は後世数々の説を投げかけた話題の皇女である。


 日本書紀によれば出生は允恭天皇29年(440年)とされているが確証がない。清寧天皇が清寧5年(484)に薨去すると皇位につき執政期間は短くわずか10箇月余りで、清寧天皇5年(484年)11月に薨去したとある。(実際は「崩」と表記し、天皇扱いにしている)。陵墓は葛城埴口丘陵(かずらきのはにくちのおかのみささぎ、『延喜式』には埴口墓)である。同陵は奈良県葛城市北花内の北花内大塚古墳(前方後円墳・全長90m)に比定される。ただし『日本書紀』は「陵」と表記し、天皇扱いし、「墓」ではないことは注目される。記紀では天皇として認められていないが、後世の史書である『扶桑略記』に「飯豊天皇廿四代女帝」、『本朝皇胤紹運録』に「飯豊天皇 忍海部女王是也」と記される上、偽書といわれる『先代旧事本紀大成経』には「清貞天皇(せいていてんのう)」の諡号まである。

 さて飯豊皇女の皇位継承のいきさつは、古事記と日本書紀では異なる。「古事記」では、清寧天皇の亡きあと請われて位につき、その後、仁賢・顕宋兄弟を発見する。「日本書紀」では清寧天皇在位の間に次の天皇となる仁賢・顕宋兄弟を発見されているが、この兄弟が次の位を譲りあい大王(天皇)位の空白が生じそうになる。そこで仕方なく飯豊が位につく、という話になっている。
 また飯豊の出自については、二通りの解釈がある。ひとつは第17代履中天皇と葛城氏出身の黒媛の間に生まれた娘とする考え方で、もう一つは、同じく履中天皇の息子である市辺押羽皇子(いちべおしはわけのみこ)と葛城蟻臣の女・はえ媛の間に生まれた娘で、後の仁賢・顕宋天皇となる兄弟の姉とするものでである。すなわち市辺押羽皇子の妹あるいは皇女の違いである。

 話はかわるが、岡田英弘氏によれば日本書紀の構造は歴代天皇家は五王朝からなるという見解を示している。これはあくまでも日本書紀の構造であり歴史事実とは異なる。
 第一王家  1.神武天皇〜13.成務天皇
 第二王家 14.仲哀天皇〜23.清寧天皇
 第三王家 24.顕宗天皇〜26.武烈天皇
 第四王家 27.継体天皇〜34.推古天皇
 第五王家 35.舒明天皇〜40.持統天皇
ここで第一王家は天皇家の伝統「万世一系」を貫いた王家である。すべてが判でおしたように父から子への皇位の禅譲である。第二王家の仲哀天皇は倭建命(やまとたける)の皇子で初めて「万世一系」からはずれる。またこの天皇と神功皇后、応神天皇の物語は王家が異なることは明らかである。そして第三王家が話題の顕宗、仁賢天皇である。この父磐坂市辺押磐皇子からその兄弟は播磨出身の王朝であるというのである。すくなくとも清寧天皇の後継ではない。そして継体天皇は応神天皇の五世の孫とういうのが正式な記述で、これも信ずるに足らないのである。

前三回の皇極、持統、元明、元正の女帝について思い出していただきたい。皇極天皇はおそらく過去の皇統で最初の女性天皇をさがしたはずである。この時飯豊天皇に出会った。皇極が女性にもかかわらず天皇になるのは周りの反対を恐れたであろう。なによりも先例がほしい。自分は舒明天皇の娘である。飯豊天皇もできれば天皇の娘であってほしい。女性天皇は天皇の皇女でなければならない。本来飯豊は市辺押磐皇子の娘と聞いているのだが、それでは満足でない。どうしても前例がほしい。そこで飯豊を履中天皇の娘とした。
 皇極天皇の時代、日本書紀はまだ出来ていない。過去の皇統は記憶に頼っていたであろう。あるいは、何かそれまでの皇記が存在したのかもしれない。日本書紀で各豪族の言い伝えを集めたのはまだ先の話である。しかし、飯豊天皇の話は伝聞で知っていたのであろう。日本書紀記述の担当者は、皇極天皇の正当性を担保するために、飯豊を磐坂市辺押磐皇子の娘ではなく履中天皇の娘として記述した。
 第43代元明天皇も正当性に苦労した。当時天武の六男舎人親王や十男新田部皇子が健在であり、文武天皇の死後、いくら天皇の母であったとしても皇后ではなかった元明が天皇になる資格がなかった。藤原不比等は文武の子七歳の首皇子(聖武天皇)を将来天皇にするために、あえて強引に元明を天皇に据えた。元明は続日本紀の範疇であるが、この正当性を得るために、飯豊を本来の磐坂市辺押磐皇子の娘とし天皇の娘ではなく、皇后でもない女性をつくりあげた。元明の前例にしたのである。
 次に元正天皇である。元明天皇は首皇子(聖武天皇)に15歳になった時点で持統天皇にならって孫に譲位したかったのであるが、母光明皇后が藤原氏の出で、出自がよくない。周辺の皇族、貴族の反対が当然予想される。そこで氷高皇女(元正天皇)に譲位して、聖武天皇を一歩皇位に近つけるという手を打った。ここで皇后ではなく、皇太子妃でもなく天皇の母でもない、単に天皇の同母姉というだけの女帝をつくりあげたのである。まさに空前絶後である。首皇子はこの元正天皇の養子になった。ここでも飯豊皇女が利用された。飯豊は履中天皇の子から磐坂市辺押磐皇子の娘に格下げし、しかももともと仁賢・顕宋兄弟の妹だったものを姉にされ、まさに元正天皇と同じ血統に擬せられた。

 このようにして飯豊皇女はもともとは仁賢・顕宋兄弟の妹だったものを、その叔母にされ、さらに姉にされたのである。後世飯豊天皇を、謎の多い女性として、歴史家の諸説があり、まことに複雑で理解をしにくくしているが、それは後世、日本書紀を編纂するにあたり、上のように当時の女帝の正当性を担保するために都合よくとりあつかわれたのである。真相など判りはしない。日本書紀は720年完成である。飯豊の時代は484年である。この間約250年、記録もなく記憶にたよる時に、しかも王朝も異なる時代の先祖の血統など覚えていたとしても、自分たちの王統の正当性のために変更することなど何の躊躇もなかったであろう。問題は自分たち現代史の正当性をいかに確保するかである。皇極から元明、元正に至る、まさに血で血を洗う権力争いの中、いかに自分たちが皇統を維持する正当性があるかが第一義であったのである。


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多利思北孤とはだれか

  推古天皇時代、聖徳太子が遣隋使を派遣したことは有名な話である。この経緯を年表風にしるす。

 593 推古天皇皇位につく。聖徳太子摂政となる。

 595 高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となる

 600 日本が最初の遣隋使を送る(隋書)

 601 斑鳩宮を造営

 603 冠位十二階制定

 604 十七条憲法を制定

 605 太子斑鳩宮へ移り住んだ

 607 小野妹子らを隋に派遣。国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」と記し煬帝が激怒。

 608 裴世清が訪れた。小野妹子を隋に派遣(第2回)。同時に高向玄理、旻、南淵請安らが留学。

 一方、隋側の資料をみると「隋書」「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」で記述されている。俀王となっているのが特徴で中国史では一様に「倭」の文字をあてている。これによれば開皇20年(600年)と大業3年(607年)に隋に使者(遣隋使)を送ったという。

 名は「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌という

領地は「夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 其地勢東高西下都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」とあり里数を知らず日で距離を測る。国境は東西を旅するのに五ヶ月、南北を旅するのに三ヶ月かかり、それぞれ海に行き着く。「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺であるという。更に「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」とあり、妻は雞彌、後宮に600-700人の女がおり、太子の名は利歌彌多弗利という。領地内には「有阿蘇山 其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭」とあり、阿蘇山があり理由なく火を噴き天に接し、祷祭する。

隋使の裴世清らの道程は「都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於」とあり、大海の都斯麻國(対馬)、東に一支國(一支国)、竹斯國(筑紫)、東に秦王國(中国人の国)他10余国をへて海岸についたという。竹斯國から東はすべてであるという。

「使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」とあり、天を兄とし、日を弟とした。天が明けぬうち出てあぐらをかいて座り政務し、日が出ると政務をやめ弟にゆだねた。隋の高祖は義理がないとしてこれを改めさせたという。

 また、「内官有十二等 一曰大 次小 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數」とあり、12の官(冠位十二階)制度があるという。603年に制定された冠位十二階のことであろう。

 大業3年(607年)の国書に「聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云」とあり、仏教を学ぶための使者の国書が有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」であり、煬帝を怒らせたという。

さらに 609 『隋書』卷81 列傳第46 東夷にある王「姓阿毎 字多利思北孤 阿輩雞彌」は、『新唐書』東夷伝日本伝に「用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通」とあり用明天皇が多利思比孤であると記述している。

以上が「日本書紀」、「隋書」、「新唐書」の記述である。この古代史上最も有名な聖徳太子の記事が実は資料により異なるのである。一体何が史実なのかわからない。

近年聖徳太子についてはいろいろの説が書かれ、中学、高校の歴史で育った者にとってはとまどうことばかりである。曰く「聖徳太子は存在しなかった。」曰く「歴史教科書通りである。」曰く「歴史教科書の一部は史実ではない」

このうち、日本書紀の制作当時、藤原不比等は蘇我氏を不当に悪人にしあげ、その分聖徳太子を聖人にまつりあげたというのがある程度納得できる話であった。

しかし、肝心の中国側の記述が推古天皇も聖徳太子もなにも記述されていない。そして「新唐書」には用明天皇が多利思比孤であると記述しているのである。このときはすでに用明天皇は死んでいたのである。

中国の歴史書は日本の遣隋使が持参した国書にしたがい記録したのであろうから、嘘を書く必要は何もない。虚偽はどうも日本側にあるとしか思えない。隋も日本も同年同月の遣隋使であるからこれは間違いないのであろう。すると

(1) 用明天皇はこのとき生きていた。

(2) 用明天皇は推古天皇に代わっていたが、女性天皇になにか不都合を感じて、用明天皇のままで隋には報告した。

 また旧唐書には「日本は倭国の別種なり」と書かれており、小国日本が倭国を併合した様子が見え、旧唐書の新版としての新唐書に「用明 亦曰目多利思比孤」とかかれている。

このことと遣隋使国書にかかれている、阿蘇山が近くにあることから、九州王朝説がしばしば顔をだす。

 九州王朝説を簡単に紹介しておく。

(1) 壬申の乱までの記事はすべて九州での出来事である。日本書紀は九州王朝の史書からすべて大和での出来事に書き換えた。

(2) 特に白村江の戦は日本の大敗で是を機会に政権が大和にうつる。

(3) 唐に捕虜になった筑紫君薩夜麻は当時の九州王朝の皇帝である。

(4) 天武天皇は新王朝の初代天皇である。

等々、従来の史観を根底からくつがえすことばかりである。この説に賛成反対あり素人にはなかなか理解できない。


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日本語の起源

 西洋では古くから自分たちの言語は隣の国同士良く似ていると考えていた。実際ドイツ語の人々は苦も無くフランス語を話す。イタリア人もスペイン語を習得するのに大した時間は要しないようだ。英語、オランダ語も然り。これはラテン語という共通の祖先をもつためである。これはインド・ヨーロッパ語族の起源において、まず約8700年前にトルコ付近にいた農耕民族「ヒッタイト」の言葉が登場した。その後7000年前までにギリシャ語を含むグループやアルメニア語を含むグループが分れ、5000年前までに英独仏語につながるラテングループができた。

ラテン語はローマ帝国滅亡とともに各地のラテン系方言が独立して自分たちのしゃべりやすい言語に進化していった結果、各地区語に発展していった。これは系統論といって主言語が発展的に他の言語に変更されてゆくことをいう(図1)。それに対して日本語はそのルーツをたどるのに確固とした言語が見当たらない。よくよく検討の結果、複数の言語が発展的に新しい言語に収束する現象を成立論という(図2)。

系統論と成立論.

 図1系統論 図2成立論

系統論では比較的わかりやすく古くから、この系統をしらべられた。それはいつごろ分離していったかをしらべるのに、関心が集中した。その結果生まれたのが言語年代学である。例えば英語とフランス語の分離年代は約2000年前である。

一方、日本語の起源について古くは新井白石や他の学者が個々に研究をすすめてきた。明治にはいってからも金田一京助はじめ、多数の学者が関心をもって研究にあたったが、日本語の起源についてはおろか、世界のどのような人類の言語のながれを汲むか明らかになっていない。勿論その中にアイヌ説、朝鮮語説、などが説かれてきたが、大方の人が納得できるものではなかった。

それではその成立論において、どの言語が、いつごろ、どのくらいの割合で流入してきたのかということについては、結論がでていなかった。また一部言語が日本語に似ているといって、書物に出版されているが似ている、似ていないは主観的な感覚であり、万民が認めるものではなかったし、確率的な結果で表現されたものではなかった。

日本語と琉球語をとりあげてみよう。

意味         所    物    此   角   腰  年  白 十

日本語(東京方言)tokoro  mono kono  kado kosi tosi siro too

琉球語(首里方言)tukuru munu kunu kadu kusi tusi siru tuu

世界のどのような二つの言語をとってみても、その意味と音が一致する言語は必ず存在する。例えば日本語の「そう」と英語の「so」、日本語の「あんた」とアラビヤ語のお前を意味する「アンタ(anta)」などである。これが偶然か必然か見分ける方法はない。しかし上の日本語と琉球語を対比すると、これが偶然とは思えない。「o」が「u」に規則正しく変換されているのが分る。これを「音韻対応の法則」という。 殆どの言葉でこのような規則ただしく変換されていれば、たとえば「琉球語の雲であるkumuは日本語のkumoと関係がある。琉球語の星(husi)は日本語の(hosi)のことである。」といっても誰も偶然とは思わない。日本語と琉球語とは「o」と「u」の対応ばかりでなく、日本語の「e」と琉球語の「i」も同じである。これは琉球は、日本本土にいた人種が、何らかの理由で琉球に移り住んで、まだ2000年程度しか経っていない。すなわち同じ祖語をもつ二つの言語は、2000年ほど経っても、音韻対応の法則が残る程度の変化しかしない、ということである。この対応をアイヌや朝鮮語をしらべても、この法則がみられない。しかし後に記す方法で確率論的に統計をとると、他の言語に較べ、お互いに近い関係にあったことがわかっている。これは日本語、朝鮮語、アイヌ語が同じ祖語であったとしても相当古くから分かれてしまったことを指している。

東京大学の金沢庄三郎氏は1907年日本語と朝鮮語について同系説を発表したが東洋史学者の白鳥庫吉氏はそれを批判し「金沢氏の同系論は、音韻論から文法論にわたり、微にいり細をうがち、いやしくも似た関係は細大漏らさず新古を問わず採って、全面的に両言語の一致を強調し、その結果どうやら、この両言語があまりに近すぎることになるのではないかと思われるほどである。この日韓関係は、帰納の結果であろうが、むしろ出発点となっているようである。」また「古今の語辞、死語、廃語にいたるまで、細大もらさず、砂中に金を求めるがごとく精緻をきわめる比較である。ただし、それほど精緻な比較をもってしても、なおかつ一致する語彙が、この程度にとどまることは、案外朝鮮語と日本語の距離はそうとう遠いものではないかという印象をもつ。」

日本語現代上古

上は朝鮮語と日本語の身体語の一部である。これでは同系言語とはいいにくい。

さて日本語を語るとき基本語順の分布について検討しなければならない。

sovsvo

上は全世界の語順の分布である。世界の1331の言語から

SOV 主語(S) 目的語(O) 動詞(V)の順 ex日本語「私は本を読む」

SVO ex英語 「I read a book」 中国語「我 読 書」

これほどの言語があるのかと思う。ここで日本語のSOVは言語数で世界最多である。使用人口もインド亜大陸中心に10億の人口で使われている。英語、中国語など有力国がSVOであるため少し印象が異なるのである。

日本語の形成についての最近の結論を安本美典氏の見解でしめす。

(1) 今から5000年〜10000年前頃ユーラシア大陸の内部から、東北部に押し出された言語があった。それは、アルタイ系諸言語の祖語と近縁関係にあったとみられる。

(2) 古極東アジア言語を用いる人々は朝鮮、北海道、そして北海道以外の日本に別れ住み、それぞれの言語を独自に発展させて、朝鮮語、アイヌ語、日本語になっていった。3つの言語に共通の「語順」などは、古極東語に由来するものとみられる。

(3) 朝鮮語はその後アルタイ諸言語からの影響を受け続け、アイヌ語は古極東アジア語の古代的特長を比較的多く残したかとみられる。日本語は、その後も朝鮮語の影響を受け続ける一方で、縄文期にはインドネシア系言語、カンボジア(クメール)系言語の流入を受け、それらが一般的な基礎語彙をもたらした。

(4) 紀元前2,3世紀ころ、弥生時代が始まる前後に、おそらく稲作などとともに、江南からビルマ系の言語が日本に押しかけてきたと考えられる。身体語、数詞、代名詞、植物関係の語が、これらの言語の流入によってもたらされた。

(5) 紀元前後から約2000年にわたり、中国語が流入し、多数の文化的語彙をもたらし、現在の日本語が形成されていった。

民族学者で慶大教授であった松本信広は、70年前その著「日本民族文化の起源」で「日本語の構造は吾人の知る範囲においては、むしろ北方アジア大陸の諸語と類似をもっている。もとよりこの類似は、両語の本源的一致をとくにはなおはだはだ不十分であり、ことに両者共通の重要語彙を有していないことは、この問題の解決のうえにおける、最大難関である。一方日本諸語における人種の構成に南方より来たった有力な分子の存在する事実は、種々の資料を通じて推定せられ、殆ど確定的事実である。」

この文章は次ぎの諸点において重要である。

(1) 日本語の文章の構造、つまり、「私は、本を、読む」などの言葉を並べる順序などは、北方アジア大陸の諸語(たとえば、ツングース満州語やモンゴル語などのアルタイ諸語など)と類似している。

(2) しかし、日本語は北方アジア大陸(たとえばアルタイ)の諸語などとは、共通の重要語彙をもっていない。

(3) 語彙を比較する場合、重要諸語(今日では、基礎語彙と、ふつういわれる)を比較するべきである、と考えられている。

(4) 重要語彙(基礎語彙)をみると「南方より来たった有力な分子」(たとえば、インドネシア系言語やカンボジア語(クメール語)など)の存在することは、殆ど確定的である、と指摘している。

いま、日本人を定義するとき、「日本列島の中に住み、日本語を話す人間が日本人」という、まことにシンプルに定義できるのが、我々日本であり、日本人であり、日本語である。そしておそらく、反論のない定義である。それにくらべて、他国を見よ。中国は国を定義するのに何を持って定義するのか、中国には中国といってほしくない人々がごまんといる。国境などあってないがごとく、ふくれたりしぼんだりする。インドはヒンズー国といえるのか。ヒンズー語はインドでもほんの一部である。ともに多数の言語を話し、仕方なく英語を共通語にしなければならなくなった。その結果偶然にも英語ができて、零を発明した数学の素養のあるインドが新しい新興国となってきた。しかし、自分たちの言語を自らつくりあげたのではない。日本が日本を意識しはじめたのは奈良飛鳥の時代であった。白村江の戦いにやぶれ、唐の属国になる危機に日本のIDを意識し、倭国を日本国に切り替え、従来の大王を天皇に名を変えたときに、日本を意識した。それ以降日本の中でだけ生活した。実質長い鎖国状態であった。それも日本が適度な規模を持つ、人口と文化があったからである。江戸末期黒船があらわれ、鎖国が破れたとき、改めて日本は日本を意識した。列強に侵略されまいと、日本という、結束すべき単位に何のためらいもなく、従来の日本の定義を採用できた。それができたのも、日本と言う国が四面海で囲われ、大陸から遠くなく近くなく、一度日本国にはいれば逃げることのできない環境になる。全人口を皆殺しにし、ないしは海に追い出して、他の民族が新たに入り込むにはこの国は大きすぎた。したがって、入り込む一方の環境が言語にも文化にも好影響をあたえた。日本ほど多くの文化財をもつ国はない。言語も同じ環境で受け入れ一方の蓄積でできたのが現在の日本語である。

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計量比較言語学による言語比較

今から70000年前から始まる最終氷河期は14000年前まで続く。このころは地上の多くが氷河で覆われ、海面が今から100メートル程低かったといわれている。氷河が海水を氷にしていたのである。この中でスンダランドといわれるタイ湾から南支那海をめぐる島、ジャワ、スマトラ、ボルネオとインドシナ半島からマレー半島にかけて今でも広大な大陸棚が存在する。これが100メートル底まで地上であった。図1の大陸棚が一帯陸地であった。すなわち現在の海岸線は100メートルの高地であったのだ。このころの旧人たちは多くが温暖なスンダランドに住み、人口密集地であった。

スンダランド

図1 スンダランド(薄青色の部分が陸地と考えられる)

それが地球温暖化にみまわれ、12000年前から6000年前にかけて、氷河が溶け、海面がどんどんあがってきた。約6000年間、100メートルの地上隆起であるから、平均1年で1.7cmの隆起である。もちろん平均であるから隆起の激しい時代、遅い時代があったろうが、このような地上隆起は度重なる天変地異に見舞われたであろう。当時の海岸線に住んでいた、現地人にとって体に感じられる隆起であったかどうかは、わからないが、1020年たってみたら、今まで住んでいたところが海になっていることは、感じられたのではないかと思う。なにしろ温暖でおそらく最も地上で住みやすい地域であったから、自然と人口の移動がおこなわれたであろう。ある者はジャワ、スマトラ、ボルネオにとりのこされた。あるものはインドシナ半島やマレー半島人になった。しかしなおかつ、多くの人々は大陸奥地からシベリヤにいたり、寒冷化に堪える人間に変化したと思われる。

ちょうどその頃、一部の人間は南洋の島々に渡っていった。彼らは海洋民として、操船にたけ、造船に長じていたらしい。一部はニューギニアにオーストラリアにタヒチに、ハワイにまで分布したらしいのである。まだスンダランドが大陸でこれらの島々はまだ指呼の間であったのである。図2は、これらに住む人々の広がりを示している。東は南米に近いイースター島、北はハワイ諸島、ジャワ、スマトラ、ニューギニアから西はマダガスカルに至る広大な地域、島々の言語から、これらの人々の拡散した状況が理解できるのである。

オーストロネシア分布

図2 オーストロネシア言語の広がり

これを計量比較言語学の手法を使って、説明したい。

これらの人々の数詞に一定の法則性がある。1,2、・・・10の発音を数詞にあらわし、その第一子音を比較するのである。図4の国名が対象の国々である。上にあげた赤道南部の大方の国をあげている。

図3 オーストロネシア諸語の数詞の一部

オーストロネシア諸言

3の図の説明をする。

この地域の国々の言語を、日本語を含めて30言語の一部を挙げた。(図4の国名)

縦は1,2,3、、、、10の数詞である。横に30言語ならべる。そしてある言語(例えばイースター島のラバヌイ語)の1,2,3、、、、10の数詞をローマ字で記す。その数字の語頭音を一字記す。これを全言語について実施する。

次に図4をみていただきたい。この表はたとえばラバヌイ語について(1)日本語と語頭音が同じである音の個数をあげる。この場合“0”である。次に(2)パイワン語とについておなじことをする。一致数は“2”個である。そして全言語について同じことをくりかえし、図4の如く、その一致度数を行列の形に表現したものが図4である。この行列は対照行列であるから、右上半分は省略した。

図4 南方諸言語と日本語の一致度

これを見ると日本語と南方言語とは殆ど一致しないことが分る

南方諸言語と日本語の一致度

南洋諸言語の因子分析結果

図5 オーストロネシア諸言語の因子分析結果

  次に因子分析により、因子同士の距離の遠近を示す手法により散布図にプロットしたものが図5である。これをみるとお互いに近縁にある言語が固まって分布しているのが分る。さらにインドネシア語派、メラネシア語派、ポリネシア語派が明確に、分布している。

これがなんとなく似ているという、従来の勘と経験による、相似関係を数量的に明確化することになる。

 同じ派生関係にあるインドヨーロッパ言語を、同じ分析手法を使って因子分析した結果を図6で示す。

同じインドヨーロッパ言語の中でもゲルマン語派、スラブ言語派、ラテン語派、インドイラニアン語派と明確に分れているのが分る。

インドヨーロッパ言語の因子分析結果

図6 インドヨーロッパ語の因子分析

同じインドヨーロッパ言語でもゲルマン、スラブ、ラテン、インドイラニアン語派に明確に分布され、お互いの語派の間に距離差が見て取れるのである。

ふたたびスンダランドに話をもどす。水平線が今より100米低ければ現在の海岸線は数100キロ米、海に入ったところとなろう。ということは、現在の海岸線あたりは山の上、少なくとも100米の高地であったことになろう。当時の原人たちは縄文時代以下の生活をしていたことであろう。農耕や牧畜はまだ先の話である。したがって、山での動物の捕獲や、木の実の採集より、海産物のほうが手に入れやすいことを考えれば、ほとんどの人々が海岸沿岸に住んでいたことが予想できる。このことは数千万人の人々が、後退する海岸線に沿って移住したことになる。5000年の間の出来事であっても、人々が移動したことには変わりがない。当時の文明のない人々は、ボキャブラリーも少なく、遠隔意思疎通の必要がないため、言語は多岐に分れ、現在でもインドシナ方面の人々は人種のるつぼ、多言語のるつぼである。スンダランドの地殻変動による、人間移動がいかに激しかったかが、予想できるのである。

ヨーロッパは4000年、5000年の文明の歴史をもつ。かろうじて文字の文明も残っている。メソポタミア、エジプト文明などである。そのために、今まで述べた言語派生についての事実はわかっていた。これが、どの程度近いか、離れているかの尺度が計量比較言語学により、与えられたことになる。

一方文明時代のないスンダランドには歴史の記録がないために、他の手段によるしか、当時のことを知る手段がない。幸い広大な島々に散った人々の言語が残った。この言語の研究により、オーストロネシアの人々が大きくはポリネシア、メラネシア、インドネシア語派に分かれるが、オーストロネシア語として派生していったことが明快になってきた。言語の歴史がどういうものか、しだいにわかってきたのである。

一方、日本語についてはインド・ヨーロッパ言語やオーストロネシア言語と異なる経過を辿ってきた。この日本語については、当論文の主題であるから論を変えて記述したい。

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言語の分裂年代を知る

(1)言語年代学とは

今回は言語年代学について述べる。言語年代学は祖語Pを共有していた言語Aと言語Bがあるとする。例えば英語とフランス語である。一般的にこの言語が千年後にs%がもとの言語が残存し、100−sが異なった言語に磨耗したとする。これが年月が経つうちにどんどん懸け離れ、数t千年後には全く異なった言語になってしまう。このような二つの言語の分裂年代を推定する学問を「言語年代学」という。この理論はアメリカの言語学者スワデシュ(19091967)が開発し多くの学者が補強していった理論である。我国では東大の服部四郎氏が日本に紹介された。

(2)基礎語彙について

 次に基礎語彙について述べる。基礎語彙の概念はスワデシュの卓抜したアイデアである。二つの言語の「近さの度合い」を測る計量的な「ものさし」である。

基礎語彙というのは

1.言語には「基礎語彙」と呼ばれる、文化に依存しない、普遍的な一群の単語が存在する。

2.この「基礎語彙」は他言語からの影響を受けにくく、長い年代に渡ってほとんど変化しないが、1000年単位の時間で見ると、一定の比率で他の語に置き換わっていく。

3.この「変化率」は言語によらず一定であり、従って比較する言語で一致する基礎語彙の数を調べると、両者がいつ祖語から分離したかを計算する事ができる。

現代で考えても結構言語が変わっているのを見受けることができる。特に西洋語が日本に入ってきた場合、例えばLとRの発音は日本では区別せず、いつか同じ音として日本語化する。短縮語も1000年といはず長年月を要せずに、元の言葉を忘れるほどその方が一般化する。日本に限らず方言はいたるところにあるが、標準語が強い文化で流布すれば、いつしか標準語に統一されるが、地方で発音しにくい発音はそのまま残る。特に長い年月では、侵略され、言語が統一された民族は、強い民族の言葉を使わされることになるが、発音できない音はどうしても残り、言語が変化するのである。

  基礎語彙は言語の近さを計るものさしであり慎重に選ばなければならない。すなわち人間の集団があれば必ず、言葉として表現されるwordを採用する。1,2,3、、、、の数詞や海、山、川、暑い寒い、など、目、鼻、口など、である。

  文明語などは慎重でなければならない。例えば仏教語などは、仏教伝来以降言語が分裂したのであれば有効であるが、それ以前を調べたければもともと言語がないわけであるから、採用されるべきでない。日本の場合農耕用語は大変微妙である。弥生以前か以後かでは、ことの重要さが大変異なる。これは後にでるが、日本と南方地方とのかかわりで、重要である。

  基礎言語は流行語と違い、言葉の磨耗に強い抵抗力があり、それこそ数千年単位でしか、変化しない。そのような言葉を100語または200語選んだものを基礎100、基礎200という。

今後言葉の比較に使う最も重要な概念である。(図3参照)

スワデシュは100語、200語の選定には多くの言語学者に選定を依頼したようである。そして、比較したいあらゆる種類の言語にたいして、同じ意味のwordをえらびだした。それが図3である。最初の100が語彙100語であり、以降200までが語彙200である。

(3)言語年代学の理論式を求める

  さて、今ある同じ言葉(祖語)を使う民族が二つの地域に分かれて住んでいたとする。そしてそれぞれの地域でそれぞれの言葉AとBを独立に発展させて、t千年経過したとする。

1000年後に s %だけ言葉が残留すると、言語Aは100語でsだけ残留し、2000年後はsの2乗だけ残存する。t千年後には、s(t乗)%残留することになる。同じく言葉Bもt千年後には、s(t乗)%残留することになる。すなはち、A、B両言語が、100語の基礎語彙のうち1000年後は100*s*s、t千年後には100*s(t乗)*s(t乗)残留したことになる。

ところで、t千年後の現在、A、B両言語の基礎言語のうち、共通のものが何個あるかは、実際に数えてみればわかることである。そこで100個のうちa個が共通に残留していたとすると

a=100*s<2t>    (1)…….s<2t>はsの2t乗

aは実際しらべれば分る数字であるから、残存率rは

    r = a / 100(しらべた基礎語彙の数)   (2)

tは両辺の対数をとってtについて解くと

    t=log r/2log s              (3)

の一般式を得る。

ここでs(基礎語彙残留率) は経験的にほぼ0.8の定数に近い。したがって、分裂年代をしらべるにはA、B両基礎言語の一致数をしらべれば一意的に t が分ることになるのなる。ここで言語年代学は図1のごとく、一致数と分裂年代の指数関数を描き、図2の一致数と分裂年代の数表を求めることに帰着する。

言語年代学t-r表

1指数グラフ

一致数と分裂年代対比表

2数表

基礎語彙200

3基礎語彙100、200

上式が成り立つための基本仮定がある。

仮定1 二つの言語A,Bは共に同じ祖語Pから分裂したものであること。すなわち言語A、Bは同系であることは、あらかじめ証明されていること。

仮定2 ある言語の1000年当たりの残存率sはいつの時代でも、つねにほぼ一定とみなしうること。

仮定3 1000年当たりの言語Aの基礎語彙の残存率s(A)は、言語Bの基礎言語s(B)とほぼ等しいとみなしうること。

仮定4 言語A,Bはたがいにほぼ独立に、それぞれの基礎言語を発展させたものであること。

ながらくニューギニアの諸言語の研究にたずさわった、言語学者コーワンは語彙統計学と言語年代学を分けて用い次のような定義をした。

語彙統計学 A,B、二つの言語の一致の度合い、あるいは、相関の大きさは、偶然で期待される以上のものかどうか調べる、一連の研究をいい、次回に取り上げる。

言語年代学 A、B二つの言語がいつ分裂したかをしらべる一連の研究。これは、基礎語彙などの磨耗のしかたに数学的なモデルを設定し、それによって推定をおこなうこと。

コーワン以前はこの二つの学問の区別がなく、同じ概念で使っていたようである。

この言語学の一連の数学モデルが提唱されてから、数々の議論がかわされた。数学モデルであることが、議論をまきおこした。その議論はモデルそのものを批判するものも多かったようであるが、仮定に関する議論も多かったようである。

(4)残存率は一定か

仮定2の基礎語彙の残存率が一定かの問題について、服部四郎は「調査票の語彙を含むような種類の単語からなる一般的な日常語彙はほぼ一定の速度で変化するということを示す証拠が、しだいに集った」と書いている。図4は各言語の1000年当たりの基礎語彙残存率の表である。

4を見ると、「1000年当たりの残存率s」は言語が異なっていてもほぼ0.8前後であることがわかる。これは仮定3も満足する。

ロマンス語の言語年代

4 1000年当たりの残存率s

次に仮定4をとりあげる。スワデシュは「基礎語彙」は非文化語なのでどのような人類集団でも、それにあたる語をもとから持っており、借用語が、その中で占める割合を低くおさえることができる。たしかに「映画」などの文化語は「活動写真」「映画」「シネマ」「キネマ」など、時代によって変化しやすいが、「目」「歯」などの基礎語彙は千年以上前の奈良時代も現代も同じである。

(5)借用語、残存語

  次ぎに借用語等の英語とフランス語とドイツ語の分析をおこなっている。

       (1)借用語 (2)残存語 (3)無関係語

英語と仏語     6%    27%      67%

英語と独語     2      60        38

仏語と独語     3      29       68

(図5)英語、独語、仏語の借用、残存、無関係語

すなわち基礎語彙100(または200、または全ての基礎語彙)のうち英仏間で借用された語は6パーセント、共通の残存語が27%、新たな語が67%である。英語の一般語(基礎語彙以外)の借用語は50%、とほぼ半数で、ここ2000年来の交流の結果である。英仏間の分裂は5000年前である。基礎語彙における、借用語はいかに少ないかが分るのである。英独、仏独も同様である。

  これに対してドブソン、クルスカル等の数学者から数学的基礎の誤りを指摘した反論がでている。しかし「ある特定の語彙統計学のモデルが、ある点で誤りが示されたとしても、そのモデルを完全に捨て去るより、それを改良し、修正するほうが当を得ているように思う」と述べている。

英語と独語とは分裂してから2000年(t=2)たって図5のごとく残存語が60%であれば、1000年当たりの共通残存率は0.775(rout(0.6))で、一方図4から英語と独語の1000年当たりの残存率は0.85と0.775で、両者の積は0.663で相当の乖離がある。

同様に英語、仏語にも0.770と0.672となり乖離は大きい。服部四郎は述べる。

「スワデシュの式では英語と独語が分裂したのは今から1200年前ということになり、アングロサクソン人が五世紀後半に英国に侵入したという歴史的事実にかけはなれたことになる。」と。

(6)ロマンス語の実際の分裂年代

 ケンタッキー大学のレアは論文「言語年代学の妥当性について」の中で、ロマンス語の分裂研究において、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、フランス語、ルーマニア語、カタロニア語、サルニジア語、ルートロマン語の八つをとりあげ、図6の結果を得ている。

ロマンス語の言語年代

6 ロマンス語についての分裂研究

6を見てレアはこの表が示す分裂年代は全体的に小さすぎるという。「ロマンス語は、はやくも、紀元前250年ないし200年には、すでに、形態学的にも、語彙的にも、ある程度分裂をみせはじめていることは一般的に受け入れられている。すなはち、ロマンス言語は、語彙的には、分裂し始めてから2200年近くなるのである。そして、言語年代学を用いることにより得られる1080年という数字は、知られている数字からあまりにかけはなれている。」

  これに対して、さらに他の人は、「四世紀末まではローマ帝国全域にわたってロマンス語のおよその共通性が保持され・・・・、五世紀におけるゲルマン民族の大挙しての南下は、ローマ帝国を分裂させ地方別の言語を発達させた。」

 すなはちロマンス語の言語の分裂の時期はレアが説いているよりも遅く、4,5世紀ごろとみてよいであろう。それにしても言語年代学の理論値は小さすぎる。即ち年代が新しくでてしまう。

推定値tと分裂した真の年代τとでは

    t=<τ     (4)

となる。後に原因は考えるが、理論値tは分裂年代の最下限といえるであろう。

(7)理論式の補正

以下は納得できる歴史知識である。このように理論値を補正しグラフを作って、一般に信用できる図1を得る。言い換えれば欧印諸語のデータをもとにして実験式的に言語年代学式を作り、他の言語に適用しようとする。このとき理論式に用いた残存率は、他言語にも適用できることは、別に証明されている。

(イ)ギリシャ語と印欧諸言語の分裂 7300年前

(ロ)アルバニア語とゲルマン、ラテン、スラブ語の分裂時代 6900年前

(ハ)インド・イラニアン語とゲルマン、ラテン、スラブ語の分裂年代 6900年前

    ここでヒンディー語と英語の一致数64をもとに6900年にプロット

(ニ)スラブ語とゲルマン、ラテン語の分裂年代 6500年前

    ここで英語とロシア語の一致数56から、6500年にプロット

(ホ)ゲルマン語とラテン語の分裂年代 5500年前

    ドイツ語とスペイン語の一致数70、英語とフランス語の一致数74から5500年にプロット

(ヘ)ドイツ語と北ゲルマン諸語の分裂年代1750年前

    ドイツ語とスエーデン語の一致数148より分裂年代1750をプロット

(ト)ラテン語の分裂年代1700年前

    フランス語とスペイン語の一致数139から分裂年代1700

を得る。

 いろいろ、試行錯誤の結果、プロセスは省略するが次の式が考案された。tを分裂年代、一致率rとして

グラフA

  t1=logr/log0.775   t2=logr/log0.8762     (5)    言語年代学グラフ7

    (ただし、t1はt<3000、t2はt>3000) 一致数70以上、一致率35%以上

グラフC

=logr/log0.775         (9)

グラフD

  t=logr/log84245

グラフB  下記三式の合成

  t=logr/log(0.81)*(0.81)   即ち  t=logr/log0.656   (6)

  t=logr/log0.775          (7)

=logr/log0.84245        (8)

式を比較すると分裂年代は式Dは全体的に古く、即ち、昔となり、式Cは分裂年代は最近となる。これは年代が古くなればなるほど、基礎語彙の中の残りやすい単語だけが、いつまでも残って安定し、そのため同系の二つの言語の場合、共通残存語率rが、次第に大きくなる傾向になるらしい。たとえば、特定の30語だけが、いつまでたっても、もとの形で残れば、それらの30語のみの共通残存語率はいつまでたっても百パーセント近くになることになる。つまり二つの言語の基礎語彙の磨耗の仕方が、独立ではなく、基礎語彙表において、言語Aにおいて磨耗した単語は、言語Bにおいても、磨耗しやすく、言語Aにおいて残存しやすい単語は言語Bにおいても残存しやすい傾向が、年代が古くなるにしたがって強くなり、その結果、千年当たりの共通残存語率が、年月の経過とともに大きくなっていくと考えられる。

これらを考えると3000年を境にして、式をグラフぅ哀薀Bが最も現実に近いようだ。

  日本の言語の源流を得るのが当テーマの主題である。日本語は今まで調べたことだけでは、データが不足している。これは日本語が他言語から格段に懸け離れ、どこの言語から派生したか、「比較言語学」でも「言語年代学」でも解決しないし、多数の多民族の言語が流入し、その言語も割合もわからない。これには近隣の多数の言語の近似性を数学的、統計的に調べなければならない。その方法が「語彙統計学」である。

この点は次回に譲るとして「言語年代学」から得られたデータを示しておこう。

        (A)残存率(1000年)  実際に残存率

京都方言    0.7843         0.7471

東京方言    0.8044         0.7701

亀山方言    0.7896         0.7528

これはおよそ1200年前の奈良時代の日本語と現代の方言の残存率である。これを見ると図5で示した各言語の1000年当たりの残存率と大して変わらない。

同じく朝鮮語も中期朝鮮語と比較しても同じような結果である。これは、一部いわれているような、2000年前日本では朝鮮語が理解できていたという仮設が全く信用できないものである。

しかし、日本語はやはり、朝鮮語と一番おおくの類似をしめすようである。現代日本語と現代朝鮮語は一致数61、これは同じ祖語であったとしたら6000年前に分裂したことになる。

同じように図1からデータをひろうと

日本と沖縄  一致数128で2500年前に分裂

朝鮮語とアイヌ語(幌別方言)は一致数52 7000年前

日本語とレプチャ語は一致数47

これ以上は確率的に分裂言語とは言い難いのである。

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語彙統計学

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ヒスト日朝ア首特性値200

語彙統計学

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2010-11-15 18:14
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再び日本語の源泉を探る

1)日本語の特徴

日本語の源流を探るのに西洋言語よりはるかに困難を伴う。その原因は日本語が祖語から分裂してから数千年の時間が経ち、祖語がわからなくなっているのである。従ってその祖語から調べなければならない。日本語と琉球語が音韻対応の法則があるように、分かれてから2000年とたたない言語同士は、例えば琉球語の祖語は日本古語であると、なにも難しく考えなくとも分るし、異論もない。この関係が西洋諸語やオーストロネシアの国々では、音韻対応の法則で祖語が分るのである。ただ、いつごろ分裂したのかの問題がのこる。しかし、琉球語の祖語であり、日本語の祖語である、原日本語の祖語は、一体何か、いままでの言語学の数式理論に加え、語彙統計学なる学問が提起されてきたのである。

従来直感で似ているからと、言語学の大御所が、強烈で主観的な精神と得意の著述で論理的検討方法を知らない大部分の大衆にPRしたものであるから、大きな誤解を世間にあたえてしまっていた。もっとも、日本の古代史の分野では記紀以外の著述が存在しないため、どうしても推理小説めいて、大きな声の持主の意見に流される傾向になる。推理小説作家や哲学者であるが、これは前提が前提だけに、なにをいわれても、一般の愛好家は信じるしかない。このようなケースは数限りある。静かにまじめに研究している、大部分の学者は反論することもしない。有名な旧石器時代のある学者が“神の手“なる手で短時間のうちに日本の旧石器時代人の存在を30万年、50万年の古さに押し上げた。言語学も何の前提もなく数万個のwordの中から200300の言語が似ているからといって、日本祖語にしようとした。この程度の偶然性はどの言語からでも発見できるのである。

2)検定法

基礎語彙については前回紹介した。今回は主役を演ずることになる。慎重な選択により選択された、基礎語彙を各言語間で比較するときに、何をもって、一致、不一致を判定するのかが重要である。この判定の手法が何種類かある、検定法である。

語頭音検定法

スタンフォード大学の数学者ポイアやバーミンガム大学のロスらが示した基準である。

母音も子音もふくめて語頭音の一致をしらべるもので、子音は母音より変化しにくく、第二番目、第三番目の子音より変化しにくいのが一般的傾向である。中国語、タイ語、ベトナム語のような単音節の単語を基本とする言葉の比較にも適用できる。

CVC検定法

これは単語のCVC(子音―母音―子音)が一致していれば一致と看做す検定である。東京方言の「kumo(雲)」と沖縄首里方面の「kumu」はCVCで一致している。これはスワデシなどが用いた検定法である。日本では方言などによい「モノサシ」となるが、日本語の起源探求には不適当である。無関係の二言語をこの検定法を適用させると、一致はせいぜい1ないし2程度で偶然による一致率が低すぎるので3ないし4程度の一致で有意の一致と看做してしまうのである。つまりCVC検定法は偶然による一致の度合いを低く設定するために統計学的に本来の偶然以上の一致を、正確には検出しにくくなってしまうのである。

第一子音検定法

「東京方言」で「tori(鳥)」は首里方言では「tui」という。つまり第一子音が一致する。このような現象を第一子音検定法といい、日本語のような祖語を同じくする言語が遠くはなれた関係にあるものに有効である。

s1s2検定、c1c2検定

s1s2検定は単語の第一番目と第二番目の一致するとき、一致とみなす。c1c2検定は第一子音と第二子音が一致すると一致とみなす。各々長所があり、比較する言語の特質に応じて採用する。

3)シフト法

次に統計化の手法について述べる。二つの言葉の単語の一致の度合いが、偶然で期待される以上のものかどうか、統計的の方法の中で、シフト法について説明したい。カリフォルニア大学の言語学者オズワルドによって提案されたものである。考え方が簡明であり、かつ実際の処理が容易である。ある二つの言語、例えば日本語と朝鮮語とを基礎語彙200を各々ならべる。それを日本語(w1,w2w3・・・・w200)と朝鮮語(v1v2v3・・・・v200)とし、最初にw1v1を、w2v2を、w3v3を、・・・・w200v200を第一子音検定法する。この200個の組み合わせの中に第一番目の子音がいくつ一致しているかを調べる。

次に一つずつずらし、w1v2w2v3w3v4・・・・、w200v1とをそれぞれ比較し、その200個の組み合わせの中での語頭の音の一致数をもとめる。

次にまた一つずらして、w1v3w2v4w3v5・・・・w200v2を比較。以下同様にしてw1v200w2v1w3v2・・・・w200v199まで繰り返す。このように繰り返すならば、全部で200個の一致度の度数分布表をつくる。

 ここで重要なことはw1v1・・・の同一safixで比較したときの一致数(粗点x0 とする。)と他の199の偶然による一致数(背景点 xという)に比べ、その数が殆ど変わりがなければ、日本語と朝鮮語との一致数は偶然によるものであると考えられる。統計的に一致が偶然でなければ、祖語が同一であるとする。ここで音韻の変化によりかつて日本古語ではe(ウムラント)とつけたものやaeを一緒に書いたような音(活字にないので申し訳ない)など色々現在では発音しない音がでるが、比較するときに一致とみなすかどうかはあらかじめ決めておかなければならない。いま、第一子音検定法を使ったが、朝鮮語と日本語のような、一見同じ祖語かどうかわからないようなものに対する「ものさし」として、適当であると思われるからであり、他の言語でよく似てる言語同士を比較する場合には他の方法(例えば、CVC検定)のほうがよく数値化できるのである。この方法はコンピュータ化に便利で、統計計算も含めてコンピュータなくして計算できない。

4)確率化する

今日本語の祖語として「古極東アジア語」なるものがあったと仮定している。それらのメンバーとして「日本語」「朝鮮語」「アイヌ語」を調べるが、その前に言語比較を行なう場合の確からしさの判定として確率統計手法の必要な知識をまとめておく。

「中期朝鮮語」と「アイヌ語幌別方言」のシフト法による基礎200語のヒストグラフは図***であり、さらに統計の特性値が図***である。この結果をまとめる。

この言語間の「第一番目の子音」の一致数は200語中57であった。すなわち粗点x057である。

199個の偶然による一致数、すなわち背景点xを求め、その度数分布が図***である。これは正規分布するものである。

背景点の平均値x〜は、37.362である。

背景点の標準偏差s4.891である。

偏差値z4.015である。ここでz=(x0x~/s = (5737.362)/4.8914.015

この値以上の偏差値が得られる確率をもとめれば0.000030となる。すなはち「中期朝鮮語」と「アイヌ語幌別方言」との間にみられるような一致が、偶然によって得られる確率は10万回に3回程度であるということである。これは10円玉をつずけて、15回おもてが連続してでる確率と等しいということある。このようなことがおきる確率はかなりゼロに近いということで、統計学では確率0.01、または、確率0.05を基準として、偶然以上の要因があると主張できる。

ヒスト朝ア200

図1-1(朝鮮語とアイヌ語の比較)

ヒスト日ア200

図1-2(日本語とアイヌ語)の比較

ヒスト日朝200

図1-3(日本語と朝鮮語)の比較

ヒスト日首200

図1-4(日本語と首里方言)の比較

比較基礎語彙100200

図2 4言語の統計特性値

5)古極東アジア語を比較する

以上の手法を繰り返し、「上古日本語」「中期朝鮮語」「アイヌ語幌別方言」の三言語について各々のヒストグラムと統計特性値を図1-1から図1-4に示す。また「上古日本語」と「首里方言」も同様にしめす。さらに特性値は基礎100語についても示している(図2)。この結果以下のことが言える。

ヾ霑淡贏辰砲いて日本語、朝鮮語、アイヌ語の三つのあいだでは、朝鮮語とアイヌ語でもっとも強い一致をしめす。

基礎語彙において日本語と朝鮮語との間にも偶然以上の一致がみられる。

4霑淡生譴砲いて日本語とアイヌ語との一致はやや淡い。別にさらに基礎語彙以外の語彙を含んだCVC検定を行なった場合、偶然以上の一致が認められた。これは、やや後世にアイヌと日本人との混血が行なわれた頃の借用語が多かったと思われる。

 また検定するまでもなく予想とおり、上古日本語と首里方言は偶然とはいえない一致がみられた。これら四語の比較をすると以下の図2である。さらに極東アジア三言語については「この三つは音韻や文法の面でも、基礎語彙の面でも、ある程度のまとまりをみせる。世界の言語の中で、音韻、文法、基礎語彙の三つについて日本語にある程度近いという条件を満足させるのは、朝鮮語とアイヌ語だけである。アルタイ諸言語は音韻、文法の面では日本語とある程度の近さはみせるが、基礎語彙の近さにおいては後出の南方系言語のインドネシア語にくらべて不利である。逆に、南方のインドネシア語では基礎言語において、朝鮮語以上に日本語と強い一致を示している。欧印語の場合は明確な祖語を想定することは出来ない。」

48言語一覧

図3 比較の48言語

648言語を比較

安本美典氏はこれらの理論とともに東ユーラシア、アジア諸国、オーストロネシアの島々のうち48カ国について「シフト法」により語彙の近さの度合いをはかっている。上の結論はこの結果の評価である。48言語は図3のとおりである。これらを「上古日本語」と残り47語とのひとつひとつ、東京方言と残りの46語、・・・すべての組み合わせの基礎100語、基礎200語についての2256通り(2*47の組み合わせ))について、第一子音の一致度をしらべた。この結果と統計特性値を図4に示す。各言語の100語、200語抽出については幅広い専門家に依頼している。またこの総人口は15億ないし、20億人である。

この結果をまとめると、図5である。

上古アジア言語比較

図4 古極東アジア古語の特性値比較

48言語分析表

図5 (上古日本語と東京方言の48言語との比較)

たとえば「上古日本語」と他の言語の比較の結果、図***に見る如く、一致が偶然に起こる確率の小さい順にならべると、偶然以上の一致が見られる言語に「*」「**」「***」「****」・・・を記した。統計学の基準では、「百回に五回」または、「百回に一回」以下程度しか起きないような場合を「五パーセント水準」「一パーセント標準」で有意として、そこに偶然以上の原因がはたらいているものとみなす。ここでは、さらに厳密に「千回に五回」「千回に一回」のレベルまでさげて、「有意の一致」がみられるように検証した。

この結果を箇条書にすると以下のとおりである。

 崗絽兎本語」の比較で、ウラル、アルタイ語に属するモンゴル語が基礎200語では、ただ一個5パーセント有意に入っているのみである。これはウラル、アルタイ語は日本語とはほど遠いことを示している。SVOの文法的には近似していても語彙的には南方的な言語との親和性が強いといわざるをえない。100語については一個も入っていない。

▲ぅ鵐疋優轡語、カンボジア語など南方言語が、200語でも100語でも朝鮮語より強い相関を示している。前に言及したごとく、スンダランドの人々は、史上最大の航海民族である。これは、沈没する祖国の結果であり、広く世界に進出した結果である。現在の台湾も当時は地続きであったといわれている。これらの人々の一部が黒潮に乗り、はるばる日本に来た可能性がある。なにしろマダガスカルからハワイまで航海したのである。

またモン語がはいっているが、クメール語とモン語は、現在では、ビルマ、タイ、ベトナム語などに圧迫されているが、かっては、インドシナ半島を二分して栄えた民族の言語である。

「東京方言」と他の言語の比較において、「上古日本語」とそれほど大きな変化はない。しかし、特徴的なことは、中国語北京方言、中期朝鮮語の順位があがり、インドネシア語の順位がさがっている。これは後世、少なくおも弥生以降の交流により、これらの言語が基礎語彙のなかにしだいに溶け込んできたものであるといえる。

ぁ崗絽兎本語」の場合、「アイヌ語」が五パーセント水準にも入っていなかったのに「東京方言」の場合、100語、200語とも五パーセント水準にはいっている。つまり東京方言は南方方言の影響がややうすれ、アイヌ方言がやや強く影響されたと思われる。これは地理的に奈良、京都を中心とする「上古日本語」より北に位置することが影響したのかもしれない。

ァ崗絽兎本語」「東京方言」は45言語(首里方言ものぞいて)のうち、5パーセントから0.5パーセントの有意で15言語程含まれている。これは一見孤立しているように見える日本語が世界から孤立していないことを示している。

モンゴロイド移動の歴史

図6 モンゴロイド移動の軌跡

モンゴロイド移動の軌跡

日本を取巻く諸言語

図7 日本基語

7)日本語の四つの層

 いよいよ結論をのべる。これは多くの学者の協力を得ながら安本美典氏の導き出した仮説である。それによれば日本語は大きく四つの層からなる、重層された言語である、という。

古極東アジア語

上古日本語、中期朝鮮語、アイヌ語を中心とした古モンゴロイド系の言語の流れを汲む古極東語なるものが日本海を中心とした一体に存在した。10000年から20000年まえであろう。このころはスンダランドが地上にあったのと同じく、北海道、九州が地続きでこのころの人類は大陸、日本を自由に往来できた。最終氷河期の最終場面であり、やがて温暖化がはじまり、日本は孤立した。この頃の言語は「私は 書を 読む」のごとくS(主語)O(目的語)V(動詞)である。このころから中国人(漢族)の先祖が「我読書」なるSVOの語順の言語が勢力を強め、さらに中国の文明力によりSOVの民族の言語を周辺に押しやった。

インドネシア半島諸語

西暦2世紀の末ころインドシナ半島の東南にチャムといわれる種族が国家をたてた。中国ではこれを林邑(りんゆう)といった。言語はオーストロネシア系のインドネシア語である。つまり、インドネシア語を話す民族がインドシナ半島にいたのである。現在太平洋に広がる、インドネシア、ポリネシアの民の元郷はインドネシア半島であることを思わせる事実があるのである。現在チャム語はインドネシアの少数語になっている。さらに林邑の南側に扶南という国があり、ベトナム語をはなしていたようである。この影響をうけて、ベトナム語も偶然以上の一致を示している。この民族は海軍力にすぐれ、海賊行為をしばしば行なっていたようだ。

ビルマ系江南語

西暦紀元前2,3世紀頃まではおそらく、日本は言語的に統一されていなかった。何よりも統一する必要がなかった。会話の範囲は大部分家族から集落内に限られていたであろう。方言というより、「古極東アジア語」や「インドネシア語」を話す民族が集落単位に部族を形成していたであろう。「ビルマ系言語」には身体語ばかりでなく数詞や代名詞、植物関係の語に偶然以上の一致がみられる。基本語彙の中にも「水」「雲」などである。しかし身体語、数詞、代名詞、植物以外の基礎語彙はそれほど一致していない。

一般に照葉樹林帯という地帯がある。ヒマラヤ山脈からネパール、ブータン、中国南部の揚子江流域の一帯を通って九州、中国、本州南半部につずく地帯で栽培植物や文化に共通する。中国南部は今でこそチャイナであるが、そもそもはビルマ系ロロ族で、漢族以外の民族が多かった。秦、漢の時代に政治的統一が行なわれ、中国の南下に圧迫された中国南部の民族は、結果として江南から朝鮮南部、日本に稲をたずさえてやってきた種族がいたと考えられる。これらが呉、楚の国である。弥生時代のはじまりである。これが稲作に限らず、高床式住居、たこあげ、はねつき、たけうまなどの文化複合体となり、南方地域と文化を同じくしたと思われる。

言語の面では日本は「やま」「かわ」「とり」など、日本語の基礎語彙は二音節が多いが、「め(目)」「は(歯)」「て(手)」「け(毛)」など身体語には一音節のものが多い。「みみ」「もも」「ほほ」なども「おめめ」「おてて」等と同じく本来一音節だったものを二音節語にしたと思われる。これらビルマ系の言語は日本語に完全に溶け込んでいないようである。この人口はそれほど多くなく稲作など文化的または政治的優位性ゆえに影響が大きかったものと思われる。もともと稲作は水利や灌漑など集団作業が多く、権力の集中化をもたらす。もちろんこれらの人々は南部朝鮮や北九州に上陸したであろう。そしてその地の朝鮮祖語との関連を保っていた古極東アジア語の系統をひく言語と結びつき、日本語祖語を形成したと考えられる。ビルマ系江南語の基本的な語順は古極東語と同じである。

 服部四郎氏は「日本語の系統」の中で「琉球語を含む現代日本語の言語の核心となった日本祖語は西暦紀元前後に栄えた弥生式文化の言語ではないか。そして紀元後2,3世紀の頃、北九州から大和、琉球に、かなり大きな人口移動があったのではないか。」と言っている。

 松山納氏は「フィリッピンでは2700もの島に最低8種類とも55種類ともいえる土語が分布する。印度では10マイルごとに言語が違う」と言っている。これらが国語統一をさまたげている。そして文化の発達とともに、共通語として英語を受け入れざるをえなかったのである。これらからすると、日本語に統一していることのほうが不思議な現象なのである。これは大和朝廷による政治的統一が大きな力となったのである。

っ羚餮譴料

紀元前後から2000年にわたり、継続的に漢民族の言語が流入する。第四の層である。三世紀には卑弥呼が魏に使いをし、「親魏倭王」の称号や金印紫綬を受ける。以来日本語と日本文化は中国語と中国文化の絶え間ない影響下にあった。歴史時代に入ってからは朝鮮語の影響もうける。以上主要なものだけでも四層の言語が時間と共に流入し、それぞれの役目を果たしながら、日本列島の坩堝のなかで、溶け込んだのである。

図5 上古言語比較

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魏氏倭人伝の背景

魏氏倭人伝の背景

 日本で古事記、日本書紀が出たのは八世紀の始めで、それまでは文字らしいものさえもなかった。まして、それ以前は考古学遺跡のほかに歴史を知るすべは、中国の古典以外には何もなかった。中国の古典も自国の記録を残すために記したものであるから、日本のことなど、何か外交上に、記すべきものがあるとき以外は全く無関心であった。文化も発信していないし、おおよそ人が住んでいるのかどうかも関心の外であった。

そのようなことで、現在の日本の3世紀の世界を書物で残されているのは、わずか魏志倭人伝だけである。5世紀には宋書に有名な倭の五王が413年から502年に亘って朝貢していた記事があり、4世紀は謎の4世紀といわれ、殆どなんの情報もなかった時代である。ここには魏志倭人伝は3世紀の日本の風習や卑弥呼という女王の存在、倭(日本)への道程、距離数を事細かにしるされており、当時の日本を知る唯一の情報である。日本の古事記、日本書紀にも当時のこのような情報はなく、大変貴重で誰もが古代史のバイブルとして、日本の古代史ファンには、親しまれている。だが、当然のことながら、この書物は1700年後の日本人のために、わざわざ書き残したものではない。なぜこのような書が1700年前に、しかも中国とは全然関係のない当時の日本の記事を、書き残したのであろうか。

 中国には歴史書を官製で書き残す伝統がある。司馬遷の史記からはじまり、後漢書、三国志など24史といわれる歴史書である。そして一時代が終わり、つぎの帝国が確立すると、前代の帝国の歴史書を書くのである。魏志倭人伝はこの三国志の中にあり、三国志は全65巻。これが「魏書」、「蜀書」、「呉書」に分かれるが、その第一部「魏書」30巻の最終巻の第30巻が「烏丸・鮮卑・東夷伝」となっている。この巻の内容はさらに二つにわかれ、前半は「烏丸・鮮卑」では大興安嶺からモンゴル高原へかけての北アジアの遊牧民族に関することがらをあつかい、後半の「東夷伝」ではそれより東のシベリア・満州・朝鮮・日本にかけての狩猟、農耕民族をあつかっている。このうちの日本のところだけを切り取ってきたのが、いわゆる「魏志倭人伝」というのである。ここで注意することは、「三国志」65巻のうち、外国のことを記すには、この「烏丸・鮮卑・東夷伝」ただ一巻だけだということである。当然当時の三国時代に中国の中央政府と交渉を持った国は、これだけではない。西域の鄯善(ぜんぜん)、亀慈(きじ)、干闐(うてん)、大月氏などの諸王国も、魏と交渉した国は多いのであるが、これらの記録はないのである。

中国の「正史」というものは、ある原理原則に基ついて書かれたものである。それは、「正統」の概念である。現在の政府が中国を統治する権限を前政権から合法的な手続きをふんで移譲されたもの、という意味である。従って、「正史」というものは、この概念を踏み出すものではない。「正史」は「本紀」と「列伝」に分れ、「本紀」は皇帝の政治的な側面のみをしるすもので、私的な側面は一切書かない。「列伝」は皇帝の政冶に直接関わった人々だけの伝記を扱ったもので、あくまでも正統の域をでるものではない。

このような正統の域をはみ出すことのない書物に一見無関係と思われる倭国の記事がなぜ記されなければならなかったのか。これを理解するために、三国志の概略を知っておく必要がある。大方の人はご存知であろうが三国とは「魏」「蜀」「呉」であり、蜀の名将諸葛孔明の天下三分の計により、分割統治したものである。後漢帝国が崩れ、いまだ正統な後継帝国が出来ない時代の天下の争奪戦である。

三国志地図

1 三国志地図

三国志年表.

2 三国志人物年表

1は三国志時代の天下三分の計による、分割図である。図2は当時の群雄の生涯を年表で示している。魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備の三雄は青で示し、皇帝は在位期間を赤で示す。

三国志のハイライトは200年頃から235年頃の三雄がしのぎをけずる期間である。この建安25年(220年)、曹操が死去、曹丕が魏王に即位し、後漢最期の皇帝献帝から皇位を禅譲され、魏の皇帝になった。司馬懿は曹丕に重用され、録尚書事・撫軍大将軍・仮節まで昇進した。は西方に司馬懿(しばい)を配し、蜀にそなえたが、蜀の軍使、諸葛孔明の巧妙な軍略に手が出ず、孔明が出征すると自軍に閉じこもり、決して正面から争うことをしなかった。軍略としては、それが軍を消耗しない戦いであったが、魏側の兵士からは司馬懿の評価は思わしくなかった。しかし234年、諸葛孔明が五丈ヶ原で病死すると、俄然戦況は魏の司馬懿に傾いた。司馬懿はやがて軍を東方に転じ、燕の征伐にむかうことになる。

この頃、燕は現在の山東半島から遼東半島のあたりに領地し、魏に服していたが、面従腹背で殆ど半世紀の間独立国の振る舞いであった。特に魏が蜀、呉との戦に明け暮れ、燕にまで手がまわらなかった。しかし蜀の勢いがしずまり、燕に転戦すると、燕の公孫淵は呉と密約を結んだり、魏に恭順の姿勢を示したが、最後司馬懿はこれを赦さず、燕の15歳以上の男子を皆殺しにし、7000人の死体を人間ピラミッドにして積み上げた。これは当時の勝者の戦勝祝いであった。この燕の存在が倭の魏訪問をかねてから妨害していた。九州北岸を出航して壱岐、対馬を経由し、朝鮮半島の現在の遼東半島あたりで上陸したのち、徒歩で洛陽に向かう。ここを燕が陣取っていたので、その先に進むことができない。この障害がとりのぞかれた。燕の滅亡は238年である。そしてこの年(景初2年(2386月)、魏志倭人伝では倭の卑弥呼が太夫の難升米を魏に朝貢させたとなっている。しかし、これは239年のあやまりであるという。2386月は燕の滅亡前であり、倭の使いを洛陽まで案内した帯方郡の太守劉夏なる領事は、まだその任にはなっていなかったのである。

楽浪郡

3 当時の朝鮮半島

 張華(232300)は学問の才にめぐまれ、聡明で性格も善良であった。魏において歴史編纂を任務とする著作郎となり、さらに宮中の事案に関与する中書郎となり、長史を兼任した。魏が禅譲により司馬一族の晋となると、黄門侍郎となり、関内侯となった。記憶力にすぐれていたため、武帝(司馬炎)の信任を受け、さらに中書令、散騎乗侍となった。晋が呉を滅ぼすと、武帝は張華の功績を賞し、広武県侯を与えるなど褒美を手厚く与えた。張華の名声は高まり、三公の位に上ることを期待された。

張華は以上のように優秀で才能に恵まれていたようであるが、彼の主たる役割は、史書をつくり、晋を正統な後継帝国として位置ずけることであった。そのために、魏を後漢の正統な後継帝国とし、さらに魏から帝室を簒奪した晋を正統な皇室に祭り上げなければならない。そのために、魏から実質皇室を奪った晋の先祖司馬懿を必要以上にもちあげなければならなかった。司馬懿は諸葛孔明との争いには常に後塵を拝したが、それ以降は本来の実力を発揮し、司馬懿の人生のクライマックスは238年の燕の滅亡、倭の来朝、それに249魏の皇帝曹芳の同族曹爽・曹羲兄弟に対しクーデターを起こし、魏帝国の実権をにぎった。そのことについて三国志は強調する。特に魏志倭人伝については、属国をふやすことは、臣下の大きなほまれである。227曹操の従子(おい)曹真の西域での戦勝の結果、大月氏国王の使いが魏に来訪した。このとき明帝は、大いに喜んで「親魏大月氏王」の称号を送っている。これにより、大月氏国を朝貢させた曹真は大きく得点を稼ぐことになるが、231年 曹真は病死する。このこともあり、張華は倭の来訪を司馬懿の大きな得点とすることを思いついた。

倭人伝によると景初2年(2386月、倭の女王卑弥呼が太夫の難升米らを帯方郡に遣わして、魏の皇帝のもとに朝貢したいと申し出た。帯方太守劉夏は一行を洛陽まで護送させた、とある。これは景初3年(239)であろうことは、前にしるした。司馬懿はこの年初めに曹爽と共に明帝の遺言をうけて、8才の幼い新皇帝の補佐に任じることになった。そして6月、倭の女王が遠路はるばる洛陽に朝貢にきた。新任早々これほど晴れがましいことはなかった。これも燕を滅ぼしたたまものである。もちろんこの倭国の朝貢は、劉夏が司馬懿のために卑弥呼に働きかけてお膳立てをし、洛陽への旅の世話をやいたのである。その結果、いやが上にも司馬懿の面子をたてて、12月には丁重な詔書がくだり、卑弥呼には「親魏倭王」の金印・紫綬とさまざまな珍宝が贈られる。翌年正始元年(240)正月元日の朝礼には、倭使が多くの外国使節の筆頭で参加し、皇帝にわざわざ「これは司馬懿のおかげである。」と言わせ、司馬懿の封邑を増す。帯方太守の弓遵(きゅうじゅん)は、部下を倭国に派遣して倭使を送還する。倭の女王は詔書に対する謝恩の手紙を帯方の使者にたくす。これがすべて一連の出来事である。「三国志」に「西域伝」を設けなかったのも、ことさら司馬懿以外の功績は無視し、「烏丸・鮮卑・東夷伝」だけを記したのも、司馬氏一族の遠征の経験があったからであり、いわば「創世記」だったのである。

このような政治的な性格をもった「魏志倭人伝」であるから、司馬懿のためにする宣伝や歪曲があるのは当然である。白髪三千丈と言う如く中国史では珍しい話ではない。このことを知って「魏志倭人伝」を見ると、この内容に違った見方もできる。まず誇大に書かれた部分として、倭国の距離が必要以上に遠く、台湾の東にまで位置している。これも当時の魏の大敵呉の背後に存在し、呉を脅かす存在として描いたのである。このような国を魏の側につくことが家臣司馬懿の多大な功績として評価されたのである。

日本人を悩ます方位について述べる。(図4)

図4 倭人伝の内容

魏志倭人伝内容.

混一疆理歴代国都之図を参照していただきたい。これは1400年頃 元国で作られた地図である。1400年頃でこの地図である。300年ころ、これより詳しい地図があったはずがないので、どうひいき目にみても正しく描かれているとは思われない。それが判っていながら、こと倭国のこの部分だけ正しいと、口角泡を飛ばし、目くじらたてて論争するのは、なにか大人げないように思う。東大と京大が各々沽券をかけて九州説、大和説を主張し、比較的わかり易い事もあり、素人までが自説を主張して後に引かない。これ以上は「親魏倭王」の金印を発見するしかないのではないか。

更に国の大きさが、大きすぎるし人口が多すぎる。倭国の70000余戸は1戸5人として35万人、他の国もそれぞれ多すぎるようである

魏志倭人伝の著者陳寿(223〜297)は蜀の生まれ。蜀に出仕するが蜀滅亡後一時在野に下るも、のちに晋に仕える。著作の才を張華に認められ、佐著作朗に任じられる。張華の使命に協力し、西晋の正当性をかきあげた。

『三国志』は三国の内の魏を正統として扱ったが、魏を正統とした類書はほとんどが『魏書』など、魏単独の表題としていた。蜀漢や呉の歴史は、あくまで『魏書』の中で語られたのである。これに対し陳寿は表題上は三国を対等に扱い、また本文も「魏書」「呉書」「蜀書」と三国を分けて扱ったところに大きな違いがある。また、元は蜀に仕えた人物であったため、敬語の使い方などからも蜀を比較的良く扱おうとする姿勢が見える。

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越塚御門古墳現地説明会


 12月11,12日越塚御門古墳現地説明会があった。これは、以前牽牛子塚古墳の八角形古墳であることが判り、天皇の陵墓であることが確認された。以前からこの古墳は斉明天皇の墓であることの可能性が噂されていたが、実際そのとおりということが確認されたのである。そして今回この牽牛子塚古墳の周辺を発掘していて、更に小さな古墳が発見されたのである。「日本書紀」には斉明天皇の陵墓の脇に大田皇女を葬った記事があり、更にこのことの信頼性が増すこととなった。読売新聞によると河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)の話として「日本書紀の記述からみると、被葬者は大田皇女とみて間違いない。牽牛子塚古墳の前から、これまで全く知られていなかった石室が見つかるとは大変驚きだ。日本書紀は、飛鳥時代についてかなり正確に記されていたと考えられる」と語っている。
 斉明天皇は594年生まれ、642年から645年まで女性天皇(皇極天皇)として即位し、やがて孝徳天皇に譲位したのち、再び655年斉明天皇として即位し、661年薨去した。大田皇女が生まれたのは、記録されていないが、妹の鵜野讃良皇女(後の持統天皇)の出生が645年であるから、仮に3歳年上とすれば642年出生として、大して狂いはないであろう。大田皇女と鵜野讃良皇女の二人は天智天皇の娘で共に天武天皇に嫁いだ。そして667年に死亡している。祖母斉明の死亡の6年後である。大田王女には二人の子がいた。大伯皇女(661〜702)、大津皇子(663〜686)である。大田皇女は姉が6歳、弟が4歳の時、死亡したことになる。
 斉明天皇については(107.斉明天皇--真弓の丘--)(108.皇統を守り抜いた女帝--斉明天皇----)大津皇子、大伯皇女については(4. 二上山残照 )(44. 天皇家のルーツ)でなんどもこの紀行でとりあげた。大田皇女は天武天皇の即位まで生きておれば、おそらく皇后となり、大津皇子は皇太子になっていたはずである。鵜野讃良皇女が皇后となり、草壁皇子可愛さに大津皇子を謀殺する悲劇に見舞われる。幼い姉弟を残して、しかもその子らも大きな悲劇に見舞われた状況を見て、天国に旅たった大田皇女の悲しみはいかばかりであったろうか。このあたりが飛鳥の悲劇として、歴史に、物語に語られている。そしてこの薄幸の皇女の墓が今回みつかったのである。

前回牽牛子塚古墳の現地説明会は参加しなかったが、今回は是非参加したかった。国道169号線を南下して近鉄飛鳥駅を過ぎると、右手に真弓が丘方面に曲り、少し行くと、また右手にまがる。わずかな人家を通りすぎると、牽牛子塚古墳に至るなだらかな坂道にさしかかる。そこで長い行列ができていた。案内人に聞くと約一時間待ちであるという。3〜400メートルの行列である。観念して一時間待つことにした。待っている間、写真を何枚か撮影した。やがて一時間が経ち、牽牛子塚古墳の上がり口についた。足場の悪い、にわか作りの階段の足場を古墳の中腹にあがる。墓の入口は墳墓の南側で北にむいており、半周して入口に出た。碑と案内文を書いた石碑に牽牛子塚古墳の説明が書いてあった。古墳入口はいまだに開口したままであった。ここから足場の階段を下がり、古墳の南側に今回の越塚御門古墳が見えた。案内人はいるにはいたが、立っているだけで質問には答えてくれたが、原則説明なしであった。いちいち説明していたら、この狭い足場だけの場所では、見学者を裁ききれないのであろう。

大田皇女は天智天皇の娘で、大海人皇子(おおあまのおうじ=のちの天武天皇)の后(きさき)となったが、20代で亡くなったとされている。見つかった石室は「横口式石槨(よこぐちしきせっかく)」という構造で、牽牛子塚古墳の約20メートル南東で出土。地名から越塚御門(こしつかごもん)古墳と名付けられた。
 石室は、石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん)をくり抜いた4メートル大の上石(うわいし)を床石にかぶせる構造で、総重量は推定約80トン。上石は後世の盗掘で4分の3程度失われたが、内部は長さ2・4メートル、幅90センチ、高さ60センチ分がくり抜かれ、木棺が納められていたという。
 石室付近からは、土に付着した漆や木質が残る鉄釘が見つかり、棺は外側が黒、内側が赤の漆塗り木棺と推測されるという。副葬品は見つからなかった。
 墳丘は上部が大きく削られて規模や形状は不明だが、牽牛子塚古墳と近接していた。牽牛子塚古墳造営に伴う整地層を掘り込んで新たに墳丘を築いており、越塚御門古墳の方が後の造営と判明した。また石室南側に、人頭大の石を両脇に並べ、路面に小石を敷いた墓道(長さ4メートル以上、幅1メートル)も検出された。(読売新聞記事)

越塚御門古墳

 写真のごとく、案内表示がされており、あらかじめ読んでいた新聞記事で状況はよくわかった。

越塚御門古墳

  下が大田皇女を葬ったといわれる越塚御門古墳で上が斉明天皇の牽牛子塚古墳

越塚御門古墳


                     越塚御門古墳の内部

越塚御門古墳

                      約一時間行列をした。

越塚御門古墳

 帰りは同じ道を引き返し、飛鳥駅にむかった。まだ自分が一時間待った行列と同じ長さで見学人が並び、最期の人に「一時間待ちですよ」と声をかけてあげた。

近辺地図

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日本語の完成


 安本美典氏の説に従い、日本語の源流をさぐって以下の結論を得た。あらためておさらいしておこう。

(1) 今から5000年〜10000年前頃ユーラシア大陸の内部から、東北部に押し出された言語があった。それは、アルタイ系諸言語の祖語と近縁関係にあったとみられる。

(2) 古極東アジア言語を用いる人々は朝鮮、北海道、そして北海道以外の日本に別れ住み、それぞれの言語を独自に発展させて、朝鮮語、アイヌ語、日本語になっていった。3つの言語に共通の「語順」などは、古極東語に由来するものとみられる。

(3) 朝鮮語はその後アルタイ諸言語からの影響を受け続け、アイヌ語は古極東アジア語の古代的特長を比較的多く残したかとみられる。日本語は、その後も朝鮮語の影響を受け続ける一方で、縄文期にはインドネシア系言語、カンボジア(クメール)系言語の流入を受け、それらが一般的な基礎語彙をもたらした。

(4) 紀元前2,3世紀ころ、弥生時代が始まる前後に、おそらく稲作などとともに、江南からビルマ系の言語が日本に押しかけてきたと考えられる。身体語、数詞、代名詞、植物関係の語が、これらの言語の流入によってもたらされた。

(5) 紀元前後から約2000年にわたり、中国語が流入し、多数の文化的語彙をもたらし、現在の日本語が形成されていった。

 最期に現代日本語に至る経過をたどろう。これについては文字の発明(中国からの流入)とひらがなの発明が大変おおきい。日本に流入してきた、早い時期は現在の考古遺品にみることができる。

 文献による日本に漢字が伝わったのは、古事記に記載されている。百済から渡来した和邇(王仁)が論語十巻、千字文一巻を応神天皇に献じたのが始まりだというのである。そうであれば四世紀か五世紀の頃ということになる。ただし千字文が書かれたのは六世紀であるから、すこしあやしい。しかし日本にはもっと早くから漢字はもたらされていた。それは福岡県の志賀島から徳川時代に発見された有名な金印の存在である。それには「漢倭奴国王」と刻まれている。これは後漢の光武帝が紀元57年に倭の国王にあたえたものである。その国王は誰か特定できない。漢書地理志には「夫れ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす」とあり、大和朝廷が日本を統一する以前には、日本列島には多数の国があって、分立していたことを推測させる記述である。「漢倭奴国王」のまわりには漢字が理解できる者がいたのであろうか、それともありがたいまじないであったのか。倭の国書の国璽に押印されていたのであろう。いずれにしろ日本に渡来したことには間違いない。
 次に発見されている漢字文字は雄略天皇の時代と思われる。1968年(昭和43年)、埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣があり、1978年9月の保存修理の結果、全文115字からなる金象嵌(きんぞうがん)の銘文が記されていることがわかった。文字の解釈はさておき、雄略天皇から下賜されたものと思われる。ここには辛亥年が刻まれており西暦に直せば471年が定説である。
 さらに1873年(明治6年)、熊本県玉名郡和水町(たまなぐんなごみまち)にある江田船山古墳から、全長61メートルの前方後円墳で、横口式家型石棺(せっかん)が検出され、内部から多数の豪華な副葬品と共に全長90.6センチメートルで、刃渡り85.3センチメートルの大刀(直刀)が発見され、その峰に銀象嵌(ぎんぞうがん)の銘文があった。字数は約75字で、剥落した部分が相当あるが、おおよその内容は推察できる。そこにもワカタケル大王(雄略天皇)らしき名が読みとれるのである。

『日本書紀』神功皇后52年(252年?)九月丙子の条に、百済の肖古王が日本の使者、千熊長彦に会い、七支刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったという意味のことが書かれている。七支刀は奈良県天理市石上神宮(いそのかみじんぐう)に保存されている。その他、隅田八幡宮(和歌山県橋本市)に伝わる人物画象鏡は、日本最古の金石文の ひとつとして国宝に指定されている。

 この頃当時の日本は雑多な人種が住んでいたものと思われるが、大別して四種類に分けられる。
 〆廼瓠文妬時代)朝鮮、または中国から渡来した帰化人(この言葉は適切ではないかもしれない)で、最新の知識教養をそなえていた。天皇のまわりで官僚として、政冶、国家建設の任をになっていた。または、諸国の有力者になっていた人々である。朝鮮半島の三国(高句麗、新羅、百済)の戦国時代に逃れてきた者が多かった。中国語を話ていたらしい。
 △修譴茲螳柄阿砲笋呂蟒媾戦国期、中国から朝鮮半島で戦乱に見舞われ、玉突きのごとく戦乱を逃れ渡来した、中国人(当時は朝鮮の国はなかった。朝鮮半島には中国人または北方民族の坩堝であった。)で大部分稲作などを生業としていたとおもわれる。
 さらにそれより古く、日本にいた南方系の種族で、主として水田稲作を普及させた民族である。言葉の問題では日常語や、特に稲作文化の言語を使用していたと思われる。
 い修靴童尭本人と思われる縄文時代の流れを汲む人々である。日本語ではSOVの語順を話す、最古層の言語を持ち続けた層である。
 身分的には´↓い僚腓任△辰燭茲Δ澄これらの人々は互いに交流することなく、各々の流れを汲む言語を使用していた。またそれで何の不自由も感じていなかった。しかしそのような時に663年白村江の戦いが起こった。日本史ではさらっと流されているが、実は日本存続の危機に直面したのである。戦前、明治維新、蒙古襲来に匹敵する大事件で、唐の国力が最高に高まり、新羅と組んで高句麗、百済連合軍に白村江に対峙した。倭は百済援護にはしり、斉明天皇が、中大兄皇子など皇子、皇族を伴って、那の津に行幸を行なった。しかし完膚なくまで敗退し、1000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上した。九州の豪族である筑紫君薩夜麻も唐軍に捕らえられて、8年間も捕虜として唐に抑留された。

  未曾有の危機に直面して自国の結束発展を指向するか、衰退の道をたどるか、国家の実力がはっきするのはこの時である。アフリカやインド、中国は後者をたどった。世界の国の興亡の歴史は常にこの法則にしたがっている。日本はかっては前者であった。今後はどのような道をたどるであろうか。

 この敗戦により、中大兄皇子はショックを抱えたまま、いったん大和へ戻り、即位して天智天皇となった後、万一新羅がこの戦勝の勢いにのって日本に攻めてきた場合の用心に九州に水城(みずき)を築き、全国から兵士を集めて防人(さきもり)として防衛の任務に当たらせた。そして都も万一新羅が九州を占領した後、瀬戸内海を渡って攻め込んで来たとき逃げやすいように都を琵琶湖沿岸の大津に移すのである。天武天皇になると朝鮮半島への野心はすて、国内の経営一本にしぼる。そして、国名を倭から日本とし、歴史書を編纂する。また藤原京を発案し本格的京城の構築に着手する。大宝律令は701年制定であるが、それに先立ついろいろの法令が立案され班田収受の法により、税制の抜本改革を実施する。

 しかし、上に記した人種と言語の坩堝は如何ともしがたかった。もちろんこの時代に始まったことではないが日本国としての共通の言語、共通の文字の統一の機運が高まったのも、以上の背景があったからであろう。そこで日本語の成立過程を万葉仮名でみてみよう。古い時代仁徳天皇の異母弟速総別王=はやぶさわけのみこが仁徳天皇に反乱することを女鳥王がそそのかす歌である。

 はやぶさは 天に上り 飛びにけり
  いつきが上の さざき取らさね

  「隼鳥昇天兮
   飛翔衝搏兮
   鷦雀所撃焉」
上のごとく記されている。完全に中国語表記である。これが徐々に万葉仮名になっていく。

 山上憶良、大唐に在りし時、本郷を憶ひて作れる歌
(万葉仮名文)去來子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武
(訓)いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ(卷1-63)
 漢字の意味を含んだ万葉仮名である。

大伴家持に関する引用句集があり、万葉仮名で書かれた大伴家持の歌
(万葉仮名文)都流藝多知 伊与餘刀具倍之 伊尓之敝由 佐夜氣久於比弖 伎尓之曾乃名曾
(訓)剣大刀 いよよ研ぐべし 古ゆ 清(さや)けく負ひて 来にしその名そ(卷20-4467)
 大伴家持の時代になると漢字の意味はなくなり、音だけの文字になっている。

万葉仮名額田王

額田王の万葉仮名(熟田津に船乗りせんと月待てば

潮もかないぬ今は漕ぎいでな)

東歌から一首
(訓)昼解けば 解けなへ紐の 我が背(せ)なに 相寄るとかも 夜解けやすけ(巻14・3483番)
(大意)昼間解くと解けない紐が、夫に会うからというのか、夜は解けやすいことだ。
(万葉仮名文)比流等家波 等家奈敝比毛乃 和賀西奈尓 阿比与流等可毛 欲流等家也須家

防人歌から一首
(訓)草枕 旅の丸寝の 紐絶えば 我(あ)が手と付けろ これの針(はる)持(も)し(巻20・4420番)
(大意)(旅の丸寝をして紐が切れたら、自分の手でお付けなさいよ、この針でもって。)
(万葉仮名文)久佐麻久良 多妣乃麻流祢乃 比毛多要婆 安我弖等都氣呂 許礼乃波流母志
 
東歌は巻14に、防人の歌は巻20におさめられている。これは天平勝宝7歳(755年)に徴集された防人の詠んだ歌を、防人を率いてきた各国の部領使(ことりづかい)に命じて記録、上進させたもので、拙劣歌として半数近く(82首)が棄てられてはいるものの、採用された歌については作者の名前から出身国(国によっては郡名まで)まで逐一記されている。

 そして古今集の仮名序である。(101.木簡は語る--木簡から見えてきた「万葉集」

(A)安積山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに(巻16-3807)
(B)難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

「この二歌は歌の父母のやうにてぞ手習ふ人のはじめにもしける。」と紀貫之は古今集の仮名序に記している。この古今和歌集をもって仮名の完成とされている。
ここに至るまで特に柿本人麻呂や山部赤人など万葉歌人はその完成に多大な貢献をしたのである。

平城京や平安京の時代の官僚たちは、仮名練習に「奈尓波ツ尓作久矢己乃波奈」と書き、万葉木簡を作成したのである。下記は観音寺遺跡で発掘された「奈良国立文化財研究所」の木簡データベースである。

遺跡名 観音寺遺跡
発掘次数   所在地 徳島県徳島市国府町観音寺
調査主体 (財)徳島県埋蔵文化財センター
地区名   遺構番号  
本文 〈〉\奈尓波ツ尓作久矢己乃波奈
寸法(ミリ) (160),43,7 型式番号 019 形状 難波津、左割裁、右割裁、下欠、「ツ」は「川」の草体
樹種   木取り   内容分類 習書
出典 木簡黎明-(29)(木研21-205頁-(2)・観音寺木簡) 木簡番号 69
和暦   西暦  
国郡郷里  
人名  

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日本国誕生の背景となった中国史

 日本国の誕生は白村江の戦い(663)で唐、新羅軍に大敗し、朝鮮半島の権益の全てを失ってから、従来の倭が中国、朝鮮に囲まれた沿岸国の立場から、国の経営を東国に重点を移し始めた時期である。天皇でいえば、天智天皇から天武天皇に至る時代であって、特に天武天皇は国名を中国の蔑視語である倭を日本に改め、大化の改新を実施し、土地を公地公民制にきりかえ、古事記、日本書紀を編纂して、日本のよって来た歴史を構築した。東国経営を盛んにするため中部、関東方面に屯田制をしき、水田の開拓に拍車をかける。従来の蝦夷といわれる人々は、殆んどが水田耕作に従事したが、一部抵抗した人々は山の民となったり、北海道方面に新天地を求め、アイヌになっていく。平安時代には、奥州も日本国民化する過程は歴史時代の中で起こっている。
 現在学校で習得する日本史は、縄文、弥生時代を経て、古墳時代から飛鳥時代となり、殆んど自然発生的に奈良時代にいたる、国内歴史を教育しているが、実はこの過程を歴史的にたどろうとすると、どうしても中国の当時の歴史を理解しなければならない。というより、日本国誕生以前は中国史の一部であったというほうが、むしろ当たっているのである。

 しかし、中国史は当然中国中央の歴史に中心をおき、辺境で起こっていることには殆んど興味をしめさず、日本は白村江の戦いを一応は言及しているが、倭国滅亡というイメージは殆んど払拭してしまっている。日本書紀の時代より、60年前の思い出したくない屈辱を消し去ることに腐心した経緯がある。万葉集なども防人の歌は、戦争を表現したものは意識的に排除し、防人の心情を吐露したものに限ったようである。

図1 中国の人口変化

中国の人口変化

 そこで中国史の中の倭国に影響する重要な人口問題の史実を追ってみる。幸い中国の史書には当時の人口が示されている。人口の増減は驚くほどの変化をたどっている。図1に示す如く、前漢の武帝の時代(紀元2年)に5959万人がしるされている。それが後漢のはじまる紀元37年には1200万人に減り、後漢滅亡時の三国時代始めは、なんと最低の400万人に減っているのである。そして聖徳太子の時代、隋の初めは(609)4600万人まで回復している。この時期がちょうど倭国の形成の時代なのである。この人口変化は単純に人口が減ったのではなく、国家の統制力の衰えから戸籍を把握しきれなかったことや、国境の変化、亡命(戸籍から逃げること=逃散)がかなりあると考えられる(歴代王朝の全盛期においても税金逃れを目的とした戸籍の改竄は後を絶たなかったとされており、ましてや中央の統制が失われた混乱期には人口把握は更に困難であったと言われている)。とは言っても激減であることは確かであり、再び中国の人口が6000万の水準に戻るのは北宋まで待たねばならない(ただし6000万人が当時の中国の人口の限界点であったとも考えられる)。
 この人口の変化が辺境に及ぼす影響は甚大である。人口の膨張は中央のみならず、辺境においても、人口問題や、食料問題を引き起こし、侵略戦争のきっかけとなる。当時のこの地方の侵略は民族が違うだけに、日本のような共存共栄などどこにもなく、民族皆殺しか、民族払拭を画し、徹底的に侵略してしまう。一方人口の収縮は食料の増産や兵士の払底をまねき、国力の弱体化をさそうこととなる。したがって、人口のもっとも少なかった三国時代の魏の曹操は異民族を自国に招き入れ、国力の増強をはかっている。これは当時のどこの国でも取られた政策で、この時代から漢帝国は異民族を招き入れ、純粋の漢族は滅亡したといわれている。一方異民族のほうは従来の馬術などの兵力に加え、漢中の文化に触れ、武力だけでない教養の民族化がはかられてきた。その結果五胡十六国や後の元などの異民族国家が誕生することとなる。

 図2 中国朝鮮日本時代推移

中国朝鮮日本

 さて以上の話は朝鮮にもあてはまる。朝鮮は図2に示す如く紀元前までは古朝鮮とも衛氏朝鮮ともいわれた伝説の歴史がある。これを朝鮮の人々は朝鮮民族のルーツと言っているが、識者の中には必ずしも賛同をえているわけではない。前漢時代、漢の武帝が人口の増加を背景に大がかりな遠征にとりかかり、朝鮮半島にも大いに変化があった。主には楽浪郡等朝鮮四郡を設置し、東方の経営にあたった。秦の始皇帝や漢の武帝のころ、中国から苛性をのがれて朝鮮半島に移動した中国人といわれている馬韓、辰韓、弁韓の国々が朝鮮南部に住みついた。さらに、玉突き状態で一部、倭国に渡来した人々もいたようである。
 三国志の時代、人口は最小限に達した。人口の収縮は中国中央には人口の吸収力が働き、その分、辺境では圧力が減退する。それに乗じて高句麗が勢力をまし、朝鮮北部に強大な勢力を築く。それと同時に新羅、百済を含め朝鮮の三国時代という。この間三国は発展し、おそらく朝鮮民族を意識しだしたのは、この頃であろう。日本もこの頃、盛んに朝鮮、中国と交易し、魏志倭人伝に卑弥呼が登場するのはこの頃である。

中国地図画像

図3 3世紀の朝鮮半島

 高句麗(こうくり、紀元前37年 - 668年)は、ツングース民族による国家であり、最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。半島南西部の百済、南東部の新羅とともに朝鮮半島における三国時代を形成。隋煬帝、唐太宗による遠征を何度も撃退したが、唐と新羅の連合軍により滅ぼされた。
 百済(くだら / ひゃくさい)は、古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余族による国家(346年- 660年)である。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代を朝鮮半島における、三国時代という。新羅を支援した唐によって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられた。

朝鮮7世紀地図画像

図4 7世紀の朝鮮半島

唐の範囲.

図5 唐の最盛期範囲

 新羅(しらぎ/しんら、紀元356年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。新羅、半島北部の高句麗、半島南西部の百済の3か国が鼎立した。


 やがて隋の時代になると中国の国力は強勢となり、人口も4600万人にまでふくれあがった。隋の煬帝は周辺地域の侵略をはじめ、朝鮮半島には現在の京城あたりに帯方郡を設置し、朝鮮経営にあたることとなった。そして唐の時代である。唐の太宗は遠交近攻政策をとり遠くの新羅と結び、近くの高句麗、百済をせめる。倭はこの頃、天智天皇の親百済政策をとっていた。伝統的に百済の文化を摂取していたのも、百済の周囲の強敵、特に高句麗、新羅を牽制するために、倭と接近する手段であった。しかし、その甲斐もなく、百済、倭連合軍は壊滅的な敗戦を喫し、朝鮮半島は新羅に統一され、倭は朝鮮半島から完全に撤退するのである。それと共に多くの帰化人が日本に渡来した。この時代に限ったことではないが、特にこの数百年の渡来は多かったようである。そして長い間に混血を繰り返し、日本人はこれら渡来人の血が濃く我々のDNAに染み込んでいるようである。

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纏向の桃

纏向遺跡については三回にわたってまほろば紀行に記述した。(22. 纒向遺跡のロマン 2009-02-27  26. 纒向遺跡発掘現地説明会 2009-03-25  55. 纒向遺跡第166回調査発掘現地説明会 2009-11-15)また最近纏向の桃が発掘された。いやが上にも纏向イコール邪馬台国論が有力になってきた。そしてNHKで纏向遺跡の発掘状況について最近の成果をNHKスペシャルで映像化した。以下この映像に沿って、纏向を総括したい。発掘現場の見学や論文集と違い、映像化、視覚化されているので、たいへん分かりやすく、あらためて纏向の論点が整理出来た気がした。
 過去の発掘状況については、過去の記事をみていただくとして、その主要点を整理しておく。
(機謀燦遺跡とは
桜井市の北、三輪山のふもと、箸墓の近辺に纏向遺跡が発見されてから久しい。166次にわたる発掘をかさね、次ぎのことが判ってきた。
(1)普通の遺跡は縄文弥生といった古くから継続する遺跡が多いのに、この遺跡はある時突然建設された都市型遺跡であること。
(2)この遺跡からは多くの地方の土器が発見され、全国から土器を携えた人々からなりたっていると思われること。このことから2〜3世紀頃、全国の氏族が共立した国を建設したのではないかという仮説が立てられた。(図ぁ
(3)さらにこの近辺には創設期の前方後円墳の萌芽ともいえる、古墳群が発見され、この延長に箸墓古墳が卑弥呼の墓とも思われる、魏志倭人伝の径100歩に匹敵する墓が存在する。
(4)前回の166回調査において、四連建ての大型建物が発見された。これをすわ卑弥呼の神殿と色めき立ってきた。
(5)そして今回の夥しい桃の種の発見である。これが何を意味しているのかが、最大の関心事であった。


巻向を掘る010 巻向を掘る011


巻向を掘る015 巻向を掘る020

写真,枠な荼妬上空からみた纏向遺跡であり、△倭芦麋見された大型建物の想像図である。

(供謀蹐陵用と神仙思想
 今回発見された、桃の種はの大型建物の脇から出土した。この発見の後、識者により色々検討された結果、神仙思想に関係ありそうだとの見解が示された。テレビでは図の如く、卑弥呼を想定した女性が鬼道なる占いを行なっている想像の映像が写しだされている。そしてその礼拝所の下に、周囲をとりまくように桃が配置されている。中国の湖北省の武当山の映像が神仙思想の代表として登場するが、桃は神仙思想や鬼道の祭壇に欠くことのできない果物として登場するようである。


巻向を掘る060 巻向を掘る023


巻向を掘る026 巻向を掘る032

(掘貿吠劼波見された銅鐸
 次ぎに銅鐸の破片である。銅鐸は何処でも破片で発見される。図Δ脇実の復元図であるが図Г埜る如く、ハンマーで叩かなければ壊れない強度をもっている。中国では鉄器時代以前のしばらくの間青銅器時代が続いていた。その発掘遺物として青銅器の武器や農具であるが、日本でも一部発見されている。しかし、日本は青銅器時代が殆んどなく、早くから鉄器が渡来していた。これは中国、朝鮮から日本に水田稲作が移入された頃は、既に鉄器時代に入っていたことを示している。
 しかし、昭和59年出雲の荒神谷遺跡から358本の銅剣が発見されたのに続いて、平成8年加茂岩倉遺跡から銅鐸39個が発見された。この大量の銅製品の発掘は、日本にも青銅器時代の存在を予感させるものであった。出雲については稿をあらためて記載したいと思うが、大和の出雲神話や出雲国風土記などから、また、奈良盆地における夥しい出雲神の痕跡(盆地西部の賀茂神)を見ると、卑弥呼以前(又は纏向以前)の大和に青銅器時代が存在し、銅鐸文化の隆盛があったが、纏向文明(神仙思想、道教思想)による新しい神々の登場と共に、旧文化が滅ぼされたと言う仮設が唱えられることとなる。

(検冒封のかご
 次ぎに最大の発見を予感させる、発掘があった。図┐冷鴇の遺物である。中国の書物に「装封のかご」なる記載があり、このかごの中に最高級の宝物が包装されているらしいのである。これが図の映像であるが図┐呂泙気砲海譴任呂覆い、と色めきたったようである。もしかして、魏志倭人伝の親魏倭王の金印ではないか。
 桜井教育委員会の発掘担当者が今年の酷暑の中、額から大汗をかきながら大写しになった顔を思い出す。発掘現地説明会の常連である。何を予想したかとの記者の質問に、聞かないでくれと答えなかった。金印は発見されなかった。いつか確実な邪馬台国の証を発見していただきたい。今では親魏倭王の金印発見以外には邪馬台国を証明する物的証拠はないのである。


巻向を掘る034 巻向を掘る033

  は「装封のかご」 は「装封のかご」を記載した文書


巻向を掘る057 巻向を掘る062

  卑弥呼の使者が訪問した洛陽の魏の宮廷 卑弥呼の鬼道と周囲をとりまく桃の想像図

(后傍般逎里の優位性とは  邪馬台国大和説、九州説の論争は一世紀にわたる。最近の纏向発掘は大和説に有利な材料である。しかしどう考えても2世紀の日本が大和を中心とした、統一王国があったとは考えにくい。この前後100余国に分かれていたのは中国史書に表現されているのは事実である。しかしこれも九州地方と朝鮮南部の任那地方のことである。当時の大和は古墳こそこの時代以降に建設されたらしいのであるが、それまでは一寒村で他の地区から進んでいた形跡はない。弥生遺跡も唐古鍵遺跡以外大したものは見当らない。むしろ航海を中心とた沿岸地区のほうが発展していたのである。決定的な問題は鉄器の遺物が九州中心に圧倒的に多いということである。鉄器は農機具や武具に圧倒的な差を生じる。食物の圧倒的な生産性の違い、武具の殺傷力の差など、どう考えても当時の北九州勢力が圧倒している。吉野ヶ里遺跡は弥生集落を彷彿させる。これらを認めた上で尚且つ大和である確証は親魏倭王の金印の発見以外にないのである。

巻向を掘る065 巻向を掘る067

吉野ヶ里遺跡と銅剣の発掘遺物

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写真の二枚並べ

1.巻向遺跡とは

巻向を掘る010 巻向を掘る011
巻向を掘る060 巻向を掘る023
巻向を掘る026 巻向を掘る032
巻向を掘る034 巻向を掘る050
巻向を掘る057 巻向を掘る062
巻向を掘る065 巻向を掘る067

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図1 人類の足跡

アフリカで生まれた人類は数10万年かかって全世界にひろまった。

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図2 散布図

縄文、アイヌ、沖縄が近い関係にある。日本(東部、中部、西部は朝鮮、華南などと近い)

散布図

図3 スンダランド

マレー半島、ジャワ、ボルネオ、スマトラは同じ島を形成していた。ニューギニア、オーストラリアは地続きであった。

スンダランド

図4 湊川人の復元図

港川人

図5 二重構造モデル

日本人は東南アジア系旧石器時代を土台にして北東アジア人の混血で本土日本人を形成した。

二重構造モデル

図6 鳥浜貝塚全景

鳥浜貝塚

図7 人口分布

縄文人は最高30万人で晩期は15万人まで減少していた。

人口分布

      石器時代      縄文時代       弥生時代

図8 プラントオパール図顕微鏡写真

プラントオパール検出例  

図9 焼畑稲作

縄文時代は焼畑稲作が九州でおこなわれていた。

畑作稲作

図10黒曜石の生産地と発見場所

縄文時代すでに黒曜石は日本で産出され東アジアに運びだされていた。

黒耀石

図11気温変化

3〜4000年前に気温が低下し世界中が影響を受けた。

気温変化

図12 低温化による人類の大移動

北部アジアの異民族が中国北部から南下し押し出されて玉突き状態で全体が南下した。日本も例外ではなかった。

人類移動アジア

図13人口移動推移

人口変化

図14人口変化

人口変化

銅鐸の歌

 数年前、橿原考古学研究所付属博物館で、銅鐸の展示会を行なっていた。全国の銅鐸を一堂に集めたもので、壮観そのものであった。そこで初めて銅鐸の音色を聞いた。不思議な音で、これが弥生の音楽かと思ったものである。ある本によれば、古代の銅鐸は2ミリの厚さで、現在の鋳型の銅鐸の音色とは全く違うものであるという。現在の鋳型は5ミリ程度の厚さで、これ以上薄くは作れないという。発掘された銅鐸の音は普通の人間では聞かれないが、聞いても錆びなどで、昔の音はでないのではなかろうか。この博物館では時を刻むのに銅鐸の音で合図するときいたことがある。
 さて銅鐸とは図のごときものである。そして銅鐸には数々の不思議があるのである。

銅鐸写真

出典 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%90%B8 より拝借

1.銅鐸とは何か
 銅鐸は上に掲げたように時を合図するものなのか。弥生人が時間ごとに合図が必要だったのか。これは大いに疑問である。有力な説は弥生の宗教儀式で開始の合図に鳴らした説、銅鐸自体が信仰の対象だった説。その他多くの説があり、確定したものはない。しかし、銅鐸は時代を超えるごとに、大きくなり、加工が精巧になり、銅鐸に刻んだ絵画が精密になっていく。そして弥生の中期以降、突如として姿を消す。平安時代に著された『扶桑略記』という書物に、天智天皇時代、滋賀県で発見されたというのが最初の記事である。しかしこの時代の歴史書である「記紀」には何の痕跡も残していない。これは意識して書かなかったのか、「記紀」の時代にはすでに忘れられ、記憶の外のものだったのか分からない。
 あえて一つの仮説を述べれば、邪馬台国または大和朝廷の時代から新しい宗教が入ってきて、それ以前の宗教の象徴である銅鐸を廃止し、廃棄命令が出されとものと考える歴史家が多いのである。

2.青銅器時代とは
 青銅器時代という時代区分がある。これは人類の利用する道具で時代区分するのに使う。石器時代、青銅器時代、鉄器時代である。従来の石器に較べて銅が発見され、銅剣、銅矛、など武器、農機具など人類の生活を一新する。その後鉄器が発明され、更に生産性の向上がはかられるのであるが、この青銅器時代は中国の殷、戦国時代のことで、おおよそ紀元前2世紀前後から紀元2世紀の頃である。この頃日本は弥生時代に入るか入らない頃の時代で、銅製品は殆んど入ってこなかった。盛んに稲作が始める、弥生中期以降は既に鉄器時代になっており、日本では青銅器時代は殆んどなかったのである。それでも北九州を中心に銅剣、銅矛が分布し、銅鐸が近畿、東海中心に発見されたので、北九州を銅剣銅矛文化圏、近畿中心に銅鐸文化圏といわれたが、最近特に銅製品の新規発掘の分布をみると、必ずしも二大文化圏といえないほど、混在してくるようになった。

3.銅鐸の区分方法
 銅鐸を区分する方法は、大きく二つある。
 (1)写真(図1)を見ていただきたい。上部の穴の開いている所(鈕という。)の形状の変化により区分する方法で、擬亜菱環鈕式、りょうかんちゅうしき)、脅亜С葦鑄寰羲亜覆いえんつきちゅうしき)、啓亜з平鈕式、玄亜突線鈕式と変遷する。専門家は詳しく説明するが、要するに当初は吊り下げ式で利用していたが、徐々に飾りとしての機能しかなくなる。最期は据置き方になるようである。これは鈕の減耗度によりわかるようである。この進展により「聞く」銅鐸から「見る」銅鐸に変化したようである。
 (2)もう一つの分類方法は大きさによる分類で小さい順に第一類、第二類、第三類とわける。時代を追って大きくなるようである。これもまた「聞く」銅鐸から「見る」銅鐸の変化をあらわしている。
 (3)更に発見地区により分ける方法もある。これらは専門の考古学者により、分類方法が異なるようである。

4.銅鐸の発掘分布
 銅鐸の発見分布の地図をかかげる。 

dotaku分布

  
出典(http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku00.html#dotaku00
を拝借

 銅鐸の現在の発見数は500をこえた。主な県別発掘ランクは

 兵庫県 56点
 島根県 54点
 徳島県 42点
 滋賀県 41点
 和歌山県 41点
である。
 通常埋設考古物は人間の密集地で、特にゴミ捨て場で発見されるのであるが、(巻向の桃)で紹介したように銅鐸は普通自然に捨てられただけでは簡単には壊れない、ハンマーで意図的に壊す以外砕けることはない。しかし100点以上の銅鐸はこなごなに破壊された状態で発見された。さらに銅鐸は山あいの発見しにくい場所で偶然発見される。あたかも大事なものを人に知られないように横向きに埋葬されているのである。したがって発見されにくいものであるから、今後さらに多くの発見があるかもしれない。
 以前出雲の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の大量の銅鐸のように一変に埋設地図が変わる場合が発生するのである。佐賀の吉野ヶ里遺跡からは銅鐸の鋳型が発見され、さらに発見がすすんで従来銅剣、銅矛文化圏といわれた北九州は銅鐸の産地であったことがわかってきた。

5.銅鐸の運命
 銅鐸は確かに他の発掘物とは違った運命をたどっている。
上にも記したごとく特異な点をあげると
 (1)銅鐸の発見場所は人目につかない山間僻地や窪地が多く、しかも一箇所ほんの数個と数がかぎられている。(出雲は例外)
 (2)人為的に壊さなければ壊れない材料であるが、100個以上の多くは粉々にこわされている。
 (3)たぶん祭器につかわれたのであろうが、その風俗習慣がすぐに廃るものではないと思われるが、「記紀」などの書物に何の痕跡も残されていない。識者は西暦720年頃の「記紀」作成当時、古い銅鐸文化の名残はあったと思われるが、ことさらこれらを無視してきたと見ている。
 これらから大和政権の確立時点で宗教の大変革が行なわれたとみている。それが邪馬台国であったかもしれない。突然の新政権は新しい宗教、新しい神々を強要したのではないか。古い銅鐸の神々を駆逐したのではないか。そしてその古い神々の象徴である銅鐸の廃棄命令を発したのではないか。
古き神々を捨てきれない人々は廃棄に際し、人目につかないところに銅鐸を隠した。権力者に従順な人々は打ち壊しのうえ、廃棄した。これらが今頃になって再び考古遺物として生きがえってきたのではないか。

 銅鐸は語らないが、銅鐸の歌は今でも弥生の不思議な音色で歌っている。


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出雲国風土記と記紀の世界

 風土記の編纂が中央政府から発令されたのは713年で元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂し、.郡郷の名(従来の慣用文字から好字を用いて表記、例えば黍を吉備、粟を阿波等)、.土地の特産物、.土地の肥沃の状態、.地名の起源、.伝えられている旧聞異事など記述せて中央政府に提出を命じた。そして全国から○○風土記として主に漢文体で書かれて全国多数の国から提出があったもようである。しかし現在現存している風土記は存在しないが、『出雲国風土記』がほぼ完全にその写本が残り、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が逸文(他の本に引用されている)として知られていて内容が分る。他国の内容も色々の書物にその片鱗が残されている。
 ここで出雲国風土記をとりあげ、出雲国がどのような国であったかを窺い知りたいのであるが、出雲を知るにはこれだけでは足らず、古事記、日本書紀の記述を参考に、この全体を理解しなければならない。記紀の世界では神話の半分は出雲神話で占められている。そしておのおの異なった神話が書かれているのである。そしてどれが正しい出雲国を表現しているかという問いは、殆んど無意味で、すべてが正しく、すべてが正確ではないのである。これは713年の前年の712年に古事記が刊行され、さらに720年日本書紀が刊行された。風土記を含めいずれも官製の刊行物で、これらが独立して世に出たわけではなく、一連の意図ある刊行物と思わなければならない。
 712年以前、或いは720年以前出雲国風土記は存在せず、出雲国の伝承だけがあった。記紀はその刊行目的にあわせて、中央政府に必要な伝承のみをとりあげ、出雲神話とした。と言うより、大和朝廷の国家神話としたのである。それに較べて出雲国風土記は713年当時の大和朝廷の国司と地方官が責任者となり、上記の命令に従い、忠実に編纂したのであり、国家目的とは相当異なる編集方針によったのである。

 以上を前提にして出雲国の二三の主要点の片鱗を窺うことにする。
.好汽離Δ離筌泪織離ロチ神話
 古事記の有名なスサノウ神話はアマテラスに高天原を追放されて出雲に降るが、日本書紀には一時新羅の「曾尸茂梨(そしもり)」を経由するくだりが書かれている。その後出雲にゆき、クシナダヒメが老夫婦と共に泣いているので訳をきき、ヤマタノオロチに娘を狙われているという。そこで酒をのませてオロチを退治し、その尾から草薙剣を取り出す。のちクシナダヒメと無事結婚する。このくだり出雲神話にはでていないが、よく似た話がある。大国主が「越の八口」を退治する話であるが、原形はこれであるかもしれない。出雲がまだ小国であるころ、越(現在の北陸)の勢力に侵略されていたのであろう。これを出雲の英雄が敵を撃退した伝承があったのであろう。
 

⊇弍世旅餔き神話
 この神話は出雲国風土記にのみ記述されている。出雲国風土記の中心話題のひとつである。スサノウの五代の子孫、八束水臣津野命(ヤツカミズオミツノの神)が

 国引きましし八束水臣津野命、詞りたまいしく「八雲立つ出雲の国は、狭布の稚国なるかも。初国小さく作らせり。故、作り縫わな」と詞りたまひて「栲衾、志羅紀の三埼を、国の余りありやと見れば、国の余りあり」と詞りたまひて、童女の胸?取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の綱うち挂けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のそろもそろもに、国来国来と引き来縫える国は、去豆の折絶より、八穂爾支豆支の御埼なり。此くて、堅め立てし加志は、石見の国と出雲の国の堺なる、名は佐比売山、是なり。亦、持ち引ける綱は、薗の長浜、是なり。

とある。
 縄文の昔、地球寒冷化(海進)のおり島根半島は、島であった。これが温暖化により陸続きとなったのを、昔の人は記憶し、代々つたえてきたものである。また弥生時代になって土地の開拓がすすみ、稲穂に満ち満ちた情景であろう。記紀にこのことがないのは、大和にとって関係のないことであったからであろう。

出雲写真集_p01

http://suido-ishizue.jp/daichi/part2/01/04.htmlより拝借

B膵饉腓旅颪弔り
 この頃の表日本は日本海側で太平洋側は裏日本であった。それもそのはず、日本の国交相手は韓国であり、中国であった。外交だけではなく、国内交通も日本海航路が中心であった。いつの時代でも商業が発達してこそ国が繁栄する。縄文時代、三内丸山遺跡から自分たちで食べきれない貝殻や魚の骨が発見された。これは貝の干物の大工場であり、魚の干物の大量生産場所であった。これらは北海道から来る、鮭の干物や動物の干し肉や、皮革などと物々交換をおこなっていた。最も古い交易品はサヌカイトなどの加工のし易い石で、讃岐や二上山で生産されていたものであり、瀬戸内交通が盛んであったし、越中糸魚川の翡翠などが、大いに好まれていたらしい。これらは日本に留まらず、韓国の釜山あたりから韓国中央部を流れる川を遡り、ソウルのあたりまで行っていたのである。やがてこの道が青銅器や鉄の交易に中心をうつしてゆく。スサノウが日本に来た頃はおそらく青銅器時代であったとおもわれる。
 その頃、出雲は大国主が現れる。大国主は多くの名前をもつ。大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命(おほなむち)・八千矛神(やちほこ)その他数十の名前をもつ。おそらく神徳の高さを現すといわれているが、長い年月、元々別の神であった神々を統合したものとおもわれる。
記紀や出雲国風土記には出雲の主役で表現され、出雲の白兎など、なじみである。その中で、ヌナカワヒメ(奴奈川姫)の嫁取り神話があるが、越の国まで征服していたことを表している。おそらく出雲は最大限、現在の北陸から日本海側一体を領国としていたし、吉備、播磨、大和まで勢力圏にあったかも知れない。播磨国風土記には大国主の逸話があらわれている。

出雲写真集白兎神話

ぢ膵饉腓旅饐り
 やがて出雲の勢力は衰退をはじめる。そして相対的に大和の力が台頭する。古事記、日本書紀のクライマックスに到達する。神話の主人公アマテラスは出雲に降伏をせまり、アメノホヒを遣わすが、三年たっても還らず、再度天の若日子を出雲に送る。これも出雲に取り込まれ、とうとう武神タケミカズチを送り、大国主に出雲を葦原の中国に譲るように説得する。大国主は自分には相談する息子が居るといい、事代主に返事を任す。事代主は承諾し、自分は入水する。再びタケミカズチは大国主のところに行き、他に相談相手はいるかと問い、タテミナカタが居ると言う。ここで二人は力比べとなり、タテミナカタは諏訪の国まで投げ飛ばされ、二度と諏訪の国を出ないことを約し、ついに大国主は出雲を譲る条件をだす。それは大国主が住む天にもとどく大社の建立を建てることであった。これが出雲大社である。

 アマテラスとスサノウは姉弟の関係であり、もともとは同じ国の人であったが、アマテラスは天の国をスサノウは地の国を治めることになる。そして地の国出雲は天の国に征服されるいきさつを日本書紀は正統化したかったのである。
 神話はこれに限らず、多くの挿話をふくんでいる。そしてその神話が単に作り話ではないことを近年の考古学遺物が物語っている。哲学者の梅原猛は、当時まで出雲で神社は多いが発掘される遺跡が殆んどないことで、1985年著書「神々の流竄」で、記紀に出てくる出雲神話は大和の出来事であり、大和政権が出来たときに、旧勢力を出雲に流し、祟りを恐れて出雲大社を作ったと主張した。我々素人は大学者の唱える説に感動し、何回もその本を読んだものである。しかし、それ以降次々に発掘される、驚くべき遺跡、遺物の発見に、前言を翻し、出雲に旧勢力の存在のあったことを、認めた。
次回はその発見の数々を見たいと思う。

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出雲の考古埋葬遺品

(1)荒神谷遺跡

 1983年(昭和58年)島根県簸川郡斐川町神庭西谷で現在出雲ロマン街道といわれる広域農道を建設中に一片の土器を発見した。これが出雲における考古学資料発掘の発端となった。現場近くに三宝荒神があることから荒神谷遺跡と名付けられた。また地名をとって、神庭荒神谷遺跡ともいう。以降発掘が続き、最終的に銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が発掘された。

荒神谷遺跡2

(図1)荒神谷遺跡


 このうち銅剣の358本は日本で今まで発見された総数を上わまわり、銅剣の分布地図を塗り変えた。銅剣は今まで主に北九州から発見されており、主に武具に利用されていたらしいが、日本の青銅器時代は短く、すぐに鉄製品に変わっていった。これは武器としての性能に格段の差があるので、当然のことであった。銅剣はやがて消滅するが一部祭器として利用された。
今まで発掘された銅剣を分類すると作成時期により3種類に分けて、初期は「細形」、中期が「中細形」、後期が「平形」と編年分類されている。荒神谷遺跡の銅剣は長さ50cm前後、重さ500gあまりと大きさもほぼ同じである。弥生時代中期の製作とされる。
 特徴的なのは発見された358本のうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれている。これが何を表しているのか、現在わかっていない。更に、後世編纂された「式内宮」として認められた神社の、出雲地方での総数と銅剣の数が奇妙にも一致している。これは偶然であろうか。
 銅鐸6個については銅剣出土地から7メートルのところで発見された。分類としては、最古の形式であるI式(菱環鈕式)が1つと、それよりやや新しいII式(外縁付鈕式)の形式のものが1個、外縁付鈕1式3個が出土している。製造場所は特定されていないが、現地生産の可能性がある。

(2)加茂岩倉遺跡

 荒神谷遺跡の発見で出雲が神話から現実の王国の現実味が濃くなって、まだ興奮が醒めない1996年、今度は加茂町(現雲南市)岩倉の丘で農道工事中に重機に異物がはさまった。よく調べるとそれが何と銅鐸だったのである。発掘の結果、39個の銅鐸である。これは一箇所の出土例としては日本最多である。
銅鐸の種別としては高さ45センチの中型鐸20口、30センチ前後の小型鐸19口に分類され、形式においては弥生挟から郡の外縁付1式が19口、外縁付紐2式が9口、外縁付紐2式から扁平紐1式が2口、扁平紐2式が6口、扁平紐2式から突線紐1式が3口となっている(銅鐸の歌参照)。銅鐸の多くは、大きなものの中に小さなものを入れた、入れ子の状態で発見されたものが12組あり、その他3組も入れ子だったと推定されており、銅鐸内部に詰まっていた土砂の分析結果から、銅鐸を埋めるまえに、人為的に中に砂を押し込んだ可能性があることも確認されている。この入れ子は、陰と陽、新と旧、などいろいろ言われているが、弥生人のものの考え方、自然観にかかわっているものかもしれない。

加茂岩倉遺跡.

     (図2)加茂岩倉遺跡

 銅鏡も同じであるが、銅鐸はその製造過程が注目されている。同笵銅鐸といい、同じ鋳型でつくられているものが多く、しかも、何回もくりかえして利用されると、鋳型の肌に傷がつき、この傷を解析することにより、製造の順序が特定される。加茂岩倉遺跡の銅鐸は15種類に分類され、各々1〜4個の同笵が確認されている。しかも兵庫、大阪、岐阜、鳥取、岡山、徳島など各地に同笵銅鐸が確認されているのは注目される。
 近畿や特に三遠式(三河遠州)の「大型で見るための銅鐸」とくらべて、ここでは小型銅鐸が中心で、それだけ時代が古いものである。銅鐸絵画の描かれた銅鐸は7口あり、顔・トンボ・鹿・猪・スッポンなど絵を描いた絵画が描かれている。
 出土した銅鐸の中の13個に、作った後「×」印をしたものがあった。これは荒神谷遺跡の銅剣及び銅鐸と同じ特徴である。

 出雲での青銅器発見以前、銅剣、銅矛は九州、銅鐸は近畿以遠と類別されていたが、この発見で従来の見解は覆されることになった。九州と近畿の中間にかくも多くの遺品があることは、青銅器文明が一連のものであったことを物語っている。そしてここに文化の先進性、遅行性の伝播の特性を指摘されはじまた。北九州は朝鮮、中国と近い関係で常に往来が行なわれ、武器や文化の移入が早かった。それはその内容を吟味するより早く導入し、すたれるのも早い。それにくらべ、出雲、大和は九州から伝播する速度が遅く、またその時間差がゆっくり、しかも慎重に選択され、吸収するかしないかの時間をあたえてくれる。その分一度根ずけばながもちする。特に祭事において顕著に現れる。一度習慣化した宗教儀式は長く続き、なかなか新しいものとは入れ変わらない。

(3)出雲大社の「心御柱」(しんのみはしら)と「宇豆柱」(うずばしら)

 出雲大社の宮司千家家に代々伝わる「金輪御造営差図」(図3)は出雲大社本殿の設計図である。千家家はアマテラスの第2子といわれる天穂日命を先祖として、日本での最古の家柄である。出雲大社は大社造といわれ正方形の古典的な日本家屋で、柱が3X3の9本から成り立ち、その中央の柱を「心御柱」といい、その前後の中央2本の柱を「宇豆柱」という。この宇豆柱から地上に階段がしかれ、上り下りにつかわれていたらしい(図4)。平安時代には『雲太和二京三』と言われ、雲太は出雲の大社が一番、和二は大和の大仏殿が二番、京三は京都の大極殿が三番の高い建物といわれていた。その言い伝えが実際に出雲大社境内の地下から発掘されたのである。

金輪御造営差図

        (図3)金輪御造営差図

大社想像図

        (図4)出雲大社の想像図


 まず2000年4月に「宇豆柱」が発見され考古学ファンを熱狂された。宇豆柱は、三本の巨木の丸太を束ねていた。さらに2000年10月、今度は3X3の中央の柱、いわゆる「心御柱」が発見された。これは宇豆柱より更に太く、丸太一本の最大径は上層部で1.2m、側柱は0.85m、地中部分を想定すると心の御柱は最大3.2m前後で、宇豆柱(3m)より大きい。この柱が発見されて、9本の柱の位置関係が判明した。この柱は平安後期から鎌倉(十一〜十三世紀)にかけての本殿の柱であると推測され、昔の言い伝えが真実であったとあらためて認識した。これは地上16丈(48m)上古で32丈(96m)ともいわれる、高層の建物だったといわれる。なお現在の本殿は高さ8丈といわれている。
 「田」の字の横13.4m、縦11.6m、柱間隔は心御柱から宇豆柱まで5.8m、宇豆柱から側柱まで5.7mの長さである。

(4)四隅突出型古墳
 四隅突出型古墳とは、四角形の四隅が異常に貼り出した古墳である(図5)。

四隅突出型古墳
            (図5)四隅突出型古墳

1968年島根県邑智郡瑞穂町で四隅が異常に突出した墳丘墓が発見された。いままで山野と思われていたのであろう。これが後、四隅突出型古墳の分布のさきがけとなった。北、東、南の三方に溝があり墳丘の斜面には四隅に張り出しを持つ列石があり、さらにその外側には棒状石による玉垣状の列石があった。墳丘の中央部には二個の箱式石棺と一個の木管直葬の遺構がほぼ平行に設けられていてガラス製の管玉や切子玉が置かれていた。ほぼ三世紀後半ないし四世紀初頭の建設である。
 その後出雲市大津町で1983年に最大規模の西谷墳墓群が発見される。注目されているのは出土した土器の半分は他地方のものであることだ。吉備の楯築墳丘墓から出土している同じ形式の特殊器台や、丹後から北陸地方の特徴をみせる弥生土器である。最大の9号墳は48M×38Mで現在整備保存されている。
 このように出雲の母、斐伊川流域を中心に日本海側全域に分布する。広島17、岡山1、島根38、鳥取27、兵庫2、福井3、石川1、富山10、福島2とおおよそ100ヶ所から発見され、墳墓内容から見て日本海一帯に広大な勢力圏があったことが推測されるのである。ただ最古で3世紀後半から4世紀前半ということは大国主の時代からは少し遅れている。このあたりいまだ謎とされている。

 一方、出雲は方墳が多いことも知られている。その中の神原神社古墳は有名である。出雲国風土記には大国主が宝物を貯えていたとされる、神財(かむたから)の里の事を記述されている。神財が神原になったのであろう。荒神谷遺跡には5キロ、加茂岩倉遺跡には2キロの距離である。この点出雲国風土記の記述は正しかったのである。さらに1972年、神原神社古墳の上にあった神原神社を川の改修により移転することになった。それを期に発掘調査を行なったところ、何とこの古墳の中から三角縁神獣鏡が発見されたのである。しかもこの鏡の製作年が記載されている鏡で、景初三年の銘があった。景初三年鏡はかの卑弥呼が魏王から賜った鏡100枚のうちの一枚で、現在大阪府の黄金塚古墳と二枚だけである。

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スサノウの銅鐸

新羅の旧領弁韓を出発したスサノウは、数艘の船に乗り込み日本海に乗り出した。特に行く先が決まっていたわけではない。しかし、海峡の向こうに朝鮮半島以上に大きい国があることは、このあたりを往来する商人たちの情報から知っていた。朝鮮半島ほど争いがなく、人口もまだ少ない。紀元前200年漢書に「楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見す」と記されている倭国は、北九州では争乱の最中であった。北九州は朝鮮半島や中国大陸から近く、朝鮮半島と同じく戦争が絶えないようであるが、少し東に向かうと、まだ人口が少なく、広大な土地が空いているようだ。商人達は九州から翡翠や食料、毛皮などを朝鮮に持ち込み、青銅製の武具や農具を運んでいた。これら輸入品は日本の日本海沿岸の各地から交易により、北九州にあつめられ、朝鮮半島の釜山のあたりに陸揚げされる。一部は慶尚南道の川を遡り、デジュンの方に向かう。
 温暖な気候の日本は食料資源が多いわりには人口が少なく、特に中国、近畿地方は無限の荒野がひろがっている。日本は稲作が始まったばかりで、まだ北九州以外は普及していない。多くの朝鮮人が朝鮮の戦乱をのがれて、日本にわたっていた。そして彼らの居住地区は北九州が飽和状態になり、必然的に未開の中国、近畿地方に移転した。この地方は北九州以上に土地が豊饒で、農地に適し、瀬戸内を行くと、海岸線も長く、漁業にも適していた。海岸の居住適地にぽつぽつと集落が存在し、始まったばかりの稲作や、昔ながらの漁業にいそしんでいた。
 スサノウが日本に訪れたのはこのような時である。商人達は釜山から那の津(現在の博多)に向かうが、商人ではない彼は流れにまかせて東南に向かった。この方向ならいずれ日本に到着することは判っていた。気候だけが気懸りであった。そして数日の航海ののち、出雲に到着した。
 到着した出雲はまだ未開の地であった。人口も少なく、ところどころ農地があるが、土地を争うほどの人口はいない。スサノウは自慢の馬鈴を腰にさげていた。馬を船に乗せるわけにゆかないので、せめて乗馬のシンボルをと常に腰に携帯していた。鈴の音がなんともすがすがしく、スサノウのお気に入りであった。そして一行は朝鮮半島で当時はやりの銅剣を皆腰にさげていた。当時青銅器がさかんで、鉄器はまだ時代の趨勢ではなかった。一行は地元人との接触を避け出雲の鳥髪山(現在の船通山)に上る。ここで取り敢えずの生活の基盤を築くことにした。鳥髪山から斐伊川が流れ出し、宍道湖に流れ込む、絶景の地である。
 住み着いてしばらくたつと、出雲の状況が次第に判って来た。秋の収穫が終わるころを狙って、近隣の山の民が収穫物を狙って大挙村を襲うのである。困った村人達は危害をおそれ、収穫物の一部を山の民に提供していた。しかし年を追う毎に要求はエスカレートし、とうとう我慢の限界に来た。その時、スサノウ一行があらわれたのだ。
 いつものとおり山の民の山賊が山中に出現した、山の民はいつもどおり、村長(むらおさ)と交渉した。今年は特に要求がきつい。さらに女も要求しているようである。これを聞きつけたスサノウ一行は助力を申し出た。彼らには銅剣という武器がある。山の民の石つぶてや木材の武器では、いくら腕力が強くても、当時近代的な銅剣にかかっては、太刀打ちできない。しかも朝鮮時代、彼らは戦闘集団であった。酒盛りのすきを見て、一挙に襲い、頭領らしき男を血祭りにあげた。頭領を失った山の民は闘志を失い、山奥に逃げ帰った。
 この出来事が村人のスサノウたちの信用を一気に増した。スサノウは「この国は小さいけれどよい国なり。わが名を岩木につけず土地につける。」と言い、たいそう出雲の国を愛した。村人はかれを村の英雄に祭り上げた。そして来年再来年の山の民の来襲にも助力を約束した。そしてしばらくしてスサノウは村長の娘、櫛稲田姫との結婚を行なった。相手が村長の娘だけに村中沸きあがった。当日は村人は酒や肴を持ち寄り、三日三晩飲み明かした。二人は須賀神社の近くに庵を構え、住居した。部下達もやがて村娘を娶り、村のあちこちに住み込んだ。彼らは決して村人と争いを起こさなかった。家の庭のまわりには八重垣をはりめぐらせていた。

  「八雲たつ 出雲八重垣 妻込みに 八重垣造る その八重垣を」

 この歌はスサノウが詠んだ日本で最初の和歌であるとされている。しかし作風が新しく後世のものであろう。しかしスサノウの新居を詠んだ歌であろう。

須賀神社

須賀神社
 スサノウは暇をみつけては何か作り始めた。それも一心になって作っていた。皆はそれが何か全く判っていなかった。ただ一人気の利いた、職人はだしの部下が手伝っていた。彼らは銅の精錬を始めていたのである。やがて馬鈴の形をしたものが出来始めていた。スサノウが朝鮮半島から持ってきた馬鈴を大きくしたもので、鈴の音もしていた。音に更に工夫がほしいと更に何個も製作した。やがて努力の甲斐あって、非常に涼やかな音の馬鈴ができた。スサノウはこれを「銅鐸」と名付けた。大いに気に入った一個を新居の軒先にかけた。櫛稲田姫はめずらしそうにそれをながめ、時々音も鑑賞していた。やがて近隣の家家から、不思議な音がすると、スサノウの家のまわりに集ってきた。姫はその銅鐸を朝起きると必ず鳴らしはじめた。
 スサノウは大層幸せな人生を送っていたが、やがて死期を迎えることになった。村人は心配して様子を見に家に集ってきては、そう長くないことを悟り帰っていった。そしてある日異常な銅鐸の音が、スサノウの家から響いた。櫛稲田姫がスサノウの死を悲しんで、鳴らしつずけたのである。その音は悲しみにあふれ、出雲の山々にこだました。

出雲熊野神社

出雲熊野神社


 スサノウの遺体は愛する出雲の地に埋葬された。そこに祠を作ったが、やがて熊野神社となった。熊野神社には彼の遺品の銅剣をご神体とし、神剣とした。命日には銅鐸をならして、スサノウを偲んだ。やがて随伴してきた一行の者たちもやがて死をむかえた。スサノウと同じく、各々の土地土地に埋葬され、盗賊退治をしたときの銅剣を神剣として、その場所に神社として奉納された。彼らの子孫達は各々その命日に、代々伝えられた神剣を拝した。そしてその儀式に先立ち、銅鐸を鳴らした。それが伝説となっていった。

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出雲の国つくり

 スサノウの王朝は以降、出雲国風土記によれば、ヤシマジヌミ→フハノモジクヌスヌ→フカフチノミズヤレハナ→オミズヌと続くことになる。この間スサノウの子孫は国つくりに専念した。時代は約200年を経ていた。時代も大きく変わってきた。変化の原動力は人口の増加であるが、これが様々な変化をもたらした。
 第一は稲作の進展である。時代は弥生の中期、北九州の人口の飽和により、稲作を求めて、東方に人口が移動してきた。人口の移動は山陰、山陽、四国を経て、近畿に及んだ。稲作により単位土地の収穫量が増え、人口密度が増すと共に更なる耕作人口を必要とし、労働力としての多数の子供を生み、人口の増加率が飛躍的に増えた。縄文晩期西日本では10,000人しかいなかった人口が弥生中期には300,000人に、奈良時代は3,000,000人とまさに人口の爆発であった。これを吸収したのは、人口密度の増加と未開の中国、四国、近畿地方である。この時代一世代当たり東に10km移動したといはれている。すなわち一世代のちの子供たちが成人するごとに10km東の土地を開拓するのである。渡来人も中国、朝鮮の戦乱にあわせて、絶えることはなかった。むしろ先進文化の吸収のため歓迎される傾向にあった。
 出雲においても例外ではなかった。人口の移入と自然増加のため、どんどん耕作地を開いていった。島根半島の両端に広い未開拓地を抱え、特に斐伊川流域はその豊富な水量に恵まれ、瞬く間に、開拓しつくした。出雲国風土記はこの状態を国引き神話として後世に残した。

国引き神話

                国引き神話


国引き神話の主人公は八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)でスサノウから5代目のオミズヌといわれている。もちろん彼を代表として代々国つくりに励んだ結果である。

 第二は鉄器の出現である。スサノウ以降、世は鉄器時代に入りかけてきた。中国で発明された鉄器は、従来の青銅器に較べて、その強靭さは比べものにならなかった。朝鮮の新羅で鉄が発見され、日本には朝鮮半島を経由して輸入されて、まず北九州から普及がはじまった。鉄は農機具にその威力を発揮し、農作業の生産性を飛躍的にあげた。さらに武器としてその殺傷力において青銅器を駆逐した。これら直接効果のある道具は瞬く間に普及すると共に、その調達について新たな争いを誘発する。
 出雲でも鉄の入手は必須であった。当初、那の津に出向いて入手していたが、直接朝鮮、出雲ルートの開拓を必要とした。当初那の津の大王は目をつぶっていたようであるが、量が多くなるにしたがって、利権をめぐって紛争が起こる。必然の経過である。
 中国、四国地方も鉄の需要は同じである。しかし、この地方は出雲とは事情が違っていた。関門海峡がその交通網の死命を握る。ここを北九州王国が封鎖すれば瀬戸内海各国は鉄の入手が出来ない。やむなく那の津を経由する北九州勢力の利権の元に下らざるをえない。
 このころ、ほぼ伯耆の国を手中に収めていた出雲は、勢力のおもむくまま敦賀の方面に力を注いでいたが、鉄の入手で苦労をしている吉備に目をつけた。直接朝鮮から来る鉄を北九州より有利に吉備に提供するのである。そのことがきっかけとなり、吉備は出雲の陣営に属した。吉備は人口も多く、豊かな大地を有し、瀬戸内海の制海権を有する、有力な国である。吉備が陣営に加わることが、出雲を更に強力な王国へと導いた。
 生産性の向上と吉備の参画は出雲を更に大きくした。しかし、スサノウ伝統の銅剣、銅鐸文化は廃れることはなかった。出雲の有力者が死ぬ毎に神社となり、そのシンボルとしてスサノウ伝来の銅剣が神剣となり、神社の宝物として奉納された。銅鐸もまた神社の主要な行事のシンボルとなった。彼らはスサノウの伝説を決して忘れなかった。銅剣、銅鐸を奉納することにより、出雲を団結した。団結の証として、彼らは年に一度、神有月に熊野神社に集合し、出雲の王国経営について協議した。
 吉備の参画は、その文化をも出雲にもたらした。吉備での葬送儀礼として特殊器台の使用が出雲にも導入された。この特殊器台は死者の墳墓の四周に華麗な文様を施し、丹で赤く塗った装飾性に富んだ大きな筒型・壺型の土器で、その器台の上に、死者への捧げ物を盛った。やがてその墳墓の形態も四隅を突出させた、出雲王国独自の形態をもつようになる。

特殊器台1

吉備の特殊器台

 第三は北九州勢力との対立である。この件は以上のべたことに尽きる。やがてのちに勃興する大和と三つどもえの勢力抗争を繰り広げる。このことは次回述べる。

 第四は東方への勢力展開である。神話の中でも有名な大国主のヌナカワヒメへの求愛神話は越の国への侵略である。現在の姫川は古代にはヌナ川と呼ばれていた。ここでは古代から翡翠の産地で、縄文時代から越から日本海ルートで那ノ津に送られ、朝鮮半島方面に交易されていた。この交易権をも手に入れたことになる。四隅突出型墳墓がこのあたりまで、進出している。

糸魚川翡翠

ヌナ川の翡翠

 第五に大和侵入である。「古事記」や「先代旧事本紀」には神武天皇大和侵攻の折、大和には先に侵入していた、ニギハヤヒ神話なるものが存在する。このニギハヤヒなる人物は出雲の配下にいた吉備の豪族、のち、物部を名乗る人物である。彼は吉備の国を船で出発し、大阪湾を経て淀川を遡り、更に片野から天野川に入り、現在天磐船神社が存在する地点で、船をおりた。このあたり巨岩の岩場でこれ以上遡ることが出来なかったのであろう。彼らは白庭山を上り、生駒から奈良盆地に進入した。やがて大和を平定し、三輪山の麓に居をかまえた。これが三輪神話を生み、大物主命となった。当時の大和はまだ未開の原野で、大した争いもなく、苦もなく進出できたはずである。当時の人々は奈良に進出する前に兵庫や大阪、紀伊方面に先に進出していたことであろう。

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出雲、大和、耶馬台拡大図

出雲、大和、耶馬台

国造地図

国造地図

古代河内湾周辺.

古代河内湾周辺

出雲、大和、耶馬台

さて、出雲を語るときには、大和と邪馬台をはずすわけにはいかない。大和は文字どおり大和であるが、邪馬台は、邪馬台国のことであるが卑弥呼のいた邪馬台国ではなく、北九州に存在した九州王国ともいう国である。
卑弥呼のいた邪馬台国は大和か九州か考古学的にはまだ決着がついていないから、その議論はここではしない。しかし、中国の史書でもたびたびでてくる倭国は、当初は九州にあったことは間違いない。そしてこの三国は時を同じくして並立していたと思われる。図1をみてみよう。

国造地図

(図1)国造地図

これは先代旧事本紀という古書にでてくる国造本紀というもので、国別の分布を地図にしたものである。おそらく7〜8世紀の分布であろうが、国造とは大化改新以降の日本各地の国司(中央政府が指名した知事)の分布で、この当時急につくったものではない。弥生時代クニなる集落が自然発生的に国を徐々に形成していったものであろう。この時代すでに135国にわかれ、各々豪族がいたと思われる。よく知る国名も見受けられる。弥生初期から中期にかけて発生していったクニがやがて集約されて、今話している2〜3世紀のこの時代も大体この地図の如きクニ(または国)が存在していたであろう。しかしいつしかクニが自然淘汰され3つのチャンピオンが生まれたと思われる。もちろん、国なる豪族は存在し、チャンピオンのもとに統合されていたのであろう。
 ここでこの三国の特徴を見てみよう。
 まず邪馬台であるが紀元前200年ころから漢書にあらわれる。「楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見す」。この時代から大和には漢に使者を出す国はいないから当然九州の一角にいた倭人であろう。この時代倭人とは中国の一部と思われる。国などという概念がなかった。江南の稲作農民で操船にすぐれた民族であり、朝鮮半島の南部や九州の南シナ海沿岸または北九州の沿岸地域にあらわれ盛んに交易を行なう、交易民であった。その一部がやがて稲作を伝播し、同地方に住みついた者とおもわれる。その考古遺跡が佐賀県北部の菜畑遺跡であり、福岡県板付遺跡に、その痕跡を残している。しかし、彼らはあくまで交易民族であり、自分たちの目はあくまで大陸地方にむいていた。中国の首都洛陽こそ文化の中心であり、倭国のなかには文化の中心なるものはどこにもなかったのである。この時代大きな戦争があった痕跡はなく、せいぜい領地争いや水争いのいざこざ程度で100余国が鎬をけずった程度であった。「漢倭那国王」印も小さな一国の領有権を認めさせたにすぎない。このような環境では国家意識はいまだ根付かず、魏志倭人伝の邪馬台国もクニが沢山あるうちの一つとして表現されている。

さて次に大和であるが、その前に近畿の地勢学的特徴をごく簡単に抑えておく必要がある。大きく日本を分割すると針葉樹林帯と広葉樹林帯に分かれる。針葉樹林帯は温暖な気候で広葉樹林帯は寒冷な気候に多い。日本の古代を考える際にこのことは決定的に重要である。稲作以前人類は採集生活が主であった。このことはブナやクヌギのもと、ドングリや、クルミを主食とする地帯が生活圏で、縄文の時代は9割が関東、東北の海岸と山岳の接近した地帯に人口が集中していた。逆に近畿、中国、九州の針葉樹林帯では、どちらかと言うと、人類の住みにくい地方であったし人口も少なかった。それが縄文晩期に気候変動で寒冷化がすすみ、三内丸山遺跡が消滅するほどの人口減少が起こった。寒冷に耐えかねた縄文人は南下をはじめ、近畿、中国あたりまできたようである。しかし人口の激減を生じたようである。これを救ったのが弥生に入ってからの、稲作の普及であった。
 やがて稲作文化は東へ東へと進んだ。これが近畿の人口増加の原因である。西日本の気候条件ではいずれも稲作に適していたが、その耕作適地面積を比較すると近畿が圧倒的にひろい。大阪平野、播磨平野、京都、滋賀、和歌山の全てが、近畿であり、その人口吸収能力は他を圧倒した。したがって、東進する人口を殆んど吸収したのである。やがて人口の増加はクニを構成する。そのクニグニが豪族をたて、領地を争い、水争いをくりひろげる。倭国大乱である。図2は高地性集落の分布図である。時代により分布は多少違うようであるが、瀬戸内海から近畿にかけてが多いようである。これは耕作に適さないような高地に砦を構えて、外敵を見張り、防ぐ役割をしたらしい。

高地性集落

(図2)高地性集落


 それに較べて奈良盆地は他の近畿地区とは少しおくれていたようである。当然石器時代や縄文遺跡もあるのであるが、他の地区より多くはない。一つには盆地で海の幸にめぐまれないこと、湿地帯が多く人が住むのに適していないこと、などである。しかし弥生に入ってから、四囲の人口増加にあわせて、人口が増える。主に盆地四周の微高地に自然の川の流域に田畑を開墾していったようである。
 しかし、人口が密集してきて、争いごとが起こるに従い、奈良盆地も数個のクニに分かれた。奈良盆地の東南地区(三輪方面)、西南地区(葛城地区)北部地区(奈良地区)であろう。しかし経済的には大阪平野には比較すべきもなく、人口から面積から、瀬戸内海の終点としての交易量から圧倒的な差があった。奈良盆地の唯一の長所は防御につよいことであり、大阪難波の防御に弱い地形とは対照的であった。

古代河内湾周辺.

(図3)古代河内湾

古代の難波は図3のごとく、河内湾が存在し大阪平野の奥深く侵入していた。これが難波をこの上ない良港になっていた。更に大和との境に生駒、二上山、葛城、金剛山の山並みに囲まれ、この山の峠に関所をおけば、この上ない要塞をなしていた。奈良盆地は南北30Km、東西15Kmの面積であり、盆地の中にいれば隅から隅まで見通せるのである。これは必然的にオラが国を形成する。隣のムラの外敵より、盆地の外の敵に向かっては団結する。海岸が長く境界のない他のクニに較べて、奈良大和は国としての纏まりの素地が揃っていたのである。やがて難波の物部氏、大伴氏が強力な勢力を持ち、大和に潜入してきた。そして大阪の経済力と大和の防御力を兼ね備えた、一大勢力になってゆくのである。当然大和に都をおき、防御を固め、難波を支配して、経済を豊かにした。この力はどのクニにもまして強力であった。
 大和の神話では主要な三人の神々がいる。長髄彦、饒速日命、大物主命、である。この神話を語ると長くなるので説明は他にまかせるが、長髄彦は蝦夷の後裔を思わせるし、饒速日命は物部の祖を連想させる。そして大物主命は三輪神社にまつられた出雲の神をおもわせる。

 さて出雲である。この国が何故王国となったのか。四囲の国々を統一していけたのか。まことに不思議である。出雲は最盛期越中から山口まで吉備から播磨、奈良大和も一時出雲の支配をうけた可能性がある。
その最大の特徴はスサノウのカリスマ性にあるように思う。スサノウは代を重ねるたびに神話の神となり、神祀りを伝統とし、神社を増やし、神剣を奉納し、銅鐸文化を創造した。代々神有月を設定し、国の重要議題を論議した。その上で有力な統領にめぐまれた。大国主命に代表される王がよく指導したのであろう。やがて出雲の神話や宗教を精霊宗教として完成させた。一国を治めるとき、その精神的な支柱が必ず存在する。その求心力こそ国の力の原動力である。その意味で他国に見えない特徴である。このような特徴をそなえつつ、水田稲作を基本にクニグニが栄枯盛衰を繰り広げる中、いはば高度成長時代に一時的に咲いた花であった。

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まぼろしの出雲 出雲の国譲り

 「日本古代正史」という本がある。原田常治氏の神社考古学という分野の本であるが、それによると、古来日本の神社の古伝承を調べれば、神話時代の歴史がわかるというのである。神社は時に応じて祭神を変えるが、古書または伝聞をたどり、しかも殆んど歴史も異なる神社間の話をつなぎ合わせると、そこには神話が必ずしも架空の物語ではなく、何らかの事実を語っているというのである。この話であらためて神社の祭神をしらべると、日本の神社は、出雲の神々が祭神の半分を占めているのである。「日本古代正史」によればスサノウ(素戔嗚尊)とクシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)には8人の子供がいる。京都の八坂神社に祭られる神々で、西御座に八柱御子神 -- (八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)が両親と共に祭られている。この 八柱御子神がいずれもスサノウに劣らず、優れた御子たちで、たとえば五十猛神(いたけるのかみ)は父と朝鮮から木の苗を持ち込み、日本の各地に植えた。現在の紀州は木の国で伊太祁曽(いたこそ)神社にその足跡がある。即ち和歌山は出雲の影響下にあった。宇迦之御魂神(うがのみたましん)は全国の稲荷神社を統括する伏見稲荷を総本山とする。特に大年神(おおとしのかみ)はスサノウに似て勇猛果敢な性格で九州から四国、近畿を経て大和にはいり、三輪神社の祭神大物主命になったと伝えられる。大年神は八幡様として全国の八幡神社の祭神であり、その後、菅原道真や応神天皇にその地位を譲っている。
 これを見ると出雲は島根を中心に九州から大和、越に至る大国を一時統治していたようである。

 出雲について、その統治範囲を以下三説ある。
 (1)出雲国はもともと存在しなかった。大和朝廷が作り出した神話以上のものではない。
 (2)出雲一国のせいぜい小国の一つである。
 (3)大和を含む九州にまたがる大国であった。
どれが正しいか一概にはいえないが、先に示した考古学遺物の発見にともない、(3)説に近いものではなかったかと思われるのである。この説をとると、古来いわれる大和朝廷起源にともなう秘密の一端が想像されてくるのである。

神武天皇東征以前、大和には長髄彦(ながすねひこ)なる人物がいた。長髄彦は白庭山に陣を構えていた。のち饒速日命(にぎはやひのみこと)がアマテラスから「十種の神宝(とくさのかんだから)」を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地(磐船神社の付近)に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。長髄彦は自分の娘を饒速日命に献上し、その臣下となった。饒速日命は物部の先祖といわれ、石上神社に拠点を構えたといわれている。石上神社にはその後十種の神宝を埋め、禁足地とした。これらの神話は大和朝廷設立以前に大和に他の権力が存在していたことを想像させる。
 この権力が出雲の勢力ではなかったか。彼らはスサノウの伝統を持ち込み、銅剣と銅鐸をその宗教のシンボルとした。三輪山の麓に神殿を構え、精霊を祀った。日本の宗教の原点はアニミズムであり、万物に精霊が宿る多神教の信仰である。神と鬼は表裏一体であり、神が鬼となって祟らぬように一心に祈ったのである。稲作時代になり稲作の神に五穀豊穣を祈った。それが祈年祭であり、大忌み祭、風神祭、親嘗祭であった。この宗教行事をおこなう広場が神社の境内であり、御魂が一時的に降臨し乗り移るのが磐座である。これらがやがて神社となった。三輪山にはその原形が残っている。

 大和はこの頃は辺境の僻地であった。大和に先立ち浪速が発展した。もちろん、紀の国や播磨国も合わせて発展したであろう。そして浪速国は防衛上の理由から大和に目をつけ併合し、大和を宮処とした。大伴、物部が中心で葛城山麓の葛城がこのキャスチングボードを握っていた。やがて神武東征神話になる九州勢力が大和に侵入した。ここに大和政権の萌芽が生まれた。大和政権は尾張、備前、四国と近畿の各国があつまり、大和政権を共立する形をとった。最近の発掘成果である巻向遺跡はこのときの宮廷跡と思われている。急に都だ出現し、各地の土器が人と共に持ち込まれた。この政権は従来の出雲発祥の精霊信仰とは異なる信仰を奉祭した。中国伝来の道教を中心とした「鬼道」といわれるものであった。このため、精霊信仰のシンボル、銅剣、銅鐸を徹底的に弾圧した。各地区神社に残るこれらの痕跡を残らず廃棄させた。それも粉々に打ち砕かせたのである。

出雲大社

出雲大社拝殿

 最期に残ったのが出雲国である。大和が出雲を征服し、国土を奪った顛末を古事記神話に残した。
古事記によると
(1)天忍穂耳の派遣。天照大御神は、「葦原中国は私の子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(あめのほしおみみ)が治めるべき国だ」と言い、天忍穂耳命に天降りを命じた。しかし、天忍穂耳命は天の浮橋に立って下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしい状態で、とても手に負えない」と高天原に上ってきて、天照大御神に報告した。
(2)天菩比の派遣。 天照大御神は思金神(おもいかね)の献言を入れ「天菩比命(あめのほひ)を大国主神の元に派遣するのが良い」という結論になった。しかし、天菩比命は大国主の家来になってしまい、三年たっても高天原に戻って来なかった。
(3)天若日子の派遣。そこで再度相談の結果、「天若日子を遣わすべき」との結論を得て葦原中国に遣わした。しかし、天若日子は大国主の娘である下照比賣(したてるひめ)と結婚し、自分が葦原中国の王になってやろうと考えて八年たっても高天原に戻らなかった。
(4)建御雷の派遣。業を煮やした天照大御神は、鳴女(なきめ)を遣わすなど様子を窺ったが、これも殺され最期に
武神の建御雷(たけみかずち)を派遣した。出雲国に降り至った建御雷は、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主に「この国は我が御子が治めるべきであると天照大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」と訊ねた。大国主神は、自分が答える前に息子の事代主神に訊ねるようにと言った。建御雷は事代主神に会いに行き「承知した」と答えると、事代主神は船を踏み傾け、逆手を打って青柴垣に化え、その中に隠れてしまった。再度大国主に「他に意見を言う子はいるか」と問うと建御名方(たてみなかた)がいるという。そこで力較べをして建御雷は建御名方を諏訪まで投げ飛ばし、諏訪から出ないことを約束させた。
(5)大国主の国譲り。建御雷神は出雲に戻り、大国主神に再度訊ねた。大国主神は「二人の息子が天津神に従うというのであれば、私も逆らわずにこの国を天津神に差し上げる。その代わり、私の住む所として、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。私の百八十神たちは、事代主神に従って天津神に背かないだろう」と言った。建御雷神は葦原中国平定をなし終え、高天原に復命した。

 以上が古事記の国譲りである。しかし、実相はこのようなものではなかったであろう。三度の交渉は出雲に拒否され、最期武力に頼るしかなかったのであろう。しだいに出雲国は敗戦を覚悟した。そして八百万の神々が神有月に熊野神社に集り、前後策を相談した。出雲のシンボル、銅剣と銅鐸は人知れず大国主の聖地の地中に埋めた。二度と地上に出ないよう、決して人に知られないように。

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