まほろばギャラリー

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作品 塩焼茶碗(銘々 明け行く海

 作家 二代 藤原楽山

 サイズ 

 作品 ぐいのみ

 作家 二代  藤原楽山

 サイズ 直径7.0センチ X 高さ4.5センチ

 作品 柱掛け花瓶

 作家 川井明子

 サ イズ 直径 8.5センX 高さ12.0センチ

 作品 緋襷花入れ

 作家 岩本修一

 サ イズ 直径 13.0センX 高さ23.0センチ

 作品 徳利

 作家 堀江祥山

 サイズ  直径 10.0センX 高さ11.5センチ

 作品  徳利(しらたま)

 作家  岩本修一

 サイズ 直径9.0  高さ11.0

 作品 花瓶

 作家 高原昌二

 サイズ 13.0センチ X  26.0センチ

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岩本哲也ギャラリー

岩本哲也ギャラリーについて

(1)当作品群はまほろば取り扱い商品ではありませんが販売委託されています。

  御用がありましたら当店にお問い合わせ下さい。

(2)価格は20万〜30万円です。

(3)売り切れの場合はご容赦ください。

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日本弥生の原景拡大図

稲が渡来してきたルート

河姆渡遺跡2

稲の原種

河姆渡遺跡1

土井が浜の弥生人頭骨(弥生渡来人)

土井が浜頭骨

菜畑遺跡の縄文漆塗りの櫛

縄文漆の櫛

菜畑遺跡(現在の山奥の田と変わらない)

菜畑遺跡

皇統を守り抜いた女帝--元明天皇、元正天皇--

 以下のことについてのべている。
(1)舒明天皇の正当性
(2)天智天皇の正当性
(3)天武天皇(自分自身)の正当性
(4)持統天皇の孫41代文部天皇の正当化
(5)42代元明天皇は自分自身の正当性
(6)元明天皇は43代元正天皇を正当化
(7)42代元明天皇と43代元正天皇は聖武天皇を正当化


 (5)について述べる。文武天皇は皇后をもたず、后妃の筆頭は藤原宮子であり、当時の慣習からすれば藤原宮子は卑母であった。701年宮子は首皇子(後45代聖武天皇)を生む。そして文武は707年7月崩御した。草壁皇子と同じく短命であった。残した皇子は藤原不比等の娘藤原宮子の生んだ首皇子だけであった。まだ7歳である。このとき、天武天皇の実子は六男の舎人親王と十男新田部皇子がまだ健在で、いずれも天皇の資格は十分だった。近年めきめき実力を上げた藤原不比等の野望はどんなことがあっても首皇子に皇位を継がせ、外戚の祖父となることであった。そのためには天武の実子二人に皇位をつがせるわけにはゆかなかった。そこで窮余の一策として草壁皇子の皇太子妃で天智天皇の娘でもある、阿倍皇太子妃を即位させた。43代元明天皇である。だれが考えても自然な皇位継承ではなく。幼少の皇子の将来のために、女帝をおかなければならない理由はこのためであった。これまた前例のないことである。いくら天皇の子とはいえ皇后であったこともない人を天皇にしたのである。

 さらに(6)、44代元正天皇である。元明天皇は自分の娘の譲位を正当化しなければならない。勿論藤原不比等が強引に推し進めたことである。715年首皇子が15歳になった。元明天皇は持統天皇の例にならい孫の首皇子に譲位しようとしたが、母宮子の出自がよくないので皇族貴族の反対が強い。即ち首皇子の母藤原宮子は藤原氏であり、皇族ではない。そこで草壁皇子の長女の氷高皇女に譲位し、元正天皇とし、首皇子を皇位に一歩近ずけるという手を打った。ここに元正天皇は皇后ではなく、皇太子妃でもなく、天皇の母でもない、新しい前例をつくったのである。首皇子は元正天皇の養子あつかいとならざるをえなかった。

 (7)について元明天皇と元正天皇は聖武天皇の正当化をしなければならない。聖武天皇は元正天皇によって皇太子に立てられ、元正天皇の即位の翌年の716年、藤原不比等の娘の光明子と結婚した。その4年後の720年には、いよいよ「日本書紀」が完成し、総裁の舎人親王から元正天皇に正式に奏上された。「日本書紀」の完成直後に藤原不比等は死に、翌年には元明天皇も崩御した。しかし、その頃には聖武天皇の皇位継承権は揺るぎないものとなっており、4年後の724年には元正天皇は使命をはたして甥の聖武天皇に譲位し、藤原時代が開幕したのである。
 

天武系図1

図 敏達天皇から称徳天皇までの系図
系図の見方 
ボックスの中は上天皇、下皇后又は妃
天皇には代数を記す
ボックスからの矢印で必要人物の両親を記す
皇后または妃が複数ある場合がある。矢印はそのうちの一人からでているのは、その当該妃より出生したことを示す。
他に妃がいる場合もあるが、この項では無関係のものは省略した。
皇女でない妃は両親を省略した。

 図を見ていただきたい。斉明天皇から元正天皇を経て考謙天皇までその父親及び生母を中心とした系統である。この時代の煩雑さは女性天皇の順番や名前を覚えるだけでも困難なのに、その両親がいかなる血統のもとに出生したかとなると、相当以上の興味がなければ関心をもたない。天智と天武がなぜあれほど娘息子どうしが婚姻を結んでいるのか、いくら血統を守るためとはいえ本当に兄弟のやることか。ここがまた血統の煩雑さをましている。
 しかしある天皇が正当性があるのか、皇后がその資格があるのか。かならずその両親は勿論その先祖がいかなる血統かが問われるのである。皇室の歴史は少なくとも、古代から奈良時代までは皇位継承者の殺戮の歴史である。皇子の兄弟は最も対象になりやすい。異母兄弟であればあるほど、当人同士は赤の他人であるし、最も敵対者となる。天皇は自分の後継者が絶えないようにと、多くの妃をかかえ、多くの子供を設けた。しかしその結果が絶え間のない殺戮の歴史をつみかさねた。

 
 ここで突然話題が変わる。最近皇太子の子愛子さんがやがて天皇になるかどうかで一時、世論の関心をあつめた。時の総理大臣小泉元総理が皇室典範の変更を国会にまさに上程しようとした直前、国会審議中に元総理に耳打ちする者がいた。ちょうどテレビ国会中継中で元総理の顔色が変わったのが全国に放映されたのを記憶している人も多いのではないか。内容は皇太子の弟秋篠宮殿下の妃殿下が懐妊されたとの情報であることが、その晩あきらかになった。現在皇室典範で認められていない女性天皇を認めるかどうか。女性天皇は万世一系の維持になるのか、ならないのか、という論議が盛んになされた。皇室の秋篠宮の子悠仁親王はまさにこの議論を中止させるに十分なおめでたであった。しかし、このような事態はいつまた再現するかわからない。議論はやがてしなければならないだろう。
 さらに、現皇后陛下が結婚及び皇后就任のおり、皇室以外の人が皇后になってよいのかどうかの論議があった。このようなことが一大関心事になるのは昔も今も同じことである。まして皇室典範のない飛鳥奈良時代は後継天皇、後継皇后を決めるのは、並大抵のことではなかったはずである。当然時の権力者が決めるのであるが、このとき大いに参考になるのは前例であったろう。それなのに、斉明天皇、持統天皇のように女性が天皇になるということは、どれだけの抵抗があったことか、今に伝わっていない。推古天皇が前例であるというのは異論があり、斉明天皇がおそらく始めての女性天皇である可能性が大きい。時の権力者蘇我蝦夷の強引な力のたまものである。持統天皇も多かれ少なかれ同じ思いをしたことが想像できるのである。
 問題は「日本書紀」を編纂するに当たってクローズアップしたことであろう。すなわちこれらの問題をどう後世に伝えるのか。いつの時点か、初代神武から41代持統までの皇統が確立した。当時のつい最近の現代史はそうそう嘘は書けないから、事実を書いたであろう。しかし不都合なことは意識的に記述から除外したであろう。天智のあまりに長い皇太子時代や白村江の大敗北の顛末など。天武の出生の秘密など歴史から抹殺した。しかしつい最近の女性天皇は前例を遠い過去の歴史を作ればよい。「日本書紀」の壮大な物語は机上だけで作れない。「日本書紀」を作るに当たって、諸豪族の先祖の言い伝えを集めたという。当時の文で記述したものや、言い伝えとして記憶したものを、舎人親王のプロジェクトに集ってきた。そして適当に編集しなおして皇統の歴史を作り上げた。この中で最も関心の深い皇位の継承については天皇の強い指示があったことは容易に想像できるのである。さらに文部天皇から以降は「続日本紀」に先送りして、面倒な記述をあとまわしにした。少なくと文部天皇紀、元明天皇紀は「日本書紀」に間に合っていたはずなのである。

 先代旧事本紀(先代旧事本紀と物部氏)の過去系図他は物部氏の古伝承であろうし、薦神社に伝わる国宝海部氏系図は、海部氏の古系図である。「日本書紀」編纂頃には当然伝わっていたものである。現存するものはそれ以降記述されたものかもしれない。東大寺お水取り行事に欠かせないのが、過去帳の輪読である。かつてお水取りに関わった人々の過去から現在までの人物を読み上げるのであるが、このようにして書物の無い時代記憶していたのであろう。
諸豪族の適当な高天原伝承を天皇家の高天原伝説にしあげ、諸豪族の英雄談を適当な天皇にスライドした。その中で女性天皇の前例も作り上げた。

 このような日本唯一の歴史書の成り立ちを、知ってか知らずか利用せざるを得ないのである。日本の歴史の不足分を中国の歴史書に求めることがあるが、中国とてあまり変りはない。日本古代の宝典「魏志倭人伝」については後にのべることにする。

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