木梨軽太子と軽大郎女
古事記の下巻の中で異彩を放つ歌謡が軽太子と軽大郎女の話である。二人は第19代允恭天皇の第一皇子と第五皇女で登場する。古事記と日本書紀では少し話しがちがい、前者では衣通姫は軽大郎女として現れ、後者では允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹、八田皇女を衣通姫としており、軽大郎女もまた八田皇女の劣らず美しい皇女であったとして小野小町をいれて日本三代美女に数えられている。第四子が穴穂命(あなほのみこ、後、第20代安康天皇)第七子が大長谷命(第21代雄略天皇)である。以下古事記に記した歌を詠む。
天皇が崩御された後、木梨之軽太子(きなしのかるのおおみこ)が皇位におつきになることを定めていたが、太子がまだ即位しないうちに、その同母妹である軽大郎女(かるおおいつらめ)と密通して、歌っていうには
あしひきの 山田を作り 山高み 下樋(したび)を走せ 下訪ひに
我が訪ふ妹を 下泣きに 我が泣く妻を 今夜こそは 安く肌ふれ
また歌っていうには、
笹葉(ささば)に 打つや霰(あられ)の たしだしに 率寝(いね)てむ後は 人は離(か)ゆとも
愛(うるわ)しと さ寝(ね)しさ寝てば 刈薦(かりこも)の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば
軽太子が即位しないうちに、百官と天下の人々とはみな、太子に背いて穴穂御子についた。そこで、太子はこれを恐れて、大前小前宿禰の家に逃げ込んで、武器を作って備えた。穴穂御子も、また武器を作った。そして、穴穂御子は軍勢を集めて、大前小前宿禰の家を囲んだ。そうして、家の門に着いた時、激しい氷雨が降った。そこで、歌っていうには、
大前 小前宿禰が 金門蔭(かねとかげ) 斯く寄り来ね 雨立ち止めむ
すると、その大前小前宿禰は、手を挙げ膝を打って喜んで、手を動かして舞を舞い、歌を歌いながら出てきた。その歌にいうには、
宮人の 足結(あゆい)の小鈴 落ちにきと 宮人響(とよ)む 里人もゆめ
このように歌って、穴穂御子のところに参上して申し上げるには「我らが天皇となるべき御子よ、同母兄である皇子に兵を差し向けてはなりません。もし兵を差し向けたなら、必ず人はあなた様のことを笑うでしょう。私が太子を捕まえてお渡ししましょう。」と申し上げた。そこで、穴穂御子は兵を引いて退きなさった。そして大前小前宿禰は、その軽太子を捕まえて、穴穂御子のもとに連行引き渡した。その太子が、捕らえられて歌っていうには、
天廻(あまだ)む 軽の嬢子 甚(いた)泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く
そして、その軽太子は伊予の湯(道後温泉)に流した。また、流そうとした時に、歌っていうには、
大君を 島に放らば 船余り い帰り来むぞ 我が畳ゆめ 言をこそ 畳と言わめ 我が妻はゆめ
その時、衣通姫(軽大郎女の別名)は、太子に歌を献上した。、その歌にいうには、
夏草の あいねの浜の 蠣貝(かきがい)に 足踏ますな 明かして通れ
さて、その後に、なお太子を恋い慕う思いに堪えかねて、その後を追って伊予へ行った時に、歌っていうには、
君が往き 日長くなりぬ 造木(やまたず)の 迎えを行かむ 待つには待たじ
そして、追いついた時に、太子は待ち迎え、大郎女をかき抱いて、歌っていうには、
こもりくの 泊瀬(はつせ)の河の上(かみ)つ瀬に 斎杙(いぐい)を打ち
下(しも)つ瀬に 真杙(まぐい)を打ち 斎杙(いぐい)には 鏡をかけ
真杙(まぐい)には 真玉(またま)をかけ 真玉(またま)如(な)す 我が思う妹(いも)
鏡如(な)す 我が思う妻 ありと言はばこそよ 家にも行かめ 国をも偲ばめ
このように歌って、そのまま一緒に自害した。
日本書紀』においては、巻第13に衣通姫伝説についての記述がある。その中では允恭24年の夏6月、軽皇子と軽皇女の相姦が発覚し、皇太子を処刑することはできなかったので、軽皇女を伊予に追放したとある。さらに允恭42年春1月に天皇が崩御した後、同年冬10月に穴穂皇子と戦い、形勢不利と悟った大前小前宿禰が軽皇子の助命を穴穂皇子に嘆願するものの、軽皇子は自害したと書かれている。
この違いを詮索することはしない。しかし、古事記、日本書紀を通じて、皇子が殺されたり自害するケースは、大体皇位継承争いであるようだ。そして敗れた側は不名誉な記事で落着する。古事記には皇后忍坂大中姫に九人の皇子皇女がいると記しているが、必ずしも皇后の子とは限らない。異母兄妹である可能性が大変おおきい。当時は同母兄妹は姦淫禁止であったようだが、異母兄妹の場合の結婚は、いたるところにあらわれてくる。
また兄弟同士の皇位継承争いが非常におおい。これは、当時の男は一夫多妻で多くの妃をもうけた。そして妃のところに通い、子をなしたら妃にあずけっぱなしで、つぎからつぎへと子を成した。大体妃は当時の有力豪族の娘であるから、子供同士は顔を合わすことはなく、子は親の勢力を背景に次の皇位を狙うのは仕方がないことであった。
